第4章 3話
夏海の呼吸が、乱れている。
浅く、速い。
言葉にならない声が、途切れ途切れに漏れる。
「なんで……」
「なんで……わたし……」
同じ言葉を繰り返す。
意味を持たないまま、ただ流れ出ている。
伸也は、その場に立ち尽くしていた。
何もできない。
声をかけるべきかも分からない。
近づくべきか、触れていいのかも分からない。
ただ、目の前で崩れていく姿を見ていることしかできなかった。
「……夏海」
呼ぶ。
けれど、届かない。
反応はない。
視線も、合わない。
「おい……」
一歩、踏み出す。
だが――
その足が、止まる。
どうすればいいのか分からない。
そのまま、時間だけが過ぎていく。
夏海の呼吸が、さらに乱れる。
身体が小さく揺れる。
崩れる寸前だった。
――そのとき。
玄関の鍵が回る音がした。
ドアが開く。
「……」
優弥が、入ってくる。
コンビニ袋を片手に。
一歩、踏み入れたところで止まる。
視線が、部屋の奥へ向く。
夏海。
伸也。
空気。
そして――
「……あー」
小さく、息を吐く。
視線が一瞬だけ、伸也に向く。
ほんのわずかに細くなる目。
「踏んだな」
短く、それだけ言った。
責める響きはない。
ただ、事実を確認するように。
袋をキッチンに置く。
静かに。
そのまま、歩く。
迷いなく、夏海の前へ。
しゃがみ込む。
「夏海」
低く、落ち着いた声。
反応はない。
だが、優弥はそのまま続ける。
「大丈夫だ」
短く。
「引っ張られてるだけだ」
わずかに肩に触れる。
強くは触れない。
「ここにいる」
「ちゃんと戻れる」
言葉は少ない。
だが、迷いがない。
「呼吸しろ」
「吸って」
間を置く。
「吐け」
一定のリズム。
繰り返す。
夏海の肩が、わずかに反応する。
呼吸が、少しずつ整い始める。
「そう」
優弥は静かに続ける。
「それでいい」
「今はそれだけでいい」
指先で、一定のリズムを刻む。
現実に繋ぎ止めるように。
「こっちだ」
ぽつりと。
「ちゃんと、戻ってこい」
時間が、ゆっくり流れる。
やがて――
夏海の身体から、力が抜けた。
呼吸が深くなる。
視線が落ちる。
そのまま、崩れるように前へ。
優弥が受け止める。
そっと横に寝かせる。
髪を軽く整える。
「……寝たな」
小さく呟く。
穏やかな寝息。
さっきまでが嘘みたいに静かだった。
部屋に沈黙が戻る。
伸也は、言葉を失っていた。
やっと、口を開く。
「……今のは」
優弥は答えない。
代わりに、短く息を吐く。
「……話すつもりはなかったんだけどな」
少しだけ間を置く。
「まあ」
視線を上げる。
「踏ませた以上、知らないままってわけにもいかないか」
伸也を見る。
その目に、軽さはない。
「皆藤」
名前を呼ぶ。
「聞かせてくれ」
一拍。
「お前に」
間を置く。
「俺と夏海の過去を背負う覚悟はあるか?」
空気が張り詰める。
逃げ場はない。
伸也は視線を落とす。
考える。
さっきの光景が、頭から離れない。
知らないままでいる選択は――
もう、できない。
ゆっくりと顔を上げる。
そして。
小さく、はっきりと。
首を縦に振った。




