第一章 見知らぬ友 1-1 辺境の門
蒼緑王国の辺境の街が見え始めた頃、緋月朧は足を止めた。
丘陵を越えた先に、低い石壁に囲まれた街が広がっている。
城壁というより、獣や盗賊を防ぐための防護壁に近い。
その向こうには木造の家々が寄り集まり、屋根の間から細い煙が立ち昇っていた。
荒野と乾いた山道を幾日も越えてきた。
街の周囲には森が迫り、風にもわずかな湿り気がある。
王都から馬車でおよそ一週間。
翠葉――この国の端に位置する街だった。
朧は目を細めた。
これまで通ってきた土地とは、空気そのものが違っていた。
乾いた土と岩ばかりだった道は、いつの間にか草の色を増し、街道の脇には名も知らぬ小さな花まで咲いている。
遠くからは鳥の声が聞こえ、森の葉が風を受けて重なり合う音がした。
戦場へ向かう道なら、もっと分かりやすい。
土に残った車輪の深さ。
馬の蹄。
人の数。
風に混じる鉄と煙の匂い。
そうしたものを拾えば、この先に何があるのか、おおよその見当はつく。
だが、ここにはそれがない。
畑から戻る農夫が肩に鍬を担ぎ、街道脇では荷車を止めた商人が水筒を回し飲みしている。
誰も空を警戒せず、森の奥へ目を凝らしてもいない。
平穏とは、こういうものなのだろう。
朧はそう考えたが、それ以上の感想は浮かばなかった。
「ここが、蒼緑の端か」
誰に聞かせるでもなく呟き、朧は遠くの門を見た。
蒼緑王国を訪れるのは初めてだった。
目的は、剣聖と呼ばれる白峰静に会うこと。
王都へ向かう途中、休息のために翠葉へ立ち寄った。
死神傭兵団を離れてから、すでにひと月近くが過ぎている。
あくまで一時的な離脱で、団を辞めたつもりはない。
美葉もサンドラも、朧が戻らないとは考えていないだろう。
朧自身も、いずれ戻るつもりでいた。
それでも、送り出された日の言葉だけは、今も耳に残っている。
『お前は、ここではこれ以上強くなれない』
美葉は、いつもの静かな口調でそう告げた。
見限られたとは思わなかった。
美葉もサンドラも、朧がいつか自分たちを越えると疑いなく信じている。
だからこそ、その言葉の意味が分からなかった。
死神傭兵団には強者がいる。
命を預けられる戦友もいる。
戦場を渡り歩けば、刃を交える相手にも事欠かない。
強くなるために必要なものなら、すでに揃っているように思えた。
それでも美葉は言った。
『外を見てこい』
何を見ればいい――そう問い返した朧に、美葉は答えなかった。
代わりに、少し離れた場所で武器を手入れしていたサンドラが顔を上げ、豪快に笑った。
『行ってくりゃ分かるさ』
結局、二人ともそれ以上は教えてくれなかった。
朧には、それが気に入らなかった。
分からないことを分からないままにしておくのは性に合わない。
敵の数も、地形も、依頼の条件も、分からないなら調べればいい。
だが今回ばかりは、何を調べれば答えに辿り着くのかさえ分からなかった。
「相変わらず、説明が足りない」
朧は小さく息を吐き、再び歩き始めた。
腰には一本の刀がある。
古びた鞘に収められた、名も知らぬ刀。
傭兵団を離れた後、立ち寄った古道具屋で、ほとんど捨て値同然に押しつけられたものだ。
刃こぼれ一つなく、いくら使っても鈍らない。
よく斬れ、手に馴染む。
古道具屋の老人は、代金を受け取るとき妙な顔をしていた。
売れて嬉しいというより、そんな品を自分の店に置いていただろうか――そう記憶を探っているような顔だった。
朧は気にしなかった。
刀は刀だ。
斬れれば使う。
斬れなければ捨てる。
朧にとっては、それで十分だった。
鞘の上から柄へ指を添える。
旅の間、何度か抜いた。
手入れらしい手入れもしていないのに、刃は曇らず、重さも変わらない。
妙な刀だとは思う。
だが、戦場には由来の分からない武器など珍しくもない。
持ち主が生き残り、役に立つ。
それ以上を求める理由はなかった。
街へ続く街道は、進むほど人通りを増していった。
荷を運ぶ商人、籠を抱えた農夫、旅装の親子。
誰もが朧をちらりと見ては、すぐに目を逸らす。
白い上衣に濃紺の袴。
長い黒髪と、腰に差した異国風の刀。
見慣れない姿だけが理由ではない。
朧は自分でも気づかぬまま、周囲へ鋭い気配を漏らしていた。
長く戦場に身を置いた者が纏うものは、そう簡単には脱げない。
人々は理由も分からぬまま道を空けた。
朧は気に留めず、街の手前にある小さな宿場へ入った。
すれ違った親子の子供が、母親の袖を引いた。
何かを尋ねる小さな声がしたが、母親は答えず、子供の肩を抱いて道の端へ寄った。
朧はその横を通り過ぎる。
怖がられることには慣れていた。
傭兵団にいた頃なら、それで都合がよかった。
余計な者が近づかず、酒場で絡まれることも減る。
戦場では、こちらを恐れる相手ほど動きが読みやすい。
だから直そうと思ったこともない。
ただ、戦場でもない場所で同じように道が開いていく光景は、ほんの少しだけ奇妙だった。
昼を少し過ぎた時刻だった。
通りには焼いた肉と香草の匂いが漂い、軒先から威勢のよい声が飛び交っている。
その一角に、小さな宿屋があった。
扉を開けると、古い蝶番が低く軋んだ。
外の喧騒が一枚の扉を隔てて遠のいた。
中は広くない。
使い込まれた卓が幾つか並び、壁際には旅人のものらしい荷物が積まれている。
昼食には遅い時刻だが、商人らしい男が二人、酒を飲みながら何かの値段について言い争っていた。
厨房からは煮込んだ肉の匂いが流れてくる。
朧が一歩入ると、話し声が一瞬だけ弱くなった。
視線が集まる。
それも、すぐに散った。
誰も武器へ手を伸ばさない。
その当たり前のことに、朧はわずかな違和感を覚えた。
「いらっしゃい」
帳場にいた恰幅のよい女主人が、朧を見る。
一瞬だけ目を細めたものの、すぐに商売人らしい笑顔を浮かべた。
「泊まりかい?」
「まだ決めていない。食事は頼めるか」
「もちろんだよ。空いてるところへ座んな」
朧が窓際の席へ腰を下ろすと、女主人は厨房へ向かいながら声を張った。
「旅人さんに煮込みとパン! 肉は少し多めにね!」
「普通でいい」
「その身体で普通じゃ足りないよ」
言い返す間もなく、女主人は厨房の奥へ消えた。
ほどなくして運ばれてきた皿には、宣言どおり大ぶりの肉がいくつも入っていた。
「多い」
朧が皿を見下ろすと、女主人は腰に手を当てた。
「若いんだから食べな」
「代金は払う」
「当たり前だよ」
からりと笑い、女主人は別の客のもとへ向かった。
朧はわずかに眉を寄せる。
嫌いな対応ではない。
ただ、傭兵団の外で、何の警戒もなく世話を焼かれることには慣れていなかった。
傭兵団でも食事を囲むことはある。
だが、誰かが肉を多く盛れば、たいてい理由があった。
翌日の戦闘が長引く。
夜通し移動する。
あるいは単純に、余ったから押しつけられる。
目の前の皿には、そういう理由が見当たらない。
女主人は朧の素性も知らない。
名すら聞いていない。
それでも腹が減っているだろうと決めつけ、勝手に肉を増やした。
理解し難い。
朧はそう結論づけて、もう一切れ肉を口へ運んだ。
煮込みを口へ運ぶ。
温かい。
香草の香りはやや強いが、肉はよく煮込まれ、舌の上でほどけた。
半分ほど食べたところで、足元へ小さな気配が近づいてきた。
視線を落とすと、五つか六つほどの男児が、卓の陰から朧を見上げていた。
手には木の枝が握られている。
剣のつもりなのだろう。
「お姉ちゃん、剣士?」
朧は腰の刀へ一度だけ目を向けた。
「似たようなものだ」
「強い?」
「さあな」
男児の目が、今度は刀へ落ちる。
「その刀、見せて」
「駄目だ」
即答すると、頬が露骨に膨らんだ。
「ちょっとだけ」
朧は匙を置き、木の枝を握る小さな手を見た。
「駄目だ」
「けち」
「刃物を子供へ渡す大人よりはましだ」
子供は意味が分からなかったらしく、首を傾げた。
その拍子に木の枝を卓の脚へぶつけ、乾いた音を立てる。
厨房から女主人が顔を出した。
「こら! またお客さんの邪魔して!」
「してない!」
「してるよ! 旅人さん、ごめんねえ」
「構わない」
朧が答えると、子供は懲りもせず、再び木の枝を構えた。
「ぼくも強くなる」
子供は枝を両手で握り直した。
足を大きく開き、見よう見まねらしい構えを取る。
重心は高く、脇も開いている。
剣士なら真っ先に直したくなる姿勢だった。
朧は黙って見た。
子供が勢いよく枝を振る。
ぶん、と頼りない風切り音がした。
本人は満足したらしく、得意げに胸を張った。
「そうか」
「悪いやつを倒す」
得意げな顔を見て、朧はわずかに目を細めた。
「お姉ちゃんも悪いやつ倒す?」
朧はすぐには答えなかった。
「仕事ならな」
「仕事じゃなかったら?」
子供は、何の迷いもない目で見上げてくる。
朧は煮込みの湯気越しに、その顔を見つめた。
傭兵に、敵の善悪は関係ない。
金を払った側の敵を倒す。
それが仕事だ。
だが、その説明を子供へ聞かせる気にはなれなかった。
「自分で決める」
口にしてから、朧は自分の言葉を少しだけ意外に思った。
依頼を受けるかどうかなら自分で決める。
誰を斬るかも、最後には自分で決める。
だが、傭兵として戦場へ立てば、そこには必ず依頼主がいる。
金が動き、目的があり、敵味方が決められる。
本当にすべてを自分で決めてきたのか。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。
朧はすぐに切り捨てた。
子供相手に考えるようなことではない。
やがてそう答えると、子供は満足そうに頷いた。
「じゃあ、お姉ちゃんはいい剣士だ」
「なぜそうなる」
「自分で決めるから」
子供が笑った直後、女主人に首根っこを掴まれた。
「邪魔しちゃ駄目だって、いつも言ってるだろ!」
「お姉ちゃんは怒ってないよ!」
「お姉ちゃんじゃなくて、お客様!」
騒がしい声が厨房の奥へ遠ざかっていく。
朧は食事へ視線を戻した。
煮込みはわずかに冷めていた。
それでも、不思議と先ほどより味が濃く感じられた。
厨房の奥では、まだ子供の抗議する声が聞こえている。
女主人が叱り、その合間に鍋をかき混ぜる音がする。
別の卓では商人たちが再び値段の話を始めていた。
誰も敵の数を数えていない。
次に抜く武器のことも、考えていない。
朧は匙を置いた。
厨房では親子の声が続き、商人たちはまた値段を巡って言い合っている。
十分に騒がしい。
それなのに、戦場を渡り歩いてきた朧には、ひどく静かな場所に感じられた。
ここでは、誰も死なない。
食事を終え、卓へ代金を置く。
宿を出ようとしたところで、女主人が慌てて追いかけてきた。
「多いよ」
「肉が多かった」
「ありゃ、あたしが勝手に増やしたんだ」
「なら、その分だ」
「妙なところで律儀だねえ」
呆れたように笑われた。
朧は返事をせず、扉を開ける。
閉まりかけた扉の向こうで、先ほどの子供が厨房の奥から顔を出した。
「お姉ちゃん、またね!」
朧は振り返らなかった。
ただ、右手をわずかに上げた。
宿場を抜けると、街の門はすぐ近くに見えた。
石壁の前には広い街道が伸び、幾つもの荷馬車が列を作っている。
門兵たちは荷を確かめ、身分と目的を一人ずつ尋ねていた。
どこにでもある、平穏な光景だった。
荷馬車の一台では、御者が門兵と笑いながら言葉を交わしている。
積み荷を確認された商人は面倒そうな顔をしつつも、素直に荷台の覆いをめくった。
門の向こうからは人が出てきて、こちらからは別の者が入っていく。
先ほどの宿屋と同じだ。
荷を運び、順番を待ち、笑いながら門を行き来する。
人が暮らしている。
ただ、それだけの光景だった。
朧は列の最後尾へ向かった。
傭兵だからといって、門を壊して入る理由はない。
少なくとも、朧が近づくまでは。
最初に気づいたのは、列を整理していた若い兵士だった。
兵士の視線が朧へ向く。
その顔から、さっと血の気が引いた。
何かを見たというより、感じ取ったのだろう。
朧が隠し切れずにいる、濃すぎる戦場の気配を。
兵士は腰の剣へ手を伸ばした。
隣にいた者も、それに倣う。
その動きに気づき、周囲の空気が変わった。
先ほどまで不満そうに順番を待っていた商人が口を閉じる。
荷馬車の馬が、手綱を引かれて小さく鼻を鳴らした。
朧は何もしなかった。
刀の柄にも触れていない。
それでも若い兵士の指は、剣の柄を強く握り締めている。
目が合った。
恐怖。
朧には見慣れた目だった。
敵兵が、自分より強い相手を前にしたときの目。
だからこそ、朧には理解できなかった。
まだ何もしていない。
ここは戦場でもない。
なぜ、すでに敵を見る目をしている。
「止まれ」
朧は足を止めた。
「名と所属を述べろ」
「緋月朧。所属は――」
死神傭兵団。
そう答えかけ、兵士の顔に浮かぶ恐怖を見て口を閉じた。
名乗れば、余計な騒ぎになる。
「今は旅人だ」
「その刀を置け」
「断る」
兵士たちの緊張が、一気に張り詰めた。
「武器を捨てろ!」
「入国者全員に言っているのか」
「黙れ!」
怒号に、周囲の人々がざわめき始めた。
荷馬車の御者が手綱を引き、商人たちは道の端へ身を寄せる。
門の内側から、さらに数名の兵士が駆けてきた。
朧を中心に、剣が半円を描く。
剣先が陽光を反射する。
一人、二人、三人。
朧は無意識に数えていた。
立ち位置。
利き腕。
足運び。
装備の重さ。
互いの間隔。
十数名。
その気になれば、抜刀してから数呼吸で終わる。
ただ、一人だけ足運びの違う男がいる。
隊長格だろう。
構えにも無駄が少ない。
それでも、朧にとって脅威と呼べるほどではなかった。
――門を守る兵というのは、この程度なのか。
そう判断したところで、朧は自分が戦場と同じように相手を見ていることに気づいた。
宿屋を出て、まだ大して歩いていない。
さっきまで子供が木の枝を振り回していた。
それなのに、目の前には本物の剣が並んでいる。
朧は小さく息を吐いた。
問答を続ける気はないらしい。
朧はわずかに目を細めた。
恐怖が判断を奪っている。
相手が何者かを確かめる前に、敵だと決めつける――戦場では珍しくない。
だが、ここは戦場ではない。
兵士たちは朧を殺すために来たのではなく、この街を守っている。
恐怖に飲まれているだけなら、こちらから斬る理由もなかった。
朧の右手は、刀から離れたままだった。
朧は立ったまま、相手が次に何をするのかを待った。
門の内側――大通りを歩いていた銀華は、人々が一斉に足を止めたことで異変に気づいた。
買い物籠を抱えた者たちが、門の方を振り返っている。
ほどなく、兵士の怒号が届いた。
銀華は眉を寄せ、人垣の間を足早に抜ける。
あの日から一年。
銀華は、人の声が荒くなる瞬間に敏感になっていた。
誰かが一歩退き、別の誰かが声を強くする。
周囲が息を潜め、その中心だけが熱を持つ。
戦場ほど大きくなくても、争いの始まりはよく似ている。
考えるより先に、足が動いた。
買い物の途中だったことも忘れ、人々の肩越しに門を探す。
嫌な胸騒ぎがした。
遠目にも、異様な光景だと分かった。
見慣れない衣装の女が一人。
その周囲を十数名の兵士が取り囲んでいる。
女は刀の柄へ手を掛けてすらいない。
それでも兵士たちは、すでに襲われたかのような顔をしていた。
「何を――」
銀華が声を上げるより先に、一人の兵士が踏み込んだ。
「動くな!」
剣が振り下ろされる。
朧は半歩だけ身をずらした。
刃が肩口のすぐ脇を抜け、何もない空間を切る。
次の瞬間、鞘に収まったままの刀が兵士の脇腹を打った。
鈍い音が響く。
兵士の身体が宙へ浮き、街道を転がった。
息を詰まらせたまま、起き上がれない。
周囲が凍りつく。
朧は刀を抜いた。
陽光を受け、刃が白く光る。
刃先を見た人々から悲鳴が上がった。
銀華も反射的に息を呑んだ。
速い。
抜刀そのものが見えなかったわけではない。
それでも、目を離せないほど無駄がなかった。
周囲の兵士たちが一斉に身構える。
誰かが後ろで子供を抱き上げ、別の誰かが荷車の陰へ身を隠した。
銀華の身体にも、長く染みついた感覚が戻ってくる。
剣が抜かれた。
次に起こるのは、血だ。
そう思った。
だが朧は、手の中で刀を返した。
峰を前へ向ける。
「この国の剣士は、礼儀も知らないのか」
静かな声だった。
怒鳴ってはいない。
だからこそ、その場にいた者たちの背筋を冷たいものが走った。
「私は名乗った。問いにも答えた。それでも、先に斬り掛かるか」
「こ、こいつを捕らえろ!」
隊長らしき男が叫ぶ。
命令に押されるように、兵士たちが一斉に動いた。
朧の表情から、わずかな温度が消えた。
銀華には、その変化が見えた。
怒鳴り返すでもない。
歯を食いしばるでもない。
むしろ逆だった。
余計な感情が削ぎ落とされ、黒い瞳が静まり返っていく。
その顔を、銀華は知っている。
戦う者の顔。
自分も何度となく浮かべてきたはずの表情だった。
だからこそ、背筋が冷えた。
この人は、本当に戦場を知っている。
最初の剣を、朧は刀の峰で横へ流した。
空いた手首を打ち、返す一撃で肩を沈める。
剣が土へ落ちるより早く、背後から槍が伸びた。
振り返らない。
身体をわずかに傾けて切っ先を外し、柄を掴んで引く。
崩れた胸元へ肘を入れ、膝を払う。
倒れた鎧へ峰を落とすと、鈍い金属音とともに男の身体から力が抜けた。
左右から二人が迫る。
朧は一方の懐へ踏み込み、柄頭で顎を跳ね上げた。
その勢いのまま、もう一方の剣を受け流して鍔元を打つ。
宙へ離れた剣が、乾いた音を立てて転がった。
足音は小さい。
踏み込みも、刀の軌道も必要なだけ。
派手な技は一つもない。
それでも兵士は、一人、また一人と地へ沈んでいった。
朧は相手の力を正面から受けていない。
剣先を僅かにずらし、身体の向きを変え、崩れたところへ必要な一撃だけを置いていく。
銀華には分かった。
力任せではない。
何度も命のやり取りをくぐり抜けた者の動きだ。
相手が剣を上げる前に手首を打ち、踏み込む前に膝を崩す。
囲んだ兵士たちは数の利を得るどころか、互いの動きを邪魔していた。
そこで銀華は気づいた。
朧の刀は、一度も刃を向けていない。
すべて峰打ちだ。
十数人を相手にしながら、斬らないことを選び続けている。
それができるほど、力量に差がある。
それでも、一撃を受けた者は立てなかった。
肩を外され、肋を折られ、脚を打たれて地へ伏す。
命は奪わない。
だが、二度と剣を向けようとは思えないほどの痛みを残す。
朧の怒りは、冷え切っていた。
銀華は人垣の前で、その戦いを見つめていた。
止めなければならない。
そう思う。
だが、声を上げる隙さえない。
朧が、あまりにも強すぎた。
兵士たちが弱いのではない。
この辺境の街を守るため、日々鍛錬を積んでいる。
それでも、目の前にあるものは戦いと呼べなかった。
大人と子供ほどの差がある。
銀華の右手が、腰の剣へ触れた。
指先に、馴染んだ柄の感触が伝わる。
この一年、鍛錬でも護衛でも、必要なら迷わず握ってきた柄だ。
それでも今、指は止まった。
目の前で倒れているのは、この国の兵士。
だが、先に剣を振り下ろしたのも彼らだった。
止めるべきなのは誰なのか。
銀華には、まだ決められない。
鞘の中で、魔剣《青の輝き》がかすかに震える。
抜け、と訴えているようにも感じた。
銀華は柄を握りかけ――手を離した。
相手が何者かも知らず、力だけで止める。
それでは、兵士たちと同じだ。
一年経っても、銀華は「守る」という言葉の答えを見つけていない。
だからこそ、分からないまま剣を抜いてはいけない。
鞘の中で震える《青の輝き》から、銀華はゆっくり指を離した。
最後の一人が、震える手で槍を構えた。
「来るな……!」
朧は歩みを止めない。
「来るな!」
兵士が槍を突き出した。
朧は切っ先をわずかに逸らし、すれ違いざまに柄を斬り上げる。
槍が宙を舞った。
次の瞬間、刀の峰が兵士の喉元で止まる。
男は目を見開いたまま、指一本動かせなかった。
「次はない」
朧が刀を引く。
兵士はその場へ崩れ落ち、腰を抜かしたまま動かなかった。
静寂が落ちた。
風が街道を抜けた。
土埃が低く舞い、先ほどまで張り詰めていた旗布を揺らす。
誰も声を上げない。
倒れた兵士の呻きと、荒い呼吸だけが残っている。
朧は最後の兵士を見下ろした。
追撃はしなかった。
倒れている者にも、刀を向けない。
その姿を見て、銀華はようやく息を吐いた。
自分がいつから息を止めていたのかさえ分からなかった。
街道には十数名の兵士が倒れ、低い呻き声だけが聞こえる。
血はほとんど流れていない。
だが、軽傷と呼べる者もいなかった。
朧は刀を鞘へ納めた。
増援の気配はない。
門の上の兵士たちも、弓を構えたまま動けずにいる。
誰も、次の一歩を踏み出そうとはしなかった。
銀華はようやく人垣から飛び出した。
向かったのは朧ではない。
倒れた兵士のもとだった。
「大丈夫ですか!」
返事はない。
銀華は膝をつき、呼吸を確かめる。
生きている。
だが、腕が不自然な方向へ曲がっていた。
銀華は顔を上げ、周囲へ声を張った。
「治療できる方を呼んでください! 急いで!」
怯えていた街の者たちが、はっと我に返る。
「神殿へ!」
「治療師を呼べ!」
「担架を持ってこい!」
止まっていた人々が、一斉に動き始めた。
ほどなく、神殿から治療師たちが駆けつけた。
傷口を押さえる者、折れた腕を添え木で固定する者、担架を広げる者。
それぞれが倒れた兵士のもとへ散っていく。
「清潔な布と水を。急いでください」
治療師の声に、街の者たちが再び走り出した。
銀華は別の兵士へ駆け寄る。
胸当てが大きくへこみ、息は浅い。
下手に動かせば危険だった。
「そのままでいてください。すぐに治療師が来ます」
兵士は苦痛に顔を歪めながら、朧の方を見た。
「ば、化け物……」
銀華もその視線を追う。
朧はすでに背を向けていた。
開かれた門には近づかず、そのまま来た街道を戻っていく。
誰も止めようとはしなかった。
銀華の胸に、焦りにも似た感情が湧いた。
このまま行かせてはいけない。
危険な人物ではある。
十数名の兵士を一人で倒し、呼吸一つ乱していない。
それでも、銀華の胸を押したのは恐怖ではなかった。
知りたい。
なぜ斬らなかったのか。
あれほど怒りながら、なぜ最後の一線だけは越えなかったのか。
危険人物だから見張る――そう理由をつけることもできる。
だが、それだけなら、遠ざかる背中を見てこれほど焦るはずがない。
銀華には、朧の選択が偶然とは思えなかった。
「ここをお願いします」
駆け寄ってきた年配の男へ告げる。
「え?」
「治療師が来るまで、皆さんを動かさないでください」
「お、お嬢さんは?」
銀華は立ち上がった。
門の向こうへ続く街道。
その先で、黒髪の背中が少しずつ遠ざかっている。
「少し、話をしてきます」
何を話すのかは、まだ決めていない。
それでも銀華は走り出した。
銀色の髪が、午後の光の中で揺れた。
村を守れなかったあの日から、ちょうど一年が過ぎていた。




