第1話:ハーブの緑と、空っぽに近い冷蔵庫
普段、僕はあまり酒を飲まない。
アルコールは僕の頭を不必要に感傷的にさせるし、翌朝の仕事の効率を著しく低下させるからだ。しかし昨夜は例外だった。新しく出た写真集の打ち上げがあり、断りきれない流れでいくらかの白ワインを口にした。
今朝、目が覚めたとき、部屋は妙に静まり返っていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、いつもよりほんの少しだけ尖っているように見えた。僕はベッドの上に上半身を起こし、枕元に置いた古い腕時計に目をやった。午前10時15分。
僕はベッドから降り、ベランダの窓際に置かれたミントの鉢植えを見た。
違和感は、そこにあった。
ハーブの葉の色が、昨日までのそれとは微妙に違っている気がしたのだ。緑は緑なのだが、どこか別の記号から借りてきたような、不自然に深い緑だった。まるで部屋全体の色彩が、僕の知らない誰かの手によって、1目盛りだけ狂わされてしまったかのように。
「昨夜は少し、飲みすぎたのかもしれない」
僕は声に出して言ってみた。
自分の声が、いつもより平坦に響いた。
喉が渇いていた。僕はキッチンに向かい、冷蔵庫のドアを開けた。
中から冷気が頼りなく流れ出してくる。
僕はポケット瓶のミネラルウォーターを取り出し、口に含んだ。冷たい水が喉を通る感覚だけは確かだった。しかし、水を飲み干してもう一度冷蔵庫の中を見たとき、中には大したものが無かった。最近忙しくて買い物を怠っていた。
僕は諦めてドアを閉め、チノパンを穿き、洗いざらしのシャツを羽織ると、財布と鍵を持って近所のスーパーへ買い物に出かけることにした。
玄関のドアを開けると、外の空気は驚くほど乾燥していた。
スーパーへ買い物に行く途中、2足歩行で背筋を伸ばした羊が通りかかった。
買い物の主婦も、忙しなく走り去るサラリーマンも、大きな声で笑っている若者も、街の皆は気にしていない様子だった。まるでそれが、最初からそこに用意されていた背景の一部であるかのように。
僕は足を止め、その羊に声をかけてみることにした。
「あの」
羊はちょっと驚いたようだったが、軽く笑ってこう言った。
「私が見える? 気にしないで。私は概念としての羊ですから」
羊はそれだけ言うと、そのまま静かに立ち去った。
目眩がして、僕はあたりを見渡した。近くにベンチがあった。そこには大型犬ほどの大きさのペンギンが、気持ちよさそうに昼寝をしていた。
ペンギンは僕の様子に気が付くと、モゾモゾと体を動かし、僕のために1人分のスペースを空けてくれた。
礼を言おうか迷ったが、僕は黙ってそっとその横に腰掛けた。
しばらくぼーっと、空に浮かぶ白い雲を眺めていた。
すると、ふいに1週間前にかかってきた彼女からの電話を思い出した。
『北海道の、象の像が見たいの』
受話器の向こうの彼女の声は、どこか遠くの街から届いているように微かだった。彼女はなぜ、僕にそんなことを言ったのだろう。北海道に象の像なんてあるのだろうか。答えのない問いが、僕の頭の中で頼りなく明滅していた。
僕はベンチから立ち上がり、買い物を済ませて部屋に戻った。
部屋に入ると、いつも仕事をくれる編集者の彼から電話が有った。
僕は受話器を取り「はい」と言って電話に出た。
『急な話で悪いんだが』と彼の硬質な声が耳に飛び込んできた。『北海道のペンギンリゾートに行って、ペンギンの写真を撮ってきてくれないか。今週いっぱいでページを組みたいんだ』
ペンギンリゾート。
さっきベンチで隣にいた生き物の姿が頭をよぎった。
「北海道にペンギンかい?」
『ああ。詳しい資料は後で送る。とにかく、そこにはペンギンがいるんだ』
僕は受話器を握ったまま、窓の外の青すぎる空を見上げた。
色彩の歪んだ部屋、概念としての羊、ベンチのペンギン、彼女が言った「象の像」、そして編集者が告げた「ペンギンリゾート」。
それらの点と点は、おそらく何の意味も結んでいない。ただ、何かが静かに動き始めていることだけが、僕の皮膚に伝わってきた。
「わかった」と僕は言った。「行ってみるよ」
※本作は、特定の作家の文体や空気感へのリスペクト(オマージュ)を込めて執筆したオリジナル作品です。少し不思議で不条理な世界観をお楽しみいただければ幸いです。




