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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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第一章 見知らぬ友  1-1 辺境の門

 蒼緑王国の辺境の街が見え始めた頃、緋月朧は足を止めた。


 丘陵を越えた先に、低い石壁に囲まれた街が広がっている。


 城壁というより、獣や盗賊を防ぐための防護壁に近い。


 その向こうには木造の家々が寄り集まり、屋根の間から細い煙が立ち昇っていた。


 荒野と乾いた山道を幾日も越えてきた。


 街の周囲には森が迫り、風にもわずかな湿り気がある。


 王都から馬車でおよそ一週間。


 翠葉――この国の端に位置する街だった。


 朧は目を細めた。


 これまで通ってきた土地とは、空気そのものが違っていた。


 乾いた土と岩ばかりだった道は、いつの間にか草の色を増し、街道の脇には名も知らぬ小さな花まで咲いている。


 遠くからは鳥の声が聞こえ、森の葉が風を受けて重なり合う音がした。


 戦場へ向かう道なら、もっと分かりやすい。


 土に残った車輪の深さ。


 馬の蹄。


 人の数。


 風に混じる鉄と煙の匂い。


 そうしたものを拾えば、この先に何があるのか、おおよその見当はつく。


 だが、ここにはそれがない。


 畑から戻る農夫が肩に鍬を担ぎ、街道脇では荷車を止めた商人が水筒を回し飲みしている。


 誰も空を警戒せず、森の奥へ目を凝らしてもいない。


 平穏とは、こういうものなのだろう。


 朧はそう考えたが、それ以上の感想は浮かばなかった。


「ここが、蒼緑の端か」


 誰に聞かせるでもなく呟き、朧は遠くの門を見た。


 蒼緑王国を訪れるのは初めてだった。


 目的は、剣聖と呼ばれる白峰静に会うこと。


 王都へ向かう途中、休息のために翠葉へ立ち寄った。


 死神傭兵団を離れてから、すでにひと月近くが過ぎている。


 あくまで一時的な離脱で、団を辞めたつもりはない。


 美葉もサンドラも、朧が戻らないとは考えていないだろう。


 朧自身も、いずれ戻るつもりでいた。


 それでも、送り出された日の言葉だけは、今も耳に残っている。


『お前は、ここではこれ以上強くなれない』


 美葉は、いつもの静かな口調でそう告げた。


 見限られたとは思わなかった。


 美葉もサンドラも、朧がいつか自分たちを越えると疑いなく信じている。


 だからこそ、その言葉の意味が分からなかった。


 死神傭兵団には強者がいる。


 命を預けられる戦友もいる。


 戦場を渡り歩けば、刃を交える相手にも事欠かない。


 強くなるために必要なものなら、すでに揃っているように思えた。


 それでも美葉は言った。


『外を見てこい』


 何を見ればいい――そう問い返した朧に、美葉は答えなかった。


 代わりに、少し離れた場所で武器を手入れしていたサンドラが顔を上げ、豪快に笑った。


『行ってくりゃ分かるさ』


 結局、二人ともそれ以上は教えてくれなかった。


 朧には、それが気に入らなかった。


 分からないことを分からないままにしておくのは性に合わない。


 敵の数も、地形も、依頼の条件も、分からないなら調べればいい。


 だが今回ばかりは、何を調べれば答えに辿り着くのかさえ分からなかった。


「相変わらず、説明が足りない」


 朧は小さく息を吐き、再び歩き始めた。


 腰には一本の刀がある。


 古びた鞘に収められた、名も知らぬ刀。


 傭兵団を離れた後、立ち寄った古道具屋で、ほとんど捨て値同然に押しつけられたものだ。


 刃こぼれ一つなく、いくら使っても鈍らない。


 よく斬れ、手に馴染む。


 古道具屋の老人は、代金を受け取るとき妙な顔をしていた。


 売れて嬉しいというより、そんな品を自分の店に置いていただろうか――そう記憶を探っているような顔だった。


 朧は気にしなかった。


 刀は刀だ。


 斬れれば使う。


 斬れなければ捨てる。


 朧にとっては、それで十分だった。


 鞘の上から柄へ指を添える。


 旅の間、何度か抜いた。


 手入れらしい手入れもしていないのに、刃は曇らず、重さも変わらない。


 妙な刀だとは思う。


 だが、戦場には由来の分からない武器など珍しくもない。


 持ち主が生き残り、役に立つ。


 それ以上を求める理由はなかった。


 街へ続く街道は、進むほど人通りを増していった。


 荷を運ぶ商人、籠を抱えた農夫、旅装の親子。


 誰もが朧をちらりと見ては、すぐに目を逸らす。


 白い上衣に濃紺の袴。


 長い黒髪と、腰に差した異国風の刀。


 見慣れない姿だけが理由ではない。


 朧は自分でも気づかぬまま、周囲へ鋭い気配を漏らしていた。


 長く戦場に身を置いた者が纏うものは、そう簡単には脱げない。


 人々は理由も分からぬまま道を空けた。


 朧は気に留めず、街の手前にある小さな宿場へ入った。


 すれ違った親子の子供が、母親の袖を引いた。


 何かを尋ねる小さな声がしたが、母親は答えず、子供の肩を抱いて道の端へ寄った。


 朧はその横を通り過ぎる。


 怖がられることには慣れていた。


 傭兵団にいた頃なら、それで都合がよかった。


 余計な者が近づかず、酒場で絡まれることも減る。


 戦場では、こちらを恐れる相手ほど動きが読みやすい。


 だから直そうと思ったこともない。


 ただ、戦場でもない場所で同じように道が開いていく光景は、ほんの少しだけ奇妙だった。


 昼を少し過ぎた時刻だった。


 通りには焼いた肉と香草の匂いが漂い、軒先から威勢のよい声が飛び交っている。


 その一角に、小さな宿屋があった。


 扉を開けると、古い蝶番が低く軋んだ。


 外の喧騒が一枚の扉を隔てて遠のいた。


 中は広くない。


 使い込まれた卓が幾つか並び、壁際には旅人のものらしい荷物が積まれている。


 昼食には遅い時刻だが、商人らしい男が二人、酒を飲みながら何かの値段について言い争っていた。


 厨房からは煮込んだ肉の匂いが流れてくる。


 朧が一歩入ると、話し声が一瞬だけ弱くなった。


 視線が集まる。


 それも、すぐに散った。


 誰も武器へ手を伸ばさない。


 その当たり前のことに、朧はわずかな違和感を覚えた。


「いらっしゃい」


 帳場にいた恰幅のよい女主人が、朧を見る。


 一瞬だけ目を細めたものの、すぐに商売人らしい笑顔を浮かべた。


「泊まりかい?」


「まだ決めていない。食事は頼めるか」


「もちろんだよ。空いてるところへ座んな」


 朧が窓際の席へ腰を下ろすと、女主人は厨房へ向かいながら声を張った。


「旅人さんに煮込みとパン! 肉は少し多めにね!」


「普通でいい」


「その身体で普通じゃ足りないよ」


 言い返す間もなく、女主人は厨房の奥へ消えた。


 ほどなくして運ばれてきた皿には、宣言どおり大ぶりの肉がいくつも入っていた。


「多い」


 朧が皿を見下ろすと、女主人は腰に手を当てた。


「若いんだから食べな」


「代金は払う」


「当たり前だよ」


 からりと笑い、女主人は別の客のもとへ向かった。


 朧はわずかに眉を寄せる。


 嫌いな対応ではない。


 ただ、傭兵団の外で、何の警戒もなく世話を焼かれることには慣れていなかった。


 傭兵団でも食事を囲むことはある。


 だが、誰かが肉を多く盛れば、たいてい理由があった。


 翌日の戦闘が長引く。


 夜通し移動する。


 あるいは単純に、余ったから押しつけられる。


 目の前の皿には、そういう理由が見当たらない。


 女主人は朧の素性も知らない。


 名すら聞いていない。


 それでも腹が減っているだろうと決めつけ、勝手に肉を増やした。


 理解し難い。


 朧はそう結論づけて、もう一切れ肉を口へ運んだ。


 煮込みを口へ運ぶ。


 温かい。


 香草の香りはやや強いが、肉はよく煮込まれ、舌の上でほどけた。


 半分ほど食べたところで、足元へ小さな気配が近づいてきた。


 視線を落とすと、五つか六つほどの男児が、卓の陰から朧を見上げていた。


 手には木の枝が握られている。


 剣のつもりなのだろう。


「お姉ちゃん、剣士?」


 朧は腰の刀へ一度だけ目を向けた。


「似たようなものだ」


「強い?」


「さあな」


 男児の目が、今度は刀へ落ちる。


「その刀、見せて」


「駄目だ」


 即答すると、頬が露骨に膨らんだ。


「ちょっとだけ」


 朧は匙を置き、木の枝を握る小さな手を見た。


「駄目だ」


「けち」


「刃物を子供へ渡す大人よりはましだ」


 子供は意味が分からなかったらしく、首を傾げた。


 その拍子に木の枝を卓の脚へぶつけ、乾いた音を立てる。


 厨房から女主人が顔を出した。


「こら! またお客さんの邪魔して!」


「してない!」


「してるよ! 旅人さん、ごめんねえ」


「構わない」


 朧が答えると、子供は懲りもせず、再び木の枝を構えた。


「ぼくも強くなる」


 子供は枝を両手で握り直した。


 足を大きく開き、見よう見まねらしい構えを取る。


 重心は高く、脇も開いている。


 剣士なら真っ先に直したくなる姿勢だった。


 朧は黙って見た。


 子供が勢いよく枝を振る。


 ぶん、と頼りない風切り音がした。


 本人は満足したらしく、得意げに胸を張った。


「そうか」


「悪いやつを倒す」


 得意げな顔を見て、朧はわずかに目を細めた。


「お姉ちゃんも悪いやつ倒す?」


 朧はすぐには答えなかった。


「仕事ならな」


「仕事じゃなかったら?」


 子供は、何の迷いもない目で見上げてくる。


 朧は煮込みの湯気越しに、その顔を見つめた。


 傭兵に、敵の善悪は関係ない。


 金を払った側の敵を倒す。


 それが仕事だ。


 だが、その説明を子供へ聞かせる気にはなれなかった。


「自分で決める」


 口にしてから、朧は自分の言葉を少しだけ意外に思った。


 依頼を受けるかどうかなら自分で決める。


 誰を斬るかも、最後には自分で決める。


 だが、傭兵として戦場へ立てば、そこには必ず依頼主がいる。


 金が動き、目的があり、敵味方が決められる。


 本当にすべてを自分で決めてきたのか。


 そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。


 朧はすぐに切り捨てた。


 子供相手に考えるようなことではない。


 やがてそう答えると、子供は満足そうに頷いた。


「じゃあ、お姉ちゃんはいい剣士だ」


「なぜそうなる」


「自分で決めるから」


 子供が笑った直後、女主人に首根っこを掴まれた。


「邪魔しちゃ駄目だって、いつも言ってるだろ!」


「お姉ちゃんは怒ってないよ!」


「お姉ちゃんじゃなくて、お客様!」


 騒がしい声が厨房の奥へ遠ざかっていく。


 朧は食事へ視線を戻した。


 煮込みはわずかに冷めていた。


 それでも、不思議と先ほどより味が濃く感じられた。


 厨房の奥では、まだ子供の抗議する声が聞こえている。


 女主人が叱り、その合間に鍋をかき混ぜる音がする。


 別の卓では商人たちが再び値段の話を始めていた。


 誰も敵の数を数えていない。


 次に抜く武器のことも、考えていない。


 朧は匙を置いた。


 厨房では親子の声が続き、商人たちはまた値段を巡って言い合っている。


 十分に騒がしい。


 それなのに、戦場を渡り歩いてきた朧には、ひどく静かな場所に感じられた。


 ここでは、誰も死なない。


 食事を終え、卓へ代金を置く。


 宿を出ようとしたところで、女主人が慌てて追いかけてきた。


「多いよ」


「肉が多かった」


「ありゃ、あたしが勝手に増やしたんだ」


「なら、その分だ」


「妙なところで律儀だねえ」


 呆れたように笑われた。


 朧は返事をせず、扉を開ける。


 閉まりかけた扉の向こうで、先ほどの子供が厨房の奥から顔を出した。


「お姉ちゃん、またね!」


 朧は振り返らなかった。


 ただ、右手をわずかに上げた。


 宿場を抜けると、街の門はすぐ近くに見えた。


 石壁の前には広い街道が伸び、幾つもの荷馬車が列を作っている。


 門兵たちは荷を確かめ、身分と目的を一人ずつ尋ねていた。


 どこにでもある、平穏な光景だった。


 荷馬車の一台では、御者が門兵と笑いながら言葉を交わしている。


 積み荷を確認された商人は面倒そうな顔をしつつも、素直に荷台の覆いをめくった。


 門の向こうからは人が出てきて、こちらからは別の者が入っていく。


 先ほどの宿屋と同じだ。


 荷を運び、順番を待ち、笑いながら門を行き来する。


 人が暮らしている。


 ただ、それだけの光景だった。


 朧は列の最後尾へ向かった。


 傭兵だからといって、門を壊して入る理由はない。


 少なくとも、朧が近づくまでは。


 最初に気づいたのは、列を整理していた若い兵士だった。


 兵士の視線が朧へ向く。


 その顔から、さっと血の気が引いた。


 何かを見たというより、感じ取ったのだろう。


 朧が隠し切れずにいる、濃すぎる戦場の気配を。


 兵士は腰の剣へ手を伸ばした。


 隣にいた者も、それに倣う。


 その動きに気づき、周囲の空気が変わった。


 先ほどまで不満そうに順番を待っていた商人が口を閉じる。


 荷馬車の馬が、手綱を引かれて小さく鼻を鳴らした。


 朧は何もしなかった。


 刀の柄にも触れていない。


 それでも若い兵士の指は、剣の柄を強く握り締めている。


 目が合った。


 恐怖。


 朧には見慣れた目だった。


 敵兵が、自分より強い相手を前にしたときの目。


 だからこそ、朧には理解できなかった。


 まだ何もしていない。


 ここは戦場でもない。


 なぜ、すでに敵を見る目をしている。


「止まれ」


 朧は足を止めた。


「名と所属を述べろ」


「緋月朧。所属は――」


 死神傭兵団。


 そう答えかけ、兵士の顔に浮かぶ恐怖を見て口を閉じた。


 名乗れば、余計な騒ぎになる。


「今は旅人だ」


「その刀を置け」


「断る」


 兵士たちの緊張が、一気に張り詰めた。


「武器を捨てろ!」


「入国者全員に言っているのか」


「黙れ!」


 怒号に、周囲の人々がざわめき始めた。


 荷馬車の御者が手綱を引き、商人たちは道の端へ身を寄せる。


 門の内側から、さらに数名の兵士が駆けてきた。


 朧を中心に、剣が半円を描く。


 剣先が陽光を反射する。


 一人、二人、三人。


 朧は無意識に数えていた。


 立ち位置。


 利き腕。


 足運び。


 装備の重さ。


 互いの間隔。


 十数名。


 その気になれば、抜刀してから数呼吸で終わる。


 ただ、一人だけ足運びの違う男がいる。


 隊長格だろう。


 構えにも無駄が少ない。


 それでも、朧にとって脅威と呼べるほどではなかった。


 ――門を守る兵というのは、この程度なのか。


 そう判断したところで、朧は自分が戦場と同じように相手を見ていることに気づいた。


 宿屋を出て、まだ大して歩いていない。


 さっきまで子供が木の枝を振り回していた。


 それなのに、目の前には本物の剣が並んでいる。


 朧は小さく息を吐いた。


 問答を続ける気はないらしい。


 朧はわずかに目を細めた。


 恐怖が判断を奪っている。


 相手が何者かを確かめる前に、敵だと決めつける――戦場では珍しくない。


 だが、ここは戦場ではない。


 兵士たちは朧を殺すために来たのではなく、この街を守っている。


 恐怖に飲まれているだけなら、こちらから斬る理由もなかった。


 朧の右手は、刀から離れたままだった。


 朧は立ったまま、相手が次に何をするのかを待った。


 門の内側――大通りを歩いていた銀華は、人々が一斉に足を止めたことで異変に気づいた。


 買い物籠を抱えた者たちが、門の方を振り返っている。


 ほどなく、兵士の怒号が届いた。


 銀華は眉を寄せ、人垣の間を足早に抜ける。


 挿絵(By みてみん)


 あの日から一年。


 銀華は、人の声が荒くなる瞬間に敏感になっていた。


 誰かが一歩退き、別の誰かが声を強くする。


 周囲が息を潜め、その中心だけが熱を持つ。


 戦場ほど大きくなくても、争いの始まりはよく似ている。


 考えるより先に、足が動いた。


 買い物の途中だったことも忘れ、人々の肩越しに門を探す。


 嫌な胸騒ぎがした。


 遠目にも、異様な光景だと分かった。


 見慣れない衣装の女が一人。


 その周囲を十数名の兵士が取り囲んでいる。


 女は刀の柄へ手を掛けてすらいない。


 それでも兵士たちは、すでに襲われたかのような顔をしていた。


「何を――」


 銀華が声を上げるより先に、一人の兵士が踏み込んだ。


「動くな!」


 剣が振り下ろされる。


 朧は半歩だけ身をずらした。


 刃が肩口のすぐ脇を抜け、何もない空間を切る。


 次の瞬間、鞘に収まったままの刀が兵士の脇腹を打った。


 鈍い音が響く。


 兵士の身体が宙へ浮き、街道を転がった。


 息を詰まらせたまま、起き上がれない。


 周囲が凍りつく。


 朧は刀を抜いた。


 陽光を受け、刃が白く光る。


 刃先を見た人々から悲鳴が上がった。


 銀華も反射的に息を呑んだ。


 速い。


 抜刀そのものが見えなかったわけではない。


 それでも、目を離せないほど無駄がなかった。


 周囲の兵士たちが一斉に身構える。


 誰かが後ろで子供を抱き上げ、別の誰かが荷車の陰へ身を隠した。


 銀華の身体にも、長く染みついた感覚が戻ってくる。


 剣が抜かれた。


 次に起こるのは、血だ。


 そう思った。


 だが朧は、手の中で刀を返した。


 峰を前へ向ける。


「この国の剣士は、礼儀も知らないのか」


 静かな声だった。


 怒鳴ってはいない。


 だからこそ、その場にいた者たちの背筋を冷たいものが走った。


「私は名乗った。問いにも答えた。それでも、先に斬り掛かるか」


「こ、こいつを捕らえろ!」


 隊長らしき男が叫ぶ。


 命令に押されるように、兵士たちが一斉に動いた。


 朧の表情から、わずかな温度が消えた。


 銀華には、その変化が見えた。


 怒鳴り返すでもない。


 歯を食いしばるでもない。


 むしろ逆だった。


 余計な感情が削ぎ落とされ、黒い瞳が静まり返っていく。


 その顔を、銀華は知っている。


 戦う者の顔。


 自分も何度となく浮かべてきたはずの表情だった。


 だからこそ、背筋が冷えた。


 この人は、本当に戦場を知っている。


 最初の剣を、朧は刀の峰で横へ流した。


 空いた手首を打ち、返す一撃で肩を沈める。


 剣が土へ落ちるより早く、背後から槍が伸びた。


 振り返らない。


 身体をわずかに傾けて切っ先を外し、柄を掴んで引く。


 崩れた胸元へ肘を入れ、膝を払う。


 倒れた鎧へ峰を落とすと、鈍い金属音とともに男の身体から力が抜けた。


 左右から二人が迫る。


 朧は一方の懐へ踏み込み、柄頭で顎を跳ね上げた。


 その勢いのまま、もう一方の剣を受け流して鍔元を打つ。


 宙へ離れた剣が、乾いた音を立てて転がった。


 足音は小さい。


 踏み込みも、刀の軌道も必要なだけ。


 派手な技は一つもない。


 それでも兵士は、一人、また一人と地へ沈んでいった。


 朧は相手の力を正面から受けていない。


 剣先を僅かにずらし、身体の向きを変え、崩れたところへ必要な一撃だけを置いていく。


 銀華には分かった。


 力任せではない。


 何度も命のやり取りをくぐり抜けた者の動きだ。


 相手が剣を上げる前に手首を打ち、踏み込む前に膝を崩す。


 囲んだ兵士たちは数の利を得るどころか、互いの動きを邪魔していた。


 そこで銀華は気づいた。


 朧の刀は、一度も刃を向けていない。


 すべて峰打ちだ。


 十数人を相手にしながら、斬らないことを選び続けている。


 それができるほど、力量に差がある。


 それでも、一撃を受けた者は立てなかった。


 肩を外され、肋を折られ、脚を打たれて地へ伏す。


 命は奪わない。


 だが、二度と剣を向けようとは思えないほどの痛みを残す。


 朧の怒りは、冷え切っていた。


 銀華は人垣の前で、その戦いを見つめていた。


 止めなければならない。


 そう思う。


 だが、声を上げる隙さえない。


 朧が、あまりにも強すぎた。


 兵士たちが弱いのではない。


 この辺境の街を守るため、日々鍛錬を積んでいる。


 それでも、目の前にあるものは戦いと呼べなかった。


 大人と子供ほどの差がある。


 銀華の右手が、腰の剣へ触れた。


 指先に、馴染んだ柄の感触が伝わる。


 この一年、鍛錬でも護衛でも、必要なら迷わず握ってきた柄だ。


 それでも今、指は止まった。


 目の前で倒れているのは、この国の兵士。


 だが、先に剣を振り下ろしたのも彼らだった。


 止めるべきなのは誰なのか。


 銀華には、まだ決められない。


 鞘の中で、魔剣《青の輝き》がかすかに震える。


 抜け、と訴えているようにも感じた。


 銀華は柄を握りかけ――手を離した。


 相手が何者かも知らず、力だけで止める。


 それでは、兵士たちと同じだ。


 一年経っても、銀華は「守る」という言葉の答えを見つけていない。


 だからこそ、分からないまま剣を抜いてはいけない。


 鞘の中で震える《青の輝き》から、銀華はゆっくり指を離した。


 最後の一人が、震える手で槍を構えた。


「来るな……!」


 朧は歩みを止めない。


「来るな!」


 兵士が槍を突き出した。


 朧は切っ先をわずかに逸らし、すれ違いざまに柄を斬り上げる。


 槍が宙を舞った。


 次の瞬間、刀の峰が兵士の喉元で止まる。


 男は目を見開いたまま、指一本動かせなかった。


「次はない」


 朧が刀を引く。


 兵士はその場へ崩れ落ち、腰を抜かしたまま動かなかった。


 静寂が落ちた。


 風が街道を抜けた。


 土埃が低く舞い、先ほどまで張り詰めていた旗布を揺らす。


 誰も声を上げない。


 倒れた兵士の呻きと、荒い呼吸だけが残っている。


 朧は最後の兵士を見下ろした。


 追撃はしなかった。


 倒れている者にも、刀を向けない。


 その姿を見て、銀華はようやく息を吐いた。


 自分がいつから息を止めていたのかさえ分からなかった。


 街道には十数名の兵士が倒れ、低い呻き声だけが聞こえる。


 血はほとんど流れていない。


 だが、軽傷と呼べる者もいなかった。


 朧は刀を鞘へ納めた。


 増援の気配はない。


 門の上の兵士たちも、弓を構えたまま動けずにいる。


 誰も、次の一歩を踏み出そうとはしなかった。


 銀華はようやく人垣から飛び出した。


 向かったのは朧ではない。


 倒れた兵士のもとだった。


「大丈夫ですか!」


 返事はない。


 銀華は膝をつき、呼吸を確かめる。


 生きている。


 だが、腕が不自然な方向へ曲がっていた。


 銀華は顔を上げ、周囲へ声を張った。


「治療できる方を呼んでください! 急いで!」


 怯えていた街の者たちが、はっと我に返る。


「神殿へ!」


「治療師を呼べ!」


「担架を持ってこい!」


 止まっていた人々が、一斉に動き始めた。


 ほどなく、神殿から治療師たちが駆けつけた。


 傷口を押さえる者、折れた腕を添え木で固定する者、担架を広げる者。


 それぞれが倒れた兵士のもとへ散っていく。


「清潔な布と水を。急いでください」


 治療師の声に、街の者たちが再び走り出した。


 銀華は別の兵士へ駆け寄る。


 胸当てが大きくへこみ、息は浅い。


 下手に動かせば危険だった。


「そのままでいてください。すぐに治療師が来ます」


 兵士は苦痛に顔を歪めながら、朧の方を見た。


「ば、化け物……」


 銀華もその視線を追う。


 朧はすでに背を向けていた。


 開かれた門には近づかず、そのまま来た街道を戻っていく。


 誰も止めようとはしなかった。


 銀華の胸に、焦りにも似た感情が湧いた。


 このまま行かせてはいけない。


 危険な人物ではある。


 十数名の兵士を一人で倒し、呼吸一つ乱していない。


 それでも、銀華の胸を押したのは恐怖ではなかった。


 知りたい。


 なぜ斬らなかったのか。


 あれほど怒りながら、なぜ最後の一線だけは越えなかったのか。


 危険人物だから見張る――そう理由をつけることもできる。


 だが、それだけなら、遠ざかる背中を見てこれほど焦るはずがない。


 銀華には、朧の選択が偶然とは思えなかった。


「ここをお願いします」


 駆け寄ってきた年配の男へ告げる。


「え?」


「治療師が来るまで、皆さんを動かさないでください」


「お、お嬢さんは?」


 銀華は立ち上がった。


 門の向こうへ続く街道。


 その先で、黒髪の背中が少しずつ遠ざかっている。


「少し、話をしてきます」


 何を話すのかは、まだ決めていない。


 それでも銀華は走り出した。


 銀色の髪が、午後の光の中で揺れた。


 村を守れなかったあの日から、ちょうど一年が過ぎていた。



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