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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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0-6 旅立ち

 夜明け前の王都オルディアは、まだ静かな眠りの中にあった。


 東の空が、わずかに群青色へ染まり始めている。


 世界樹の梢を渡る風だけが、かすかに葉を揺らしていた。


 銀華は静かに目を開く。


 目覚ましは必要なかった。


 眠りは浅かったが、不思議と身体は軽い。


 布団を畳み、部屋を整える。


 十年間暮らした部屋に、乱れを一つも残さない。


 旅袋を肩へ掛ける。


 そして、壁に立て掛けてあった蒼の魔剣を両手で持ち上げる。


 刀身は鞘に納められたまま、静かな重みを手の中へ伝えてくる。


「……行ってきます」


 誰へ向けた言葉なのか、銀華自身にも分からなかった。


 部屋へか。


 過去へか。


 それとも、ここまで歩んできた自分へか。


 銀華は部屋へ一礼し、静かに障子を閉めた。


 十年間暮らした部屋との別れは、それだけだった。


 王城の廊下は静まり返っている。


 窓から差し込む朝焼けが、石床を淡い橙色に染めていた。


 銀華はゆっくりと歩く。


 一歩、一歩。


 歩幅はいつもと変わらない。


 それでも今日の一歩だけは、これまでとは違って感じられた。


 階段を下り、中庭へ出る。


 朝露をまとった芝が、柔らかな光を返している。


 その中央に、一人の女性が立っていた。


「しず」


 静は振り返り、小さく頷く。


「早かったな」


「しずも」


「年を取ると朝が早い」


 真顔で返され、銀華は思わず笑みを浮かべた。


「まだお若いですよ」


「そういう気遣いは覚えなくていい」


 二人の間に、小さな笑いがこぼれた。


 静は腰に差した木刀を外し、銀華へ差し出した。


「これは……」


「私が修行で最初に使っていた木刀だ」


 銀華は驚いた表情を見せる。


「そんな大切なものを」


「旅先で剣を抜くべきではない時もある」


 静は木刀の柄を軽く指で叩いた。


「だが、人を守るために立つ場面は必ず来る」


「その時は、この一本で十分だ」


 銀華は両手で受け取った。

 

 長く使い込まれた木肌には、無数の傷が刻まれていた。


 その一つひとつが、静の歩んできた時間だった。


「……お借りします」


「違う」


 静は穏やかに首を横へ振る。


「譲る」


 銀華は息を呑む。


 師から弟子へ。


 ただの一本の木刀ではない。師から弟子へ渡される、十年の重みだった。


 胸の奥が、熱くなる。


 けれど、涙はこぼれなかった。

 

 こぼれなくてもいい。今は、そう思えた。


「ありがとうございます」


 銀華は深く頭を下げた。


 静はその姿を見届けると、小さく微笑む。


「よくここまで育った」


 その一言は、十年間で初めて聞く師からの賛辞だった。


 銀華は顔を上げる。


 胸の奥に、静かな熱が満ちていく。


 いつか認められたいと願い続けた日々。


 その一言で、過去が埋まるわけではない。


 それでも今、次の一歩を踏み出す力にはなった。


 世界樹の枝の向こうから、朝日がゆっくりと姿を現す。


 黄金色の光が王城を照らし、銀華と静の影を長く地面へ伸ばした。


「行こう」


 静の声に、銀華は力強く頷く。


「はい。それと……刹那には、黙って行ったことを許してとだけ伝えてください」


 銀華は家族のような刹那が任務で遠く離れている時に旅立つ事を考えていた。


 それでも、この選択に後悔はない。


 二人は並んで城門へ向かって歩き出した。


 城門の向こうには、まだ見ぬ世界が待っている。


挿絵(By みてみん)


 ◇


 王城の正門へ続く石畳が、昇り始めた朝日に黄金色を帯びていく。


 鳥たちが枝から枝へ飛び移り、穏やかなさえずりが静かな朝を彩る。


 銀華と静は、ゆっくりと歩みを進める。


 足取りに、もう迷いはなかった。


 やがて巨大な城門が見えてきた。


 門の前には、数人の人影が立っている。


 銀華は思わず足を止めた。


「……陛下」


 最前列には紅蒼瑠璃が立っていた。


 玉座ではない。王国の紋章が刻まれた石畳の上に、瑠璃は立っていた。


 それでも、その立ち姿は最後まで王のものだった。


 その少し後ろには桐谷をはじめ、近衛騎士たちが整列している。


 誰一人、言葉を発しない。


 張りつめるでもなく、ただ静かな空気が流れていた。


 銀華は瑠璃の前まで進み、深く膝を折る。


「雪乃銀華。これより、陛下より賜りました任を受け、旅へ出立いたします」


 瑠璃は静かに頷いた。


「顔を上げよ」


 銀華がゆっくりと顔を上げる。


 瑠璃の紅い瞳は、真っ直ぐ銀華を見据えていた。


「命じることは一つだけだ」


 銀華は姿勢を正す。


「必ず、生きて帰れ」


 命令は、その一言だけだった。


 国のために戦えとも。


 成果を持ち帰れとも言わない。


――ただ、生きて帰れ。


 王の命令。その奥に、ほんのわずかだけ願いが滲んでいた。


 銀華は静かに頷く。


「……はい」


 短い返事だった。


 だが、その声には確かな力が宿っていた。


 瑠璃は懐から小さな封筒を取り出す。


「これは各地の領主への紹介状だ」


「蒼緑国の将軍としてではなく、一人の旅人として訪れることを記してある」


 銀華は両手で受け取った。


「ありがとうございます」


「使わずに済むなら、それが一番だ」


 瑠璃の口元が、ほんのわずかに和らぐ。


 他の者なら気づかないほど、小さな変化だった。


 だが銀華には分かった。

 

十年間仕えてきた銀華には、それで十分だった。


 桐谷が一歩前へ出る。


「銀華様」


「桐谷」


「……お気をつけて」


 桐谷は、それ以上語らなかった。


 敬礼だけが、そのすべてを伝えていた。


 銀華も胸へ手を当て、静かに一礼する。


「皆さんも」


 近衛騎士たちは一斉に拳を胸へ添えた。


 その姿は、勝利を祝う礼ではない。


 仲間を送り出す、王国騎士としての礼だった。


 静は少し離れた場所から、その光景を見守っている。


 何も言わない。


 もう、言葉を重ねる必要はなかった。


 銀華は城門の外へ視線を向ける。


 王都の街道は朝日に包まれ、遥か彼方まで続いている。


 あの先に、まだ見ぬ人々がいる。


 まだ知らない世界がある。


 そして、まだ知らない何かが待っている。


 銀華は深く息を吸った。


 振り返る。


 王城。


 世界樹。


 師。


 女王。


 仲間たち。


 十年間、自分を育ててくれた故郷。


 その景色を胸へ焼き付けるように見つめる。


「……行ってきます」


 今度は、誰へ向けた言葉か分かっていた。


 師へ。女王へ。仲間たちへ。そして、帰る場所そのものへ。


 瑠璃は静かに告げる。


「行ってこい、銀華」


 その声を背に、銀華は一歩を踏み出した。


 石畳を離れ、王都の外へ。


 英雄として命じられて歩く道ではない。


 雪乃銀華という、一人の人間が自ら選んだ道だった。


 朝日がその背を照らす。


 影は前ではなく、後ろへ伸びていく。


 過去は消えない。けれど、もう足を止める鎖ではなかった。


 銀華は歩く。


 一歩、また一歩と。


 まだ見えない未来へ向かって。


 ◇


 銀華の姿が街道の彼方へ小さくなっていく。


 その背中を、誰も呼び止める者はいなかった。


 王都の門がゆっくりと閉じられる。


 重い音が朝の空気を震わせ、王都にはいつもの営みが戻っていく。


 静は遠ざかる背中を見送りながら、小さく息を吐く。


「……行ったか」


 その隣へ、瑠璃が静かに並ぶ。


「寂しいか」


 不意の問いに、静は少しだけ口元を緩めた。


「弟子とは、そういうものだ」


「育てた者は、いずれ自分の足で歩く」


 瑠璃も銀華の消えた街道を見つめる。


「帰ってくると思うか」


「帰ってくる」


 静の返事に迷いはなかった。


「だが」


「帰ってくる頃には、今とは違う銀華になっている」


「旅は、人を変える」


 瑠璃は静かに頷く。


「ならば、その変化を待つとしよう」


 世界樹の枝を風が渡る。


 朝日はさらに高く昇り、王都をやわらかく照らしていた。


 その頃。


 銀華は一人、街道を歩いていた。


 振り返りはしなかった。


 それでも、背中には確かな温もりが残っていた。


 師の言葉。


 女王の願い。


 仲間たちの笑顔。


 失われた村で交わした約束。

 

そのすべてを胸に、銀華は前だけを見つめる。


 やがて街道は森へと続き、その先は緩やかな丘陵へ消えていく。


 まだ知らない景色。


 まだ出会っていない人々。


 そして、その先で待つもの。


 銀華はそっと蒼の魔剣へ手を添える。


「……行こう」


 小さな一言を残し、銀華は歩き続けた。


 ◇


 王都を発ってから、どれほど歩いただろう。


 空はいつしか茜色に染まり、街道沿いの木々が長い影を落としていた。


 遠くには、夕陽を映した川が細く輝いている。


 風に運ばれた花びらが、銀華の肩をかすめた。


 その時だった。


「銀華!」


 背後から、聞き慣れた声がした。


 銀華は足を止める。


 振り返るより早く、駆け寄ってきた咲耶がその背へ縋りついた。


挿絵(By みてみん)


 細い腕が、銀華の身体を強く抱きしめる。


 肩越しに触れた頬は冷たく、息は苦しそうに乱れていた。


「咲耶……」


「どうして、何も言わずに行くの」


 震える声が、銀華の背中へ押しつけられる。


「言えば、止めるでしょう」


「止めるわよ」


 咲耶は迷わず言った。


「止めるに決まっているでしょう。あなた一人が悪いわけではないのに、どうしてあなた一人だけが、すべてを背負って出ていかなければならないの」


 抱きしめる腕に、さらに力がこもる。


「あの日、あなたに守られることを当然だと思っていたのは、私たちよ。あなたが傷ついていることにも気づかず、また立ち上がってくれると信じていた」


 咲耶の声が掠れた。


「だから、銀華だけの罪ではない。あなたが一人で償うことではないの」


 銀華は何も言わなかった。


 夕風が二人の髪を揺らし、花びらをさらっていく。


「帰りましょう」


 懇願するような声だった。


「今からでも遅くないわ。王都へ戻って、みんなで――」


「咲耶」


 銀華は静かに、その言葉を遮った。


「私は、償うためだけに旅へ出るのではありません」


 咲耶の腕が、かすかに震える。


「逃げるためでもありません。もう一度、自分の足で歩けるようになるために行くのです」


 銀華は前を向いたまま、胸元に重ねられた咲耶の手へそっと触れた。


「そして、帰ってきます」


 短い言葉だった。


 けれど、そこに迷いはなかった。


 咲耶は顔を伏せたまま、しばらく動かなかった。


 引き留めるために追いかけてきた。


 この腕を解けば、本当に銀華は行ってしまう。


 それでも、ここで繋ぎ止めることは、銀華がようやく選んだ一歩を奪うことになる。


 咲耶は唇を噛み、溢れた涙を銀華の肩へ落とした。


「……ずるいわ」


「はい」


「そんな顔で言われたら、止められないじゃない」


 銀華の口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


「ごめんなさい」


「謝らないで」


 咲耶はもう一度だけ、銀華を強く抱きしめた。


「忘れないで。あなたが帰る場所は、王城だけではない。待っている人がいることを、絶対に忘れないで」


 銀華は、咲耶の手を包むように握った。


「忘れません」


「約束よ」


「はい。帰ったら、最初にただいまと言います」


 咲耶は泣きながら、小さく笑った。


 やがて、その腕がゆっくりと解かれる。


 夕陽が沈みかけた街道に、二人の影が長く伸びていた。


 銀華は一歩、前へ進む。


「銀華」


 もう一度呼ばれ、足を止める。


 けれど、振り返らなかった。


「行ってらっしゃい」


 その言葉は涙に濡れながらも、確かに銀華の背を押した。


 銀華は前を見つめたまま、静かに答える。


「行ってきます、咲耶」


 花びらが夕風に舞い上がる。


 銀華は再び歩き出した。


 咲耶はもう、呼び止めなかった。


 その背中が夕映えの中へ溶けていくまで、涙を拭わず見送っていた。


 こうして、雪乃銀華の旅は始まった。


 英雄としてではない。


 一人の人間として、自ら選んだ道を歩く旅が。


――


序章 英雄たちの詩 完


いつもは土曜日に更新していますが、今回は序章の最終話ということで、本日投稿しました。


このあと、序章の閑話も投稿予定です。


そして来週から、いよいよ第1章が始まります。


ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。

引き続き『ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―』をよろしくお願いします。


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