紅い瞳のルーク・ターレス
奈落の底を想起させるアルル渓谷の底へと、クロミの巨体が猛進していく。垂直に等しい岩壁があっても、わずかな凹凸を利用して軽々と駈け下りていく。少しの衝撃を与えれば呆気なく崩れるであろう脆い岩場や固まった雪や氷が残る箇所もあったはずだが、クロミの動きには何の躊躇も感じられないのに、不思議なことに地表へ一切の衝撃を与えることなく跳ねていった。やわらかなその風のようだった。
完全ではないと言いつつも、これも“守護猫(ケットシ―)”の持つ力なのかと、クロミの背に乗るルークはクロミが跳ねたばかりの岩場を横目に思った。その場所には石のように硬くなった重い雪が残っていて、頭上に落ちてこればまず助からないだろう。そんな箇所はアルル渓谷が深くなるほどに増えていった。
――ナギサはこんなところをひとりで。
メジルが渓谷を目の当たりにして驚嘆したのと同様、ルークもナギサの想いと行動力に驚かされるのだが、その一方で何もしてあげられなかった自分が悔しく、胸が苦しくなるのを感じていた。
いたぞとクロミの声が、ルークの思考を遮断した。
顔を上げると、クロミが岩棚を次々に飛び降りているところだった。
クロミの顔の向きに促されるようにしてルークも先を注視すると、傾斜のついた崖のそばに小さな川が流れ、近くの岩場に人影が映る。
見慣れない二人の男が立ち、一人は禍々しいナイフを手にしている。どちらも山の装備をしていた。物音ひとつ立てずに動けるクロミに気がついた様子もなく、背中を向けたままでいる。
男たちの足元に、ぐったりと横になっている一人の少女が倒れていた。
「ナギサだ……!」
「ルーク、頼むぞ」
「わかった」
みじかいやりとりを交わし、クロミが男たちに向かって猛進した。
クロミが男たちに体当たりを仕掛ける寸前だった。
男たちは後方から迫るクロミの気配に気がつき、素早く飛びさがった。物音を立てないクロミに気がついただけでなく、身のこなし方からしてただ者ではないとルークは感じた。
「気をつけて」
ルークはクロミに声を掛けると、クロミの背から飛び降りて横たわるナギサに駆け寄った。左腕の袖が破れて血を流しているものの、ナギサは気を失っているだけのようで息がある。その傷も、皮膚をかすめた程度のようではある。ルークは安堵するとともに、いそいで治癒魔法をかけて手当てを始めた。
「やっぱり、仲間がいやがったか」
「ガキとはいえ、魔獣を連れてやがるとはな」
「……人間どもよ」
「ほ、獣がしゃべったぜ」
クロミは口の端に炎を溜めながら言った。
男のひとりが目を丸くしたものの、この種の事態にはよほど馴れているのか、それほどクロミに恐怖を示さなかった。
「ナギサを傷つけたことは見逃してやる。ここから立ち去れ」
「その炎よお、脅しのつもりだろうけど、こんなとこで使ったらどうなるか。てめえの方がわかってんじゃねえの。無駄だぜ、無駄」
「……」
「俺たちはミドリヤシを採りにきたんだ。このまま根こそぎ俺たちが持って帰ってくれるのを見逃してくれるのか」
「一部……、数株だけだ。ミドリヤシはアルル村にとっても必要なものだ」
「全部だ。俺たちは根こそぎ欲しいんだよ。アルル村なんぞ知るか」
「いかに強い植物といっても、根を失えば、ミドリヤシはもう生えてこない。無理だ」
「めんどくせえな。獣のくせに」
「どうやら、交渉決裂だな」
もう一人の男が言った瞬間、銃声が渓谷に鳴り響いた。
クロミの黒い身体が宙に躍り上がるとともに、赤い血が舞って地面の岩を濡らした。クロミが重い音を立てて地面に崩れ落ちる。男の一人が向けた銃口から、白く細い煙が立ち上り、邪悪にせせら笑っていた。
「さすが獣、勘がいいなあ。ガキどもを護りやがったか」
「クロミ!」
「ナギサを連れて、逃げろ……」
「この渓谷で、逃げる場所なんてねえだろが。お前らがよくわかってんだろ」
「……やかましい」
クロミは立ち上がっては見せたものの足元がふらつき、声にも力がない。肩付近に銃弾を受けたらしく、右の前足が濡れ足元に鮮血が広がっていく。ルークは目の奥がかっと熱くなるのを感じた。男たちの嘲笑に呼応するかのように、体温が急激に高くなっていくようだった。
勝手にやってきて、人を傷つけても何とも思わない。
恐怖はなかった。
なにが可笑しいんだと、ルークの中で怒りが溢れてくる。
クロミが咆哮し、男たちへと向かっていく。
しかし、まだ完全に回復していなかった状態に加えて先に傷を負い、本来の動きがほとんど出せていないのはルークの目からしても明らかだった。そして男たちも無頼漢とはいってもただ者ではなく、巧みな連携と素早い攻撃でクロミを翻弄していく。クロミはルークを護るためにクロミは受けにまわり、次第にクロミが押されていった。
――いい加減にしろ。
クロミの後ろ足がナイフで斬られた瞬間だった。
悲鳴を上げ、苦悶するクロミの奥で冷笑する男たちの顔と重なり、ルークの中で何かが弾けた。
「いい加減にしろよ……」
慎重にナギサを地面に置くと、ルークはゆらりと立ち上がって男たちを見据えていた。
もし、ナギサに意識があったのなら、普段は澄み切ったルークの青い瞳が、紅に染まっているのを認めていたかもしれない。
ゆらりと揺れた瞬間、ルークの姿が忽然とその場から消えていた。
※ ※ ※
クロミは男たちの攻撃をかろうじてかわし、致命的なダメージは避けられたものの、斬られた後ろ足に力が入らず、膝からどっと崩れ落ちる恰好となった。
「ここまでか……」
ナギサを見つけた時にすぐに離脱できれば良かったが、肩を撃たれたためにそれもできなくなった。
炎が吐ければ男たちも一掃できたかもしれないが、男たちが指摘したように、使えば氷や雪が雪崩を起こして自分たちに襲い掛かってきただろう。
イチかバチか。
男たちを引きつけ、炎で焼き払った後、身を呈してナギサとルークを護る。
極度の疲労と焼けるような痛みのために頭の中が痺れたようで、クロミがようやく思いついたのはそれだけだった。
来いとクロミは念じた。弱弱しい姿を見せて油断した相手を引きつける。最後の力を振り絞ろうとクロミの瞳に、悪鬼を想起させる男たちの笑みが大きくなった時、クロミの横を風と共に影が横切るのを感じた。
「……ルーク?」
クロミが呟いた次の瞬間には、獰猛な男二人が呆気なく地面に叩き伏せられていた。
クロミの目にも何が起きたのか、まったくわからなかった。
ただ、ルークから放たれる闘気と瞳に宿る紅の強烈な光が、クロミの脳裏に古の記憶を呼び起こさせ、全身に粟立つものを感じていた。
対峙する彩王朝の祖と魔族の長。
今のルークは、当時の魔族の長そのものを想起させた。
「クロミ、今、その傷を治すからね」
「あ、ああ……」
ルークが手をかざし治癒魔法をかけると、みるみるうちにクロミの傷がふさがっていく。血のりがぱりぱりと剥がれ落ち、力が入らなくなった足も力強さを取り戻していった。血が止まっただけではなく、クロミの蓄積していた疲労も完全に消えてしまい、この数百年の中でもっとも体が軽くなった気がした。同時に、クロミルークの魔力に驚かされている。
治癒魔法は傷こそ治すことはできても、失われた血や疲労まで回復することは、高位魔法の使い手でもまず難しいからだ。伝説に残るような魔法使いには何名かいるが、今のルークは伝説級の魔力を持っているということになる。
「良かった。傷が思ったより浅かったんだ」
「ルーク、お前は気がついてないのか」
「え、何が」
紅の瞳のルークが怪訝な顔を浮かべた時、呻き声が後方からあがった。
後ろを振り向くと男たちがちくしょうと言いながら立ち上がっている。冷笑が消え、怒りと殺意に溢れた視線をルークに向けていた。それぞれ銃を構え、狙いをルークに定めている。
「せっかく手加減したんだから、そのまま、寝ていればいいのに」
「ガキが、いい気になってんじゃねえぞ」
「いい気になっていたのは、アンタらだろ。卑怯なことばかりやっていたくせに」
「この……!」
銃を放とうとした刹那、すでにルークが眼前へと迫り、引き金を引く暇さえ与えず、手にしていた銃を蹴り上げていた。続けざまに叩き込んだ廻し蹴りが男の側頭部を捉えて、そのまま男は呆気なく昏倒した。距離が空いたもう一人の仲間はさすがに銃こそは撃てたものの、ルークは銃弾を風のようにすり抜けながら突進していった。一気に間合いを詰めると、右の拳からの一撃が男の顎に被弾し、よろめいた隙を狙って強烈な連続攻撃を仕掛けた。
男の顔はみるみるうちにどす黒く腫れあがり、悲鳴すらあげられない。
ルークが跳ねるように跳びさがると、そこには顔面や体中を血だらけに棒立ち状態となった男の姿が現れたが、だんだんと前のめりに首をたれるような恰好で倒れていった。クロミもルークを援護するつもりでいたのだが、その隙さえ与えないあっという間の動きだった。
男たちが完全に意識を失ったのを確認すると、ルークは安堵の息を漏らし、穏やかな笑顔を浮かべながら戻ってきた。何事もなかったかのように汗ひとつかいていない。気を失っているナギサを抱きかかえると、意外と軽いななどとルークは呑気に呟いている。やはり自身の変化に気がついていないのだとクロミは思った。
「早く、ナギサを連れて帰ろうよ」
「あ、ああ。そうだな」
「あの人たちは、あのままにしといて、後のことは村の人に……」
ナギサをクロミの背に乗せたところで、ふっとルークの言葉が途切れた。
紅の瞳が青い瞳へと戻ったところをクロミは捉えていたのだが、そこでルークの体が急に揺らぎ始め、糸が切れた操り人形のように崩れ落ちていった。クロミが咄嗟に尻尾で支えたから良かったものの、遅れていれば顔を岩場に打ちつけていただろう。背中のナギサを落とさないよう、慎重に体を動かしルークの様子を窺うと、小さな寝息が聞こえてきた。
「力を使い果たしたのか」
正解かどうかはわからなかったが、クロミは自分の答えで自分を納得させることにした。
考えるのは後だと、クロミはルークを背に乗せてからナギサのリュックを口に咥え、アルル渓谷の崖を駆け上がって行った。変化した長い体毛で落ちる心配はないはずだが、鋭利な垂壁に険しい岩場が続くアルル渓谷では、さすがの“守護猫(ケットシ―)”もいささか慎重になる。広めの岩棚にたどり着いた時、ほっと安堵するとともに思い出したものがあって、クロミは谷を見下ろした。
――そう言えば、交渉決裂と貴様たちは言ったな。
クロミの表情は一変し、向ける視線はひどく冷たいものとなっている。
クロミは咥えていたリュックを下すと小さな唸り声をあげた。視線の先には、気を失って横になっているならず者たちの姿がある。ルークは気を失わせただけで済ませたが、主を傷つけた者に容赦をするつもりなどクロミにはない。見逃そうとしたのは、自身の体が完全ではない不安からだ。
「貴様たちが、私たちに仕掛けたこと。そちらに返すぞ」
クロミは尻尾を振り、勢いよく傍の氷壁へと叩きつけた。
重い衝撃が壁に奔ったかと思うと、衝撃によって砕けた巨大な雪片や岩、氷の塊が怒涛の勢いで落下して、男たちへと一気に向かっていく。轟音と激震とともにならず者たちを無慈悲に押しつぶすと、噴煙のような白い煙が渓谷の底から立ち昇っていった。やがてそれも散って消えてしまうと、男たちがいたその場所は、氷や雪で覆われてしまい完全に見えなくなってしまっていた。
「これで終わったな」
クロミが起こした雪崩のために、もはや人が踏み入れる余地など残っていないが、今だけの話だ。これから夏にかけて雪や氷も解け始め、大量の豊かな水が肉の塊となったならず者たちを下流へと洗い流してくれるだろう。だが、ミドリヤシは激流に耐えて再び地表に顔を出す。
夏になれば、ますます美しく生い茂るだろう木々に田畑。
自然とともに生活を営むアルル村の人々。
陽の下で汗を拭きながら、山に出掛けるナギサの姿や、後ろについて歩くウロスとクロミ自身。
ミドリヤシから連想しクロミの脳裏に思い出が次々に浮かび上がると、不意にクロミの胸に衝動がはしるのを感じた。今日、護られたものがとてつもなくかけがえのないであるように思えた。これまで激動の時代を、何度も経験してきたはずなのに。
ルークの正体など、今はどうでも良かった。
勇気と力がナギサを、自分たちを救ってくれた。
「ありがとう、ルーク」
クロミは寝息を立てているであろうルークに声を掛けると、ナギサのリュックを咥えなおして堅牢なるアルル渓谷を駆け上っていった。




