第二話 英雄が、かすり傷で泣いていた
夜明け前の空は、まだ紫色をしていた。
アルトが宿の窓から外を眺めると、王都の外壁がシルエットになって遠くに見えた。昨日まで三年間を過ごした場所だ。石造りの塔が朝靄の中に浮かんで、どこか他人の街のように見えた。不思議と感傷はなかった。ただ、あの壁の中に戻るつもりはないという確信だけが、静かに胸の底に沈んでいた。
右手を開いて、閉じた。
昨夜、板壁につけた亀裂は、宿の親父に謝罪と修繕代を払って片付けた。宿代と合わせると手持ちの銅貨がだいぶ減ったが、それよりも気になるのは拳の感触だ。触れた感覚は「軽く叩いた」だった。それなのに、壁には大人の拳が入るほどのひびが走った。自分でやっておきながら、実感が追いついていない。
俺のスキルは【感覚共有】だ。対象に触れた状態で発動し、その対象が感じる痛覚を俺の側に転送する。ギルドに登録した鑑定士もそう言っていたし、俺自身もそう理解していた。だが正確には、転送された痛みは俺の体の中に蓄積されていたらしい。吸収した痛みは消えるのではなく、どこかに積み重なっていた。それが三年分、限界を超えようとしている。
外に向かって解放できる、ということも昨夜で分かった。
となれば、このスキルは俺が思っていたものとは別物だ。痛みを受け取るだけではない。受け取り、溜め込み、返すことができる。それがどこまでできるのか、どんな使い方ができるのか、まだ何も分かっていない。だが焦る気にはなれなかった。今まで三年間、急いで生きてきた試しがない。
荷物をまとめて宿を出た。
王都の外れの街道は、朝のこの時間はまだ人が少ない。荷馬車がゆっくりと轍を刻んでいく横を、アルトは特に目的地を決めずに歩いた。とりあえず次の街まで行って、冒険者ギルドに顔を出す。パーティを離脱した事実はギルドカードに記録されているはずだから、改めて個人登録をし直す必要がある。ランクが下がるかもしれないが、それは仕方がなかった。
そうして三十分ほど歩いたところで、背後から馬の蹄の音が迫ってきた。
「おい、そこのお前。ちょっと待て」
振り返ると、王城の紋章が入った外套を着た騎士が馬を止めていた。街道の警邏だろう。アルトが追放者だと知っているわけではないだろうが、荷物を担いで早朝に街外れを歩いている若い男は怪しく映るかもしれない。
「ギルドカードを出してくれ」
アルトは黙って懐からカードを取り出した。騎士がそれを受け取り、一瞥して、眉を寄せた。
「パーティ欄が空白だな。昨日まで勇者パーティに所属していたはずだが」
「離脱した。昨日付けで」
「……ふん」
騎士はカードを返しながら、何か言いかけて口を閉じた。哀れみなのか軽蔑なのか、判断のつかない目でアルトを見てから、馬の腹を蹴って去っていった。
アルトはカードを懐に戻して、また歩き始めた。
王都に関する話題は、その後しばらくの間、道中で耳に入ってきた。
最初に聞いたのは、午前の市場が立つ街道沿いの小さな集落だった。野菜を並べていた農夫のひとりが、連れの男に声を潜めて話していた。「聞いたか、勇者様のことを」「昨日の戦勝祝賀会の後、訓練場で倒れたそうじゃないか」「大げさな、怪我でもしたのか」「それがな、スライムに当たっただけらしいぞ」笑いが起きて、農夫たちは荷台を押して去っていった。
アルトは立ち止まらなかった。ただ、脳裏にレイドの顔が浮かんで、すぐに消えた。
次に聞いたのは、昼過ぎに立ち寄った街道の宿場町だ。冒険者らしい男たちが酒を飲みながら声を上げていた。「勇者パーティが依頼失敗したらしいぞ」「あの連中が? 嘘だろ」「本当だって。ゴブリン五匹の討伐依頼で、勇者本人が怪我して撤退したんだと。ゴブリンだぞ、ゴブリン」「何かの罰ゲームか」どっと笑いが広がった。
アルトは宿場の水場で水を汲みながら、その会話を遠くに聞いていた。
ゴブリン。五匹。撤退。
昨日まで、ヴァルグを討伐していた男が。
俺が九割の痛みを引き受けていなければ、レイドはとっくの昔にあんなものだったのだ。それが現実だった。三年間かけて、パーティのみんなが積み上げたものだと思っていた勝利は、その大半が俺の痛みの上に成り立っていた。レイドは強い。本当に強い部分もあるだろう。だがそれは、痛みを知らずに戦えてきたからこそ発揮されてきた強さだ。恐怖を感じたことがないから怯まない。傷の痛みを感じないから止まれない。それだけのことだった。
水筒の蓋を閉めて、アルトは宿場を後にした。
一方その頃、王都の冒険者ギルドは、普段と違う空気に満たされていた。
受付の女性職員、マリアは、朝から続く妙な騒ぎに頭を抱えていた。勇者パーティからの依頼報告が入ったのは昼過ぎのことだ。内容は「依頼失敗・撤退」の一言。依頼ランクはD——新人冒険者が最初に受ける、最も簡単な討伐依頼のひとつだ。
報告を持ってきたのはエリアだった。
「すみません、今回は諸事情があって……」
「諸事情、というのは」
マリアは努めて平静に聞いた。
「レイド様が、その……体調不良で」
体調不良。あの勇者が。D級依頼の途中で。マリアは三秒ほどエリアの顔を見てから、「分かりました、記録します」と言って書類に向かった。レイドの様子については聞かなかった。聞いたらいけない気がした。
ギルドの外では、すでに噂が広まっていた。
「勇者様が、ゴブリンのひっかき傷で泣いて逃げたって本当か」
「見た人間がいるらしいぞ。地面に転がって、痛い痛いって叫んでたって」
「あの人、大丈夫なのか」
「大丈夫なわけないだろ。何かあったんじゃないか」
ギルドの奥の部屋では、レイドが椅子に座って左腕を押さえていた。包帯が巻かれているが、傷は浅い。エリアの回復魔法で塞がってはいるが、腕の表面にじくじくとした熱さが残っている。こんな感覚は生まれて初めてだった。生まれて、本当に、初めてだった。
「なんで……」
レイドは自分の腕を見つめながら、低く呟いた。
「なんでこんなに痛いんだ。俺はこんなに痛かったのか、いつも」
エリアは答えなかった。答えられなかった。
部屋の隅で黙って立っているガラムだけが、視線を落として静かに言った。
「……アルトを呼び戻した方がいいんじゃないっすかね」
レイドが顔を上げた。目が充血している。唇が震えていた。
「俺が……頭を下げるのか。あんな役立たずに」
「役立たずかどうか、まだ分からないじゃないっすか」
「黙れ」
レイドの声が低くなった。
「お前は俺に意見するのか。俺が世界最強の勇者だということを忘れたのか」
ガラムは何も言わなかった。ただ、視線だけを窓の外へ向けた。
エリアは内心で素早く計算していた。このままレイドのパーティにいることが、自分にとって得になるかどうか。昨日までは勇者パーティという看板があれば何でも通った。だが今日一日で、その看板の価値が急速に揺らいでいる。ゴブリン討伐に失敗した勇者など、誰がついてくる。
アルトを呼び戻すべきだ、とエリアは思った。
ただし、自分のためではなく、レイドのために呼び戻す必要があると言えばいい。そうすれば自分は賢明な判断をした人間として記憶される。レイドが嫌がるなら説得すればいい。嫌がるレイドを見ていると、なぜか胸がすっとした。昨日あんな見せ方をしなければよかった、と少しだけ思った。
「レイド様、アルトを呼び戻しましょう」
エリアは穏やかな声で言った。
「彼のスキルが何をしていたのか、私にも正確には分かりません。でも何かがあったのは確かです。謝罪をして、戻ってきてもらいましょう」
「……っ」
「プライドの問題ですか?」
エリアは続けた。
「でも今日の依頼失敗が広まれば、王室からも調査が入るかもしれません。そうなる前に手を打つべきです」
レイドは拳を膝の上で握り締めた。包帯の上から押さえた指が白くなっている。痛みが走ったのか、小さく顔をしかめた。
「……探せ」
レイドは絞り出すように言った。
「追いかけて、頭を下げさせろ。お前とガラムで行ってこい」
エリアは「分かりました」と微笑みながら、心の中では全く別のことを考えていた。
その頃、アルトは街外れの宿に荷物を置いて、宿の裏手にある空き地に出ていた。
誰もいない。日は西に傾いていて、雑草の先端が橙色に染まっている。アルトは地面に転がっていた拳大の石を拾い上げ、五メートルほど先に立てかけた。
試してみたかった。
昨夜の感触を、もう一度確かめたかった。
石に向かって歩き、右手を伸ばした。指先をそっと石の表面に当てた。体の奥から、蓄積されたものの気配を引き出す。三年分の痛みが、そこにある。じりじりとした熱を持った塊が、腕の内側を伝って指先に集まってくる感覚があった。
離す。
石は、砂になっていた。
アルトは自分の指先を見た。傷一つない。熱さも残っていない。ただ、石があった場所に細かい砂が散らばっている。
「……なるほど」
昨夜と同じ言葉が出た。ただ今度は声に、微かな確信が混じっていた。
コントロールの精度はまだ荒い。全力で解放すればどうなるか、見当もつかない。だが方向性は見えた。受け取り続けたものを、返すことができる。それが俺のスキルの、本当の形だ。
空を見上げると、星が出始めていた。
レイドたちが俺を探しているかどうかは分からない。探しているとしたら、それはなぜか——プライドからではない。恐怖からだ。痛みを知って初めて、俺の価値に気づいた。三年間気づかなかったくせに、自分が怖くなった瞬間だけ必要とする。
その身勝手さが、酷く滑稽だった。
帰らない、と決めた。それは昨日の時点で決めたことだ。ただ今は、それに加えて、もうひとつの気持ちが生まれていた。
俺は、俺自身のために動く。
それがどういう形になるか、まだ分からない。だが方向は決まった。足元の砂が夜風に散っていくのを眺めながら、アルトは宿に向かって歩き始めた。明日は次の街のギルドで個人登録をする。それだけ決めれば、今夜は十分だった。
宿の扉を押し開けた瞬間、受付の親父が「あんたに伝言だ」と言って紙切れを渡してきた。
広げると、短い文字が書かれていた。見知らぬ筆跡だった。
「あなたの力の本質を見ました。明日の朝、街の南門で待っています。——S」
アルトはしばらくその紙を眺めた。「S」が誰なのか、心当たりはない。罠の可能性もゼロではない。だが何かが引っかかった。「本質」という言葉だ。昨夜、宿の壁に亀裂を入れた。今日の夕方、石を砂にした。どちらも人目を避けていたはずだった。
誰かに見られていたのか。
あるいは、もっと別の意味での「見た」なのか。
アルトは紙をたたんで懐に入れ、階段を上がった。明日になれば分かる。今夜はそれだけでいい。




