彼の声
アルル山脈からひょっこり顔を出したお日様も、随分と高くなっていた。冬が消えた後の今の季節、夏よりお日様のほんの少し低い角度からして、だいたい正午といったところ。
「今日はこんなところかな」
私は平らで小さな岩に腰掛けて、総菜入りのおむすびを頬張りながら、籠に積まれた薬草を眺めていた。
センブリにアカネにホオノミ、ヘビイチゴ。
川辺に住んでいるタタナばあちゃんが最近、おなかの調子がよくないと言っていたから、ゲンノショウコなんて大喜びするだろう。薪も十分な量になったし、網には弓で仕留めた山鳥も二羽入っている。山中なのに大漁と言ったらおかしいけれど、今日は上出来な一日だった。
「あー、好い天気」
朝とはまるで違い、すっかり暖かくなった空気や明るく和やかな森の景色が、私の心を弾ませる。
近くでウロスはのんびり草を食んでいて、クロミはモンシロチョウをふらふら追いかけている。相変わらず手伝いもしないクロミだけど、いい結果とあたたかなお日様と、美味しい弁当のおかげで微笑ましい気持ちになっている。お弁当が終ったら、あとは荷物をまとめて帰るだけだ。
「あれえ、ナギサじゃん」
「ふえ?」
森の奥から人声がして、声がした方へと視線を向ける、木の陰に複数の人影が浮かんだ。その影で私と変わらない背丈や、聞き慣れた声で誰だかわかっている。慌てる必要もないので、私は口を動かしながら近づいてくるのを待っていると、やがて、森の中から籠を背負った3人の男の子たちが姿を現した。
やっぱりあいつだ。
「こんなところでサボってんのかあ」
「サボってんのはアンタでしょ。メジル」
「俺はサボってんじゃねえぞ。ちゃあんと薪拾いに来たんだからよ」
「ここまで来て、その籠、随分と空っぽだよね。忙しそうですこと」
「うっせえな。山の見廻りも兼ねてるから、帰りに拾ってくんだよ」
相変わらずの憎まれ口を叩いて、メジルはべえと舌を出した。
メジルは私と同い年で、私の家から、ほんの数軒先に住んでいる。
威勢が良くて喧嘩早いから、村ではガキ大将をやっていて、いつも今みたいに男の子たちを子分みたいにいつも引き連れている。けれど、威勢が良いのは口だけで本当はいくじなしなのを私は知っている。私は口に出してまで言わないけれど、メジルのこうして無理している感じだとか、威張っている姿を見せつけられると馬鹿だなあとは思ってはいる。
そんなメジルは、ここで飯にしようぜと威張りながら仲間に命令していた。
「よお、クロミ。元気かあ」
「にゃあにゃあ」
メジルはクロミがお気に入りで、見掛けるとよくかまいたがりにいく。だけど、クロミはメジルが近づくのに気がつくと、鈴を鳴らしながらさっと逃げて行ってしまう。
私以外、村ではクロミの言葉がわからないので、メジルにもクロミの可愛らしい鳴き声しか聞こえないはずだけど、実際には「気安く私に触れるんじゃないわよ」と、けっこうきつい言葉を吐いているのは私だけの秘密。
「また逃げちゃった。クロミって俺になつかねえよなあ。けっこう餌あげているのに」
「あんたが乱暴に扱うからじゃないの」
「俺はゴンスケやサイゾーをいじめたことねえもん。父ちゃんにもすっげえ叱られるからさ。他の猫はけっこうなつくのにさ」
ゴンスケやサイゾーとは、メジルの家で飼っている老犬や馬の名前。家畜は乳をだしたり、変なことがあったら報せてくれたり、畑を耕したり荷物を運んだりと私たちにとって大事な家族でもあるから、いくら乱暴者のメジルでもいじめたりはしない。
「“守護猫(ケットシ―)”だもん。他の猫とは違うのよ、きっと」
「“守護猫(ケットシ―)”ねえ。見た目は小さな黒猫にしか見えないけどな。あれで、数百年以上生きているんだろ」
「らしいよ。それっぽいとこ見たことないけど」
「ふうん」
メジルは不審そうに首をひねっていたが、その気持ちはわかる。
クロミは“守護猫(ケットシ―)”とは村の誰もが知っていることだけれども、その力を見た人は私を含めて誰もいない。
長老たちも知らない。
元々は私のご先祖さんが村を守るために連れてきたらしいけれど、クロミが何も言わないから全然わかんない。ただ、どこそこの厳しいおじいちゃんは小さい頃泣き虫だったとか、昔、誰それは付き合っていたとかという村の面白い話は、時々聞けるけれど。
「じゃあ、私はそろそろ帰るね」
おむすびを食べ終わったので、私は弁当がらを片付けた。空の陽を見ると先ほどよりほんのわずか、西に傾き始めている。午後1時といったところで、おしゃべりしている間、思ったより時間が過ぎてしまったようだった。
「なんだ、もう帰るのかあ」
「帰ってから、まだ仕事があるのよ」
メジルと違ってねという言葉が喉まで出掛かったが、さすがに嫌味になるから言葉を飲み込んで、後は黙々と荷物をまとめてウロスに背負わせた。あとはクロミを探すと、クロミは手ごろな岩に背中を擦りつけていた。クロミを呼ぶと、鈴々と鈴の音を鳴らしながらとことこやってくる。
やっぱり、小さな黒猫にしか見えない。
いつもなら、私の肩かウロスの背中に乗ってくるところなのだが、時でも止まったかのように その足と鈴の音がぴたりと止まった。森の奥、メジルや私がやってきた方向とは正反対の方向をじっと見つめている。
「クロミ、どうしたの?」
「……なにか、いる」
「なにかって何よ」
「この感覚……。敵よ」
逃げなさいとクロミが低い声で言った矢先、森の木々が割れた。太い幹や枝をかき分けるように、その奥から不気味な黒い影が膨れあがっていた。緑色の身体に口や手足から伸びる鋭い牙や爪、黄色く光る両目には刃のような鋭い瞳があった。後方で男の子がワイバーンだと小さな悲鳴を上げる声がした。
「なんでこんなところに」
「寒さに弱いから、アルル村には来られないはずだろ」
メジルが震えながら叫んでいたけれど、現れたワイバーンの姿を見てなるほどなと納得してしまえる余裕が、なぜか私の中にあった。
ワイバーンの全身にはいたるところに傷跡があって、それも相当古い。皮膚にもハリがなくしわしわにたるんでいた。背中の翼も折れていてまともに飛べるとは思えない。右足も重そうに引きずっていた。多分、相当な年寄りのワイバーンで、群れから外れたか追い出されたかわからないけれど、一匹オオカミとなったのだろう。一匹オオカミと同様、弱い生物や死骸を漁りながら生き続け、生活がしにくくても敵のいないここまで逃げてきたのかもしれなかった。
弱ったワイバーンとは言っても、私たちにとっては恐ろしい相手には変わりない。
それどころか、お腹を空かせた老いたワイバーンにとって、私たちは絶好の獲物なはずだった。大人たちなら魔法で退治できるだろうけど、今の私たちは魔法も未熟で何もない。
「メジル、みんな。逃げるよ!」
動作は緩慢だし負傷した重い足では、私たちを追ってこられないだろう。
荷物も諦めるしかないけれど、みんなを乗せても逃げ足ならウロスの方が速いはずだ。
だけどメジルたちは動かなかった。
動けなかったという方が正しいのかもしれない。初めて目の当たりにするワイバーンに呑まれて、すっかり腰を抜かしてしまっていた。老いた獣たちが弱い獲物を狙うのもこういったところだ。
「ナギサ、あんただけでも逃げなさい!」
「そんなわけにはいかないでしょ!」
「あんたが逃げてくれないと、アタシの力が出せないのよ!」
「クロミこそ何を言ってんのか、わかんないよ!」
クロミに対して怒鳴り返すと、私は矢をつがえて咄嗟にワイバーンに向かって放っていた。
いつ、私が弓矢を取ったのか自分でもわからなかったけれど、飛んでいる山鳥だって仕留めた矢だ。放った矢はワイバーンの右目に突き刺さって、ワイバーンは絶叫しながらもんどりうった。
「さあ、今のうちに」
「うう……」
私はメジルたちを立たせたけれど、その時にはもうワイバーンも立ち上がって、私たちを睨みつけていた。予想外の反撃を受けて、明らかに憎悪をむき出しにしている。私は再び矢をつがえようとしたけれど、どうにも指先が震えて止まらない。
ワイバーンの、睨む眼光に圧倒されていた。
怖くて、思わず目を閉じてしまった。
さっきの勇気はどこに消えてしまったのだろう。
逃げたい。
でも、みんなを守らないと。
……お父さん、お母さん。
私の中で消えかかっていた勇気を振り絞ろうとワイバーンを見返した時、森の中から閃光が駆け抜けていくのを見た。これまで見たこともない強烈な稲光で、その稲光がワイバーンの巨体に直撃すると、ワイバーンは近くの木々まで軽々と吹き飛ばされていた。
「ルーク、止めだ!」
「はい!」
森の中から男の人と少年らしい声が響いたかと思うと、馬で駈ける二人の男の人たちが現れた。どちらも革の甲冑に身を固めているけれど、ひとりは小柄で、その体には不釣り合いなほど大きな両刃の剣を手にしている。どう見ても子どもだ。
「うおおおおっっっっ!!!!」
ルークと呼ばれた少年は剣を手にしたまま、馬で駈けながらワイバーンに向かって咆哮していた。彼の声に応じて、手にした剣の刃が淡い光に包まれたような気がした。光に反射してそう見えたのかもしれない。ワイバーンがようやく体勢を立て直し、向かってくる彼に気がついてワイバーンは巨大な爪をふりあげていた。だけど、その直後だ。突然飛んできた矢が突き刺さり、巨大な爆発を起こしていた。
見ると仲間の人の放った矢だ。厳しい目を向けたまま少年を見守っていて、もう次の矢を準備している。爆発したのは、矢じりに魔力が籠められているからだろう。
「だりゃああああっっっ!」
絶叫するワイバーンに突進し、彼は叫びながら思いっきり剣を振り抜いていた。
刃がワイバーンの首元を切り裂き、彼が通り過ぎた後、鮮血が宙に舞った。
ワイバーンの動きも石像みたいにぴたりと止まって動かなくなっていた。どれくらい時間が経ったのかわからないけれど、その時にはとてつもなく長い時間が過ぎたような気がしていた。ゆっくりとワイバーンの体がふらついたかと思うと、急に糸が切れたように倒れていって重い地響きが鳴った。後で聞いたら、村にまで届いていたんだって。
「……」
私たちは何が起きたのか頭の中で整理がつかず、ぼんやりとワイバーンの死骸を見つめているだけだった。そんな私たちに馬の足音が近づき、影が私たちを覆った。ワイバーンを倒した少年が肩で息をしながら、にっこりとほほえんでいた。手には血塗られた大剣があるのに、その笑顔には不思議と心を和ませるものがある。
「大丈夫?けがはないかな」
見た目も私たちと変わらないはずなのに、彼の優しい声はやけに大人びて聞こえた。




