第91話 女将の罠は三段構え
【前書き】
いつもお読みいただきありがとうございます。
扉が閉まってから、どれほど時間が経っただろう。
実際には、それほど長くない。
だが、シンジにはずいぶん長く感じられた。
一人で部屋に残されると、先ほどまでの騒がしさが嘘のように静かだった。
目の前には、隙間なく並べられた二台のベッド。
床には、それを固定する金具。
そして、湯浴みを終えたセレーナが戻ってくる扉。
「落ち着け、俺」
シンジはベッドへ腰を下ろしたまま、自分へ言い聞かせた。
「ただ風呂から戻ってくるだけだ」
同じ屋敷で暮らしていた時にも、湯上がりのセレーナを見たことはある。
髪を下ろした姿も知っている。
寝着姿だって、まったく見たことがないわけではない。
今夜だけ、特別なことが起きるはずはない。
「同じ部屋で、くっついたベッドに寝るだけだ」
口に出してみる。
「……十分特別じゃないか」
シンジは頭を抱えた。
その時、廊下から足音が聞こえた。
一歩。
また一歩。
こちらへ近づいてくる。
「落ち着け」
シンジは立ち上がった。
「普通に迎えればいい。おかえり。それだけだ」
足音が扉の前で止まる。
取っ手が動いた。
扉が開く。
「戻りました」
「おかえ――」
シンジの声が止まった。
湯上がりのセレーナが、扉の前に立っていた。
長い髪は結ばれず、濡れたまま肩から背中へ流れている。
湯の熱が残っているのか、頬は淡く赤い。
首筋にも、まだわずかな湿り気が残っていた。
問題は、そこではない。
セレーナが着ていたのは、いつもの飾り気のない寝着ではなかった。
淡い青色の、薄手の寝衣。
生地は柔らかく、身体の動きに合わせて静かに揺れている。
襟元は普段の服より大きく開き、白い首筋から鎖骨までが隠されずに見えていた。
袖も短い。
腰には細い布帯が結ばれ、いつもの書記官服では分からなかった身体の線を、やわらかく浮かび上がらせている。
「……」
「シンジ?」
「……」
「どうしました?」
セレーナが不思議そうに首をかしげた。
その動きに合わせ、濡れた髪が肩から滑り落ちる。
【体調管理】
【心拍数上昇】
【呼吸の安定を推奨】
「分かってるよ!」
セレーナも表示へ目を向けた。
「心拍数が上がっているようですが」
「心配しなくていい。原因は分かってる」
「原因?」
シンジは、寝衣姿のセレーナを見る。
「目の前にいます」
「私ですか?」
「そのままでいてください」
「なぜ敬語なのですか?」
「俺にも分かりません!」
シンジは視線をそらした。
だが、そらしたらそらしたで、不自然になる。
もう一度見る。
やはり駄目だった。
「その服、どうしたの?」
「女将さんが用意してくださいました」
「やっぱりあの女将か!」
「私の寝着では、旅先で着るには少し堅すぎるからと」
「絶対、別の理由だろ!」
階下のどこかから、豪快な笑い声が聞こえた。
「聞いてるな!?」
シンジが床へ向かって叫ぶ。
笑い声はさらに大きくなった。
「隠す気すらない!」
セレーナは自分の寝衣へ目を落とした。
「何か、おかしいでしょうか」
「おかしいというか……」
「着方を間違えていますか?」
「着方は合ってると思う」
「では、似合いませんか?」
セレーナの声が、ほんの少しだけ沈んだ。
シンジはすぐに首を振った。
「違う。逆だよ」
「逆?」
「似合いすぎて困ってる」
「……え?」
「すごく綺麗だ」
誤魔化さず、まっすぐに言った。
「湯上がりのセレーナが、その服を着て戻ってきたから、見惚れてた」
「み、見惚れ……」
セレーナの頬が、湯上がりとは別の理由で赤くなっていく。
「そ、そういうことを、突然言うのですか?」
「言わない方がよかった?」
「そういうわけではありません!」
セレーナは慌てて首を振った。
揺れた髪から、小さな雫が落ちる。
「嫌ではありません。むしろ、その……嬉しいです」
「よかった」
シンジが笑うと、セレーナは濡れた髪を胸元へ集めるようにして、恥ずかしそうにうつむいた。
その動きで寝衣の襟元がわずかに動き、シンジは再び視線を天井へ逃がした。
【精神的負荷の上昇を確認】
「黙ってろ!」
セレーナは表示を読み、自分の寝衣を見下ろした。
「私のせいでしょうか」
「セレーナは悪くないよ」
「では、なぜ私のせいなのですか?」
「可愛いから」
「また、そのようなことを……」
「本当のことだから仕方ない」
セレーナは何も言えなくなり、赤い顔で髪を拭き始めた。
シンジは深く息を吸う。
同じ部屋。
くっつけられたベッド。
そして、この寝衣。
「女将の罠は、三段構えだったのか……」
「三段?」
「一段目が同じ部屋」
シンジは扉を指す。
「二段目が、あのベッド」
次に、隙間なく並べられた二台のベッドを指した。
「三段目が、その服」
セレーナは、自分の寝衣を改めて見下ろした。
「普通の寝着ではないのですか?」
「少なくとも、あの女将が何も考えずに選んだ服じゃない」
シンジは断言した。
すると、階下から再び笑い声が響いた。
「ほらな!」
「女将さんは、親切で用意してくださったのだと思いますが」
「罠を親切な顔で置く人なんだよ、あの人は!」
セレーナが口元へ手を当て、くすりと笑った。
「でも、シンジが綺麗だと言ってくれたので、私はこの寝着でよかったと思います」
「セレーナ」
「はい?」
「そうやって真っすぐ返されると、俺の逃げ道がなくなるんだけど」
「逃げなくてもよいのでは?」
「心の準備が必要なんだよ!」
「先ほどから、ずっと準備をしていたのでは?」
「準備してこれなんです!」
セレーナは楽しそうに笑った。
昨日までは見られなかった表情だった。
少し恥ずかしそうで、それでも、シンジの言葉を嬉しそうに受け取っている。
その顔を見ていると、心臓が騒がしくなるのも悪いことではないように思えてきた。
「それじゃ、今度は俺が湯へ行ってくる」
「はい」
「髪、ちゃんと乾かしておけよ。冷えるから」
「分かりました」
シンジは着替えを手に取り、扉へ向かう。
取っ手へ手をかけたところで、もう一度振り返った。
セレーナは椅子に座り、布で髪を拭いている。
薄青色の寝衣。
赤い頬。
濡れた髪。
見れば見るほど、女将の罠は強力だった。
「本当に綺麗だよ、セレーナ」
「早く行ってきてください!」
真っ赤になったセレーナの声に追い出されるように、シンジは部屋を出た。
扉を閉め、廊下を数歩進む。
そこで足を止めた。
「危なかった……」
【体調管理】
【生命に危険はありません】
「知ってるよ」
【湯浴みによる精神状態の安定を推奨します】
「今だけは、おまえの言うとおりにする」
シンジは着替えを抱え直し、湯場へ向かって歩き始めた。
背後の部屋には、あの寝衣を着たセレーナがいる。
しかも、湯から戻れば、同じ部屋で眠らなければならない。
「……湯に入って、落ち着くのか? これ」
答えは出なかった。
階下からは、すべてを知っている女将の笑い声が聞こえていた。
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