62 7年間思い出しもしなかった名前【sideマティルデ】
「陛下 バーテン国の大使が参りました」
側近のカーチャから声がかかり、執務室で書類に埋もれていた私はペンを置いた。
クロノスの助言どおり軍事力の強化に国費を割くようになってから、周辺諸国のこの国への評価がガラリと変わった。
以前はおそらく侮られていたのだと思う。
取るに足らない小国として。
大国アンデクスへの緩衝材として。
だが、そのアンデクスの属国になり、『首狩り公爵』クロノス・ヴァン・アンデクス・ベルンシュトルフが王配となったノルトハルムが、軍事力を強化し始めたのだ。
とたんに周りの国は警戒しだし、動向を探るため大使を送ってくるようになった。
お互い敵か味方か、もしくは中立か、腹の探り合いが始まった。
こちらとしては戦後の復興も道半ば、侵略戦争など起こす気もないが、なめられる訳にもいかない。
国家間はけん制しつつ、程よい距離感を保ちながら、だが現場レベルでは協力し合いたいところだ。
つまり、学術や技術においては共有し高め合い、商人たちは活発に行き来させて街を発展させ、輸出入も積極的に行いたいのだ。
そんな思惑が合致した周辺国とは、同盟を結ぶことにした。
まだまだお互い信用できず、ぎこちないが、平民たちはすぐに順応し国は一気に活気づいた。
そしてこれから面会する大使は隣国バーテンの者で、そんな同盟国のひとつである。
謁見の間で玉座に座り、大使を見下ろした。
跪いた大使がバーテン国王からの言葉を朗々と告げる。
「……以上がこちらが要望する塩の価格である」
この国に海はないが、バーテンには海がある。
塩はバーテン国の特産品だ。
「おかしいですね。先日会合で決定した価格から値上げされておりますが」
バーテン大使の言葉に外務大臣が口をはさんだ。
人間は塩なしでは生きていけない。
国内に流通させる塩の価格の安定は、国家にとって重要事項だ。
「それについては、我が王がこれを陛下にと…」
大使が親書を掲げる。
カーチャが受け取り、私に手渡した。
『我が国に貴国の元王女ゾフィーと元近衛騎士フェルディナントがおります。ご希望であれば即時拘束、身柄引き渡しいたしますが、いかがいたしますか?』そう書いてあった。
一瞬、息が詰まった。だが……
「この親書には何の意味もありません。お持ち帰りを。決定価格を覆すおつもりなら、他国に話しを持ちかけるだけのこと」
そう大使に告げ親書をカーチャに渡すと、彼女は彼に突き返した。
「その際は、両国間の正式会合で決定された価格を、バーテン国が理由なく釣り上げてきたと他国にお伝えすることになるが、よろしいかと国王にお伝えを」
「あ…いえ、それは…」
私のその言葉に、とたんに大使がうろたえ始める。
国家間で正式に調印したものを後になって覆すのは、国の信用を失う行為だ。
同盟すらあやしくなる。
「陛下からのお言葉は以上です。お下がり下さい」
そう言ってカーチャが謁見室から大使を追い出した。
「ふっ」
謁見室から執務室に戻る廊下を歩きながら、自嘲してしまった。
「陛下?」
カーチャが不思議そうに私を見る。
「ふふふ。わたくしも随分とクロノスに毒されたと思って…」
フェルディナントの名前を見ても、何とも思わなかった。
ついこの前クロノスと違って、彼には不安を感じていたなと思い出しただけで。
それまでは一度も……
即位して7年。
彼のことを思い出しもしなかった。
考えることが多すぎて、思い出す時間が無かったのではなく、個人の事情などに興味が無かったのだ。
私は公人。
かつて愛した人ですら『公』の前では『個』など芥子粒のようなもの。
あのたった一人の人を愛する甘酸っぱい気持ちは……あの心のひだを揺らすような柔らかな感情はどこへ行ってしまったのだろう。
「それはそれで悲しいことね」
でも私は女王。
この国の母であり、舵取りをするもの。
常に冷静に、全体に目を光らせ、公平に国を治めるのが私の使命。
「確かに奴隷だわ」
でも私は一人じゃない。
助けてくれる側近、官僚、大臣たち……そして同じ奴隷仲間のクロノスもいる。
「しかし、わたくしも舐められたものね」
元婚約者への情で私が動くなんて、そんな甘っちょろい人間だと思われたのかしら。
しかもクロノスが不在の時に。
それに……
「……ゾフィー王女、生きていたのね」
私と同じ王室病に罹患した王女。
これはクロノスを問い正さなければ。




