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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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1-2 門の外

1-2 門の外


「待ってください!」


 門を出てしばらく進んだところで、朧は足を止めた。


 振り返らない。


 背後から駆けてくる足音には、門を出る前から気づいていた。


 隠そうともしない、真っ直ぐな気配だった。


「待って……ください……!」


 挿絵(By みてみん)


 声が近づき、背後で足音が止まった。


 荒い呼吸が聞こえる。


 朧はようやく振り返った。


 銀髪の女が膝へ手を置き、呼吸を整えていた。


 年は自分と大きく変わらない。


 濃紺を基調とした和装。


 腰には青い装飾の施された剣。


 左の瞳は蒼く、右は紅い。


 門の外へ伸びる街道には、傾き始めた陽が長い影を落としていた。


 朧の黒髪を抜けた風が、そのまま銀華の銀髪を揺らす。


 追ってきた女は剣に手を掛けていない。


 それだけは、振り返る前から分かっていた。


 人目を引く容姿だったが、朧が最初に見たのは足元だった。


 走り慣れていない。


 それでも、ここまで全力で追ってきたらしい。


「何だ」


 銀華は顔を上げる。


 呼吸を整えるより先に口を開いた。


「先ほどは、兵士たちが申し訳ありませんでした」


 朧はわずかに眉を動かした。


「なぜ、お前が謝る」


「この国の人間だからです」


 銀華にとっては、それで十分な理由だった。


 王都から遠く離れた辺境であっても、門を守る兵士たちは同じ国に生きる者だ。


 自分が直接命じたわけではない。


 けれど、だから無関係だと言い切ることもできなかった。


 一年前なら、もっと強い言葉で兵士たちを庇っていたかもしれない。


 今は違う。


 誰かを守りたいという気持ちと、その人の行いが正しいかどうかは、別のものだと知っている。


「お前が命じたのか」


「違います」


「ですが――」


「なら、あいつらが剣を抜いた責任まで、お前が背負う必要はない」


「ですが――」


「自分で選んで剣を抜いたんだ。その責任は、あいつら自身のものだ」


 朧にとって責任とは、誰かが代わりに背負うものではなかった。


 自分で選び、その結果を自分で引き受ける。


 戦場でも、依頼でも、それは同じだ。


 だから目の前の女が、この国の人間だからという理由だけで、兵士たちの選択まで自分のものとして頭を下げることが、朧には理解できなかった。


 だが銀華の顔には、取り繕った様子もなかった。


 本当に、自分が謝るべきだと思っているらしい。


 朧はますます理解できなくなった。


 銀華は返す言葉を失った。


 厳しい口調ではない。


 ただ、朧の中ではそれが揺るぎない事実なのだと分かる。


 朧は話は終わったとばかりに、再び街道へ身体を向けた。


「待ってください」


「まだ何かあるのか」


 銀華は一度、門の方を振り返った。


 石壁の向こうでは、治療師を呼ぶ声が飛び交っている。


 負傷した兵士たちの呻きも、風に乗ってかすかに届いた。


 止めるべきだったのかもしれない。


 問い詰めるべきなのかもしれない。


 だが、先に斬り掛かったのは兵士たちだ。


 朧は誰一人殺していない。


 責める言葉は、見つからなかった。


 代わりに口をついて出たのは、まったく別の言葉だった。


「私の仲間になってください」


 朧の表情が止まった。


 剣を向けられることなら慣れている。


 依頼を持ちかけられることも珍しくない。


 だが、名前も知らない相手から、これほど唐突に「仲間」と言われた記憶はなかった。


 言葉が街道へ落ちた。


 銀華自身、口にした直後に驚いた。


 考えていたわけではない。


 門からここまで走りながら、何を話すべきかさえ決めていなかった。


 ただ、あの背中をこのまま見送ってはいけない。


 その思いだけで追ってきた。


 それなのに、出てきた言葉がこれだった。


 銀華は自分の性急さを自覚しながらも、取り消そうとは思わなかった。


 風が止まったようだった。


 朧は何も言わない。


 表情一つ動かさない。


 だからこそ銀華は、自分が口にした言葉の重さを遅れて理解した。


「あの、いきなりで申し訳ありません。ですが、私は――」


「断る」


 言い切る前に返された。


 迷いのない声だった。


「そう、ですよね」


 断られることは予想していた。


 むしろ、これほど迷いなく断られると清々しいほどだった。


 それでも銀華は、胸の奥が少しだけ沈むのを感じた。


 自分でも呆れる。


 名前も知らない相手に声をかけ、勝手に期待して、断られて落ち込んでいる。


 けれど、ここで「分かりました」と引き返す気にはなれなかった。


 門から走ってきた理由が、まだ何一つ伝わっていない。


 銀華の肩が目に見えて落ちた。


 取り繕うこともできず、落胆がそのまま顔に出る。


 歩き出しかけた朧は、その様子を横目に捉えて足を止めた。


「なぜ私を誘う」


「強いからです」


 あまりにも率直な答えだった。


 朧の眉がわずかに動く。


 銀華はその変化を見て、言葉が足りなかったことに気づいた。


 強い。


 確かに、それは大きな理由だ。


 けれど、ただ強いだけの人間なら、銀華はここまで追ってこなかった。


 戦場には強い者などいくらでもいた。


 その強さが何を守り、何を奪うのか。


 銀華が見るようになったのは、むしろその先だった。


「それだけか」


 銀華は答えかけて、口を閉じた。


 強いから――確かに、それが最初の理由だった。


 蒼緑王国は、この世界でも有数の大国だ。


 けれど、国が大きいからといって、すべての人を守れるわけではない。


 銀華はそれを、誰よりも知っていた。


 どれほど兵がいても、どれほど国が豊かでも、手の届かない場所はある。


 民を守るために、兵の命をただ使い潰していいわけでもない。


 だからこそ、守るための力は一つでも多く欲しかった。


 けれど、あの戦いを見て感じたものは、それだけではなかった。


「あなたは、誰も殺しませんでした」


 銀華の脳裏に、先ほどの光景が蘇る。


 次々に倒れていく兵士たち。


 骨の折れる音。


 悲鳴。


 土煙。


 決して穏やかな戦いではなかった。


 それでも、血飛沫は上がらなかった。


 朧には斬る技量があった。


 殺すこともできた。


 できなかったのではない。


 しなかった。


 銀華には、その違いが大きかった。


「殺す必要がなかった」


「怒っていたのに」


「怒りと殺意は別だ」


 朧にとっては、説明するほどのことでもなかった。


 腹が立てば斬る。


 敵なら殺す。


 そんなふうに感情と刃を直結させていては、傭兵など長く続かない。


 斬る必要があるか。


 殺す必要があるか。


 その判断だけは、どれほど頭に血が上っていても手放したことがない。


 だが銀華は、その当然を当然として受け取らなかった。


 まるで、そこに朧自身の何かを見つけたような目をしている。


 その視線が、朧には少し居心地悪かった。


「だからです」


 銀華は一歩だけ朧との距離を縮めた。


 警戒を解いたわけではない。


 それでも、逃げ腰の一歩ではなかった。


 朧は答えず、銀華の目を見た。


 逃げ道を探している目ではない。


 銀華は一度だけ息を整え、自分の中にある理由を確かめるように続けた。


「あなたは、とても強い。でも、力に任せて殺す人ではない。あの人たちが先に剣を向けたのに、命までは奪わなかった」


「重傷だ」


「それでも、生きています」


「私が善人だと言いたいのか」


「分かりません」


 銀華は正直に答えた。


「あなたのことを何も知りませんから」


「なら、なおさら誘うべきではない」


「でも、知りたいと思いました」


 自分でも妙なことを言っていると思う。


 名前さえ知らない。


 どこから来たのかも、何をしてきたのかも知らない。


 つい先ほど、この国の兵士を十数人倒した人物だ。


 普通なら警戒するべきなのだろう。


 それでも銀華には、知らないから遠ざけることの方が不自然に思えた。


 分からないなら、まず話せばいい。


 少なくとも、剣を抜くより先にできることがある。


 一年前の自分には、きっと持てなかった考えだった。


 朧の視線が、ほんのわずかに揺れた。


 銀華は気づかない。


「知ってから決めればいいと思うんです。仲間になれるかどうかも、信用できるかどうかも」


「順序が逆だ」


 仲間にするなら、普通は素性を調べる。


 何をしてきた人間なのか。


 誰と繋がっているのか。


 信用できるのか。


 少なくとも朧ならそうする。


 目の前の女は、何一つ知らないまま追いかけてきて、知りたいから仲間に誘うという。


 理屈が通っていない。


 それなのに本人だけは、どこにも矛盾を感じていないらしい。


 朧は少しだけ頭が痛くなった。


「よく言われます」


「自覚があるなら直せ」


「努力はしています」


 銀華はどこまでも真剣だった。


 街道脇の草が風に伏し、遅れて起き上がる。


 遠くで鳥が一声鳴いた。


 背後の門から届く怒号や人声も、ここまで来ればもう薄い。


 二人の間には、風の音だけが残った。


 朧はしばらく答えなかった。


「私は、仲間にはならない」


 朧は改めて言った。


「誰かに仕える気もない」


「仕えてほしいわけではありません」


「同じことだ」


「違います」


 銀華の声が、初めて少し強くなった。


 朧の眉がわずかに上がる。


 命令を拒む者の声ではない。


 対等であろうとする者の声だった。


「私は命令したいわけではありません。一緒に、この国を守ってほしいんです」


「一緒に」という言葉だけが、朧の耳に妙に残った。


 雇うでも、従わせるでもない。


 報酬の話さえ出てこない。


 傭兵として生きてきた朧にとって、誰かと剣を並べる理由にはいつも契約があった。


 金額。


 期間。


 目的。


 条件が終われば関係も終わる。


 それで困ったことはない。


 だから、銀華の言う「一緒に」が何を意味するのか、朧にはまだ分からなかった。


「国など、私には関係ない」


「今はそうかもしれません」


「この先も同じだ」


「どうして、そう言い切れるんですか」


「言い切れる」


「まだ、この国に来たばかりでしょう」


「だから何だ」


「何も知らないのに、嫌いだと決めるのはおかしいです」


 朧は一瞬、返す言葉を失った。


 嫌いとは言っていない。


 そもそも好き嫌いで国を見る発想がなかった。


 依頼があれば行く。


 なければ行かない。


 敵なら斬る。


 敵でなければ斬らない。


 それで十分だった。


 目の前の女は、そこへ好きになるかもしれないという、朧にはどうにも扱いづらい尺度を持ち込んでくる。


「嫌いとは言っていない」


「では、好きになるかもしれません」


「ならない」


 朧は間を置かずに答えた。


 銀華は困ったように朧を見る。


 朧も見返した。


 数秒、どちらも口を開かなかった。


 やがて銀華の眉がほんの少し寄る。


 どうやら納得していないらしい。


 朧は嫌な予感がした。


 この女は、言葉を返せば返すほど次の言葉を探してくる。


「それも、まだ分からないです」


 それでも銀華は引かなかった。


 足元の土を踏みしめたまま、朧を真っ直ぐ見返す。


 面倒な女だ、と朧は思う。


 それでも、不快ではない。


 あれほどの戦いを見た直後だというのに、力を恐れて媚びることも、虚勢を張ることもない。


 ただ、自分が信じたことを口にしている。


「お前は、私が怖くないのか」


 銀華はすぐには答えなかった。


 朧の刀へ一度だけ視線を落とし、それから正面へ戻す。


「怖いです」


 怖くない、と言えば簡単だった。


 だが、それは嘘になる。


 門で見た朧の動きは、銀華がこれまで出会った剣士の中でも明らかに異質だった。


 もしあの刀の刃がこちらへ向けば、自分がどこまで抗えるのか分からない。


 怖い。


 それは認めるしかなかった。


 それでも、恐怖だけで相手を決めつけることの危うさを、銀華はもう知っていた。


「そうは見えない」


「とても強い人を前にしていますから。怖くないと言えば嘘になります」


「なら、なぜ追ってきた」


「怖いからといって、話をしない理由にはならないでしょう」


 その言葉を口にした銀華自身が、ほんの少し驚いていた。


 一年前なら、恐怖を感じた時点で剣を握り、敵か味方かを先に決めようとしていたかもしれない。


 今は、分からないものを分からないまま見ようとしている。


 それが成長なのか、ただの甘さなのか、銀華にはまだ判断できなかった。


 その言葉に、朧は銀華を見つめた。


 強がりではない。


 銀華の両手にはまだ僅かに力が入り、呼吸も完全には整っていない。


 恐怖を消しているのではなく、抱えたままここに立っている。


 朧はそういう人間を知っていた。


 恐れを知らない者より、恐れながら退かない者の方が厄介だ。


 そして、ときに強い。


 朧は答えなかった。


 銀華は、人へ頼ることが得意ではない。


 任せるくらいなら自分でやる。


 助けてほしいと口にするより、自分が耐えればいい。


 そうしてきた時間の方が長かった。


 だからこそ、自分が見知らぬ剣士を追いかけてまで「仲間になってほしい」と願っていることに、銀華自身がいちばん戸惑っていた。


 それでも今は、朧をこのまま見送ることの方が怖かった。


 それでも、胸の奥に生まれたものを無かったことにはできなかった。


 国を守る力が欲しい。


 それは嘘ではない。


 だが、それだけなら王都へ戻って兵を鍛えればいい。


 強い剣士を探すにしても、素性の分からない旅人を追いかける必要などない。


 それでも走った。


 あの戦いを見たとき、銀華は朧の強さより先に、その強さの使い方を見ていた。


 この人を知りたい。


 そんな単純な感情が、いつの間にか理由の中心にあった。


「私は強くありません」


 銀華は言った。


「少なくとも、あなたよりはずっと弱い」


「見れば分かる」


 銀華の表情が一瞬だけ止まった。


 朧には悪意がない。


 慰める理由もない。


 剣士同士なら、立ち方を見ればおおよその力量は分かる。


 銀華の身体には、長い鍛錬を積み重ねた剣士の跡がある。


 足運び、重心、呼吸、剣へ伸びる手。


 どれを見ても、並の使い手ではない。


 この国でも、指折りの剣士なのだろう。


 だが――妙だった。


 積み上げてきた技量と、今の身体の動きが噛み合っていない。


 本来なら、もっと動ける。


 何かが、その力を内側から押さえ込んでいるように見えた。


 それでも十分に強い。


 ただ、朧が比べている相手は、自分自身だった。


 その物差しで測るなら――まだ差がある。


 朧はただ事実を言っただけだった。


 その事実が人を少し傷つけることがある、という部分にはあまり関心がない。


「そこは、もう少し言い方があると思います」


「事実だ」


「そうですけど」


 銀華は困ったように眉を下げた。


 朧には悪気がないのだろう。


 それが分かるだけに言い返しにくい。


 小さく息を吐き、銀華は表情を戻した。


「私は、この国を守りたいんです」


 口にした瞬間、銀華の脳裏をいくつもの顔が過ぎった。


 王都で働く人々。


 道ですれ違った商人。


 宿場で笑う子供たち。


 そして、一年前、守ることのできなかった村。


 あの日を忘れたことはない。


 忘れようとも思わない。


 ただ、あの日からずっと、守れなかったものだけを数えて生きることはやめようとしていた。


 今ここにいる人を守る。


 そのために自分ができることを探す。


 それが、この一年で銀華がようやく選び直した答えだった。


 次に出た声は、先ほどまでより静かだった。


 朧を説得するためというより、自分がなぜここに立っているのかを言葉にしているようだった。


「生まれた場所だから、というだけではありません。ここにいる人たちが好きだからです。宿屋の人も、商人も、町を走っている子供も、門を守る兵士も」


「あの兵士たちもか」


 朧には意外だった。


 先ほど銀華が最初に負傷兵へ駆け寄った姿は見ている。


 それでも、自分へ先に斬り掛かり、結果として街の門前を混乱させた者たちまで同じように「好きな人たち」の中へ入れるとは思わなかった。


 正しい者だけを守るのではないらしい。


 間違えた者を切り捨てるわけでもない。


 甘い、と朧は思う。


 同時に、その甘さを簡単に笑う気にもなれなかった。


「はい」


「お前を置いて逃げるかもしれない」


「それでもです」


 銀華の返事には迷いがなかった。


 人は間違える。


 逃げることもある。


 弱さから誰かを傷つけることもある。


 それを知ったからといって、守りたいと思った気持ちまで消えるわけではない。


 以前の銀華なら、その矛盾を抱えることができなかったかもしれない。


 守れなければ自分が――弱い。


 間違えれば自分が悪い。


 そうやって、すべてを自分の中へ押し込んでいた。


 今も完全に変われたわけではない。


 ただ、矛盾したまま大切にしてもいいものがあると、少しずつ思えるようになっていた。


「裏切るかもしれない」


「そのときは、そのときに考えます」


「甘いな」


「そうかもしれません」


 銀華は否定しなかった。


「でも、最初から誰も信じないよりはいいと思っています」


「信じた者に殺されるぞ」


「それでも、信じたいと思うことまで捨てたくありません」


 朧は黙った。


 理想だけで生き残れないことを、朧は知っている。


 信じた相手に裏切られた者も、善意のまま死んだ者も見てきた。


 だから銀華の言葉を正しいとは思わない。


 ただ、その甘さを何も知らない者の戯言だとも、もう切り捨てられなかった。


 言い切ったあと、銀華は握っていた手をゆっくり開いた。


 掌には爪の跡が残っている。


 信じることが怖くないわけではない。


 期待した相手が去ることもある。


 守れないこともある。


 正しいと思った選択が、誰かを傷つけることだってある。


 それを知った上で、それでも信じる。


 銀華にとっては、強さよりずっと難しい選択だった。


 銀華の声は震えていない。


 だが、固く握られた両手までは嘘をつけなかった。


 朧はその手を見た。


 自信があるわけでも、怖くないわけでもない。


 それでも銀華は退こうとしない。


 そういう者を、朧は戦場で何人も見てきた。


 大半は死んだ。


 力のない理想は、刃の前では何の役にも立たない。


「お前の理想に、私を巻き込むな」


 朧の声は冷たかった。


 だが、銀華には拒絶しきった声には聞こえなかった。


 本当に関わる気がないのなら、ここまで話を続ける必要はない。


 そう考えた瞬間、銀華の中で何かが決まった。


 言葉だけで届かないなら、自分にできる方法で示すしかない。


 剣士としては、ひどく単純な結論だった。


「なら、証明します」


「何を」


「私が、あなたと並んで立てる人間だと」


 朧は銀華を見た。


 先ほど自分より弱いと認めたばかりの女が、今度は並んで立つと言う。


 矛盾しているようで、銀華の中ではそうではないのだろう。


 今、同じ強さだと言っているわけではない。


 逃げずに立つ、と言っている。


 朧には、その違いが分かった。


 だからこそ余計に面倒だった。


 口先だけの大言なら、鼻で笑って終われる。


 この女は、本気でそこへ行こうとしている。


 銀華の右手が、腰の剣の柄へ触れた。


 青い装飾が夕刻前の光を鈍く返す。


 その動きを見た瞬間、朧の目からわずかな緩みが消えた。


「決闘してください」


 銀華の声は大きくなかった。


 それでも、その一言で二人の間の空気が変わる。


 先ほどまで言葉だけだった距離に、剣士同士の緊張が一本の線のように走った。


 街道脇を抜ける風が、二人の髪を揺らした。


 朧は銀華の腰へ視線を落とす。


 青い装飾の剣。


 門で一度、震えるような気配を見せた剣だった。


 そして銀華は、あの場で最後まで抜かなかった。


 ――弱い。


 少なくとも朧から見れば、技量の差は明らかだった。


 だが、何も考えずに剣へ頼る人間ではない。


 だからこそ、この申し出が余計に理解できなかった。


「断る」


「早いです」


「結果が分かっている」


 朧は銀華の全身をもう一度見た。


 構えに入る前でも分かる。


 鍛錬は積んでいる。


 剣を飾りとして提げている者の身体ではない。


 それどころか、実戦を知らない剣士でもない。


 立ち方には、戦場を経験した者だけが持つものがある。


 ただ、その経験は朧のものとは違っていた。


 兵を率い、軍として戦場に立ってきた者の剣。


 朧のように、わずかな人数で敵中へ踏み込み、一歩間違えばその場で命を失うような戦いを繰り返してきた者の剣ではない。


 どちらが優れているという話ではない。


 ただ、積み重ねてきた経験の種類が違う。


 そして、一対一の勝敗だけを見るなら――朧には考えるまでもなかった。


 問題は、銀華もおそらくそれを理解していることだった。


 理解した上で、なお剣を抜こうとしている。


 朧には、その理由の方が気になり始めていた。


「やってみなければ分かりません」


「分かる」


「私は分かりません」


「私には分かる」


「では、私が勝ったら、仲間になってください」


「話を聞け」


「聞いています」


「聞いていない」


 銀華は剣の柄へ手を置いたまま、朧を見つめた。


 挑発する気配はない。


 朧もまた、刀へ手を掛けることなくその視線を受け止める。


 勝算がある目ではない。


 それでも、逃げるつもりもないらしい。


 遠い昔、似た目をした者を知っていた気がした。


 誰だったかは思い出せない。


 あるいは、ただの錯覚かもしれなかった。


「勝てば、言うことを一つ聞いてやる」


 朧は口にしてから、自分の判断を測り直すように銀華を見た。


 勝敗は見えている。


 それでも、この女が負けたあとに何を言うのか――そこまで見てみたいと思ったのかもしれない。


 自分でも、なぜそんな条件を出したのか分からなかった。


 断って歩き去れば済む。


 目の前の女とは、それで終わる。


 それなのに朧は、終わらせる言葉ではなく条件を口にしていた。


 銀華の目が僅かに見開かれる。


 その反応を見てから、朧は少しだけ後悔した。


 面倒なことになる。


 そんな予感だけは、妙にはっきりしていた。


 朧が条件を口にすると、銀華の顔が分かりやすく明るくなった。


「本当ですか」


「ただし、負けたら諦めろ」


「仲間に誘うことをですか」


「そうだ」


 銀華は一瞬だけ迷った。


 その迷いも、すぐに消えた。


「分かりました」


「後悔するぞ」


「負ける前から後悔はしません」


 銀華は静かに答えた。


 勝てると言い張るわけではない。


 負ける可能性を認め、それでも挑む。


 朧はわずかに目を細めた。


 無謀と覚悟は似ている。


 戦場では、その区別を間違えた者から死んでいく。


 目の前の女がどちらなのか。


 少なくとも、言葉だけでは判断できなくなっていた。


「負けることは考えているんだな」


「強い人を相手にするのですから、当然です」


 妙なところで冷静だった。


 無謀に見えて、負ける可能性そのものは理解している。


 朧は小さく息を吐いた。


「場所を変える」


 門の近くでこれ以上騒ぎを起こす気はなかった。


 負傷兵もいる。


 野次馬もまだ完全には散っていない。


 何より、ここで剣を交えれば、先ほどと同じことを繰り返すだけだ。


 朧が街道の先へ視線を向けると、銀華もその視線を追った。


 断られなかった。


 その事実を理解したのか、銀華の背筋がほんの少し伸びた。


 街道の先に、使われなくなった草地が見えた。


 街の石壁からも離れ、低い草の中に崩れかけた古い石垣が残っている。


 人の往来もない。


 剣を交えるなら、門前よりはましだった。


 朧はそちらへ歩き始めた。


 銀華も後に続く。


 二人の間には数歩の距離があった。


 朧は縮めようとせず、銀華も無理に並ぼうとはしない。


 まだ名前すら知らない相手だ。


 仲間でもなければ、友人でもない。


 それでも銀華は、先ほど門から追いかけたときとは違い、もうその背中が遠ざかっていくようには感じなかった。


「名前を聞いてもいいですか」


「先ほど名乗った」


「遠くて聞こえませんでした」


「緋月朧」


 短く名乗る。


 銀華はその名を忘れないようにするかのように、一度だけ小さく頷いた。


「緋月さん」


「朧でいい」


 名字で呼ばれることに特別な意味はない。


 ただ、これから剣を交える相手に何度も「緋月さん」と呼ばれるのは、妙に距離がある気がした。


 だから言った。


 それだけのつもりだった。


 銀華は少し考えるように瞬きをした。


「では、朧さん」


「呼び捨てでいいと言った」


「初対面の方を呼び捨てにはできません」


「好きにしろ」


「はい、朧さん」


 返事だけは素直だった。


 呼び方については、まるで譲る気がないらしい。


 朧は小さく息を吐いた。


 人の話を聞いているようで、最後には自分の考えを通す。


 どうにも苦手な種類の人間かもしれない。


 それなのに、足を止めて追い返そうとはしなかった。


 朧は振り返らなかった。


 その背を追う銀華の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


今回も読んでいただき、ありがとうございます。


第一章「見知らぬ友」1-2を投稿しました。

銀華と朧、まだ互いのことをほとんど知らない二人ですが、ここから少しずつ関係が動き始めます。


感想や気になったところがあれば、気軽にいただけると嬉しいです。


Xでは、作品の更新情報やイラスト、制作中の話なども投稿しています。

よければこちらも覗いてみてください。


X:はしたけ|幻想戦記✨南のオーフェリア✨

@takeyan4562


次回もよろしくお願いします。


Xでは本編とは少し違った表情の銀華や朧、作品イラストも載せています。

小説と一緒に楽しんでもらえたら嬉しいです。

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