このことは他言無用です
最近のトウマ・ライナスは、いつもと何かが違う。
アリサ・サーバンスは横目でなんとなくトウマを視界に入れながら、ぼんやりとそんなことを考えている。頭の中はぼんやりではあるが、タイプライターを打つ手は素早く、利き手である左手の義手の動きも、人のそれとは変わらないものとなっている。
もっとも、それはタイプライターや筆記に関してであって、その他の日常生活ではまだまだ支障を感じる場面に遭遇するのだが、とにかく業務に関しては他の同僚と変わりがない。気持ちにも余裕が出来て、忙しくタイプライターを打ちながら、隣のトウマの様子を眺めることもできるようになっていた。
――また、髪をかきあげた。
前髪をかき上げると、トウマは再び書類に向かってボールペンをはしらせている。昨日、配達先から帰ってきたばかりでその報告書をまとめている最中なのだが、危険な旅からの疲れもあるのかなかなかまとまらないようだった。特に今回の仕事では、山賊たちが支配を強める地域を通らなくてはならなくなり、地元の軍や近隣の各農村から集められた有志の若者たちとともに、山賊退治に一役買ったようである。
彫るような姿勢で筆をある程度すすませると、がりがりと頭をかきむしってからトウマはまた髪をかきあげた。
――もしかして、ユアーサ・タックシ侯爵を意識しているのだろうか。
先日購入した人気恋愛小説「アネッサ令嬢物語」に登場する、三枚目的役割のイケメン貴族を思い出しながら、アリサの指先は次の書類に移行していた。
作中では、何度も前髪を激しくかき上げながら、最後に両手の親指を立てて決めポーズをする登場人物がいるのである。
トウマの動作がなんとなく似ていて、ユアーサの行為が実は求愛のそれだと思い出すと、なんだか自分が求愛されているような錯覚に襲われてしまう。恋愛小説の影響なのか、感性の豊かなアリサはこうと思い込むと熱を帯びた感情がどうにもとまらない。アリサは自身の体が急に熱くなり、息が詰まってタイプライターを打つ手が止まってしまう。アリサは椅子の背もたれに体を預けると、体内に集まった熱い感情を、ため息と同時に一息で宙に放出した。
「どしたの、アリサちゃん」
「いえ、なんでも……」
急に奇妙な行動を取ったアリサにトウマは訝しんだが、アリサは目を揉みしだき、いかにも疲労によるものと誤魔化しながら答えた。
トウマがアリサの隣で、書類仕事をするようになってからしばらく経つ。
誰とも決まった席ではないのだが、よほど場所がない以外は、トウマが独占しているかのように使用している。時折、他の“配達士”や職員が使用することはあるものの、トウマの居場所を訊かれていつもの席と答えれば、あああそこかとすぐにわかるくらい使用している席である。隣で仕事をするトウマの姿は日常的といっていいくらいに見慣れているため、このところのトウマに、どこか違和感をおぼえている。
髪をかき上げるなど何気ない動作、誰でも行う動作なはずなのに、どこかいつもと違う。
互いに、それぞれの仕事に戻りながら、アリサはチラチラとトウマを盗み見る。
かき上げた前髪が垂れ、トウマの視界を覆う。
それをトウマは煩わしそうにどけて、筆を走らせる。
その一連の動きを見て、アリサはようやく思い当たるものがあった。
「……あの、トウマさん」
「なに?」
「その髪、随分と伸びたんじゃないですか」
「そういえば、……そうかなあ」
言われてはじめて気がついたように、トウマは自分の髪をいじりだした。ぴんと伸ばすと前髪が目元まで届いている。ふうんと感心したように、トウマは自分の前髪を見つめている。
「邪魔と思っていたけれど、けっこう伸びてんだな」
「もっと早く床屋に行けばよかったのに」
「行きつけの店はあったんだけど、いつの間にか潰れちゃっていてさ。他はあんま好みじゃないから先延ばしにしていたんだよ。……でも、こんな伸びているとは思わなかったなあ」
「たしかにお気に入りの店がないと、新規の店に足を運ぶのはなかなか億劫ですからね」
アリサは日課のひとつとなっている、通勤途中に立ち寄るパン屋を思い出しながら同調した。
思わぬ臨時休業で、いつものサンドイッチが購入できないとわかった時の失望や、途方に暮れる気分といったら言葉で表現しようもない。
「しかし、そこまで放っておくのは、見た目にも衛生的にもどうかと考えますが」
「そうはいうけれど、自分で散髪なんて簡単にできるわけじゃないしねえ。散髪中に寝るのが気持ちいいから、店は選びたいんだよね」
「私などは、自分で髪を整えていますよ」
会話の流れでアリサが言うと、トウマは驚いた様子でへええと目を丸くした。
「来た時からずっとセミロングだけど、そんな変わった感じには見えないなあ」
「きちんと揃えているからこそ、変わらないのです。これでも髪質にも気を遣って、シャンプーもコンディショナーもちゃんとしたものを選んでいます」
「……ふうん」
トウマからしたら、長い金色の髪を後ろで結んでいる程度にしか見えないので、どこに人の手を加えているのかと疑問に思ったのだが、そんな気分は言葉や態度からアリサにも伝わるらしい。ちょっぴりむっとしながらアリサが言った。
「こう見えても、私は器用ですから。トウマさんの髪を整えるくらいわけないですよ」
「そりゃあ、無理でしょお」
軽く笑いながら無神経に言ったその一言が、アリサの次の行動に火をつけた。
「アリサちゃんの髪みたく、ちょこちょこいじって切るのと違ってさあ、男の髪はさっぱりした感じにしないといけないんだから」
「出来ますよ」
アリサが即座に言った。
傍から見れば、わずかにトーンが上がった程度にしか聞こえないのだが、トウマにはアリサが不機嫌となったのがわかって、少し身を引いていた。ただし、何がアリサを怒らせたのかわかっていないので、トウマとしては困惑するしかなかったのだが。
「明日から、しばらくお休みですよね」
「……うん」
「私に任せてください」
「へ?」
「私がトウマさんの髪を切って、トウマさんにお似合いな髪に仕上げてみせますから」
※ ※ ※
話によれば2DK。
国が管理運営している建物なので古い建物ではあるが、室内は広めで風呂とトイレ、キッチンも完備されていると聞いている。男二人でも十分な広さのはずだった。
重いボストンバッグ片手に杖をつきながら、アリサは2階建てのアパートの階段をふうふうと上がってから、角の201号室と書かれた表札の下にトウマ・ライナスの名前を確認すると、こんにちはと訪いを告げてからアリサは控えめにドアを叩いた。やがて、中からごとごとと物音の他に、人の声がひとしきりしたかと思うと、扉が開いてトウマとルーク・ターレスが姿を現した。
「やあやあ、どうもどうも。アリサさん」
「いやいや、どうもどうも。悪いね、休日なのにきてもらっちゃって。迎えにいったのに」
「いえ、こちらが申し出たことですから」
似たような挨拶をしてくるルークとトウマに苦笑いしながら、アリサはほんのり滲んだ汗をぬぐって部屋へと入っていった。
陽気のせいもあるが、やはり緊張の方が大きい。特定の男の部屋に入る機会など、作戦のために上官に呼ばれて足を運んだ執務室程度で、他はほとんど記憶にない、
案内された一室はトウマが使っている部屋で、南の窓から差す陽の光が鮮やかに差し込み、くっきりとした陰影を浮かび上がらせている。アリサの部屋のように絵画や花瓶などといった調度品は無く小さなタンスや本棚のなどが無愛想に置かれている。ここでトレーニングなども行っているらしく、部屋の隅にはチンニングマシンや30kgはあるダンベル、フラットベンチが所在無げに追いやられている。代わりに部屋の中央に敷かれたシーツの上に、テーブルと椅子一脚が彼らにとってかわったように置かれていた。
――ここがトウマさんの部屋か。
見た目は相変わらずのポーカーフェイスだが、アリサの心はいささか弾んでいた。
本棚もぎゅうぎゅうに本をしまっているか、それでも納めきれなくて本の上に置いてある。窓から覗くベランダに干してある洗濯物もだらんと垂れていたり、2枚のTシャツをひとつの洗濯ばさみにまとめて干していたりしてどこか適当だ。部屋の隅には埃もわずかに目立つ。片付いているようで、片付けられていない男所帯の空間に、やはり男だけではダメですねえなどと、内心ニヤニヤしながら、アリサは奇妙な優越感や高揚感に満たされているのだった。
「……では、さっそく始めましょうか。トウマさん、こちらに」
アリサは鞄を下すと、中からバリカンだとか梳きばさみ、タオルに角ばった大きな鏡やカット用クロス、シャンプーやコンディショナーなどを取り出して、次々にテーブルへと置いた。鏡といっても一般的な鏡ではなく、床屋や美容室で使われているような三面式の鏡である。
「これ、アリサちゃんの?」
「そうです。髪は女の命。髪を整えるためには鏡もそれなりのものにしなければ。シャンプーとコンディショナーも私が使用しているものですが、かのエレガント社のオリーブオイル使用のシャンプーなのです」
「……女て、金かかるな」
「そうですねえ」
「なにか?」
ルークとトウマのやりとりを聞こえたのか、アリサが睨みつけてきたが、トウマがなんでもないよと言って誤魔化した。
「ところで、バリカンなんて使うことあるの」
「いえ。バリカンは、今日のために購入しました」
トウマもルークもへええと、それぞれ感心しただけだが、専門店で数時間、店主と相談しながら選んだ最新式のバリカンである。魔力が注入された魔石を原動力としてスイッチひとつで動くいわゆる魔動式で、店主の説明によれば、この最新式だと髪が引っ掛かりやすい手動のそれより散髪もずいぶんと楽になるのだという。
今日のためだけに最新式のバリカンを購入するなど、よほどの特別な感情がないとしないだろうし、値段を聞いたらトウマも驚いただろうが、アリサは何も語らず、トウマは無邪気に珍しがっているだけなのでどうにもならない。
「ところで、僕は何を手伝えばいいんですか」
横からルークが訊ねた。
せっかく天気の良い日曜の午後である。
仕事も休みで、日課としている稽古も午前中には軽めに済まし、あとは自由時間となっている。前日にアリサから手伝えと言われたので待っていたのだが、一見すると手伝うことも無さそうなので、図書館にでも出掛けたいという気持ちがルークには多分にある。
「ルークにはやってもらうことが多くあります。いわゆる雑用ですが、いないと困ります」
「……まあ、それなら」
「そろそろ始めますが、鞄の中に櫛とはさみがあるので取ってください」
アリサはトウマを椅子に座らせて、カット用クロスをかけながらルークに指示した。その後、アリサが散髪に取り掛かる中、ルークはアリサの指示で湯を沸かして洗面器に足したり、床を掃除したりと忙しく動き回っている。
散髪中に寝てしまうと言っていたトウマは、じっと目を閉じて座っていたが、アリサが髭剃りで顔を剃り始めた頃には寝落ちしてしまっていた。今は椅子の背もたれに体を預け、すっかりアリサに身を任せた恰好となっている。アリサは揺れる頭に注意しながらはさみを動かし、髪を整えている。
散髪を自ら買って出るだけにアリサは手際よく、ぼうぼうに乱れていたトウマの髪が次第にさっぱりしていく。ルークも雑用しながら、うまいなと感心した様子を見守っていた。
――柔らかい髪だな。
トウマの髪を梳く度に触れながら、アリサは思った。もみあげや耳の周りを短く刈り上げようと、はさみからバリカンに持ち替えている。
アリサは自身の胸の内にあたたいものがひろがっているのを感じていた。それは幸福感とよべるものだった。トウマをこれまでになく近く触れ続けていることで、家族の幻影というものを見ている気がした。
この時間や空間をもっと長く味わいたい。
アリサそんな気持ちが思わずそうさせたのだろう、深く息を吸った――その時だった。
寝ているトウマの頭が大きく揺れ、ジョリという奇妙な音が室内に響いた。
「ア、アリサさん……!」
湯をつぎ足しに戻ってきたルークが、ひどく動揺した声を発した。アリサが振り向くと、ルークはやかんを手にしたまま青ざめた顔をして棒立ちとなっている。視線がトウマに向かっていたので、追うようにアリサが視線を落とした途端、体が硬直した。
トウマはまだ穏やかな寝息を立てている。
そんなトウマのもみあげから頭頂部にかけ、黒々とした頭部に見事な一本の灰色の線がはしっている。呆然と佇むアリサのバリカンから大量の髪の毛がごそりと落ちた。魔動式のバリカンはアリサの手の中で、無愛想に振動を続けている。
「……」
「ど、どうすんですか、アリサさん。これ、ヤバいですよ」
「……」
うろたえるルークに、アリサは無言のままだったが、やがてバリカンのスイッチを切ると、そそくさと自分の鞄に道具をしまい始めた。
「急用を思い出したので、今日はこれで帰りますね」
「いやいやいやいや、帰らないでくださいよお!」
鞄を持って部屋から出ていこうとするアリサを、ルークは必死の形相になってスカートの裾につかんでいた。
「ど、どど、どうすんですか、こんなの」
「どうすると言われても……」
ルークはもちろん、アリサの声もうわずっている。
様々な苦難と遭遇してきたアリサだったが、ここまで動揺した記憶は過去にない。部屋の壁に掛けられている小さな鏡に映る自分を見れば、血の気が引いた自身の姿がわかったかもしれないが、アリサにはそんな余裕などまったくなくなっていた。
「ええと、ええと……」
はさみとバリカンを再度取り出し、うろたえながらアリサは刈り上げた箇所に合うよう髪を切っていくのだが、いよいよ歪なものとなり、悲惨な代物へと変化していく。ついには髪形ともよべない残骸という状態になり、アリサとルークは心の底から絶望した。
「こんなの、いくらなんでもトウマさんに、こ、、ここ、殺されちゃいますよ」
「……こうなったら仕方ないですね。最終手段です」
「どうするんですか」
ルークの質問には答えず、アリサはバリカンを手に取った。
※ ※ ※
「この頭、新兵以来だなあ」
トウマは三面鏡に映る自分の頭を撫でながら呟いた。
残骸となっていたトウマの髪はすっかり刈り上げられ、灰色の坊主頭となっている。
いささか不満げではあったが、怒ってまではいなかった。もちろん目覚めた時に坊主と分かった時にはさすがに驚き、声を荒げてアリサに怒る様子も見せていたのだ。
だが、アリサがいつもの冷静な態度で毅然として答えると、トウマの怒りも次第におさまっていった。
トウマの独白に応えるように、アリサが静かに口を開いた。
「さきほどの繰り返しになりますが、このところトウマさんには油断や慢心が感じられます。戦いに身を置く者として、長い髪は掴まれやすく不利となることはトウマさんもご存じなはず。ましてや前髪で視界を防がれては致命的となります。しかし、トウマさんはそれを放置していました」
「……」
「少しずつ治安が回復し、いくつか定期ルートが出来ているといっても、それでも途中に魔物や盗賊が現れ“配達士”はそれらを相手にする危険な仕事です。トウマさんはその中でさらに危険な地域に赴き配達をしている。私は初心に戻ってもらいたいため、トウマさんやルークにも寸前まで黙っていることにしました。申し訳ありません」
「アリサちゃんが、そこまで考えていたなら仕方ないけどさ……」
しばらくの間、トウマは憮然としたまま鏡の中の自分を眺めていたが、まあいいかと表情を崩した。
「たしかに、アリサちゃんの言う通りかもなあ。思い返すとこの間の仕事でも、油断からヒヤリとしたこともある」
ありがとうねとトウマが礼を述べると、アリサはいえとだけ短く言った。
「ルーク君も手伝ってくれてありがとな」
「あ、いや、いえいえ。アハ、アハハハハハ」
ルークは表情をひきつらせたまま、乾いた笑い声をあげた。
――あなたは何も見なかった。けっして何も答えないでください。
坊主頭に刈り上げた後、アリサから恐ろしい表情で釘を刺されていたが、ルークとしては言われなくても打ち明けるつもりなど毛頭なかった。
ただ、無邪気に坊主頭を撫でているトウマと、酷い失態を演じながらも誤魔化し通し、何食わぬ顔して佇むアリサを見比べながら、ルークは本来なら見てはいけない何かを見てしまったような気分になっていたのだった。
~閑話休題その4「このことは他言無用です」終わり~




