第92話 四段目は、本人でした
湯へ肩まで浸かりながら、シンジは長く息を吐いた。
「……やってくれたな、女将」
同じ部屋。
隙間なく固定された二台のベッド。
妙に似合いすぎる寝着。
そして、湯上がりのセレーナ。
ここまで揃えば、偶然とは言わせない。
【体調管理】
【心拍数:やや高】
【身体的異常なし】
「そこは放っておいてくれ」
【長時間の入浴は身体へ負担となります】
「分かってるよ。別に逃げ込んでるわけじゃない」
少しだけ間を置く。
「……気持ちを切り替えてるだけだ」
【表現上の差異を確認できません】
「うるさいな」
ボードへ悪態をつき、シンジは立ち上がった。
別に、女性と同じ部屋で眠ること自体が怖いわけではない。
五十二年生きてきた。
結婚もしている。
男女がどういうものかくらい、知らない歳ではない。
問題は相手だった。
セレーナだから困る。
こちらの気持ちを分かったうえで、それでも自分を好きだと言ってくれた十九歳の女性。
しかも本人は、恋愛となると驚くほど不器用だ。
それを分かっているからこそ、こちらまで勢い任せにはなれない。
「まあ……普通に戻ればいいだけだ」
そう言って、シンジは湯場を出た。
◇
「ただいま」
「おかえりなさい」
部屋へ戻ると、セレーナは椅子に座って待っていた。
濡れていた髪は布で丁寧に拭かれている。
まだ完全には乾いておらず、長い髪が薄青色の寝着の上へ柔らかく広がっていた。
シンジは一瞬だけ目を止めた。
「髪、ちゃんと拭いたんだな」
「はい。シンジに言われましたから」
「冷えるといけないからな」
「ありがとうございます」
セレーナが微笑む。
やはり綺麗だ。
それくらいは、もう認めるしかない。
シンジは着替えを棚へ置いた。
「さて。後は寝るだけか」
「シンジ」
「うん?」
振り返ると、セレーナが椅子から立ち上がっていた。
妙に真剣な顔をしている。
「少し、よろしいでしょうか」
「何?」
セレーナが近づいてくる。
一歩。
もう一歩。
普段なら会話をする距離で止まるはずが、今夜はそのまま進んできた。
「セレーナ?」
返事はない。
代わりに、セレーナが小さく息を吸った。
そして。
そっと身体を寄せてきた。
「……おっと」
柔らかな身体が胸へ触れる。
湯上がりの温かさ。
石鹸の淡い香り。
薄い寝着越しに伝わる体温。
さすがに、これは予想していなかった。
シンジは一瞬だけ目を見開いた。
だが、抱き方まで忘れたわけではない。
反射的に背へ腕を回しかけて、そこで止める。
「……セレーナ」
「はい」
「最初に確認するけど」
胸元へ寄ったままのセレーナを見る。
「これ、女将に何を吹き込まれた?」
セレーナの身体が、わずかに固まった。
「男女が二人きりになった時は、このように身体を寄せるとよいと教わりました」
「やっぱりかあ」
シンジは天井を見上げた。
「身体を寄せた方が、男の方は喜ぶものだと」
「あんのババア!」
階下から豪快な笑い声が聞こえた。
「聞いてるだろ!」
さらに笑い声が大きくなる。
「確信犯じゃないか!」
「シンジ、声が大きいです」
「そりゃ大きくもなる」
文句を言いながら、シンジはセレーナへ視線を戻した。
そして気づく。
胸へ寄せられた身体が、ほんの少し震えている。
呼吸も浅い。
「セレーナ」
「はい」
「緊張してるな」
「していません」
「してる」
「……していません」
「俺の胸まで震えが伝わってる」
「それは、その……湯上がりだからです」
「その言い訳、無理があるぞ」
セレーナは黙った。
「かなり緊張してるんじゃない?」
「……はい、かなり、緊張しています」
「だろうな」
シンジは小さく笑った。
からかう笑いではない。
その声に、セレーナの肩からわずかに力が抜けた。
「俺が喜ぶと思って、やってくれたの?」
「はい」
「嫌なのに我慢してない?」
「していません」
返事は早かった。
「嫌ではありません。ただ……どのようにすればよいのか、よく分からなくて」
「そりゃそうだろ」
シンジは少しだけ身体を離し、セレーナの顔を見た。
頬が赤い。
それでも、逃げようとはしていない。
「じゃあ、もう一つだけ」
「はい」
「セレーナ自身も、こうしたかった?」
「……はい」
今度は少し時間がかかった。
だが、答えははっきりしていた。
「なら、いい」
シンジは自然にセレーナの背へ腕を回した。
「シンジ?」
セレーナの声が、少しだけ上ずる。
「身体を寄せたら男は喜ぶって教わったんだろ?」
「はい」
「そこは女将が正しい」
「……やはり、嬉しいのですか?」
「嬉しいよ」
シンジは笑った。
「好きな女性が、自分からこうしてくれたんだから」
今度は、セレーナが固まった。
数秒。
動かない。
「セレーナ?」
「……今のは」
「うん?」
「少し、ずるいです」
「何が?」
「私は、ただでさえ緊張しているのに」
「俺だって平気なわけじゃないよ」
「そうは見えません」
「そこは年季の差だな」
セレーナが、胸元で小さく笑った。
「でも」
シンジは腕の力を少し緩めた。
「一つだけ覚えておいて」
「何でしょう」
「俺を喜ばせるためだけに、無理してやる必要はないからな」
セレーナが顔を上げる。
「嫌なら嫌って言えばいい。恥ずかしかったら恥ずかしいって言えばいい。離れたかったら離れていい」
「では、離れたくない場合は?」
「そのままでいればいい」
「……それだけですか?」
「それだけ」
シンジは少し笑う。
「誰かに教わった正解なんて、別にいらないだろ。俺たちのことなんだから」
「私たちのこと……」
「女将の言うことを全部真に受けなくていい」
「ですが、シンジは喜んでいます」
「それは否定しない」
「では、成功ですね」
「そういう問題なのか?」
セレーナの肩が小さく揺れた。
今度は、はっきり笑っていた。
そして。
先ほどより自然に、シンジへ身体を預けてくる。
「セレーナ?」
「もう少しだけ、このままでいてもよいですか?」
「もちろん」
シンジは、それ以上何も言わなかった。
強く抱き締めることもしない。
ただ背中へ腕を添え、セレーナが自分から離れたくなった時には、いつでも離れられるようにする。
宿の外から、夜の町の音が聞こえる。
階下では、まだ誰かが話している。
目の前には、温かな身体。
それだけで十分だった。
しばらくして、セレーナが小さく息を吐いた。
「不思議です」
「何が?」
「先ほどまで、とても緊張していたのですが」
「うん」
「今は、安心します」
「それならよかった」
「シンジは?」
「俺?」
「安心していますか?」
「安心とは、ちょっと違うかな」
「では?」
「ものすごく嬉しい」
セレーナの顔が、また赤くなる。
「……やはり、ずるいです」
「何でだよ」
「平然と言うからです」
「このくらいは言わせてくれ」
シンジは笑った。
「こっちは五十二年分、言葉の在庫があるんだから」
「そういうものなのですか?」
「たぶん?」
「そこは自信がないのですね」
「恋愛に絶対の正解があるなら、世の中もっと平和だよ」
セレーナが、また小さく笑った。
やがて二人は、どちらからともなく離れた。
セレーナは胸元へ手を当てる。
「まだ少し、胸が高鳴っています」
「俺もだよ」
「シンジも?」
「そりゃそうだろ。平気な顔くらいはできるけど、平気とは言ってない」
セレーナが目を細めた。
「少し安心しました」
「何で?」
「私だけではなかったので」
「そこは同じだよ」
二人は顔を見合わせ、笑った。
それからシンジは、隙間なく並べられたベッドへ目を向ける。
「同じ部屋」
「はい」
「くっついたベッド」
「はい」
「妙に危険な寝着」
「危険なのですか?」
「俺にとっては」
さらにセレーナを見る。
「そのうえ、本人が身体を寄せてくる」
「女将さんに教わりました」
「女将の罠、四段構えだったか!」
階下から、勝ち誇るような笑い声が聞こえた。
「絶対、聞き耳立ててるだろ!」
シンジが床へ向かって叫ぶ。
セレーナは赤い顔のまま、楽しそうに笑っていた。
「でも、シンジ」
「何?」
「四段目は、罠ではありません」
「え?」
セレーナは胸元で両手を重ね、まっすぐシンジを見た。
「女将さんに教わりましたが、シンジへ寄り添うと決めたのは、私です」
一瞬。
今度ばかりは、シンジも言葉を失った。
【心拍数急上昇】
「……ボード」
セレーナが声を上げて笑う。
シンジも、もう抗議する気にはなれなかった。
女将の四段目。
それはもう、女将だけが仕掛けた罠ではない。
最後の一歩を踏み出したのは、セレーナ自身だった。




