閑話 星の下で
閑話 星の下で
夜は、思っていたより静かだった。
昼間まで吹いていた風も、日が沈むころには止んでいる。
街道から少し外れた丘の上。
銀華は一人、腰を下ろしていた。
近くに村はない。
宿場もない。
今日中に次の町まで辿り着くつもりだったが、途中で足を止めた。
理由は、特になかった。
疲れていたからかもしれない。
ただ、今日はこれ以上歩きたくない。
そう思っただけだった。
焚き火を起こすほど寒くもない。
銀華は剣を地面へ突き刺し、その横で膝を抱えた。
見上げれば、雲一つない夜空が広がっている。
月は高く、星々は淡い光を瞬かせていた。
王都で見る夜空より、ずっと近く感じる。
「……綺麗」
呟いてから、銀華は少しだけ笑った。
誰に聞かせるでもない言葉だった。
旅に出てから、こうして一人で夜を越すことにも慣れた。
最初のころは、草が揺れるだけで振り返った。獣の声がすれば剣へ手を伸ばし、遠くに人影らしきものを見つければ、旅人か、盗賊か、それとも見間違いかと身構えた。
けれど半年も歩いていれば、耳が覚える。
風が草を撫でる音。獣が藪を抜ける音。人の足音。
そして、ときおり訪れる――音のない、危険な沈黙。
そういうものを、銀華は少しずつ知った。
だから今夜は、怖くない。
怖くないはずだった。
「…………」
銀華は膝へ額を寄せた。
静かすぎる。
そう思った。
昼間はよかった。
歩いていればいい。
誰かと話していればいい。
困っている人がいれば手を貸し、争いがあれば止める。
それでも止まらなければ、剣を抜く。
やるべきことがある間は、余計なことを考えずに済んだ。
だが夜になると違う。
誰もいない夜。
剣を振る必要もない夜。
歩かなくてもいい夜。
そんな時間だけは、どうしても考えてしまう。
「私……何をしているんだろう」
声にすると、思っていた以上に弱々しく聞こえた。
銀華は自分の声なのに少し驚いた。
将軍を辞めた。
旅に出た。
王都を離れた。
それから半年。
いくつもの町を通った。
小さな村にも立ち寄った。
争いにも出会った。
戦場にも立った。
名前も知らない兵士と肩を並べたこともある。
名も知らない人を助けた。
反対に、助けられなかった人もいる。
旅立った日の自分なら、もっと違う景色が待っていると思っていたのかもしれない。
世界は広い。
知らないものがたくさんある。
それを見れば、自分も何か変われるのではないか。
そんなことを、どこかで期待していた。
けれど――。
「それは、きっと……間違ってはいない」
銀華は小さく呟いた。
間違ってはいない。
この半年で知ったものは多い。
蒼緑王国では見たことのない料理。
聞いたことのない歌。
変わった訛りで話す人々。
土地によって違う神々への祈り。
旅人を警戒する村もあれば、名前も聞かずに食事を出してくれる家もあった。
子どもたちは、どこへ行ってもよく笑った。
老人たちは、どこへ行っても昔話が長かった。
兵士たちは、故郷の話になるとよく似た顔をした。
世界は、自分が思っていたより広かった。
けれど、人は――思っていたより、どこへ行っても同じだった。
守りたい誰かがいる。
憎まずにはいられない誰かがいる。
帰りを待つ人がいて、帰れない人がいる。
笑う人がいて、そのすぐ近くで泣いている人がいる。
銀華は、この半年でそれを知った。
それなのに。
「……どうしてかな」
胸の奥に残っているものだけは、半年経っても消えなかった。
目を閉じる。
すると、夜の丘ではない景色が浮かんだ。
焼け落ちた家。
炭になった柱。
踏みしめるたび、灰の舞った地面。
泣いていた子どもたち。
父親は帰ってくるのかと尋ねた、あの少年。
答えられずに立ち尽くした自分。
半年経っても、その景色だけは色褪せなかった。
銀華は膝を抱く腕へ力を込めた。
「…………」
忘れたことなど、一度もない。
忘れようとしたこともない。
けれど、いつか少しは薄くなるのだと思っていた。
しずが言ってくれた。
傷をなかったことにはできない。
傷を知ったからこそ、守れるものもある。
あの言葉に救われた。
今でも救われている。
だから歩けた。
王都を出ることもできた。
それでも――。
「まだ、痛いんだ……」
銀華は誰もいない夜へ呟いた。
半年も経った。
笑えるようにもなった。食事をおいしいと思える。誰かとの会話を楽しいとも思える。
だから、少しずつ遠ざかっているのだと思っていた。
違った。
胸の奥に刺さったものは、普段はただ静かにしているだけだった。
ふとした瞬間に痛み、それがまだそこにあるのだと知らせてくる。
「私が、もっと強かったら……」
何度考えただろう。
あの日。
もっと早く気づいていたら。
違う命令を出していたら。
もっと多くの兵を残していたら。
自分が村にいれば。
他に方法があったのではないか。
何か一つでも違っていれば。
あんなことには、ならなかったのではないか。
「…………」
答えは出ない。
何度考えても、答えは出なかった。
過去は変わらない。
それくらい、分かっている。
分かっているのに考えてしまう。
「もっと……できたんじゃないかな」
ぽつりと落ちた声が、夜へ消える。
銀華は顔を伏せた。
将軍だったころ。
強くなればいいと思っていた。
誰よりも剣を振る。
誰よりも訓練する。
誰よりも先に敵の前へ立つ。
自分が強ければ、その後ろにいる人を守れる。
単純なことだと思っていた。
けれど、違った。
どれほど強くても、すべての場所にはいられない。
どれほど速く剣を振れても、遠く離れた誰かには届かない。
一つを守ると決めた瞬間、別の場所へは行けなくなる。
選ばなければならない。
そして、その選択が正しかったのかどうかは、終わってからでなければ分からない。
――終わったあとでさえ、分からないことがある。
「強くなりたい……」
昔から、何度も口にした言葉だった。
けれど今は、その意味が少し違う。
「もっと、強くなりたい」
欲しいのは、剣の強さだけではない。
迷いながらでも選べる強さ。
失ったあとにも歩ける強さ。
誰かに責められても、自分がなぜその道を選んだのかを忘れない強さ。
そしていつか――自分自身を許せる強さ。
「…………」
そこまで考えて、銀華は首を横へ振った。
「難しいな……」
思わず笑ってしまった。
剣の修行なら、まだ分かりやすい。
千回振れば、千回分だけ身体が覚える。
走れば足が強くなる。
負ければ、何が足りないのかを考えられる。
けれど心は、そう簡単ではないらしい。
「しずなら、何て言うかな」
夜空を見上げる。
想像してみた。
きっと、長いことは言わない。
しずはいつもそうだった。
銀華がどれほど悩んでいても、必要な言葉だけを置いていく。
――考えすぎだ。
そんなところだろうか。
「……言いそう」
少しだけ笑った。
瑠璃ならどうだろう。
銀華はもう一人の顔を思い浮かべた。
きっと、あの冷静な顔でこちらを見る。
そして。
――お前が選んだ道だ。
「……それも言いそう」
今度は、先ほどより少しだけ自然に笑えた。
不思議だった。
二人ともここにはいない。
何百里も離れた場所にいる。
それなのに、声だけは思い出せる。
しずが言ってくれた。
君は一人じゃない、と。
瑠璃も、信じてくれた。
必ず、生きて帰れ。
そう言って送り出してくれた。
あのときは、ただ嬉しかった。
自分の帰りを待ってくれる人がいる。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
けれど同時に、怖くもなった。
その信頼に応えられるのだろうか。
また間違えたら。
また守れなかったら。
また誰かを泣かせたら。
「…………」
銀華の頬を、一筋の涙が伝った。
拭かなかった。
誰も見ていない。
今夜くらいは、いいと思った。
「たまには……いいよね」
誰に許しを求めたのか、自分でも分からない。
泣くことくらい。
弱くなることくらい。
少しだけ立ち止まることくらい。
今夜だけなら。
銀華は膝へ顔を伏せた。
風が吹いた。
銀色の髪が頬へ触れる。
草が揺れる。
それだけだった。
慰める声はない。
答えをくれる人もいない。
けれど今夜は、それでよかった。
誰かの言葉ではなく、自分の中に残っているものを、自分で確かめたかった。
旅に出て半年。
いろいろなものを見た。
強い人にも会った。
弱い人にも会った。
優しい人にも。
どうしても好きになれない人にも。
正しいと思える人にも。
間違っているとしか思えない人にも。
それでも。
誰かと話すたびに思う。
その人には、その人の歩いてきた道がある。
自分には見えないものがある。
だから、すぐに剣を抜きたくない。
まず話したい。
それで甘いと言われても。
いつか、その甘さのせいで傷つくことがあっても。
「……それは、変えたくないな」
銀華は呟いた。
弱さなのかもしれない。
将軍としては、間違っていたのかもしれない。
それでも。
それを捨ててしまえば、自分ではなくなる気がした。
銀華は地面へ突き立てた剣を見る。
月明かりを受け、青みを帯びた鞘が淡く光っている。
「あなたは、どう思いますか?」
もちろん返事はない。
「……ですよね」
銀華は苦笑した。
ときどき、この剣には意思があるのではないかと思う。
羽のように軽く感じる日がある。
反対に、抜くことさえ拒むように重くなる日もある。
気のせいだと言われれば、それまでだ。
けれど、この半年を共に歩いてきた銀華には、ときどき本当に機嫌があるように思えた。
「私、ちゃんと強くなっていますか?」
剣は答えない。
「……少しくらい答えてくれてもいいのに」
そのときだった。
風が吹き抜けた。
剣の飾り紐が、小さく揺れた。
銀華は目を瞬いた。
「今のは返事ですか?」
また沈黙。
「都合よく考えすぎですね」
銀華は笑った。
そして、もう一度空を見る。
星は変わらず瞬いている。
村が焼けた夜にも。
戦争が終わった日にも。
王都を出た朝にも。
きっと同じように空はあった。
誰が勝っても。
誰が負けても。
誰かが笑っていても。
誰かが泣いていても。
空は変わらない。
だからこそ、人は自分で歩くしかない。
「……半年か」
あの日から半年。
まだ半年。
もう半年。
どちらなのか、銀華には分からなかった。
けれど、一つだけ分かる。
自分は今も生きている。
あの日の自分とは違う。
完璧ではない。
迷う。泣く。後悔もする。
それでも、ここまで歩いてきた。
なら、明日もきっと歩ける。
銀華は袖で涙を拭った。
「……よし」
両手を地面につき、立ち上がる。
長く座っていたせいで、少し足が痺れていた。
「いた……」
思わず声が漏れた。
誰もいないことを確認してから、銀華は足を軽く振った。
「…………」
それから、自分で笑った。
何をしているのだろう。
さっきまで随分と深刻なことを考えていたはずなのに。
立ち上がった途端、足が痺れている。
「格好悪いな……」
けれど。
それでいいのかもしれない。
銀華は剣を地面から抜いた。
鞘についた土を払い、腰へ戻す。
そして夜空を見上げた。
「こんな弱気じゃ、いけませんね」
自分へ言い聞かせてから、銀華は少しだけ考えた。
「……いけない、というのも違うかな」
泣いた。
迷った。
怖くもなった。
それも全部、自分だ。
なかったことにして強くなれるのなら、しずはあんな言葉をくれなかったはずだ。
銀華は小さく息を吐いた。
「でも、立ち止まるのは今日までです」
「今日は、これで終わり」
銀華は小さく頷いた。
明日になれば、また歩く。
どこへ向かうのかは、まだ決めていない。
街道を進めば町がある。
そこへ行けば、また誰かに会う。
何かが起きているかもしれない。
何も起きないかもしれない。
それでいい。
銀華は荷物を背負った。
少し重い。
けれど、背負える。
歩ける。
まだ進める。
「さて……」
東の空を見る。
夜明けには、まだ少し早い。
それでも地平線の向こうが、ごくわずかに淡くなり始めていた。
銀華は一歩を踏み出した。
夜明け前の街道に、草を踏む音が一つだけ響く。
「次は、どの戦場だろう」
口にすると、不思議と足が軽くなった。
守りたいものがある。
帰りたい場所がある。
信じてくれる人がいる。
そして、まだ自分の知らない景色がある。
答えは、まだ見つからない。
それでもいい。
村が焼けたあの日から、半年。
雪乃銀華はもう一度、歩き始めた。
ここまで序章、そして閑話まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
これで序章は一区切りとなります。
次回から、いよいよ第1章が始まります。
第1章 1-1は、いつも通り土曜日に投稿予定です。
これから物語が少しずつ大きく動いていきますので、引き続き『ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―』をよろしくお願いします。




