この時間、この奥で何をしているんだ?
「……図書館ねえ」
トウマ・ライナスはアオルタ図書館の門の前に立って、建物を見上げていた。窓に明かりは無く、外から見ても人気は無い。敷地内にも人の姿はなく、明らかに閉館している。
「あの銀行員さん。こんな時間に、なんで図書館なんでしょうなあ」
トウマの後ろに立つ、アルフレッド・フォークナーこと通称アルが煙草に火をつけた。吐いた濃い煙が隣のアリサ・サーバンスまで流れ、不愉快そうにばたばたと手で扇いで煙を散らしている。アルの魔法“召喚興図”により、ライターを置き忘れたシーリングの居場所を図書館だと判明したものの、人気のない図書館を前にすると、果たして落とし主がいるのかということと、何のために図書館にいるのかという疑念が3人の脳裏に過っている。
「アル、本当にここにいるのか」
「間違いはないはずですけどねえ」
トウマがアルに訊ねると、アルも同様の考えだったのだろう。すでに小瓶から白い砂を地面に撒き、“召喚興図”で確認を始めている。指を細かく動かして砂で描かれた地図を変化させると、ある時点でアルが動きを止め、ここですとトウマを呼んで、指差した。建物らしき形をしているところから、どうやら図書館を表しているようだった。
「この図面、図書館か」
「そうです。ここが俺たちのいる場所。入り口からまっすぐ歩くと、細い通路があって、その奥にやたら広い部屋があるんですよ」
「……」
「どうやら、あの銀行員さんはここにいるようなんですわ」
「こんな時間、何しにいってんだ」
「さあ……」
「トウマさん、入り口の扉が開いていますよ」
小首を傾げる二人の耳に、アリサの声が届いた。いつのまにかアリサはドアをひっそりと開けて、館内の様子を窺っている。外からの月明かりが館内に差し込み、床にアリサの影を落としているのがわかるだけで後はひっそりと静まり返っている。ただ、棚や階段の陰に隠れてしまって判然としなかったが、館内の奥に電灯の明かりが点いているようだった。
「方向的には大部屋のある位置。アルの言う通り、あの奥にいるのかもしれません」
「とにかく、行ってみるか」
トウマはアルを促して立ち上がった。
※ ※ ※
巨人と言っても、ルノーマが召喚したベリアルの全長はせいぜい3、4メートルに過ぎず、大会議室の天井にも届いていない。それよりも巨大な魔物をシーリングたちも何度か相手にしたことがあるが、そのまがまがしい巨体から発せられる威圧感は、これまでの魔物とは格段に違っている。ディラントはもちろんケフルにルノーマも脂汗を流しながら召喚した悪魔を見上げていたが、その中でシーリング一人だけは平静にベリアルを観察している。
尋常ではない力をベリアルから感じてはいるものの、自分の“特殊能力”に敵う者などいないという普段から抱いているひそかな自信が、シーリングに自然とそんな態度をとらせている。
「悪魔王ベリアルよ」
重い沈黙が続く中、ルノーマが額から脂汗を流しながらその名を呼んだ。
喉が渇きを覚えたのか、しきりに唾を飲み込んでいる。
緊張しすぎて下手に出すぎではないかと、シーリングはルノーマの態度に対して少し不安を持った。
古代書を読みこなし、伝説級の魔物を召喚するにはそれだけの魔力が必要となる。
その召喚に成功したルノーマも尋常ではない魔法の使い手なはずで、古代魔導士ゼルテラウスと同等かそれに近い力はあるはずである。
冷静になればルノーマがそこまで委縮する必要はないはずだが、古より伝わる悪魔を目の当たりにしたことで動揺しているのかもしれなかった。常に自己研鑽に励むルノーマは誰に対しても礼を失せず、周りからもその謙虚さが美徳とされていたが、今はそれが仇になっているようにシーリングは感じた。
「私はあなたの力がいかほどのものか、試して見たい」
『試すだと?』
ベリアルがルノーマを睨みつけた。
『人間風情が、この悪魔王に向かって試すと申すか』
「今回の目的は、古代魔導書ゼルテラウスの書を使い召喚すること。召喚には成功したのだから、このまま帰してもいいのだが、あなたの存在は伝説」
「……」
「私たちはあなたたちにしてみればほんの瞬き程度の命でしかない。あなたの力を直に見られるわけではないのだ。不満はあるだろうが、遊びに付き合ってもらいたい」
『何をするつもりだ』
「私も召喚士の端くれ。私が召喚した魔物とひと勝負してもらいたい」
ルノーマの提案にベリアルは目を細めて、鼻を鳴らした。
「なにが可笑しい」
『そんなものよりもな。もっと面白いものを貴様らに見せてやろう』
「なに……?」
訝しむルノーマの表情が突如苦悶に満ち、力を失って床に膝をついた。ルノーマの急変にシーリングが駆け寄ろうとするが、不意に響くベリアルの獣に咆哮にも似た笑い声が見えない壁のようになってシーリングの動きを阻んだ。猛々しい嵐が室内に巻き起こり、嵐の中、ベリアルの体が霧状になってルノーマの体の中へと入り込んでいくのがシーリングたちの目に映った。
食われていく。
ルノーマは薄れゆく意識と恐怖に覆われながら、それでも必死にもがくようにして叫んでいた。虚しい抵抗でしかなかったが、ルノーマに残されたものはそれしかなかった。
「悪魔王ベリアルよ、なにを……!」
『間抜けな人間どもめ!身の程を知らずに、私を地上に呼ぶとはな』
「私は召喚士だぞ……。召喚されれば、その盟約に従うものでは……」
『心に隙をつくらぬことは召喚魔法の基本だ。貴様の隙だらけの心などでこの悪魔王が盟約に従うと思ったか!』
「が……、くあああ……」
『この人間の体、悪魔王ベリアルが再びこの地上で覇を成すために、もらい受けるぞ!』
「ぐあ……。ああああああああ!」
ベリアルの哄笑とルノーマの絶叫が響く中、ルノーマの痩せた体は異様な盛り上がりを示すようになり、ついにはおんぼろなローブを破いて隆々とした上半身が露わとなった。黒く色黒の肌も赤褐色に変色し、丸い目も口元も、爪で引き裂いたように鋭くものへとなっていく。
「ルノーマ、済まん!」
異変を察知したシーリングの行動は素早かった。
シーリングが咄嗟に印を結んで火球をつくりだし、ルノーマに向かって撃ち放った。灼熱の火球が猛進し、ルノーマの体ごと飲み込もうとしたが、着弾する直前にルノーマが手をかざすと、その前に魔法陣をつくりだして火球をかき消した。しかし咄嗟の魔法陣では防ぎきれなかったのか、炎の残滓が消えた後、ルノーマの赤褐色の腕は炭化し真っ黒となっていた。「すげえ」とケフルが騒いだものの、それも束の間のことだった。
ルノーマの真っ黒となった腕はみるみる内に再生し、元の赤褐色の肌へと戻っていく。シーリングの最大級の炎系の魔法だったが、異様な再生能力にシーリングとケフルは息を呑んだ。
「か、神様。どうかお助けを……」
ディラントの震える声がした。シーリングが目を向けるとディラントは部屋の隅でケツを向けた姿勢で小さくなっている。突然の事態にすっかり怯えてしまい、震えているだけだった。もとより、戦力としてなど期待していないのだが。
「ケフル!」
視線を戻してシーリングが叫ぶや否や、ケフル・タッカーは“転界空舞”で瞬時に移動し、ルノーマの背後まで迫っていた。右手に魔法の刃を形成し、ルノーマの首元へとためらいなく振り下ろした。空間さえ切り裂く魔法の刃。変異したルノーマの肉体といえども、先のシーリングから受けた状態から見るに十分通用するはずだった。だが、刃がルノーマの首元に到達しようとした次の瞬間、ケフルの体はくの字に折れ、部屋の隅まで吹き飛ばされていた。
ケフルの動きに反応したルノーマは立ち上がると同時に強烈な後ろ蹴りを放ち、その蹴りがケフルの鳩尾を深々と抉っていたのだ。そのままケフルは床に崩れ落ち、顔を歪ませたままうずくまり、身動きできないでいる。
『……なるほど』
ルノーマは立ち上がると自身の体を丹念に眺めては、突きや蹴りなどを繰り返し行っている。その動作はルノーマの動きではあったが、発せられた声はベリアルとルノーマの声が混ぜ合わさった声だった。背丈は召喚時より小さく、それでも2メートル以上はあるかと思われたが、スピードやキレはルノーマのそれより増している。
『ゼルテラウスの書を読みこなし、私をこの世界に召喚できただけはあるな。鍛錬も欠かさず憑代として申し分ない』
「今更言うまでもないだろうが……、貴様はベリアルか」
『改めて名乗ろう。私の名は悪魔王ベリアル。この世界で覇者となるべき者だ』
「ルノーマの体を奪ってどうする。元の体で十分ではないのか」
『召喚されれば、いずれ異世界に戻らなければならんだろうが。居続けるには憑代が必要だ』
「なにが目的なのだ」
シーリングの質問に、かつてルノーマだったもの――ベリアル――がせせら笑った。
『私は何度かこの世界に召喚されるうちに、私はこの世界に魅力を感じるようになり、次第に世界を統べたいと思うようになった。だが、ゼルテラウスは魔力が強大な上に、心にも隙がなかったのだ』
「……」
『時は経ちゼルテラウスは既に世になく、ゼルテラウスほどではなくても強力な魔力と肉体をこうして手に入れることができた。あとは目的を果たす。この世界を統べるのは私だ』
「世界を統べる、か。どうやってだ」
『決まっているだろう。私の力で抵抗する人間どもを抹殺し、従順な者を奴隷として生き永らえさせる。私にはそれだけの力があるからな』
くくっとほくそ笑みながらベリアルは中空を見上げていた。明らかに自己陶酔に浸る笑みで下品ささえ感じる。それどころかシーリングは失望さえ感じていた。暴力だけで人類を従わせるなどというベリアルの発想など、今どきのこどもが読むような絵本でもありえない。この幼稚さでは、たとえベリアルが伝説級の悪魔と恐れられていても、カビだらけの感性では世界を統べるどころか、早々に身を滅ぼすのがオチだろう。この程度の悪魔にやられてしまったのかと、ベリアルへの怒りと同時に、失ったルノーマの才を惜しんだ。
『どうだ。貴様らを奴隷としてなら、生かしてやってもよいぞ』
「お断りだ」
『……え、なに?』
シーリングはあっさりと断った。
あまりの早い返しにはさすがのベリアルも言葉を失って、シーリングが断ってきたのだと理解するのまでに、ほんのわずかだが時間を要した。




