0-5 受容
王都オルディアへ戻った頃には、空はすでに深い夜の色へ沈んでいた。
城門をくぐる馬車の音だけが、静まり返った石畳に響く。
城兵たちは銀華の姿を認めると、一斉に道を開いた。
「銀華様、お帰りなさいませ」
敬礼する兵士。
深く頭を下げる侍女。
向けられる敬意は、何ひとつ変わっていなかった。
銀華は小さく会釈を返す。
「……ただいま戻りました」
穏やかな声だった。
けれど以前より静かで、わずかに深い響きを帯びていた。
王城の廊下を歩く。
窓の外では、夜風を受けた世界樹が枝葉を揺らしていた。
その葉擦れが、村で聞いた風の音をふいに連れてくる。
銀華の足が止まった。
回廊の先に、訓練場が見える。
夜にもかかわらず、若い騎士たちが木剣を交えていた。
「一本!」
「まだ甘い!」
「もう一度!」
真っ直ぐな声が夜気を震わせる。
銀華はしばらく、その光景を見つめていた。
かつての自分も、あの場所で数え切れないほど木剣を振った。
静に打ち込まれては転び、立ち上がり、それでもまた剣を取った。
「銀華」
背後から静の声がした。
振り返ると、静がゆっくりと歩いてくる。
「しず」
「少し話をしよう」
二人は訓練場を見下ろす回廊に並んだ。
若い騎士たちの掛け声が、風に乗って届いてくる。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
気まずさはない。
師弟として重ねた十年が、言葉を必要としない時間を二人の間に残していた。
やがて、静が訊いた。
「村はどうだった」
銀華はすぐには答えず、夜空を見上げた。
小さく息を吐く。
「……苦しかったです」
「そうだろう」
「逃げ出したくもなりました」
静は何も挟まず、ただ続きを待った。
「でも――逃げなくて良かったと思います」
その一言に、静は小さく頷く。
「人はな、傷をなかったことにはできない」
静も夜空を見上げた。
「だが、傷を知ったからこそ守れるものもある」
銀華はその言葉を胸の内で繰り返した。
まだ、すべてを理解できたわけではない。
それでも、否定したいとは思わなかった。
訓練場で若い騎士が転び、仲間に笑われながら立ち上がる。
「君も昔は、転ぶたびに泣いていた」
銀華は少しだけ目を丸くした。
「そんなことも……ありましたね」
「毎日泣いていた」
「毎日ではありません」
「いや、毎日だ」
静は真面目な顔のまま言い切った。
銀華の口元から、小さな笑いがこぼれる。
「ふふ……」
あまりに短く、すぐに消えてしまいそうな笑みだった。
静は何も言わない。
ただ、その一瞬を壊さずにいた。
銀華は自分が笑ったことに気づき、わずかに目を見開く。
悲しみも、後悔も、消えてはいない。
それでも自分の中には、まだ笑える場所が残っていた。
夜風が二人の間を吹き抜け、世界樹の葉を揺らす。
銀華はそっと胸に手を当てた。
傷は、まだ痛む。
けれど――痛みだけが、自分のすべてではない。
◇
第翌朝、王城にはいつもと変わらぬ朝が訪れた。
侍女たちが廊下を行き交い、文官たちは山積みの書類を抱えて足早に歩く。
その変わらぬ日常の中を、銀華は女王の執務室へ向かっていた。
重厚な扉の前で足を止め、深く息を吸う。
「雪乃銀華です」
「入れ」
落ち着いた声が返る。
銀華が扉を開けると、紅蒼瑠璃は執務机に向かい、報告書へ目を通していた。
処理を待つ書類が幾つも積まれている。
瑠璃は羽ペンを置き、銀華へ視線を上げた。
「座れ」
「失礼します」
机を挟んで向かい合う。
窓の外では、世界樹の枝葉が風に揺れていた。
沈黙を破ったのは瑠璃だった。
「村へ行ってきたそうだな」
「はい」
「逃げなかったか」
銀華は一瞬、目を伏せた。
「……逃げたくは、なりました。
ですが、最後まで歩きました」
瑠璃は小さく頷く。
「報告は静から受けている」
机の引き出しから一枚の地図を取り出し、銀華の前へ広げた。
描かれているのは蒼緑大陸だけではない。
白銀大陸、紅蓮大陸、中央大陸――そして、その間に横たわる海。
世界全体の地図だった。
「銀華。
お前は、この国しか知らない」
銀華は静かに地図へ目を落とす。
「今すぐ他国へ出る必要はない。
だが、この国にも、お前の知らぬ土地は多い」
否定する言葉は出なかった。
「私は、お前を戦場へ送り続けた。
それが王として最善だと信じていた」
瑠璃の声音は淡々としている。
わずかな間のあと、言葉が続いた。
「だが、今のお前に必要なのは新しい敵ではない」
瑠璃の指先が、地図の上をゆっくりとなぞる。
「新しい景色だ」
銀華は顔を上げた。
「一度、将軍という立場を離れろ。
人と出会い、街を歩き、そこで生きる者たちを見てこい」
瑠璃は銀華の目を真っ直ぐに見据える。
「剣を振るうためではない。
お前自身が、生きる理由をもう一度見つけるために」
銀華は言葉を失った。
敵を討てとも、国境を守れとも、命を懸けろとも言われない。
そんな言葉を王から受けたことは、一度もなかった。
「陛下……」
瑠璃は静かに首を横へ振る。
「これは命令ではない。
お前が選べ」
部屋に再び沈黙が落ちた。
銀華は地図へ視線を戻す。
見たことのない土地。
知らない風習。
会ったことのない人々。
その先で何を見つけるのか、今は分からない。
けれど、村で交わした誓いが胸によみがえる。
――忘れません。
あの言葉を守るためにも、いつまでも立ち止まってはいられない。
銀華はゆっくりと顔を上げた。
「……行かせてください」
迷いの残る声だった。
それでも、誰かに与えられた答えではない。
瑠璃は静かに頷いた。
「準備には数日与える。
期間は一年だ。
一年経つ頃には帰ってこい」
「はい」
銀華は深く頭を下げる。
瑠璃は、その姿を黙って見つめていた。
机上に置いた指先だけが、わずかに強く組まれる。
銀華が扉へ向かうと、背後からいつもと変わらぬ声が届いた。
「銀華」
振り返る。
瑠璃はもう、次の報告書へ目を落としていた。
「必ず戻れ」
「……はい、陛下」
扉が静かに閉じる。
その音が消えてからも、瑠璃の羽ペンはしばらく動かなかった。
◇
自室へ戻った銀華は、静かに障子を開けた。
見慣れた部屋だった。
十年間、ここで眠り、朝を迎え、任務へ向かった。
嬉しかった日も、敗北に唇を噛んだ夜も、この部屋だけは変わらず銀華を迎えた。
部屋の中央へ座り、小さく息をつく。
旅支度を始めなければならない。
そう思いながらも、手はなかなか動かなかった。
やがて立ち上がり、箪笥を開ける。
着替えを数着。
水筒。
簡素な食器と、旅に必要な小物。
もともと物を多く持つ性分ではない。
荷物はすぐにまとまった。
それでも、一つだけ手が止まる。
部屋の隅に置かれた、小さな木箱。
銀華はその前に膝をつき、ゆっくりと蓋を開けた。
初めて折った木剣の柄。
静から贈られた古い手拭い。
同期の兵士たちと描いてもらった、色褪せた一枚の絵。
どれも高価なものではない。
けれど銀華にとっては、捨てることのできない時間の欠片だった。
指先で一つひとつをなぞるうち、口元がわずかに緩む。
「……懐かしいですね」
あの頃は、強くなることだけを考えていた。
守ることが、これほど難しいとは知らなかった。
木箱の奥に、小さな布袋がある。
開くと、一枚の銅貨が掌へ転がり出た。
修行を始めたばかりの頃、王都の祭りで静と食べ歩いた帰りに、お釣りとして預かったものだ。
銀華は思わず苦笑する。
「先生、まだ返していませんでした」
すぐに返すつもりだった。
けれど返しそびれたまま、いつしか銅貨は思い出の一つとして箱に残った。
銀華はしばらく銅貨を見つめ、旅袋へ入れた。
木剣の柄も、手拭いも、古い絵も、箱へ戻す。
思い出を捨てるのではない。
帰ってくる場所に、置いていくのだ。
その時、障子が控えめに叩かれた。
「銀華」
静の声だった。
「はい」
障子を開けると、静が廊下に立っていた。
その視線が旅袋へ向く。
「荷物は少ないな」
「必要なものだけです」
静は部屋を見渡し、小さく頷いた。
「それでいい」
銀華は旅袋を見つめたまま、ぽつりと言う。
「最初は、全部持っていこうと思いました。
でも……帰る場所まで持っていってしまったら、帰る理由がなくなるような気がして」
静の目元が、ほんの少し和らいだ。
「君らしい答えだ」
銀華は照れたように笑う。
静は部屋を出かけて、足を止めた。
「銀華」
「はい」
「帰ってきた時、その銅貨の続きを聞かせてくれ」
銀華は一瞬きょとんとし、それから小さく笑った。
「まだ返していませんからね」
「ああ」
「今度こそ、ちゃんと返します」
「楽しみにしている」
静はそう言い残し、廊下を歩いていった。
足音が遠ざかってから、銀華は旅袋の中の銅貨へそっと触れた。
旅へ持っていくのは、金としてではない。
帰る約束として。
銀華は旅袋の口を閉じた。
◇
旅立ちまで、あと二日。
王城の朝は、いつもと変わらず始まっていた。
訓練場には木剣の打ち合う音が響き、廊下では文官たちが忙しなく行き交う。
誰か一人が立ち止まっても、国の時間は歩み続ける。
銀華はその当たり前を、今までより少しだけ遠くから眺めていた。
回廊を歩いていると、前方から桐谷が足早にやって来る。
「銀華様」
「桐谷」
桐谷は銀華の前で足を止め、深く頭を下げた。
「村の復旧ですが、少しずつ進んでおります。
生存者の方々も仮住まいでの生活を始められました」
銀華の肩から、わずかに力が抜ける。
「そうですか」
「皆で畑を耕そうという話も出ています」
銀華は目を閉じ、その言葉を胸の奥へ沈めた。
「……ありがとうございます」
桐谷は銀華の表情を見つめる。
悲しみは、まだそこにある。
けれど銀華はもう、それに背を向けてはいなかった。
「銀華様。
昔、私に言われたことを覚えていますか」
銀華は首を傾げる。
「訓練で負け続けて、落ち込んでいた時です」
桐谷は少し照れくさそうに頭をかいた。
「『強い人ほど、立ち上がる回数が多いだけですよ』と」
銀華は目を丸くする。
そんな言葉を口にしたことさえ、忘れていた。
「覚えていてくれたのですね」
「私は、その言葉で何度も立ち上がれました」
桐谷は真っ直ぐに銀華を見る。
「だから今度は、その言葉をお返しします」
短い沈黙のあと、銀華はゆっくりと微笑んだ。
「……ありがとうございます」
桐谷は安心したように頷く。
「この国は、私たちが守ります。
銀華様がお戻りになる、その日まで」
銀華は一瞬、言葉を失った。
これまでは、自分が皆を守るのだと思っていた。
けれど今、自分もまた仲間に支えられている。
その事実が、胸の奥へ静かに染み込んでいく。
「……頼みました」
銀華は深く頭を下げた。
「お、おやめください!」
桐谷が慌てて身を屈める。
「私は本当のことを言っただけです!」
二人は顔を見合わせ、同時に小さく笑った。
桐谷は最後に姿勢を正す。
「どうか、ご無事で」
「ああ」
銀華は力強く頷いた。
「必ず帰ってきます」
誰かを安心させるためだけの言葉ではない。
自分で選び、自分へ誓う言葉だった。
桐谷が敬礼する。
銀華も静かに一礼し、その場をあとにした。
回廊の窓から差し込む陽光が、進む先をやさしく照らしている。
その道の向こうには、まだ見ぬ世界が待っていた。
どこまで歩いても、帰るべき場所はここにある。
◇
旅立ちを翌朝に控えた王城は、不思議なほど静かだった。
昼間の喧騒は消え、回廊には時折、遠い足音だけが響く。
銀華は旅支度を終え、自室の障子を開いた。
夜風がそっと頬を撫でる。
空には、無数の星が瞬いていた。
「……明日ですね」
誰に向けるでもなく呟く。
言葉だけが、夜空へ静かに溶けていった。
部屋の隅には旅袋。
壁には、静から譲り受けた蒼の魔剣。
明日から、それらを携えて歩く。
けれど今夜だけは、まだこの部屋へ帰ってくる者でいられた。
銀華は縁側へ腰を下ろし、風に揺れる世界樹を見つめる。
目を閉じると、失った人々の顔が浮かんだ。
名を知る者もいる。
知らない者もいる。
あの日、守れなかった命を、忘れた日は一日もない。
「……私は、忘れません」
悲しみを消すためではない。
抱いたまま、それでも生きていくために。
静かな足音が近づく。
「起きていたか」
振り返ると、静が湯呑みを二つ持って立っていた。
「しず」
「眠れそうにないと思ってな」
銀華は少しだけ微笑み、隣を空けた。
静も何も言わず腰を下ろす。
湯呑みの温もりを手に、二人はしばらく夜空を眺めた。
「昔も、こうして星を見ましたね」
「ああ」
「修行を始めて、最初の冬でした」
「君は寒さで震えていた」
銀華は苦笑する。
「しずが外で修行すると言うからです」
「鍛錬に季節は関係ない」
「今でも、そう思っていますか?」
「もちろんだ」
迷いのない返事に、銀華は思わず笑みをこぼした。
「しずは変わりませんね」
「変わらない者も必要だ」
静は穏やかに答える。
「変わる者が、安心して帰ってこられるようにな」
銀華は返す言葉を失った。
静は星空へ目を向けたまま続ける。
「旅は、人を変える。
良い方にも、悪い方にも」
そこで一度、言葉を切った。
「だから帰ってこい。
変わった君を、私は見届けたい」
銀華は湯呑みを胸の前で包み込む。
温もりが、冷えた指先へゆっくりと沁みていく。
「……はい」
声には、まだ不安があった。
期待も、ほんの少しの楽しみも混じっていた。
やがて静が立ち上がる。
「もう休め。
明日は早い」
「はい」
数歩進んだところで、静は足を止めた。
「銀華」
「はい」
静は振り返る。
「君は一人で旅に出る。
だが、独りではない」
それだけ言い残し、夜の回廊へ消えていった。
銀華はその背中を見送り、もう一度、夜空を仰いだ。
旅は明日、始まる。
どんな景色が待っているのか。
どんな人と出会うのか。
今はまだ分からない。
それでも、恐れるだけではなかった。
胸の奥で、未来へ向かう小さな鼓動が鳴っている。
銀華は立ち上がり、部屋へ戻った。
灯りを消す前に、蒼の魔剣へ静かに目を向ける。
「……明日から、よろしくお願いします」
返事の代わりに、月明かりが鞘の縁を淡く照らした。
――
序章 0-5『受容』 完
ここまで読んでくださって、ありがとうございます!
Xでは、物語に登場するキャラクターや作中のシーンをイラストにして投稿しています✨
小説とはまた少し違った『南のオーフェリア』の世界を楽しんでもらえると思うので、よかったら遊びに来てください!
感想などもいただけると、とても嬉しいです。
これからも『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』をよろしくお願いします!
@takeyan4562




