第13話 知らない星の下で
お読みいただきありがとうございます。
真司の異世界実務サバイバル、続きです。
少しずつ見えてきたこの世界で、真司は自分にできることを探していきます。
それでも、夜は来た。
灰線の外で、村の明かりがひとつ、またひとつと増えていく。
低い屋根の窓から、橙色の光がこぼれていた。
煙突からは細い煙が上がり、どこかで戸を閉める音がした。
鍋を置くような音も聞こえた。
人の暮らしの音だった。
ただ、そのすべては灰線の外にある。
すぐそこにあるのに、届かない。
真司は膝を抱えたまま、門の向こうを見ていた。
村人たちは、こちらを見捨てたわけではない。
水袋は置かれた。
布もある。
薬草らしき束も、戸板もある。
ガレンの処置には、セレーナが出てきた。
それでも、門は開かなかった。
冷たさではない。
もう、それは分かっている。
分かっているから、何も言えなかった。
村の中には、誰かの帰る場所がある。
家があり、井戸があり、食事があり、子供がいる。
なら、黒沼に触れた自分たちを入れられないのは当然だ。
正しい。
だが、正しさは時々、人をひどく寒くする。
真司は包まれた両手を見下ろした。
膝には乗せられない。
地面にも直接置きたくない。
身体に触れさせるのも、なんとなく気持ちが悪い。
結局、両手を膝の横に浮かせるような、落ち着かない姿勢になる。
「……手って、使えなくなるだけでこんなに不便なのか」
水袋ひとつ取るのにも気を使う。
身体を支えるにも困る。
額を押さえることも、胸に手を当てることもできない。
黒沼に触れた手。
それだけで、自分の身体の一部が、急に信用できないものになった。
真司は布に包まれた左手を見た。
その中に、指輪がある。
見えない。
けれど、ある。
それだけが、真司を現実につなぎ止めていた。
◇
門に吊るされた光る瓶は、夜になっても淡く光っていた。
昼間は警報器に見えたそれも、暗くなると小さな灯りに見える。
だが、優しい灯りとは少し違う。
こちらを照らす灯り。
こちらを見張る灯り。
何かが近づけば、すぐに黒い筋を走らせる灯り。
真司はその光を見上げた。
「異世界の街灯が、防犯カメラ付きかよ」
誰にも通じない冗談だった。
言ってから、自分でも少しだけ笑った。
笑えるうちは、まだ大丈夫だ。
たぶん。
ガレンが小さく呻いた。
ルカがすぐに身を乗り出す。
若い護衛も顔を上げた。
セレーナが門の内側から出てきた。
潜り戸が開き、すぐに閉じられる。
セレーナはまた、自分の足元を確かめるように灰を見た。
白札を確認する。
光る瓶を確認する。
ガレンの足元の白い膜を確認する。
それから、短く何かを告げた。
言葉は分からない。
けれど、ルカが少しだけ肩の力を抜いたのを見て、真司は息を吐いた。
悪くはなっていない。
良くなったわけではない。
ただ、今すぐどうにかなるわけではない。
そんな程度の安心だった。
セレーナは次に、真司の両手へ視線を向けた。
真司は反射的に両手を少し持ち上げる。
「大丈夫……かどうかは知らんけど、今のところ変な感じはない」
通じるはずもない言葉に、セレーナは何かを確認するように頷いた。
そして、書き板へ何かを記す。
「本当に全部書くな」
真司はため息をついた。
セレーナは聞こえていない。
聞こえていないはずなのに、なぜか筆の動きが少しだけ増えた気がした。
「今のも記録対象か?」
もちろん答えはない。
セレーナは確認を終えると、また門の内側へ戻っていった。
その背中を見送りながら、真司は灰線の内側に視線を落とす。
ここが、今夜の寝床らしい。
屋根の下ではない。
布はある。
戸板もある。
だが、宿ではない。
村のすぐ外。
門の前。
黒沼反応者用の隔離場所。
異世界初日の宿泊先としては、なかなかひどい。
「星ひとつ、いや、星は見えるか」
真司は空を見上げた。
木々の隙間から、星が見えていた。
知らない星だった。
星座など分からない。
そもそも、地球と同じ空なのかも分からない。
星の並びは美しかった。
だが、美しさより先に、遠さが胸に来た。
知らない空。
知らない村。
知らない言葉。
黒沼に汚れた手。
そして、左手の薬指にある指輪。
「……遠いな」
何が、とは言わなかった。
家が。
妻が。
朝のリビングが。
冷めていくコーヒーが。
全部、遠かった。
真司は目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
だが、眠らなければもたない。
五十二歳の頭は、こんな状況でも妙に現実的だった。
休める時に休め。
疲れた頭で判断するな。
寝不足の会議は、だいたいろくなことにならない。
分かっている。
分かっているのに、眠るのは難しかった。
ガレンの呼吸が細く聞こえる。
ルカの小さな寝息も聞こえる。
若い護衛はまだ起きているようだった。
時々、革の擦れる音がする。
御者も、馬のそばで身じろぎした。
みんな疲れている。
それでも、完全には眠れない。
そんな夜だった。
◇
夢を見た。
リビングだった。
朝の光が、カーテンの隙間から入っている。
テーブルの上には、マグカップがあった。
白い湯気が細く立っている。
まだ熱いコーヒー。
真司は、そこに座っていた。
向かい側に、妻がいた。
いつもの席。
いつものマグカップ。
いつもの少し呆れたような目。
「また難しい顔してる」
妻が言う。
真司は答えようとした。
仕事のことだ。
いや、今は仕事どころじゃない。
聞いてくれ。
俺は変な森にいて、黒い泥に触って、手がこんなことになっていて。
言いたいことは山ほどあった。
だが、言葉が出ない。
夢の中なのに、うまく話せない。
妻はいつものようにマグカップを持っている。
その手が、少しずつ白い光に溶けていく。
「待て」
今度こそ、そう言いたかった。
言わなければならない。
ごめん。
愛してる。
帰る。
ちゃんと帰る。
言えたはずの言葉は、いつも少し遅れてやってくる。
真司は必死に口を開いた。
「……帰る」
ようやく声になった。
「帰るから」
妻は、少しだけ困ったように笑った。
責めるでもなく。
泣くでもなく。
ただ、いつものように。
その顔が、朝の光に溶けていく。
最後に残ったのは、コーヒーの香りだった。
◇
目を開けると、そこはリビングではなかった。
灰色の線の内側。
光る瓶。
知らない星。
ガレンの苦しげな呼吸。
布に包まれた両手。
そして、薬指の指輪。
いつの間にか、眠っていたらしい。
真司はしばらく動けなかった。
「……夢でまで、うまく言えないのかよ」
小さく吐き出す。
喉の奥が痛かった。
夜は、まだ終わっていなかった。
【休息推奨】
「だから、どうやって」
【休息コマンド未実装男】
「称号で追い打ちするな」
真司は空を見上げた。
木々の隙間から、知らない星が見える。
知らない空。
知らない村。
知らない言葉。
黒沼に触れた手。
それでも、この指輪だけはここにある。
胸が痛くなるほど、家が遠かった。
帰る。
絶対に帰る。
そう言ったばかりなのに、今夜ひとつ越すだけで精一杯だった。
それでも。
今夜を越せなければ、帰るも何もない。
真司はもう一度、目を閉じた。
眠れる気はしなかった。
けれど、光る瓶の淡い明かりと、ガレンの細い呼吸を聞きながら、少しだけ息を整えた。
灰線の外で、村の夜が静かに更けていく。
灰線の内側で、真司は指輪の感触だけを頼りに、もう一度、朝まで耐える覚悟を決めた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
真司の異世界生活は、まだ手探りの途中です。
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次話もお付き合いいただければ幸いです。




