それぞれの使命
おむすびを食べた休憩地点から数時間は過ぎただろうか。
ルート図に従ってようやく最下層となる最終の休憩地点となる岩棚まで到着したけれど、ひどく寒い。
お日様が照らしていた場所は暖かさも残っていて、ところどころ草木もたくさん生い茂り菜の花だって咲いていたのに、下層まで降りると周りはごつごつとした岩肌ばかりで、不気味な暗さが広がっているだけでなく気温もまるで違う。
寒さに強いはずの木繊服を着ていても、寒さが少しずつ衣服に染みこんでくるような感覚がある。防寒には十分なはずの皮手袋をしている手もかじかんで、作業をする際にはいちいち指先を揉んで温めないと、安心して次の作業に移れない。
それだけじゃなかった。
なにかのちょっとした弾みでキラキラと光る岩壁に衝撃が奔ると、突然轟音を立てて巨大な氷の刃が落下していく。そして上から流れてくる水が溜まり、新しい氷をつくりだしていく。不用意にボルトやハーケンを打ち込むなどしようものなら、当然、氷の刃が私の頭上に襲い掛かってくるだろう。
これが、外からの侵入を許さないアルル渓谷の恐ろしさなんだって、改めて思い知らされた気がする。
でも、ここまで来たのだ。
私一人で。
そこまで思うと、不意に熱いものがこみあげてきて、思わず泣きそうになってしまい慌てて顔を拭った。
泣くのはまだ早い。
ミドリヤシを手に入れて、ちゃんと帰って、それをルーク君たちに運んでもらってから。
そして……。
そして、クロミにも謝ってからだ。
クロミにはひどいこと言っちゃったから。
私は気持ちを引き締め直して、ヘッドライトを点灯させて周囲を見渡した。
暗いといっても洞窟のように完全に闇ではないけれど、やっぱり視認が不十分なくらいに薄暗い。現在の岩棚から下は緩やかな傾斜となっていて、麓には小さな川が流れている。まだ氷が解けきってないので、渓谷の水も少ない。
これから氷が完全に解けると私が今いる岩棚まで水に浸かり、夏から秋になりかけた頃に落ち着いて今みたいに小さな流れに戻る。本来のミドリヤシの採取時期はその頃だ。私は慎重に岩場を下りながらしばらく周囲を探っていると、川を越えた岩場に緑一面広がっているところをみつけた。
目を凝らすと、白く小さな花のようなものが至るところに咲いている。
「あれって、もしかして……」
私は急いで川を渡った。
雪解け混じりの水は氷のように冷たかったけれど、そんなこと気にしていられない。
「あった……!」
近づいてよく見ると、岩を絨毯のように覆っていたものは明らかに苔で、苔から小指の爪ほどした小さな鈴にも似た白い花を無数に咲かせている。これまで乾燥させたものしか見たことがなかったけれど、特徴的な形状をした花のおかげでその正体が何か一目でわかる。
私が求めていたミドリヤシ。
だいぶ前に、お父さんたちから苔から生えているのは花じゃなくて胞子だと教えてくれたけれど、可愛らしい見た目からしても、やっぱりどう見ても花にしか見えないな。私はリュックからヘラを取り出すと、岩から削るようにしてミドリヤシを次々に採取した。お父さんの手紙にはどれくらいの量が必要か書かれていなかったけれど、多い方が良いに決まっている。私は全部持って帰るつもりで、夢中に作業へ専念していた。
これで、お母さんも元気になる。
また、前みたいに一緒に暮らせるようになるんだ。
一緒にご飯食べて、一緒に山に登って、いたずらしたら叱られて。
でも、私はもうしっかりしてるもの。
一人で家のこともできているし、薬草採りをしてつくった薬草も近所の人たちに喜ばれている。
何よりも、大人たちだって怖がるアルル渓谷を、ひとりで降りたのだから。
そんな風に、夢中でミドリヤシを採っているはずの私の手が、ふっと止まった。はじめはなぜ止めたのか自分でもわからなかったけれど、次に岩を踏みしめるような複数の足音が届いて、その音が私の手を止めさせたのだと気づいた。
私が咄嗟に立ち上がると、薄暗い闇の奥に2つほどの影が盛り上がった。それは人の形となって、そのひとつがあれえと高い声をあげた。
「なんだよ。この時期には、誰もいねえはずじゃねえのかよお」
どちらもゴーグルをつけた若い男の人で、身なりは山登りの恰好をしているけれど、装備品も村のものではなく、話す言葉もトウマさんたちとトーンが似ていて、明らかに外部の人間だ。肌の色も陽に焼けているけれど、目の周りやちらちらと見える衣服の下の肌が不自然に白かった。長い間、山を登ってきた人たちなんだろうけれど、それだけならこれほど驚かなかったかもしれない。私は2人から流れてくる異様な空気が私の身体を固くしていた。二人は鋭い眼光で私を睨みつけていたが、やがて辺りを用心深く探り始めた。
「このガキひとりだけか」
「いや、渓谷の氷がまだ溶けきってねえし、ここにガキ一人で渓谷を降りられるわけがねえ。俺たちだって、下流からここまでたどり着くのに3週間以上かかったんだぜ」
「だとすると、仲間が近くにいるはずだな。どうする?」
「どうせ嘘つくにきまっているし、聞きだすのもめんどくせえから、始末しちまおうぜ。ガキの仲間は見つけた時にヤっちまえばいいさ」
「それもそうだな」
「死体は刻んで、川に流しちまいな」
晩御飯を何にするかだとか宿題どうしようかだとか、二人はそれくらい軽い口調の会話を顔色も変えずにかわしている。おそらく盗掘や山を荒らすことを仕事にしている人たちで、その中でも人を殺すことになんのためらいもない人たち。
私は手にしたミドリヤシを持ったまま咄嗟に背を向けて走りだすと、乾いた銃声とともに左腕に鋭い痛みがはしった。突き飛ばされたように地面に転んでしまい、立ち上がろうとしたけど、痛くて力が入らなかった。見ると、左腕の二の腕付近から血が流れている。
ばかと男の舌打ちする声がした。
「ばかだな。こんなところで銃使うんじゃねえよ。仲間に気づかれちまうだろ」
「大丈夫だって。こんなとこじゃ魔法もろくにつかえねえから。氷の下敷きになっちまう」
「銃弾がもったいねえだろ。帰りもあるんだから節約しな」
「へいへい」
肩をすくめて、もうひとりの男が腰からナイフを抜いた。
ナイフというか、牛をさばくように分厚い刃をしている。ゴーグル越しに私を見る瞳は冷たく、口の端に浮かべる冷笑は、これから自分が行う作業を楽しんでいるように思えた。
助けて。
じりじりと男から放たれてくる殺気のようなものが、私の身体を押しつぶそうとしている。
何とか逃げようと身体を動かそうとしたけれど、足が震えて力が入らない。
痛くて怖くて、もううごけない。
……ルーク君。
お父さん、お母さん。助けて。
助けて、クロミ。
※ ※ ※
渓谷の底から響いた銃声に、ルークとメジルは注意深く渓谷の底を探っていたが、光が届きにくいために暗闇ばかりで何も確認することができなかった。
本来数時間はかかるとされているアルル渓谷までの道を、ウロスのおかげで数十分ほどしてアルル渓谷まで到着することが出来た。
しかし、ナギサの姿はない。
引き返したのではないかとルークは思ったが、メジルは地面や打ち込まれたハーケンの様子を見ながら「いや」と否定した。ルークにはわからないことだったが、メジルにはナギサが渓谷を降りたというのがわかるらしい。至る所にナギサがいた痕跡が残っているのだという。ナギサが食事をしていた休憩地点では、火の後や弁当がらに、地面についたロープの擦れた痕などを示して説明してくれたが、そこから先は腕組みをしてメジルは考え込んでしまっていたのだ。
自分の技術の限界に加えて、未経験のルークを連れて降りる危険。
応援を待つか、危険を承知で進むか。
ルークは山登りこそ未経験であっても長旅に慣れているだけに呑み込みが早く、メジルにしても意外と頼りがいのあるパートナーと感じている。しかし、両親のために思いつめたナギサよりも冷静である分、これ以上はよほど準備をしないと先に進めそうもないとメジルは判断していた。
――ナギサのバカ野郎。
一人で渓谷を降りて行ったナギサの度胸に驚嘆するものの、同時に、後先を考えない無謀な行動にメジルは激しく舌打ちした。
そんな風にメジルが考え込んでいた矢先、渓谷の底から銃声が鳴り響いたわけである。
「見えるか?」
隣で同じく渓谷の下をのぞき込んでいるルークに問うと、ルークはいやと首を振った。
「ナギサ……かな」
「まさか。猟銃は反動が大きすぎて一発撃ったら、ナギサの方が転がされまうよ。まともに当たらない」
「じゃあ、誰か別の人てことか」
「……」
ルークとメジルの目があった。互いに目を見開き、表情は強張っている。陽に照らされて額の汗が光を反射させていたが、汗が流れているのはここまで体力を使ったせいだけではないだろう。渓谷の底から聞こえた銃声。底にいるはずのナギサと正体不明の誰か。ルークたちの胸に異様な胸騒ぎがしていた。
「……ナギサが、危ない」
ルークの胸元からクロミの細い声がし、顔を出すと弱弱しい足取りで地面に降りた。足に力がなく降りた時もその場に倒れそうになっている。それでもクロミは渓谷に向かって歩き出している。
「クロミ、どこにいくつもりだい」
「ナギサが助けを求めている。行かなきゃ」
「行くてどうやって。それにそんな身体じゃ……」
「ナギサの心が、主の心が召喚獣の力になる。まだ完全じゃないけれど、助けにはいけるわ」
突如、クロミの身体から金色の光が放たれた。
光は次第に増幅しながら宙に浮き、呆然と見守るメジルやルークの背丈をはるか越えていった。
光の中でクロミと思しき影も、小さな黒猫だったものが巨大な四足獣へと変異していく。やはて、その光が完全に消失した時、元がクロミだったものとは想像もできない長く黒々とした毛を逆立てた一匹の魔獣がそこにいた。
「クロミ。それが君の、“守護猫(ケットシ―)”の本当の姿なのか」
「そうだ。古の時代、オフェミルカ家の主を護るために召喚された“守護猫(ケットシ―)”。これが私の真の姿だ」
クロミとは似ても似つかない低い声がした。
クロミが発した言葉にメジルが後ずさりした。
「クロミが人の言葉を話した……?」
「メジル、クロミの言葉がわかるのかい」
「この姿になれば、私の言葉は、その他の人間にもわかるようになる」
「……」
「こんな姿は見せたくなかったのだが、この危機だ。メジルよ、ここまで連れてきてくれた君の勇気に感謝する。ナギサと良き友達でいてくれたことも。本当にありがとう」
「……」
全身の毛が逆立ち、不気味なシルエットをしているクロミの細めた目には、優しさが溢れていた。メジルの脳裏にはいつもナギサに寄り添い、じゃれている時のクロミが浮かびあがっていた。クロミの謝辞にメジルは返す言葉もなく、涙を溜めながら、ただ激しく頷くことしかできない。そのまま背をむけるクロミにルークが待ってと声を掛けた。
「クロミ、僕も連れていけ」
「ここからは私がするべきことだ」
「クロミの今の動き、どうみても万全とは思えない」
「……」
「相手がどんな奴かはわからないけれど、僕なら多少の力になれるはずだ。君に見せられたのが、弱ったワイバーン相手だったけれど」
「……」
「あれだけでは、頼りにならないかい」
「……いや、あれで十分だ。乗ってくれ」
「なら、俺も行くよ。手伝わせてくれ」
ルークがクロミの背に飛び乗ると、メジルが必死の形相で両手の拳を握り締めながら駆け寄ってきた。だが、クロミが答えようとする前にルークが首を振ってメジルを制した。
「ごめん。メジルの気持ちは嬉しいけれど、ここから先はだめだ」
「なんで俺はダメなんだよ」
「君は山の知識は豊富だけれど、戦いの経験がない。しかも相手は銃を使うような人間だ。そんなところへ君を連れていくわけにはいかない」
「じゃあ、なんでお前が行くんだ」
「“配達士”だからだよ」
「……」
「ナギサが治療に必要なミドリヤシを両親に届けようとしている。彼女のミドリヤシを無事に届けないと」
「……」
「トウマさんほどじゃないけれど、魔物だけじゃなく人との戦いの経験もある。だから僕がいく。メジルは戻って、みんなと合流して状況を知らせてくれ」
「……わかった。力になれなくてごめんな」
「何を言ってんだよ。君がいたからここまで来られたんじゃないか。クロミもそう言ったろ」
メジルはクロミに視線を移すと、やはりメジルに向けられている瞳は優しい。穏やかな笑みを湛えているようにも思えた。メジルはゆっくりとルークたちから離れると頼むぞと絞り出すような声で言った。ルークは無言であったが、握り拳を示すと、後はクロミとともに渓谷の底へと向かっていった。
渓谷の底へと消えていくルークたちを見送りながら、メジルの胸中に無力感と忸怩たる思いが胸を浸してきたが、クロミやルークの言葉を思い出すと、自分の両頬を張って自らを戒めた。
――俺には、俺のやるべきことがあるんだ。
メジルはすばやく荷物をまとめて、地上に戻る準備を始めていた。




