閑話 機関とはなんぞや
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
本日は閑話として、セレーナが所属する機関についてのお話です。
機関。
人々がそう呼ぶ組織には、正式な名がある。
エルストリア記録保全機関。
世界に起きたことを記録し、保ち、必要な時に正しく取り出すための組織である。
とはいえ、日常でその正式名を口にする者は少ない。
商人も、役人も、領主でさえ、多くの場合はただこう呼ぶ。
機関、と。
◇
機関は、国ではない。
教会でもない。
領主に仕える役所でもなければ、商会のように利益を求める組織でもない。
国境に属さず。
思想に属さず。
宗教そのものにも属さず。
領主の都合にも、商会の利害にも、村の慣習にも従わない。
機関が従うのは、記録である。
そして、その記録の根にあるものが、エルストリアの記憶と呼ばれる存在だった。
その姿を見た者は限られている。
言い伝えによると、淡い光を放つ水滴のような球体で、大きさは二階建ての中規模な屋敷ほどあるという。
それが淡い光を放ちながら、人の背丈二人分ほどの高さに浮いている。
ただし、目には見えても、触れられる実体はない。
エルストリアの記憶。
それは、人が作った台帳ではない。
ただの書庫でもない。
古い魔道具という言葉だけで片づけるには、あまりに大きすぎる。
この世界で起きたことを、歪めず、曲げず、ただ記憶し続けるものそれが、エルストリアの記憶である。
ただし、エルストリアの記憶は裁かない。
人が悪をなそうが、善をなそうが、それを善悪として断じることはない。
ただ、記録する。
誰が、何をしたのか。
何が起きたのか。
何が隠され、何が偽られたのか。
真実のみを記憶するエルストリアの記憶の前では、嘘や偽りは通用しない。
そこに、ねじ曲がった事実はない。
都合よく塗り替えられた記録もない。
ただ、純粋な世界の記憶として在り続ける。
その記憶を、人の世の秩序へつなげる。
それが、機関の存在意義だった。
◇
機関の仕事は多い。
記録を集める。
記録を保管する。
記録板を管理する。
巡回書記官を任命する。
巡回書記官の記録を監査する。
各地の事例や判例を蓄積する。
必要なら、領府や教会、治安組織へ記録を回す。
そして、現場で真偽を扱う者たちを支える。
巡回書記官である。
巡回書記官が持つ記録板は、ただの板ではない。
それは、真実のみを記憶するエルストリアの記憶へ接続するための端末である。
だから巡回書記官の真偽判定では、嘘がわかる。
隠された事実があることもわかる。
エルストリアの記憶と照合しているのだから、だから、巡回書記官の審問は強い。
相手は、一人の書記官に言い訳をしているつもりでも、実際には違う。
その背後には、機関がある。
その奥には、エルストリアの記憶がある。
世界の記憶を相手に、小さな嘘で逃げ切れると思う方が間違いだった。
◇
では、その機関は誰が裁くのか。
巡回書記官が誤った記録を残したなら、機関が裁く。
巡回書記官が権限を乱用したなら、機関が呼び戻し、審問する。
では、機関そのものが歪んだ時はどうなるのか。
その時は、巡回書記官が動く。
機関の不正。
機関の隠蔽。
機関の記録改ざん。
機関による権限の私物化。
それらもまた、記録の対象になる。
巡回書記官は機関に裁かれる。
機関は巡回書記官に裁かれる。
どちらも、エルストリアの記憶を扱う者でありながら、どちらも人である。
だからこそ、記録が必要だった。
◇
機関と深い関係を持つ組織がある。
灯光教会である。
教会は、人々の心と暮らしを光で照らす。
教えで人々の心を照らし、治療院では病や怪我を癒しの光で照らし、施設では生きる道を照らす。
黒沼に侵されたものを浄化し、迷った者に光を置く。
一方、機関は記録で秩序を照らす。
嘘を暴く。
不正を正す。
正しいことを正しいと認める。
保護されるべきものを、記録の上で保護する。
教会は光で道を示す。
機関は記録で道を正す。
両者は別の組織である。
だが、まったく無関係な組織というわけではない。
古くは、教会の成立に関わった人物の一人が、エルストリアの記憶を見つけ、機関の前身である「記憶の灯り」を作ったと伝えられている。
そのため教会の経典にも、世界の記憶を守る者たちについての記述がある。
教会にとって機関は、守るべき相手でもあった。
そして機関にとって教会は、記録を人々の秩序へつなげるための、最も古い協力者だった。
◇
国にとっても、機関と教会は無視できない存在である。
国は土地を治める。
税を集める。
法を定める。
兵を持つ。
だが、だからといって、機関や教会に命令できるわけではない。
国は、機関に金を出す。
だが、口は出さない。
国家予算には、機関への予算配分項目がある。
その額は決して小さくない。
巡回書記官や職員の人件費。
記録板や専用ペンなどの魔道具製作費。
備品購入費。
通信や保全に必要な運営経費。
それらは、機関が活動するために必要な費用である。
国にとって、それは寄付ではない。
恩賞でもない。
削ってよい余剰でもない。
秩序を維持するための必要経費である。
機関は、その予算を必要な場所へ振り分ける。
収入を得るために運営されている組織ではない。
利益を増やすために動くわけでもない。
領主の機嫌を取るために金を流すわけでもない。
そもそも機関は、巡回書記官を抱える組織である。
不正ができないというより、しようと考えること自体が愚かだった。
◇
もちろん、予算が足りなくなることもある。
黒淵の大規模事案。
複数領にまたがる不正。
記録板や通信魔道具の大規模修復。
そうした突発的な事案が起きれば、機関は国へ追加予算を申請する。
国は、それを速やかに承認しなければならない。
出し渋ることは、機関の活動を妨げることに等しい。
機関の活動を妨げることは、秩序を軽んじることに等しい。
ただし、国が本当に支払えない場合もある。
その時は、教会が補填する。
明文化された決まりではない。
だが、長い歴史の中で何度か行われてきた暗黙の慣例だった。
もっとも、国にとってそれは面目に関わる。
教会に肩代わりされたとなれば、国は自らの秩序維持費すら払えなかったことになる。
だから国は、たいていの場合、無理をしてでも金を出す。
◇
機関の中央本部は、アルヴィナ王国の王都近郊にある。
ただし、王都の中ではない。
そこは、記憶灯の地と呼ばれる独立した区域である。
王都から近く、しかし王都ではない。
アルヴィナ王国の中にありながら、王国の領地ではない。
記憶灯の地の中央には、一本の塔が立っている。
昼間に見ると、それは不思議なほど目立たない。
白とも灰ともつかない石で組まれた、細く高い塔。
飾りは少なく、王城の尖塔のような華やかさも、大神殿のような威圧感もない。
だが、夜になると姿が変わる。
空のあちこちから、淡い光が流れてくる。
最初は薄っすらとわかる程度だが、塔に近づくほど、それははっきりとした光になって見える。
火の粉ではない。
星でもない。
虫の光でもない。
小さな記憶の粒のようなものが、音もなく漂い、ゆっくりと塔へ吸い込まれていく。
それは、エルストリア中から集まる記録だった。
人の世で起きた、消してはならない事実。
昼も夜も、世界の記憶は集まり続ける。
そして塔の奥で、エルストリアの記憶へと還っていく。
◇
中央本部を抱えることは、アルヴィナ王国にとって大きな誉れである。
それは単なる名誉ではない。
商業上の信用。
治安の安定。
記録と契約の確実さ。
教会と機関に近いという文化的な格。
その恩恵は大きい。
だからこそ、アルヴィナ王国が負担する機関予算は、他国より重い。
それでも国は払う。
払うだけの価値があるからだ。
記憶灯の地の周囲には、自然と街ができた。
最初は機関で働く者たちの宿や商店だった。
やがて、記録の信用と治安の良さを求める商人が集まった。
さらに、契約の安全を求める大商会が拠点を構えるようになった。
記憶灯の地の周辺で悪事を働く者は、ほとんどいない。
盗み。
詐欺。
契約のごまかし。
商取引の裏切り、そんなことをするには、あまりにも場所が悪すぎる。
ここは機関の目が届く土地であり、エルストリアの記憶へもっとも近い場所なのだから、世界で五本の指に入る大商会のうち、三つがこの地に大きな拠点を置いているのも、そのためである。
大商会は、機関へ土地使用料を払う。
治安維持費を払う。
必要なら、警備兵の増員費も出す。
国に税を払うのではない。
機関の土地で商いをし、機関の秩序の恩恵を受ける対価を支払っているのである。
機関は利益を目的にしているわけではない。
それでも、これはかなり大きな収入源になっている。
機関への支払額が、商人たちのステータスにもなっている。
機関としては複雑な心境ではある。
「いえ、必要以上いただいても意味がないので……」
「では、西の外壁が古くなっているので、当商会が受け持ちましょう!」
「あ、ありがとうございます」
「ならば、うちの商会は東門の警備兵駐屯所の建て替えを受け持ちましょう!」
「いえ、それはすでに予算を組んでいますので、だいじょ……」
「であるなら! その道の舗装をさせてください。商会の荷馬車が通りやすくなるので、許可いただけますか?」
「はぁ、では舗装工事に関しましては、こちらの申請用紙にご記入を……」
「ありがとうございます!」
「い、いえ、こちらこそ、公共工事へのご協力ありがとうございます」
公共工事窓口はいつも活気があるが、その職員はみな疲れた顔をしている。
記憶灯の地の街並みがいつも清潔で綺麗なのは、こうした背景があるからである。
◇
では、他の国には機関がないのか。
そんなことはない。
各国には地方本部が置かれている。
地方本部は、その国や周辺地域の記録を束ね、支所を監督し、大きな事案を機関本部へ上げるための拠点である。
領都や主要都市には、書記官支所が置かれる。
支所は、ただの小さな出張所ではない。
身元を確認する。
証書を照合する。
通行や滞在の手続きを扱う。
揉め事の聞き取りを行う。
必要なら巡回書記官へつなぐ。
保護が必要な者を一時的に預かる。
真司の感覚で言えば、市役所か区役所。
そこに警察署と、簡易裁判所の窓口を足したような場所だった。
だから、支所という名から小さな交番のようなものを想像すると、だいたい裏切られる。
領都レグフォードの書記官支所も、そのひとつである。
◇
機関は、善悪を決める神ではない。
エルストリアの記憶も、人を裁く神ではない。
善悪を判断するのは人である。
罰を決めるのも人である。
保護すべきかどうかを決めるのも人である。
ただ、その判断を支えるために、歪みのない記録が必要だった。
嘘で塗られた事実を、正すために。
隠された被害を、表へ出すために。
権力や金でねじ曲げられた話を、もう一度まっすぐにするために、機関は存在する。
教会は、その秩序を光の教えで支える。
国は、その秩序の上に平和と繁栄を築く。
だから、人々は機関を恐れる。
嘘をつく者にとって、機関ほど恐ろしいものはない。
そして、人々は機関を頼る。
正しく記録されることだけが、救いになる時もあるからである。
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明日より、第四章スタートです。




