第96話 楽しんでね
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
異世界テンプレに裏切られたおっさんの物語をお楽しみください。
準騎士になった日の夜。
シンジは、穏やかな気持ちで寝台へ入った。
剣も魔法も使えない自分が、準騎士になった。
戦いではなく、五十年以上生き、働いてきた経験を認められて得た身分だった。
異世界へ来た時は、何も持っていないと思っていた。
身分もない。言葉も通じない。帰る方法も分からない。
けれど、生きてきた時間まで失ったわけではなかった。
「内政型の騎士か……」
口にしてみると、少しだけ笑えた。
「まだ気にしているのですか?」
隣の寝台から、セレーナの声がした。
「起きてた?」
「今、眠ろうとしていたところです」
「ごめん。独り言」
「内政型であることが、そんなに不満なのですか?」
「不満じゃないよ。ただ、騎士って言葉から一番遠い能力だと思って」
「シンジには似合っています」
「それ、褒めてる?」
「もちろんです」
暗がりの中、セレーナの声が柔らかくなる。
「シンジは、人を傷つけずに問題を解決しようとします」
「いつも成功するわけじゃないけどな」
「それでも、そうしようと考える人です」
寝台の境目を越え、セレーナの手が伸びてきた。
シンジも手を伸ばす。
触れた指を、そのまま静かに握った。
「今日は、嬉しかったです」
「俺が騎士になったこと?」
「それもあります」
「ほかにも?」
「シンジが、この世界でも必要とされていることです」
胸の奥が、温かくなる。
「ありがとう」
「はい」
「セレーナ」
「何でしょう」
「愛してる」
握られた手に、少し力がこもった。
「私も、シンジを愛しています」
少し前までなら、聞くだけで胸が苦しくなった言葉。今は、素直に嬉しい。
「おやすみ、セレーナ」
「おやすみなさい、シンジ」
二人は手をつないだまま目を閉じた。
その夜、シンジは夢を見た。
◇
見慣れた家だった。
長く暮らした居間、使い込んだ食卓。
窓の向こうには、異世界ではない街の夜が広がっている。
向かいには妻がいた。
髪も、服も、表情も、よく知っている頃のままだった。
シンジは、口下手な男ではない。
仕事では、相手に合わせて言葉を選び、難しい話を分かる形に直す。
必要なら空気を読み、少し笑わせることもできた。
それは、長い仕事の中で身につけた話し方だった。
けれど、妻の前では違った。言葉を飾らなくていい。
強く見せなくていい。
疲れていれば、疲れたと言える。
怖ければ、怖いと言える。
格好悪いところを見せても、妻は笑って隣にいてくれた。
だから妻の前では、最後に残る言葉の方が大切だった。
「ありがとう」
「ごめん」
そして、少し目をそらして、
「愛してる」
妻は、それをよく知っていた。
夢の中の時間が、静かに動く。
子どもたちは成長し、それぞれの道へ進んでいた。
家の中が少し静かになった頃、シンジは妻に独立の話をした。
五十歳を迎える少し前のことだった。
「失敗するかもしれない」
妻は、黙って聞いている。
「今までと違って、会社が守ってくれるわけじゃない」
「うん」
「仕事が取れなければ、収入もない。お前にも迷惑をかけるかもしれない」
妻は、そこで眉を寄せた。
「迷惑?」
「いや、だから……」
「私たち、夫婦でしょう?」
「それはそうだけど」
「あなたが失敗したら、私も困る。私が失敗したら、あなたも困る」
「うん」
「それを迷惑って言うの?」
シンジは言葉に詰まった。
仕事では、滅多にないことだった。
だが、妻の前では、取り繕うための言葉が剥がれてしまう。
「怖いんだと思う」
最後に出たのは、そんな言葉だった。
「失敗して、お前を苦労させるのが」
妻は少しだけ笑った。
「あなた、私を何だと思ってるの?」
「妻」
「それだけ?」
「俺が一番大事にしないといけない人」
妻は、しばらくシンジを見つめた。
「また一人で背負おうとしてる」
「そんなつもりは」
「あるわよ」
あっさりと言われた。
「でも、お前と二人なら何とかする」
シンジは妻の目を見た。
「いや、何とかしてみせる」
それが、当時のシンジなりの覚悟だった。
誰かを見返したいわけではない。
ただ、最後に一度、長年培った経験も、人とのつながりも、失敗も悔しさも、全部使って仕事をしてみたかった。
妻は、その覚悟を聞いて、
「逆よ」
そう答えた。
「逆?」
「あなたが失敗しても、私が何とかするから」
シンジは目を瞬いた。
「だから、安心して失敗してきなさい」
「失敗前提かよ」
「成功するつもりで始めるんでしょう?」
「当たり前だ」
「なら、私が言わなくても頑張るじゃない」
妻は笑った。
「だから、頑張ってとは言わない」
そして、あの日と同じ言葉を口にした。
「楽しんでね」
頑張れ、ではなかった。
あなたなら成功する、でもなかった。
失敗しないで、でもなかった。
楽しんでね。
成功しても、失敗しても、その結果を二人で背負うと決めた人の言葉だった。
シンジは、泣きそうになった。
けれど、妻はたぶん気づいていた。
シンジは、妻の前では少し分かりやすい。
独立してからの日々は、楽ではなかった。
仕事が取れずに焦った日。
予定が崩れ、眠れなかった夜。
帰宅して、食卓の前で黙り込んだ日。
そんな時、妻は決まって聞いた。
「楽しい?」
シンジは、すぐには答えない。それでも最後には答えた。
「……楽しい」
妻は、そう、と笑った。
その夜、シンジはいつものように、あまり多くを言わなかった。
「ありがとう」
「うん」
少し間を置いて、
「愛してる」
妻は笑った。
「知ってる」
シンジは少し拗ねた顔をした。
「そこは、私もって返すところじゃないのか」
「はいはい。私も愛してます」
「雑だな」
「長い付き合いですから」
二人で笑った。大げさな誓いはない。
ただ、長い時間を一緒に歩いてきた者同士にしか分からない笑いだった。
夢の中で、時間がまた動いた。
妻が、食卓の向こうからシンジを見ている。
あの日と同じ笑顔。同じ声。
「楽しい?」
シンジは答えようとした。
ローデンの湯場。ルカの笑顔。マルタの豪快な声。準騎士の徽章。
そして、隣で眠るセレーナ。
手を握った。抱きしめた。
何度も口づけた。
これからも一緒にいたいと願った。
「……楽しいよ」
答えた声は、震えていた。妻は何も言わなかった。
笑顔のまま、ただシンジを見ている。
「違うんだ」
何が違うのか、自分でも分からなかった。
「忘れたわけじゃない」
妻は責めていない。何一つ、シンジを咎めてはいない。
それなのに、言葉があふれた。
「帰りたいんだ」
妻に会いたい。
現代へ帰りたい。
あの日から、その気持ちは一度も消えていない。
「お前に会いたい」
ありがとうと言いたい。
愛していると伝えたい。
突然いなくなったことを謝りたい。
「でも……」
妻の向こう側が、白く霞んでいく。
「今は、一人では帰れない」
妻の姿が、遠ざかる。
「待ってくれ」
手を伸ばした。
妻を愛している。
セレーナも愛している。
どちらも嘘ではない。
妻の声だけが、もう一度聞こえた。
「楽しんでね」
そこで、夢は静かにほどけた。
◇
シンジは目を覚ました。
部屋は暗い。
窓の外も、まだ夜の中にある。
胸が苦しかった。頬に触れると、指先が濡れた。
「……泣いてるのか、俺」
隣を見る。セレーナが眠っている。穏やかな寝息。
薄い月明かりに照らされた横顔。
寝台の境目を越えて、二人の手はまだつながっていた。
「帰りたい」
小さく呟く。
妻に会いたい。
あの声を、夢ではなく、もう一度聞きたい。
ありがとう。ごめん。愛してる。
その三つを、もう一度、きちんと伝えたい。
その気持ちは何も変わっていない。
けれど、現代へ帰った自分の隣に、セレーナがいない未来を思い浮かべた。
胸の奥が、強く拒んだ。それは、望んでいた帰還ではなかった。
「……そうか」
シンジは、ようやく気づいた。
ついこの前まで、セレーナを愛してはいけない理由として、妻の存在を挙げていた。
俺には妻がいる。
妻のもとへ帰らなければならない。
それが今は、逆になっている。
妻のもとへ帰ることを考えた瞬間、別の言葉が浮かんだ。
俺には、セレーナがいる。
「俺は何をしてるんだ……」
セレーナを選んだことを、後悔しているわけではない。
愛していると言った。
その言葉に嘘はない。
現代へ帰れたら、セレーナと一緒に妻へ会いに行く。
三人で話す。
そう決めた。
それでも夢の中で妻を見た瞬間、会いたいという気持ちがあふれた。
そして同時に、セレーナを失いたくないと思った。
妻は、今も帰還の理由だった。
だが、セレーナと一緒でなければ、その帰還に意味を感じられなくなっていた。
一番だった妻の存在が、小さくなったわけではない。
妻への愛が、薄れたわけでもない。
ただ、セレーナの存在が、それと並ぶほど大きくなっていた。
「……そんなに、大きくなってたのか」
眠るセレーナへ尋ねる。
答えは返ってこない。
だが、つながれた手は温かい。
その温もりを失う想像をしただけで、息が苦しくなる。
視界の端に、半透明のボードが開いた。
【睡眠中の強い感情反応を確認】
【記憶照合:本人記憶と高い一致】
【一部情報の由来:判定不能】
【精神的負荷:上昇】
「……お前にも分からないのか」
夢だったのか。記憶だったのか。妻の想いが届いたのか。
ただ、自分の罪悪感が妻の声を借りただけなのか。
ボードは何も答えなかった。
シンジは表示を閉じた。
妻に会わなければ分からないことがある。
セレーナと話さなければならないこともある。
それでも、今、この手だけは離したくなかった。
眠るセレーナの指を、そっと握り直す。
「楽しんでるよ」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「苦しいくらいにな」
妻に会いたい。
セレーナと生きたい。
帰りたい。
セレーナと一緒に帰りたい。
妻を愛している。
セレーナも愛している。
どれも、本心だった。どれ一つとして、捨てることはできなかった。
窓の外が、わずかに白み始める。
夜が終わろうとしていた。
けれどシンジの中では、まだ答えのない夜が続いていた。
第三章 完
ここまでお読みいただきありがとうございます。
おかげさまで、第三章完となりました。
まだまだ拙い物語ですが、皆さまに楽しんでいただけるよう、精進してまいります。
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明日は閑話を1本挟みます。
明後日より第四章スタートです。
第四章も引き続きお楽しみください。




