第4章 10話
「……いつ帰ってくるの?」
玄関で靴も脱がずに立ったまま、夏海が言った。
その声は、いつもと変わらない。
優弥は、一瞬だけ目を閉じた。
病室の白い光が、まだ頭に残っている。
消えない。
「優弥?」
呼ばれる。
すぐ近くで。
「……帰ってこない」
やっと、それだけ言えた。
一拍。
「え?」
夏海の動きが止まる。
「もう、帰ってこない」
繰り返す。
それ以上、言葉が出てこない。
沈黙。
時計の針の音が、やけに響く。
「……何それ」
小さく笑う。
「やめてよ、そういうの」
冗談だと思っている顔だった。
「普通に、帰ってくるでしょ」
一歩、近づく。
「だって、朝も――」
言いかけて、止まる。
優弥は、何も言わない。
言えない。
ただ、わずかに首を横に振る。
それだけだった。
「……は?」
空気が、止まる。
「……やだ」
すぐに否定する。
「やだやだやだ」
首を振る。
「そんなの、おかしい」
言葉が少しずつ早くなる。
「だって、普通だったじゃん」
「朝、普通に話してたし」
「ご飯も作ってて」
「何も変じゃなかったのに」
呼吸が乱れる。
「なのに、なんで」
「なんで急に――」
言葉が切れる。
何かを掴みかけて、掴めないみたいに。
「……やだ」
小さく漏れる。
そのまま、膝から崩れ落ちる。
「やだ……」
手で床を押さえる。
「やだって……」
繰り返す。
同じ言葉を、何度も。
優弥は動けない。
ただ、見ているしかない。
「……なんか」
ふと、夏海の声が変わる。
ゆっくりと、顔を上げる。
目の焦点が、少しだけ揺れている。
「なんか、おかしい」
ぽつりと。
「全部、変」
呼吸が浅くなる。
「うまく言えないけど」
「普通じゃない気がする」
自分の言葉を探すように、途切れ途切れに話す。
「……私」
一瞬、止まる。
「私だけ、ズレてるみたいで」
その一言が、やけに重い。
「ここにいるの、おかしい気がする」
優弥の背筋が、わずかに冷える。
「なんでだろ」
「分かんないのに」
「分かんないのに、そう思う」
手が震えている。
「……ここにいちゃいけない気がする」
「でも、いる」
呼吸が荒くなる。
「なんで」
「なんで、私ここにいるの?」
その問いは、誰にも向いていなかった。
ただ、そこに落ちた。
「……やだ」
小さく呟く。
「やだ……」
そのまま、床にうずくまる。
肩が震える。
声はもう、ほとんど出ていない。
優弥は――
やっぱり、何もできなかった。




