↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
28/29

番外編⑧ 届きはじめた声

 刹那の瞳が、ほんのわずかに銀華へ向いた。

 それだけだった。


「……」


 銀華は話すのを止めた。

 静も動かなかった。銀華の声が途切れたまま、二人は刹那を見守った。

 動けば、そのわずかな変化さえ消えてしまうような気がした。

 刹那の視線は、銀華の顔をまっすぐ見ているわけではなかった。肩のあたりか、その向こうか。まだ曖昧な場所だった。

 それでも、今までとは違った。


「刹那さん」


 銀華が、いつもと同じ声で呼んだ。

 返事はない。


「静様は」


 静が思わず口を挟んだ。


「何で私の話なんだ」


 銀華は静へ顔を向けずに言った。


「静かにしてください」

「……分かった」


 静はそれ以上口を挟まず、銀華の隣で刹那を見守った。

 銀華は刹那へ向き直り、何事もなかったように話を続けた。


「静様は、くしゃみをした隙を突かれたのが、とても悔しかったようです」


 静が不服そうに返す。


「だから悔しくない」


 銀華は小さく笑った。


「そういうことにしておきます」


 刹那の目は、また少しずつ元の場所へ戻っていった。

 誰もその視線を追わなかった。銀華も同じだった。


「では」


 いつものように立つ。


「今日は帰ります」


 刹那は動かない。


「また明日」


 頭を下げる。


「おやすみなさい、刹那さん」


     ◇


 部屋を出ると、背後で扉が閉まった。

 銀華は、その場で立ち止まった。


「……静様」

「何?」

「今、刹那さんが……」

「見てた」

「見ましたか」

「見たよ」


 銀華はようやく、少し離れて立つ瑠璃にも顔を向けた。


「瑠璃様も、見ましたか」

「はい。銀華の方を見ていました」


 瑠璃は静かに頷いた。


「……」


 銀華は両手を胸の前で握った。


「よかった」


 それだけ。

 大きく喜ばない。

 扉を開けて確かめもしない。


「銀華」


 瑠璃が呼ぶ。


「はい」


 瑠璃が銀華の表情をうかがった。


「嬉しくないのですか」


 銀華は迷わず答えた。


「嬉しいです」

「それなら……」

「でも」


 銀華は扉を見る。


「刹那さんが、私を見たかったのかは分かりません」

「……」

「たまたまかもしれません」


 静が少し目を細める。


「だから、どうする?」


 銀華は言う。


「明日も、同じように来ます」

「同じように?」

「はい」

「もう少し話しかけてみるのはどうでしょう」


 瑠璃が控えめに尋ねた。


「しません」


 銀華は首を振った。


「今までと同じでいいと思います」

「なぜですか」


 銀華は少し考えてから答えた。


「分かりません」


 瑠璃が少し笑った。


「銀華まで、それを言うようになりましたね」

「瑠璃様の真似ではありません」

「そうですか」

「はい」


 銀華は少し考えた。


「ただ……」


 瑠璃は急かさず、銀華の言葉を待った。


「急に近づいたら」


 扉を見る。


「怖いかもしれないので」


 静は何も言わなかった。


     ◇


 翌日。

 刹那は銀華を見なかった。

 その翌日も見なかった。

 三日目も四日目も以前と同じ。

 空っぽの瞳。


「戻ってしまったのでしょうか」


 瑠璃が廊下で呟く。

 静は刹那の部屋の扉を見た。


「分からない」


 静が答える。

 瑠璃は声を落とした。


「銀華は?」

「何も言わない」

「銀華も気づいていますよね」

「当然」


 部屋の中。

 銀華はいつものように話している。

 銀華は刹那へ今日の出来事を語りかけた。


「今日は街で、屋根を直すお手伝いをしました」


 反応はない。


「私は下から板を渡すだけでしたが」


 反応はない。


「途中で、静様が上から落ちました」


 背後から静の声が飛んだ。


「落ちてない」

「足を滑らせましたよね」

「ちゃんと着地した」

「普通は落ちたと言います」

「言わない」


 反応はない。


「瑠璃様は、昨日……」


 同席していた瑠璃が目を瞬かせた。


「私のことですか?」

「昨日、書類の上で寝ていたそうです」

「誰から聞いたのですか」


 銀華は悪びれずに答えた。


「朱さんです」

「朱……あとで話があります」


 反応はない。

 銀華は刹那の視線を求めなかった。


     ◇


 十日ほどして。

 医師が小さな変化に気づいた。


「食べる量が増えたのですか」


 瑠璃が思わず身を乗り出した。


「どのくらいですか」


 医師は記録を確かめてから答えた。


「ほんの少しですが」

「自分から食べたのですか?」


 医師は慎重に首を振った。


「いいえ」


 まだ自分から食事に手を伸ばすわけではない。


「まだ、こちらが口元へ運んでいます」

「では、まだ……」

「ただ、以前とは違います」


 器を見せる。


「以前は三口ほどで、口を閉ざしていました」

「今は?」

「五口。多い日は六口」


 瑠璃はその数字を見つめた。


「……それだけ」

「はい」


 医師は静かに頷く。


「それだけです」


 瑠璃はそれ以上を求めなかった。


「分かりました」


     ◇


 銀華はその変化を聞いても、静かに受け止めた。


「そうですか」


 と答えただけだった。


「嬉しくないの?」


 静が聞く。


「嬉しいです」

「顔に出ない」

「静様に言われたくありません」

「それもそうだ」

「ただ」


 銀華は少しだけ目を伏せる。


「食べられたなら」

「うん」

「よかったです」

「それだけ?」

「はい」


 静は銀華の頭へ手を置いた。


「何ですか」

「別に」

「子ども扱いしないでください」

「十四だろ」

「十四です」

「子ども」

 銀華は頭に置かれた手を見上げ、少しむきになって言い返した。

「静様は十七でしょう」

「私は大人」

「三つしか違いません」

「師匠だから」

「関係ありません」


 静は銀華の髪を少し乱した。


「静様」

「何」

「怒りますよ」

「怒れ」

「……」


 銀華は本当に少し怒った顔をした。

 静はそれを見て、少し安心した。


     ◇


 二か月目。

 刹那は時々、

 銀華の声がする方へ目を動かすようになった。

 毎回ではない。

 一日に一度でもない。

 三日。

 五日。

 何もない日が続く。

 それから突然。

 ほんの少し、視線が動く。

 銀華は気づいても、気づかないふりをした。


「今日は」


 いつもの話。


「静様に、街でお菓子を買っていただきました」

「お前が勝手に取った」

「代金は静様が払いました」

「払わされた」

「ありがとうございます」

「今言うな」


 刹那の目が、ほんの少し銀華の方へ動いた。


「とても甘かったです」


 銀華は続ける。


「静様は一口食べて、甘すぎると言っていました」

「甘かった」

「私は好きでした」


 視線が止まる。

 銀華の手。

 そこに小さな包み。


「……」


 銀華は包みを机へ置いた。


「同じものです」


 刹那は動かない。


「食べなくても大丈夫です」


 銀華はそれ以上、包みを近づけなかった。


「置いておきます」


     ◇


 翌朝。

 包みはそのままだった。

 銀華は何も言わない。

 夕方。

 また来る。

 包みは少しだけ位置が変わっていた。


「……」


 銀華が見る。

 医師が小声で言う。


「私たちは触っていません」


 銀華は刹那を見た。

 刹那はいつものように何も見ていない。


「そうですか」


 銀華はそれだけ言った。

 包みを開けない。

 確かめない。

 今日の話を始めた。


     ◇


 三か月目。

 王都には少しずつ。

 日常が戻り始めていた。

 壊れた家が建ち直る。

 市場に店が戻る。

 鐘が鳴る。

 子どもが走る。

 でも、戻らないものもある。

 空いた家。

 閉じた店。

 名前だけ残った兵舎の寝台。

 瑠璃はそれを毎日見ていた。


     ◇


「処刑を求める声が増えています」


 軍務卿が言う。

 瑠璃は書類を見る。


「誰の」

「反乱に参加した領主とその家族、それに兵です」

「家族も?」


 軍務卿が答えた。


「はい。家族も含まれています」

「なぜ」

「血を残せば、また禍根になると」


 瑠璃は黙った。


「姫様」

「私は」


 言葉を選ぶ。


「父と母と弟を殺されました」

「……はい」

「だから」


 指先が震える。


「殺した者を憎んでいます」


 軍務卿が顔を上げる。


「憎んでは、いけませんか」

「いいえ」

「私は」


 瑠璃は自分の胸へ手を置いた。


「許せません」


 初めてはっきり言った。


「今も」

「はい」

「ですが」


 書類を見る。


「その者の子まで殺せと言われたら」

「……」

「分かりません」


 軍務卿は待つ。


「その子は、父を殺していません」

「はい」

「でも」


 瑠璃の目が揺れる。


「その子が将来、復讐する可能性はあります」

「あります」

「なら殺すべきですか」

「それを決めるのは」

「私です」


 瑠璃が言った。


「そうですね」


 軍務卿は頷く。

 瑠璃は長い時間。

 書類を見た。


「家族は処刑しません」

「姫様」

「罪を犯した本人を調べます」

「反発が」

「あるでしょう」

「王家を皆殺しにされたのです」

「分かっています」


 瑠璃は顔を上げる。


「だからこそ」


 声は以前より。

 少しだけ冷静だった。


「私の怒りだけで、国の法を決めたくありません」


 軍務卿は深く頭を下げた。


「承知しました」


     ◇


 その日の夜。

 瑠璃は銀華のところへ来た。


「疲れていますね」


 銀華が言う。


「顔に出ていますか」

「少し」

「静より?」

「静様はいつも同じ顔です」

「聞こえてる」


 静が奥から言う。


「悪口ではありません」

「ならいい」


 瑠璃は椅子へ座る。


「銀華」

「はい」

「人を許すとは、何でしょう」


 銀華が瞬きをする。


「急ですね」

「急に聞きたくなりました」

「私に?」

「はい」


 銀華はしばらく考えた。


「分かりません」


 瑠璃が笑った。


「またですか」

「分からないものは分かりません」

「そうですね」

「でも」

「はい」


 銀華は父の席だった場所を。

 一瞬見る。


「許すことと」


 ゆっくり。


「忘れることは、違うと思います」


 瑠璃の目が動く。


「どうして?」

「父様と母様を殺した人を」


 銀華の手が少し握られる。


「私は、今は許せません」

「……はい」

「たぶん」


 声が小さくなる。


「ずっと許せない人もいると思います」

「銀華」

「でも」


 銀華は瑠璃を見る。


「その人と同じ国にいた人まで、全部嫌いになるのは」


 言葉を探す。


「違う気がします」


 瑠璃は黙って聞く。


「すみません」

「なぜ謝るのです」

「うまく言えません」

「十分です」


 瑠璃は銀華の言葉を心の中へ置いた。

 答えではない。

 それでいい。


     ◇


 四か月目。

 刹那は自分で水を飲んだ。

 最初は誰も見ていない時だった。

 器の水が減っている。

 医師が気づく。

 次の日。

 銀華がいる時。

 刹那の指がゆっくり。

 器へ動いた。


「……」


 銀華は話を止めない。


「それで、静様が」


 指。

 器に触れる。


「私に、剣は力で振るものではないと」


 刹那が器を持つ。


「言った直後に」


 少し震える。


「力で私を吹き飛ばしました」


 静がすかさず訂正した。


「語弊がある」


 器が口元へ。

 銀華は刹那の手元を見守りながら返した。


「ありません」


 一口。

 飲む。


「静様は」


 刹那の手から器が落ちそうになる。

 銀華は反射的に手を伸ばしかけた。

 止めた。

 刹那が自分で持ち直す。


「……」


 銀華の手が膝へ戻る。


「とても理不尽です」


 静は呆れたように言った。


「お前な……」


 刹那が水をもう一口飲んだ。


     ◇


 部屋を出た瞬間。

 銀華は壁へ背をつけた。


「飲みましたね」


 銀華は静を振り返った。

 静も、あの一口を見届けていた。


「自分で、器を持って」

「ああ。落とさずに飲めた」

「……本当に、飲めたんですね」

「見間違いじゃない」

「瑠璃様にも伝えたいです」

「今日は王城だ」

「そうでした」


 銀華は少し笑った。

 それでも、明日には瑠璃にも知らせようと心に決めた。


「明日来る」

「はい」

「走って王城行くなよ」

「行きません」

「本当に?」

「……少し考えました」

「銀華」

「行きません」


     ◇


 五か月目。

 銀華の鍛錬は厳しくなっていた。


「もう一回」

「はい」


 静の木刀。

 銀華が受ける。

 崩れる。


「遅い」

「はい」

「腕で受けるな」

「はい」

「足」

「はい」

「返事だけするな」

「はい」

「……」

「今のは必要です」

「もう一回」


 立つ。

 銀華は強くなっている。

 十四歳とは思えない速度で。

 だが静はそれ以上に休ませた。


「今日はここまで」

「まだ」

「駄目だ。休め」

「あと」

「明日、続きだ」

「……はい」


 以前より。

 銀華も少しだけ。

 止まれるようになった。


     ◇


 夜。

 銀華が眠ったあと。

 静は一人で庭へ出た。

 木刀ではなく。

 本物の剣。

 抜く。

 一閃。

 空気が鳴る。

 もう一度速い。

 鋭い。

 誰にも見せない。

 何度も何度も振る。


 『もっと強ければ』


 銀華の声。

 静は剣を止める。


「……私もだ」


 誰もいない庭。


「私がもっと強ければ」


 王妃を王子を王をあの二人を。

 守れたかもしれない。

 だから、銀華の気持ちは痛いほど分かる。

 分かるから止めなければならない。


「……嫌になる」


 静は剣を鞘へ戻した。


「似てる」


 自分と。

 銀華がそして。

 蒼華と。


     ◇


 六か月目。

 刹那は食事を自分で持つようになった。

 全部ではない。

 途中で止まる。

 手が動かなくなる。

 何も見えなくなる。

 それでも、また。

 数分後。

 動く。

 銀華は隣で食べるようになった。


「今日は一緒に食べてもいいですか」


 返事はない。


「では、食べます」


 勝手に決める。

 自分の器を置く。


「静様が作りました」

「作ってない」

「手伝いました」

「野菜切っただけ」

「料理です」

「違う」


 刹那の指が止まる。

 銀華が食べる。


「少し大きいです」

「何が」

「野菜」

「文句言うなら食うな」

「食べます」


 刹那の視線が銀華の器へそれから。

 静へ一瞬。

 静が固まる。


「……」


 刹那の視線が戻る。


「今」

「言うな」


 静が小声で言う。


「はい」


 銀華は何事もなかったように。

 野菜を食べた。


     ◇


 七か月目。

 瑠璃は正式に国を率いる立場へ進む準備をしていた。

 戴冠。

 制度。

 反乱後の再編。

 処罰。

 復興。

 外交。

 毎日。

 選ぶ。

 迷う。

 決める。


「姫様」

「はい」

「この署名を」

「確認します」

「こちらも」

「置いてください」

「こちらは急ぎです」

「先に見ます」


 以前の瑠璃なら。

 人の話を全部そのまま信じた。

 今は。


「根拠は?」


 聞く。


「誰が確認しましたか」


 聞く。


「反対意見は?」


 聞く。


「この数字は」


 聞く。

 疑う。

 でも、人を疑うことと。

 人を信じないことは同じではない。

 それを瑠璃は少しずつ覚えていった。


     ◇


 反乱軍本陣の文書。

 調査はまだ続いている。


「姫様」


 軍務卿が一枚の紙を置く。


「これを」

「何ですか」

「兵糧の購入記録です」

「以前の」

「はい」

「出所が分かりましたか」

「一部だけ」


 瑠璃が見る。

 国内に存在しない商会名。

 複数の経由地。

 偽名。


「誰が?」

「まだ」


 軍務卿は首を振る。


「ただ」

「はい」

「反乱を起こした領主だけで準備したものではない可能性が高い」


 瑠璃は紙を見た。


「外から?」

「その可能性があります」

「どこから」

「断定できません」

「……」


 瑠璃は紙を置く。


「では」

「はい」

「まだ、決めません」

「承知しました」


 以前なら。

 誰かを信じて。

 すぐ答えを求めた。

 今は待つ。

 確かめる。

 それも戦うことなのだと。

 知り始めていた。


     ◇


 八か月目。

 雨の日。

 銀華はいつもの時間に救護所へ来た。


「濡れました」


 髪から水。


「傘は」


 静が聞く。


「風で壊れました」

「だから待てと言った」

「刹那さんが」

「逃げない」

「分かっています」

「なら」

「でも約束したので」

「……」


 静は銀華へ布を投げた。


「拭け」

「ありがとうございます」


 部屋へ。


「こんにちは、刹那さん」


 返事はない。


「雨がすごいです」


 銀華が椅子へ座る。


「傘が壊れました」


 刹那の目が銀華の濡れた髪へ。


「静様に怒られました」

「当たり前」

「でも来ました」


 銀華は笑う。


「今日は」


 言葉が止まる。

 外で雷。

 大きな音。

 刹那の身体が跳ねた。


「……!」


 初めて明確な反応。

 刹那が頭を抱える。

 呼吸が速くなる。


「刹那さん?」


 銀華が立つ。

 刹那の目は今ではない場所を見ている。

 火。

 叫び。

 村。

 人。

 倒れる。


「刹那さん」


 銀華が近づこうとする。


「待て」


 静が腕を掴む。


「でも」

「急に触るな」


 刹那の身体が震える。

 呼吸。

 浅い。

 速い。

 銀華は刹那との距離を残したまま、その場にしゃがんだ。


「刹那さん」


 返事はない。


「ここにいます」


 刹那の手が震える。


「私は銀華です」


 雷。

 刹那がさらに身体を縮める。


「大丈夫」


 言いかけて。

 銀華は止めた。

 大丈夫ではない。

 刹那にとって。

 今。

 何が見えているのか。

 分からない。


「……雨です」


 銀華は言った。


「今の音は」


 ゆっくり。


「雷です」


 刹那の呼吸。


「ここは王都です」


 少しずつ。


「救護所です」


 銀華は自分の手を床へ置いた。

 届かない距離。


「静様もいます」

「いる」

「私もいます」


 刹那の目が動く。


「ここには」


 銀華は言葉を選んだ。


「今、火はありません」


 刹那の呼吸が少し。

 変わる。


「雨が降っています」


 銀華は続ける。


「とても強い雨です」


 刹那の目。


「傘も壊れました」


 静が黙って見ている。


「私は」


 銀華が少し笑う。


「びしょ濡れです」


 刹那の瞳が銀華の濡れた袖へ。

 そこに止まる。

 呼吸が少しずつ。

 遅くなる。


     ◇


 その日。

 銀華は帰らなかった。

 刹那が眠るまで部屋の隅に座った。

 何も話さず。

 ただ、そこにいた。

 静も廊下で待った。

 夜。

 刹那の呼吸が深くなる。

 銀華が立つ。


「帰りましょう」

「ああ」


 扉を閉める。

 廊下。

 静が銀華を見る。


「怖かった?」

「はい」

「刹那が?」

「いいえ」


 銀華は首を振る。


「何もできないことが」


 静は少しだけ目を伏せる。


「何もしてないと思う?」

「……」

「お前」


 静は銀華の額を軽く小突く。


「痛いです」

「ずっといた」

「はい」

「それでいい時もある」

「……」

「覚えとけ」

「はい」


     ◇


 九か月目。

 刹那は部屋の外へ出た。

 自分からではない。

 医師が誘った。

 銀華が少し先を歩いた。


「嫌なら戻りましょう」


 返事はない。

 一歩。

 刹那が歩く。

 もう一歩。

 廊下。

 窓。

 外の光。

 刹那が眩しそうに目を細める。

 銀華は待つ。

 十歩。

 それだけ。

 刹那は部屋へ戻った。


「今日は十歩でした」


 銀華が静へ言う。


「ああ」

「明日は十一歩でしょうか」

「決めるな」

「そうですね」

「ゼロかもしれない」

「はい」

「それでも?」

「また明日です」


 静は銀華を見る。


「お前」

「はい」

「しつこいな」

「よく言われます」

「誰に」

「静様に」

「そうだった」


     ◇


 十か月目。

 銀華がいつものように刹那の前で話していた。


「今日は瑠璃様が」

「私ですか」

「戴冠の衣装合わせから逃げようとしました」

「逃げていません」

「窓を見ていました」

「外を見ただけです」

「朱さんが扉の前に立ったら諦めました」

「銀華」

「はい」

「誰から聞いたのです」

「朱さんです」

「また朱……」


 刹那の。

 口元が動いた。

 ほんの少し音はない。

 銀華が止まる。

 瑠璃も静も刹那の唇がもう一度。

 動く。


「……」


 声にはならない。

 でも、何かを言おうとした。


「刹那さん」


 銀華が小さく呼ぶ。

 刹那の目が銀華を見る。

 真正面。

 初めて視線が合った。

 銀華は笑わなかった。

 泣かなかった。

 ただ。


「はい」


 と言った。

 何も聞こえていないのに返事をした。


     ◇


 その日から刹那は時々。

 唇を動かした。

 声は出ない。

 意味も分からない。

 それでも、銀華が来ると。

 目で追うことが増えた。

 帰る時。

 扉を見る。

 翌日。

 銀華が入る。

 視線が動く。

 少しずつ少しずつ。


     ◇


 十一か月目。

 銀華がいつもより遅れた。

 鍛錬中。

 古傷でもないのに足を捻った。


「走るな」

「走っていません」

「嘘」

「早歩きです」

「同じ」

「違います」


 静に肩を貸され。

 救護所へ。


「こんにちは、刹那さん」


 刹那の目がすぐ銀華へ向く。

 そして、足。

 静の肩。

 銀華。


「大丈夫です」


 銀華が言う。

 静が睨む。


「今それ言うな」

「今回は本当に」

「捻挫だぞ」

「軽いです」

「軽くても捻挫は捻挫だ」


 刹那の指が毛布を握る。


「……」


 銀華が座る。


「今日は遅くなってすみません」


 刹那の唇が動く。


「……」

「はい?」


 銀華は少しだけ身を寄せる。

 近づきすぎない。


「何ですか」


 刹那の喉が動く。


「……」


 空気。

 小さな音。


「……お」


 銀華の目が大きくなる。

 静が息を止める。


「刹那さん?」

「……そ」


 声。

 掠れている。


「……おそ……い」


 銀華は動けなかった。


「……」


 刹那の目が銀華を見ている。


「おそい」


 もう一度。今度は、少しだけはっきりと聞こえた。


     ◇


 銀華は泣かなかった。

 ただ、顔がくしゃりと崩れた。


「……すみません」


 声が震える。


「遅くなりました」


 刹那はそれ以上言わない。


「明日は」


 銀華が言う。


「いつもの時間に来ます」


 刹那が握っていた毛布の端が、少しだけ緩んだ。


     ◇


 部屋を出る。

 銀華は扉を閉めた。

 静を見る。


「静様」

「聞こえた」

「刹那さんが、喋りました」

「ああ。確かに」


 静は頷いた。銀華の声はまだ震えている。

 銀華は何度も扉を振り返った。


「私に、言ってくれたんです」


 信じられないように、銀華は言葉を重ねた。


「遅いって」


 静の口元がわずかに緩む。


「怒られました」

「そうだな」

「……」


 銀華の顔が、また歪んだ。


「……よかった」


 静は黙って頷いた。

 その一言だけでは、胸にあふれるものを言い表せなかった。


「よかったな、銀華」


 静は銀華の頭を抱き寄せた。


「泣いていいぞ」

「……泣いていません」

「知ってる」

「静様」

「何」

「苦しいです」


 静の腕が止まる。


「嬉しいのに」


 静は返事の代わりに、銀華を抱く腕に少し力を込めた。


「すごく」


 銀華は言葉を探したが、うまく続けられなかった。


「苦しいです」


 静はその意味をたぶん分かっていた。

 誰かの声が戻る。

 誰かが生きる方へ少し歩く。

 嬉しい。

 だからこそ、

 戻らなかった二人を思い出す。


「銀華」

「はい」

「それでいい」

「……」

「嬉しくて」


 静は銀華の髪へ頬を寄せる。


「苦しくていい」


 銀華は静の服を少しだけ掴んだ。


     ◇


 十二か月目。

 もうすぐ。

 一年。

 刹那は短い言葉なら。

 時々。

 話すようになった。


「水」

「はい」

「……自分で」

「分かりました」


 銀華が手を引く。

 刹那が銀華を見上げた。


「今日は?」

「鍛錬です」

「……何回」

「倒された回数ですか」


 刹那がほんの少し。

 頷く。


「二十三回です」

「二十四」


 静。


「最後は転んだだけです」

「私が避けたから転んだ」

「では二十四です」


 刹那の口元がほんの少し動く。

 笑った。

 とはまだ言えない。

 でも、以前の無表情とは違った。


     ◇


 ある日。

 銀華が帰ろうとした。


「では、また明日」


 立つ。

 刹那の手が動く。

 銀華の袖。

 指先が布を掴んだ。


「……」


 銀華が振り返る。

 刹那も自分が何をしたのか。

 分からないような顔。


「刹那さん?」


 手を離さない。


「どうしました?」


 長い沈黙。


「……」


 刹那の喉が動く。


「……いかないで」


 銀華はその場へもう一度座った。


「はい」


 即答だった。


「今日は、もう少しいます」


 刹那の手。

 袖を握る。

 強くはない。

 でも、離れない。


     ◇


 廊下。

 瑠璃と静は扉の隙間から二人を見ていた。


「……静」

「何」

「一年ですね」

「一年か」

「まだ」


 静は小さく頷いた。


「元には戻っていません」

「戻るって何だ」


 瑠璃が静を見る。


「え?」

「元に戻るって」


 静は刹那を見る。


「村があった頃には戻れない」

「……」

「家族も」

「はい」

「だから」


 静は少し考える。


「戻るんじゃない」

「では」

「ここから」


 銀華を見る。


「別の生き方を作るしかない」


 瑠璃は静の言葉を聞く。


「……そうですね」

「銀華も」

「はい」

「私も」

「はい」

「お前も」


 瑠璃が小さく笑う。


「私もですか」

「当たり前」

「そうですね」


 二人は部屋の中を見る。

 十四歳から十五歳へ近づく少女。

 十一歳から十二歳へ近づく少女。

 二人とも失ったものは戻らない。

 それでも、同じ部屋にいる。


     ◇


 その夜。

 刹那が銀華へ聞いた。


「……どうして」

「はい?」

「どうして……来るの」


 銀華は少し考えた。


「最初は」


 正直に言う。


「分かりませんでした」

「……」

「瑠璃様に会ってみないかと言われて」

「……」

「会って」


 刹那を見る。


「一人に見えたから」


 刹那の指が少し動く。


「私も」


 銀華は続ける。


「一人になったばかりでした」

「……」

「だから」


 うまく言えない。


「放っておけなかったのだと思います」

「……かわいそう?」


 銀華はすぐ首を振った。


「違います」

「……」

「可哀想だからではありません」

「じゃあ」

「分かりません」


 刹那が銀華を見る。


「……変」

「よく言われます」

「誰に」

「静様に」

「言ってない」


 廊下から声。


「聞いていたのですか」

「聞こえた」


 刹那の目が扉へ向き、それから銀華へ戻った。


「……変」

「二回目です」


 刹那の口元が、ほんの少し上がった。

 今度は銀華にも分かった。

 笑った。


     ◇


 それから数日後。

 刹那が初めて。

 救護所の外まで歩いた。

 銀華が横。

 静は少し後ろ。

 瑠璃も仕事を抜けてきた。


「逃げてきたのですか」

「違います」

「朱さんは?」

「……置いてきました」

「逃げています」

「銀華」


 刹那が小さく。

 息を漏らした。

 笑い声。

 四人が止まる。

 刹那自身も驚いている。


「……」


 銀華は何も言わなかった。

 ただ、歩き出す。


「行きましょう」


 刹那が一歩。

 ついてくる。

 また一歩。

 陽の光。

 風。

 王都の音。

 怖いものもまだたくさんある。

 大きな音がすれば。

 刹那は止まる。

 兵士の鎧を見れば。

 呼吸が浅くなる。

 知らない男が近づけば。

 銀華の後ろへ隠れる。

 元には戻っていない。

 それでも、歩いている。


     ◇


「銀華」


 帰り道。

 刹那が呼ぶ。

 初めて敬称もなく。

 名前だけ。

 銀華が振り返る。


「はい」

「……明日も」

「はい」

「来る?」

「来ます」

「……ほんと?」

「はい」


 銀華は迷わなかった。


「約束します」


 刹那が銀華の袖を掴む。


「……約束」

「はい」

「絶対?」


 銀華は少しだけ考えた。


「できる限り」


 刹那の眉がほんの少し動く。


「絶対じゃない」

「できない約束は、したくありません」

「……」

「でも」


 銀華は刹那を見る。


「来られる限り、来ます」


 刹那は長い間。

 銀華を見た。


「……うん」


 袖を掴んだまま。

 歩く。


     ◇


 静は少し後ろから二人を見ていた。

 瑠璃が二人の背中を見ながら言った。


「銀華らしいですね」


 瑠璃が言う。


「ああ」

「絶対と言ってあげればいいのに」


 静は迷いなく答えた。


「銀華は言わないだろうな」


 瑠璃は小さく頷いた。


「できないかもしれない約束ですからね」


 静は、前を歩く銀華を見た。


「馬鹿正直なやつだ」

「でも、そこが銀華らしいのでしょう」


 瑠璃は微笑む。


「だからこそ……」

「何だ?」


 瑠璃は刹那の小さな手に目を向けた。


「刹那には、届いたのかもしれません」


 静は答えなかった。

 ただ、銀華の袖を握る。

 小さな手を見た。


     ◇


 その頃から刹那は銀華が何をしているのか。

 聞くようになった。


「剣?」

「はい」

「どうして」

「強くなりたいからです」

「……どうして」


 銀華は少し黙る。


「守りたいから」

「誰を」

「……」


 父。

 母。

 守れなかった。

 言葉が胸へ刺さる。


「これから会う人を」


 銀華は答えた。

 刹那が銀華を見る。


「……私も?」


 銀華は驚いた。


「はい」


 それから、笑う。


「もちろんです」


 刹那の目が揺れた。


「……」

「刹那さん?」

「何でもない」


 顔を逸らす。

 その日。

 刹那はいつもより長く。

 銀華の袖を握っていた。


     ◇


 数日後。


「私も」


 刹那が言った。


「何ですか」

「剣」

「?」

「教えて」


 銀華が瞬きをする。


「私が?」

「うん」

 銀華は困ったように静を振り返った。

「私も教わっている途中です」

「じゃあ」


 刹那は後ろを見る。


「静」


 静が眉を上げる。


「私?」

「教えて」

「嫌」


 即答。

 刹那が固まる。

 銀華が静を見る。


「静様」

「何」

「もう少し言い方が」

「剣を持つ理由がない」


 静は刹那を見る。


「何のため」


 刹那は答えられない。


「銀華と同じ」

「違う」

「……」

 静の声は厳しかった。刹那はその言葉を聞き、表情をこわばらせた。

「銀華の真似なら教えない」


 刹那の顔が少し強張る。


「静様」

「銀華は黙ってろ」

「でも」

「刹那」


 静が真正面から見る。


「お前が決めろ」

「……」

「銀華が剣を持つからじゃない」

「……」

「自分が何のために持つのか」


 刹那は俯いた。


「分からないなら」


 静は言う。


「今は持たなくていい」


     ◇


 その夜。

 刹那は長く眠れなかった。

 毎日のように銀華が来て、話をして、笑って帰っていく。そして翌日には、また顔を見せてくれる。

 いつの間にか、その繰り返しが刹那の日常になっていた。

 けれど、もし銀華が来なくなったら。そう考えた途端、胸が苦しくなる。

 村で迎えた、あの朝が浮かんだ。家族は確かにそこにいた。それなのに、次の日には誰もいなくなっていた。

 銀華も、ある日突然いなくなるのだろうか。

 その考えが頭から離れなかった。


「……嫌」


 小さな声。

 誰も聞いていない。


「嫌……」


     ◇


 翌日。

 刹那は静へ言った。


「守る」


 静が刹那に問い返した。


「何を守る?」

「銀華」


 銀華が隣で固まる。

 銀華は自分を指さした。


「私を?」

「うん」


 静は刹那の目を見て尋ねた。


「どうして?」

「……いなくなるの、嫌」


 静の目が少し細くなる。


「それだけか?」

「……」

 刹那は唇を結び、うつむいたまま答えなかった。静は急かさず、その顔を見つめた。

「刹那」

 刹那は首を横に振った。何を尋ねられても、今はそれ以外の言葉が見つからない。

 静は言葉を挟まず、刹那が続きを話すのを待った。

「嫌」

 静は小さく頷いた。

「もう」


 声が震える。


「いなくなるの、嫌」


 銀華は何も言えなかった。

 静は刹那を見る。

 危うい。

 そう思った。

 でも、今。

 その気持ちまで否定するべきではない。


「分かった」


 静が言う。


「ただし」

「……」

「銀華のために死ぬ剣は教えない」


 刹那が顔を上げる。


「守るなら」


 静は自分にも言い聞かせるように続けた。


「生きて守れ」


 刹那には、その言葉の意味がまだ

 すべて分かったわけではなかった。


「……うん」


 小さく頷く。


     ◇


 銀華が刹那を見る。


「私も」

「?」

「刹那さんに死んでほしくありません」


 刹那の目が揺れる。


「だから」


 銀華は刹那を真っ直ぐ見た。


「一緒に強くなりましょう」

「一緒?」

「はい」

「銀華も?」

「私もです」

「……」

「静様は厳しいですよ」

「おい」

「本当です」

「お前が無茶するからだ」

「それは少しだけです」

「かなりだ」


 刹那の口元が少し上がる。


「……やる」

「はい」

「私も」

「はい」


 刹那は初めて、自分の意思で前へ進むことを選んだ。

 その道がどこへ続くのか、まだ誰にも分からなかった。


### あとがき


番外編⑧「届きはじめた声」を最後までお読みいただき、ありがとうございます。


前回の「泣かない少女」から一年。


銀華、静、瑠璃、そして刹那。


大切なものを失った四人は、それぞれの悲しみを抱えながら、少しずつ前へ進み始めました。


今回、特に描きたかったのは刹那の変化です。


言葉を失っていた少女が、銀華との何気ない日常を通じて、少しずつ自分の気持ちを伝えられるようになる。


その歩みは決して早くありません。


けれど、誰かを待ち、誰かと一緒にいたいと願い、やがて自分の意思で未来を選ぶ。


そんな小さな変化を大切にしました。


そして、静が伝えた「生きて守る」という考え方。


大切な人を守るために、自分の命まで捨ててほしくない。


その願いも、これからの物語につながっていきます。


四人の物語は、まだ始まったばかりです。


これからも彼女たちの歩みを見守っていただければ幸いです。


**作品を気に入っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると大変励みになります。**


引き続き『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』をよろしくお願いいたします。


**はしたけ/朋**

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。