第93話 忘れないでくださいね
四段目の罠から、ようやく二人の心臓が落ち着いた頃。
シンジは、隙間なく並べられた二台のベッドを見た。
「……そろそろ寝ようか」
「はい」
「明日も女将と話をしないといけないしな」
「相談料と、今後の立場についてですね」
「今後の立場って何だろうな」
「明日になれば分かる、と言っていました」
「それが分からないから気になるんだけど」
「今、考えても答えは出ません」
「正論です」
シンジは右側のベッドへ腰を下ろした。
「じゃあ、俺こっち使うな」
「はい。私はこちらですね」
セレーナも左側へ座る。
二台の寝台は、本当に隙間なく固定されている。
別々の寝台ではある。
だが、ここまで綺麗に並べる必要があったのか。
「女将、仕事が丁寧なんだよなあ。こういう時だけ」
「普段も丁寧だと思います」
「そこは味方するんだ」
「事実ですので」
「まあ、そうなんだけどな」
シンジは苦笑しながら布団をめくった。
「じゃあ寝るか」
「はい」
そのまま横になる。
隣ではセレーナも布団へ入り、長い髪を整えていた。
近い。
確かに近い。
少し手を伸ばせば届く距離に、先ほどまで胸へ寄り添っていた女性がいる。
だからといって、寝方まで分からなくなるわけではない。
シンジは仰向けになり、天井を見た。
「同じ部屋で寝るの、初めてだな」
「はい」
「緊張してる?」
「少しだけ」
「俺も少しはしてる」
「少しだけですか?」
「そこは大人の意地ということで」
「意地なのですね」
「ばらさないでくれ」
セレーナが小さく笑った。
シンジも笑い、灯りへ手を伸ばす。
「じゃあ消すよ」
「待ってください」
「ん?」
セレーナが上半身を起こした。
胸元で両手を重ね、何か言いにくそうにしている。
「どうした?」
「あの……一つ、確認してもよいでしょうか」
「何?」
セレーナは少し迷ったあと、意を決したように顔を上げた。
「互いに選び合った男女が同じ部屋で眠る場合は、就寝前と起床後に、きちんと口づけをするものだと教わりました」
シンジは数秒黙った。
「……誰に?」
「マーサです」
「マーサさんまでか……」
思わず額へ手を当てる。
「領都を出る前に教わったの?」
「はい」
「周りの女性陣、俺たちをどうしたいんだ」
「仲良くなってほしいのでは?」
「随分と積極的に支援してくるな」
「普通のことだと聞きました」
「普通の恋人同士なら、する人は多いと思うよ」
「では」
「ただ、しなきゃいけない作法ではない」
「そうなのですか?」
「うん」
セレーナの顔が、少し曇った。
シンジはそれに気づいた。
「だから、しないって意味じゃないよ」
「ですが」
「必要がないことと、したくないことは別だ」
先ほどと同じだった。
女将に教わったから身体を寄せた。
今度は、マーサに教わったから口づけをしようとしている。
けれど。
そこにセレーナ自身の気持ちがあるなら、話は違う。
「セレーナ」
「はい」
「マーサに言われたことはいったん忘れて」
「忘れるのですか?」
「今だけね」
シンジは身体をセレーナの方へ向けた。
「セレーナ自身は、したい?」
「私自身……」
セレーナは視線を落とした。
頬が少しずつ赤くなっていく。
「したくないわけではありません」
「それだと質問の答えになってないな」
「……少し怖いです」
「うん」
「恥ずかしいです」
「うん」
「ですが」
セレーナが顔を上げる。
「したいです」
シンジは少しだけ笑った。
「分かった」
それだけ答えて、手を伸ばす。
頬へ触れる直前で、一度止めた。
セレーナは逃げない。
それを確認してから、そっと手を添える。
「シンジ?」
「何もしなくていいよ」
「何もしないのですか?」
「セレーナは力を抜いてればいい。こっちは俺に任せて」
「……はい」
返事は小さかった。
だが、その一言で肩から少し力が抜けた。
「嫌だったら、すぐ言って」
「はい」
セレーナが目を閉じる。
緊張しているのは分かる。
睫毛がわずかに震えていた。
シンジはその顔を少しだけ見つめてから、ゆっくり距離を詰めた。
互いの息が触れる。
そして、静かに唇を重ねた。
昨日よりも、ほんの少し長く。
焦らず。
深く求めることもせず。
ただ、セレーナが怖がらないように。
触れている温かさを互いに確かめるような口づけだった。
やがてシンジが離れる。
セレーナは、まだ目を閉じていた。
「……セレーナ」
「はい」
「もう終わってるよ」
「分かっています」
「じゃあ、どうした?」
「もう少しだけ、このままでいさせてください」
「顔、熱い?」
「……はい」
「俺もだから気にするな」
セレーナがゆっくり目を開けた。
視線が重なる。
「どうだった?」
「そのようなことを聞くのですか?」
「嫌だったかどうかは確認したい」
「嫌ではありません」
即答だった。
「それならよかった」
「ですが」
「うん?」
「昨日より、少し長かったと思います」
「そうだな」
「意図的ですか?」
「意図的です」
「……そうなのですね」
さらに頬が赤くなる。
シンジは思わず笑った。
「嫌じゃないって言っただろ?」
「言いました」
「なら次からも、少しずつでいい」
「次もあるのですか?」
「ない方がいい?」
「そういう意味ではありません」
「じゃあ、ある」
「……はい」
その返事が妙に素直で、今度はシンジの方が少し照れた。
【体調管理】
【心拍数上昇】
【身体的危険なし】
「そこで出てくるのか、おまえ」
セレーナも表示を見る。
「シンジの心拍数も上がっているのですね」
「そりゃ上がるよ」
「先ほどは大人の意地と言っていました」
「平気な顔をするのと、平気なのは別だからな」
「なるほど」
セレーナが小さく笑った。
「少し安心しました」
「何で?」
「私だけではなかったので」
「そこは一緒だよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
今度こそ、それぞれ布団へ身体を戻す。
「灯り、消すぞ」
「はい」
部屋が暗くなる。
窓から差し込む月明かりだけが、寝台と壁の輪郭を薄く照らした。
「おやすみ、セレーナ」
「おやすみなさい、シンジ」
静かになる。
隣から、セレーナの呼吸が聞こえる。
ほんの少し手を伸ばせば触れられる距離にいる。
それでも先ほどまでの妙な緊張は、ずいぶん薄れていた。
「シンジ」
「ん?」
「もう眠りましたか?」
「おやすみって言った直後に眠れるほど寝付きよくないよ」
「そうですね」
「どうした?」
少しの沈黙。
「朝の口づけも、忘れないでくださいね」
シンジは暗闇の中で目を開けた。
「セレーナ」
「はい」
「あれ、作法じゃないぞ」
「分かっています」
「マーサに言われたからでも?」
「ありません」
「じゃあ?」
隣から、少し恥ずかしそうな声が返ってきた。
「今度は、私がしたいので」
シンジは思わず笑った。
「そっか」
「はい」
「なら忘れないよ」
「本当ですか?」
「約束する」
「では、約束です」
「約束」
少し間が空く。
「シンジ」
「何?」
「先ほど、誰かに言われたことではなく、自分の気持ちで決めればよいと言いました」
「言ったな」
「なので、言いました」
「うん。ちゃんと伝わったよ」
シンジは暗闇の中で、隣のセレーナを見る。
「これからも、それでいい」
「はい」
「したいことはしたい。嫌なことは嫌。分からない時は分からない。それでいいから」
「シンジにも、ですか?」
「もちろん」
「では、シンジも我慢しすぎないでください」
「……そこまで返されるとは思わなかったな」
「教わったことを実践しただけです」
「覚えるの早いね、本当に」
セレーナの小さな笑い声が聞こえた。
「おやすみなさい、シンジ」
「おやすみ、セレーナ」
しばらくして。
「シンジ」
「今度は何?」
「ちゃんと休んでくださいね」
【最優先信頼対象からの休息指示を確認】
【休息補助を開始します】
「最優先信頼対象……」
セレーナが表示された言葉を小さく読み上げた。
「そこは声に出さなくていいから」
「私が、シンジの最優先なのですね」
「今さら確認するところ?」
「いいえ」
少し間が空いた。
「ただ、嬉しかっただけです」
暗闇の中で、セレーナの声が柔らかくなる。
「それより、本当に休息補助が始まりました」
「うん。セレーナに休めと言われると、休息の効率が上がるらしい」
「では、早く眠ってください」
「かしこまりました」
「なぜ敬語なのですか?」
「最優先信頼対象からの指示だから」
「命令ではありません」
「でも、逆らう理由もない」
シンジは目を閉じた。
先ほどまで少し騒がしかった心臓が、ゆっくりと穏やかになっていく。
身体から余計な力が抜ける。
反動として残っていた疲れまで、深いところへ沈んでいった。
「おやすみ、セレーナ」
「おやすみなさい、シンジ」
こうして二人にとって初めての同室の夜は。
眠る前から、翌朝の口づけまで予約された。




