俺はルークを信じるぜ
ナギサの家の前まで来た時、ルーク・ターレスは違和感を覚えて、尖った茅葺き屋根の家屋を眺めていた。屋根越しに太陽がちらつき、ちらちらと差してくるまぶしさにルークは目を細めた。
村長に場所を教えてもらって、ルークがナギサの家に訪れたのは、その日の昼を過ぎてからだった。昨日のナギサの様子が気になり、別れた後も何度か家を訪ねようとしたのだがミッフェルが遊びに来て、迫るようなアプローチから逃げるのに必死であったし、なによりもナギサの家への訪問にはためらいがあって、グズグズしている間に昼となってしまったのである。ルークは昼になっても迷っていたのだが、手紙の収集期限が明日までということを思い出して、ようやく決心がついたわけである。
時間というものは、自分が思っているほど有り余っていない。
昨日、寂しげなナギサの背中を思い出して、声を掛けなかった自分に後悔していたわけだが、ナギサの家の不審な様子に、それまでの後悔も緊張感もどこかに消えていた。
「ナギサ……?」
玄関の戸を何度か叩いたが、返事がない。
昼ごろには帰っていると言っていたので、まだ山にいるのだろうかと思ったがそれも違う気がした。何故だろうと思っていると、馬のいななきがルークの耳にまで届き、ようやくその違和感の正体に気がついた。庭を覗くと、馬小屋には馬のウロスがいる。山に出掛けているなら、頼りにしているというウロスは必ず連れて出ているはずだった。
「ナギサ、いるのかい、ナギサ!」
レースのかかった窓を覗きながら玄関に戻り、今度は強めに呼びかけながらドアを叩いたが、やはり返事がなかった。窓から覗いても人影がない。礼儀に反すると少し迷ったが、思いきってドアノブを回すと、あっさりとドアが開いた。慎重に屋内を覗くとキッチンと、四人掛けのテーブルがあって、その陰に隠れるようにして、何か黒く小さな毛が横たわっているのが見えた。一瞬、掃除道具か何かと勘違いしてしまうくらい、力なくぐったりとしていた。
「そこにいるの、クロミ……かい?」
恐る恐る声を掛けると、体が小さく揺れると同時にチリンと鈴の音が鳴った。クロミはルークの声に反応して起き上がったものの、ひどく緩慢な動作だった。
「なんだ……。あんたか」
「いったいどうしたんだい。もしかして、風邪かなにか?」
「風邪、ね……。たしかに風邪と似ているかもね」
「どういうこと」
「私らみたいな召喚獣はね、主の言葉と心の声が大きく影響してくるのよ。ナギサに言われた要らないという言葉は、本当に堪えた……」
消え入りそうな息を吐きながら、クロミが言った。主人と召喚獣の関係がいまひとつルークにはわからなかったが、ナギサとの間に何事かが起きたことは伝わってきた。
「ナギサはどこに」
「行っちゃったわよ」
「どこに」
「アルル渓谷に決まってんでしょ。昨日の夜、止めるのも聞かずに一人で行っちゃった……」
そこまで聞けば十分だった。
ルークはクロミを抱きかかえると、急いで家から飛び出した。
ナギサを止めなければならないが、既に渓谷を下っている可能性も十分にある以上、村からも人手を出してもらわなければならない。だが、人を募るにも時間が掛かることが予想され、一刻も早くナギサに追いつかなければ何か起きた後では遅すぎる。どうすると唇を噛みしめながら表に出ると、大勢の人の気配がし、顔を上げると近くの村人たちがナギサの家の前に集まっていた。ルークの訪う声の様子から、不審に思って集まってきたらしい。
村人たちを代表するように、エプロン姿の主婦が胡散臭げに顔をしかめて、外から走りだしてきたルークに声を掛けてきた。
「あんた、“配達士”さんと一緒に来た子だろ。ナギサちゃんの家で何してんの」
「おばさん、ナギサが大変なんです。人を集めてください」
「え?」
「昨日の晩からアルル渓谷へ一人で向かったらしいんです。早く追いつかないと、事故があったら大変なことに……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なんであんたがそんなことわかるんだい」
「クロミが教えてくれました。ミドリヤシを採るためだって」
「クロミが?」
女は呆気にとられたように、ルーク腕に抱えられているクロミを見比べていた。やがて小さく笑い声をあげたが、突拍子もない話に聞こえたのか、女の笑い声はぎこちなく強張っていた。
「ナギサちゃんはよく、クロミと話をしていたけどさ。なんで赤の他人のアンタに猫の言葉がわかるんだい」
「そんなの僕だってわかりませんよ。でも、クロミの言葉がわかって、クロミがそう教えてくれているんですよ。ナギサがいつもクロミと話をしているところを、あなたたちだって見ているはずでしょ」
「ナギサはともかく、なんで他所のあんたがわかるんだて言ってるだろ」
「だから……」
わからずやとルークは心の中で激しく舌打ちしたが、これ以上の説明しても同じ問答を繰り返すだけだと思い直し、とにかくと言葉を切った。
「追いつけるかわかりませんが、僕がナギサを追いかけます。その間、早く人を集めてください」
「急にそうは言ってもねえ……」
「信憑性ないのに、あの渓谷に近づくのはなあ」
「だから、そんな場合じゃないって……」
ルークの必死な形相に圧されてか、当初のルークに対して向けていた不審な感情は和らいだものの、ルークのもたらした話自体には戸惑いや黒猫の話という信じがたい部分があったし、渓谷に対する畏怖も混ざって大人たちの反応は一様に鈍かった。一向に埒があかないことにいら立ちや焦燥の念に駆られ、自分だけでも行こうと思っていた時だった。大人たちの集まる人垣の奥からルークの名を呼ぶ声が響いた。
「ルーク、俺も行くぜ」
人垣を割って現れたのはメジルだった。どこかで話を聞いていたのか、メジルは革のヘルメットをかぶり、リュックやロープを背負って、すっかり出発の準備を整えてしまっている。リュックには一人分のヘルメットや手袋が垂れさがっており、どうやらルークが大人たちと話している短時間でルークの分まで用意したらしかった。
「何も準備なしじゃ、さすがに無謀だ。俺は山登りに関しちゃ、ナギサよりも自信がある。ま、あいつは負けず嫌いだから村一番と威張っていたけどな」
「いいのかい」
「任せろ。おめえには助けられているしな。その借りは返さねえと、俺が悔しいからよ」
「ありがとう。助かるよ」
手を差し伸べるルークに、メジルは大袈裟だと照れくさそうに笑いながら手を振った。だが、一連の様子を眺めていた大人たちには、単なる微笑ましい光景には思えなかったようである。ルークに詰問してきた女が血相を変えて、メジルに詰め寄ってきた。
「メジル、なにバカなことを言ってんだい。子供があんな危険な谷に近づくんじゃないよ。あんたもわかってんだろ」
「母ちゃん、そんな場合じゃねえだろ」
女はメジルの母のようだった。青い顔をしている母の視線を、メジルは真正面から受け止めていた。
「ナギサの姿は、今朝から俺も見掛けてねえ。毎日早起きして山に行っている奴が、ウロスやクロミを置いて出掛けるなんて変だと思ってんだ」
「でも、なんの証拠もないじゃないか」
「ルークは自分にしか扱えない特殊な剣を持っている。そんな魔力を持っている奴がクロミと話せるなんて、不思議でもねえだろ。それにな、母ちゃん」
メジルはまっすぐに母を見据えながら、自分の胸を叩いた。一度も目を逸らさなかった。
「俺は男だよ。大人が誰も動かねえんだ。子供だろうが大人だろうが関係あるかい。男として俺は行くぜ」
雄弁というわけではなかったが、熱のこもったメジルの言葉と態度に母は言葉を失い、周りの大人たちも誰も声をあげられないでいた。
村人たちが沈黙する中、突然、メキメキと重く異様な音が鳴り響いた。音はナギサの家の庭からし、ルークたちは驚いて振り向くと、馬小屋が崩れ落ちていくのが見えた。もうもうと白い粉塵が馬小屋のあった場所に立ち込め、呆然と見守る中、煙を割って中から現れたのはウロスだった。長いたて髪が炎のように逆立ち、巨体をゆらしながらのっそりと歩いてくる。異様な迫力に村人たちが息を呑んでいたが、やがてルークの前で止まると、ウロスが小さくいなないた。
「オレ……、モ……イク。ノ……レ……」
「あんた、まだ喋れたんだ」
クロミがいつもの皮肉めいた口ぶりで言ったが、どこか嬉しさも混ざっているように聞こえた。
「それよりも、あんた走れるの」
「ケイ……コク、マデナラ、イケル」
「お願いできますか」
「ナギサノ、タメ……。マカセロ」
ルークはクロミを自分の懐に入れて飛び乗ると、続いてメジルがウロスの背に跨った。ウロスの背中は広く、鞍に跨っているのと似た安心感がある。乱れた長いタテガミも、手綱代わりに捕まるには十分の長さがありそうだった。その間、村人たちは声を掛けることすらできず、ただ茫然と見守りだけしかできなかった。ルークが明らかにウロスと意思疎通ができるやりとりをしているのを目の当たりにしたというのもあるし、普段、老いた農耕馬と認識していた馬が突如迫力を増し、その姿に気圧されてしまったというのもある。
みなさんとルークが馬上で叫んだ。
「これから、アルル渓谷に向かいます。早く村長さんに知らせて、谷に降りられる人を集めてください!」
ルークはウロスの首元を叩いて合図を送ると、ウロスは馬首をめぐらし駆け出した。地響きが鳴るほどの重い馬蹄音で、黒い巨岩が転がり落ちてくるような迫力に、村人たちは慌てて脇に避けた。鈍重だと思っていた農耕馬が、疾風のような勢いでみるみるうちに遠ざかっていく。村人たちがようやく村長へ報せなければと気がついたのは、ウロスの姿が完全に見えなくなってしばらく後だった。
※ ※ ※
岩棚でおむすびを食べ終わった後、私は四方を取り囲む岩壁を見渡し、次に渓谷の底をのぞき込んだ。
渓谷の底は太陽の日差しも満足に届かないというけれど、そこかしこでキラキラと反射しているのは、残っている氷が鏡のように光を反射させているからだろう。こんな時じゃなければ綺麗だと思っていただろうけれど、私が見たいのは景色じゃなくて、打ち込まれたハーケンやボルトの位置だった。この岩棚にも安全確保のために、いくつかボルトが打ち込まれている。村の大人たちが、長い間を掛けてつくってくれたルートのひとつで、そのおかげで私はひとりでもここまで来られた。
はじめはなだらかな傾斜が続いて、クライムダウンの姿勢になる箇所がせいぜい一か所あっただけだったのに、気がつくとお城の城壁みたいに高い岩壁が私の周りを取り囲んでいる。まるで、私を見下ろしているみたいだ。
といっても、私が今いる地点までは、温かな日が差しているから氷もすっかり溶けてなくなり、厳めしい岩肌に草木が多く生い茂っているところもある。
問題はここから先だ。
岩棚から見下ろす先は申し訳程度の傾斜があるだけで、凄みのあるほぼ垂直の世界が広がっていた。
「ええと……」
私は、リュックから折り畳んだ紙を取り出して拡げた。
それはアルル渓谷のルート図で、山登りの教材として先生役の人から配られたものだ。本来なら、実戦はもっと大人になってからやるものらしいけれど、こんな時に役に立つとは思わなかった。深く暗い世界が広がる渓谷に目を凝らし、ボルトやハーケンの位置を地図と見比べる。
右手には巨大な一枚岩があって、まったくの垂直の壁。
左手も似たようなものだけれど、ルート図によると途中に岩の割れ目や凹凸があるらしい。休める場所もありそうだった。ルート図通りに進むとかなり遠回りになりそうだけれど、行くとしたら左手のルートしかなさそうだった。よく見れば、私の想いを反映したように渓谷へと挑み、大人たちが遺してくれたボルトやハーケンが所々岩壁に打ち込まれている。
足元に打ち込まれているボルトは、触れても微動だにしない。
人々の想いがそこにある。
それが安心感となり、私への勇気となった。
「よし」
私はぴしゃりと頬を叩いて、気合を入れ直した。
不気味な闇が広がる渓谷の底。
でも、その闇に笑っているお父さんやお母さんの姿が浮かぶと、恐怖や不安はどこかに消えていた。




