第10話:次元の裂け目、あるいは戻ってきたもの、戻らなかったもの
僕は彼女のそばまで歩み寄り、ほんの少しためらったが、そっと彼女の横に腰掛けた。
彼女はそっと微笑み、僕の胸にその身体を預けてきた。腕の中に伝わる彼女の質量はあまりにも希薄だったが、確かにそこにいるという愛おしさだけが、僕の胸の奥を温めた。
「来てくれると信じてたわ」と彼女は言った。
「うん」と僕は答えた。「でも、僕はここで何をすればいいんだろう?」
「ううん、あなたはもう充分にやってくれたわ」
「どういうことだい?」
「概念を飲み込む怪物のことは、もう知っているでしょう?」
「……」
「あれがね、あなたのいる次元に侵入しそうだったの」
「……」
「あなたがこれまで通ってきた3つの入り口と、2つの出口。あれがね、次元の裂け目だったのよ。あなたがそこを通り抜けてくれたことで、裂け目はすべて塞がったの」
彼女は僕の胸から少しだけ顔を上げ、僕の目をじっと見つめた。
「あとは、ここの出口を塞げば終わり」
「なら、一緒に出よう」と僕は彼女の手を握った。「君も一緒に行くんだろ?」
彼女は少しだけ寂しそうに首を振った。
「あなたとはいけないのよ。私は、今のあなたとは違う次元の私だから。3年前に、あなたと別れていない世界線の私なの」
「君が何人もいるのかい?」
「そうよ。あなただって、いろんな次元に何人もいるわ」
唐突に、まるで楽しかった休日が終わるときのように彼女が言った。
「もう行かなくちゃ」
彼女は僕の手を取り、何かを僕の手のひらにそっと握らせた。
ハッと気づいたときには、彼女はすでに少し離れた場所に立っていた。少し寂しそうに微笑みながら、その姿は夜の霧が晴れるように静かに消えていった。
彼女は僕に「また逢える」とは言わなかった。しかし、その去り際の手のぬくもりには、以前僕たちが共有していた懐かしい想いが感じられた。
呆然と立ち尽くす僕だったが、この水上の世界にも朝日が上がってきたのだろう。周りが急激に明るくなり、それはやがて目を開けていられないほどの強い光になった。
次に目を開けたとき、僕はホテルのベッドの上にいた。
昨夜、カーテンを閉め忘れた窓から、まばゆい本物の朝日が容赦なく差し込んでいた。
あれはすべて、僕の脳が見せた夢だったのだろうか。
いや、そうではない。今も彼女のぬくもりは僕の胸にはっきりと思い出せるし、あの洗い髪に香水を混ぜた匂いだって明確に覚えている。
何より、僕の右手の中には、彼女が愛用していたあのシュシュが残されていた。
間違いない。彼女は確かにそこにいたのだ。
僕はその日のうちに凍雲町を離れ、東京の自室へと戻った。
翌日、いつも仕事をくれる編集者の彼に電話をかけ、「ペンギンはいなかった」とだけ伝えた。受話器の向こうで、彼はごそごそと資料をあさるような音を立てていたが、やがて自分の持っていた情報が間違っていたことを認めた。
『すまなかったね。今回の経費はすべて会社に請求してくれ。次の仕事もすぐに頼むよ』
「わかりました」と僕はそれだけ伝え、静かに受話器を置いた。
その後、東京での日常に戻った僕は、溜まっていた仕事をこなしていった。気がつけば、窓の外の季節はひとつ先へと進み、照り付ける夏の日差が陰りはじめ秋の気配が街を覆い始めていた。
そんなある日、僕は風のうわさで、シンガポールに渡っていた彼女が、流行り病で最近亡くなったという事実を知った。
僕は仕事の手を止め、テーブルの上にあの彼女のシュシュを置いた。そして、普段は滅多に口にすることのないウイスキーのボトルを取り出し、静かにその封を切った。
重厚な琥珀色の液体をグラスに注ぎ、一口すする。
アルコールがゆっくりと身体を巡り、僕の頭を不必要に感傷的にさせ始めたころ。
どこか遠くの街角から、微かな声が聞こえた気がした。
『何か困っているのかい?』
それはあの、2足歩行で背筋をピンと伸ばした、羊の声のようだった。僕はグラスを傾けたまま、もう戻らないいくつかの色彩について、静かに考え続けていた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、特定の作家の持つ乾いた不条理な文体や、少し不思議な世界観へのリスペクト(オマージュ)を込めて執筆したオリジナル作品です。
フリーカメラマンである「僕」が歩き通した奇妙な凍雲町の景色や、水上のベンチに座る彼女との静かな時間が、少しでも皆様の心に届いていれば幸いです。
また別の次元、あるいは別の物語でお会いできる日を楽しみにしています。
ありがとうございました。




