番外編⑧ 届きはじめた声
刹那の瞳が、ほんのわずかに銀華へ向いた。
それだけだった。
「……」
銀華は話すのを止めた。
静も動かなかった。銀華の声が途切れたまま、二人は刹那を見守った。
動けば、そのわずかな変化さえ消えてしまうような気がした。
刹那の視線は、銀華の顔をまっすぐ見ているわけではなかった。肩のあたりか、その向こうか。まだ曖昧な場所だった。
それでも、今までとは違った。
「刹那さん」
銀華が、いつもと同じ声で呼んだ。
返事はない。
「静様は」
静が思わず口を挟んだ。
「何で私の話なんだ」
銀華は静へ顔を向けずに言った。
「静かにしてください」
「……分かった」
静はそれ以上口を挟まず、銀華の隣で刹那を見守った。
銀華は刹那へ向き直り、何事もなかったように話を続けた。
「静様は、くしゃみをした隙を突かれたのが、とても悔しかったようです」
静が不服そうに返す。
「だから悔しくない」
銀華は小さく笑った。
「そういうことにしておきます」
刹那の目は、また少しずつ元の場所へ戻っていった。
誰もその視線を追わなかった。銀華も同じだった。
「では」
いつものように立つ。
「今日は帰ります」
刹那は動かない。
「また明日」
頭を下げる。
「おやすみなさい、刹那さん」
◇
部屋を出ると、背後で扉が閉まった。
銀華は、その場で立ち止まった。
「……静様」
「何?」
「今、刹那さんが……」
「見てた」
「見ましたか」
「見たよ」
銀華はようやく、少し離れて立つ瑠璃にも顔を向けた。
「瑠璃様も、見ましたか」
「はい。銀華の方を見ていました」
瑠璃は静かに頷いた。
「……」
銀華は両手を胸の前で握った。
「よかった」
それだけ。
大きく喜ばない。
扉を開けて確かめもしない。
「銀華」
瑠璃が呼ぶ。
「はい」
瑠璃が銀華の表情をうかがった。
「嬉しくないのですか」
銀華は迷わず答えた。
「嬉しいです」
「それなら……」
「でも」
銀華は扉を見る。
「刹那さんが、私を見たかったのかは分かりません」
「……」
「たまたまかもしれません」
静が少し目を細める。
「だから、どうする?」
銀華は言う。
「明日も、同じように来ます」
「同じように?」
「はい」
「もう少し話しかけてみるのはどうでしょう」
瑠璃が控えめに尋ねた。
「しません」
銀華は首を振った。
「今までと同じでいいと思います」
「なぜですか」
銀華は少し考えてから答えた。
「分かりません」
瑠璃が少し笑った。
「銀華まで、それを言うようになりましたね」
「瑠璃様の真似ではありません」
「そうですか」
「はい」
銀華は少し考えた。
「ただ……」
瑠璃は急かさず、銀華の言葉を待った。
「急に近づいたら」
扉を見る。
「怖いかもしれないので」
静は何も言わなかった。
◇
翌日。
刹那は銀華を見なかった。
その翌日も見なかった。
三日目も四日目も以前と同じ。
空っぽの瞳。
「戻ってしまったのでしょうか」
瑠璃が廊下で呟く。
静は刹那の部屋の扉を見た。
「分からない」
静が答える。
瑠璃は声を落とした。
「銀華は?」
「何も言わない」
「銀華も気づいていますよね」
「当然」
部屋の中。
銀華はいつものように話している。
銀華は刹那へ今日の出来事を語りかけた。
「今日は街で、屋根を直すお手伝いをしました」
反応はない。
「私は下から板を渡すだけでしたが」
反応はない。
「途中で、静様が上から落ちました」
背後から静の声が飛んだ。
「落ちてない」
「足を滑らせましたよね」
「ちゃんと着地した」
「普通は落ちたと言います」
「言わない」
反応はない。
「瑠璃様は、昨日……」
同席していた瑠璃が目を瞬かせた。
「私のことですか?」
「昨日、書類の上で寝ていたそうです」
「誰から聞いたのですか」
銀華は悪びれずに答えた。
「朱さんです」
「朱……あとで話があります」
反応はない。
銀華は刹那の視線を求めなかった。
◇
十日ほどして。
医師が小さな変化に気づいた。
「食べる量が増えたのですか」
瑠璃が思わず身を乗り出した。
「どのくらいですか」
医師は記録を確かめてから答えた。
「ほんの少しですが」
「自分から食べたのですか?」
医師は慎重に首を振った。
「いいえ」
まだ自分から食事に手を伸ばすわけではない。
「まだ、こちらが口元へ運んでいます」
「では、まだ……」
「ただ、以前とは違います」
器を見せる。
「以前は三口ほどで、口を閉ざしていました」
「今は?」
「五口。多い日は六口」
瑠璃はその数字を見つめた。
「……それだけ」
「はい」
医師は静かに頷く。
「それだけです」
瑠璃はそれ以上を求めなかった。
「分かりました」
◇
銀華はその変化を聞いても、静かに受け止めた。
「そうですか」
と答えただけだった。
「嬉しくないの?」
静が聞く。
「嬉しいです」
「顔に出ない」
「静様に言われたくありません」
「それもそうだ」
「ただ」
銀華は少しだけ目を伏せる。
「食べられたなら」
「うん」
「よかったです」
「それだけ?」
「はい」
静は銀華の頭へ手を置いた。
「何ですか」
「別に」
「子ども扱いしないでください」
「十四だろ」
「十四です」
「子ども」
銀華は頭に置かれた手を見上げ、少しむきになって言い返した。
「静様は十七でしょう」
「私は大人」
「三つしか違いません」
「師匠だから」
「関係ありません」
静は銀華の髪を少し乱した。
「静様」
「何」
「怒りますよ」
「怒れ」
「……」
銀華は本当に少し怒った顔をした。
静はそれを見て、少し安心した。
◇
二か月目。
刹那は時々、
銀華の声がする方へ目を動かすようになった。
毎回ではない。
一日に一度でもない。
三日。
五日。
何もない日が続く。
それから突然。
ほんの少し、視線が動く。
銀華は気づいても、気づかないふりをした。
「今日は」
いつもの話。
「静様に、街でお菓子を買っていただきました」
「お前が勝手に取った」
「代金は静様が払いました」
「払わされた」
「ありがとうございます」
「今言うな」
刹那の目が、ほんの少し銀華の方へ動いた。
「とても甘かったです」
銀華は続ける。
「静様は一口食べて、甘すぎると言っていました」
「甘かった」
「私は好きでした」
視線が止まる。
銀華の手。
そこに小さな包み。
「……」
銀華は包みを机へ置いた。
「同じものです」
刹那は動かない。
「食べなくても大丈夫です」
銀華はそれ以上、包みを近づけなかった。
「置いておきます」
◇
翌朝。
包みはそのままだった。
銀華は何も言わない。
夕方。
また来る。
包みは少しだけ位置が変わっていた。
「……」
銀華が見る。
医師が小声で言う。
「私たちは触っていません」
銀華は刹那を見た。
刹那はいつものように何も見ていない。
「そうですか」
銀華はそれだけ言った。
包みを開けない。
確かめない。
今日の話を始めた。
◇
三か月目。
王都には少しずつ。
日常が戻り始めていた。
壊れた家が建ち直る。
市場に店が戻る。
鐘が鳴る。
子どもが走る。
でも、戻らないものもある。
空いた家。
閉じた店。
名前だけ残った兵舎の寝台。
瑠璃はそれを毎日見ていた。
◇
「処刑を求める声が増えています」
軍務卿が言う。
瑠璃は書類を見る。
「誰の」
「反乱に参加した領主とその家族、それに兵です」
「家族も?」
軍務卿が答えた。
「はい。家族も含まれています」
「なぜ」
「血を残せば、また禍根になると」
瑠璃は黙った。
「姫様」
「私は」
言葉を選ぶ。
「父と母と弟を殺されました」
「……はい」
「だから」
指先が震える。
「殺した者を憎んでいます」
軍務卿が顔を上げる。
「憎んでは、いけませんか」
「いいえ」
「私は」
瑠璃は自分の胸へ手を置いた。
「許せません」
初めてはっきり言った。
「今も」
「はい」
「ですが」
書類を見る。
「その者の子まで殺せと言われたら」
「……」
「分かりません」
軍務卿は待つ。
「その子は、父を殺していません」
「はい」
「でも」
瑠璃の目が揺れる。
「その子が将来、復讐する可能性はあります」
「あります」
「なら殺すべきですか」
「それを決めるのは」
「私です」
瑠璃が言った。
「そうですね」
軍務卿は頷く。
瑠璃は長い時間。
書類を見た。
「家族は処刑しません」
「姫様」
「罪を犯した本人を調べます」
「反発が」
「あるでしょう」
「王家を皆殺しにされたのです」
「分かっています」
瑠璃は顔を上げる。
「だからこそ」
声は以前より。
少しだけ冷静だった。
「私の怒りだけで、国の法を決めたくありません」
軍務卿は深く頭を下げた。
「承知しました」
◇
その日の夜。
瑠璃は銀華のところへ来た。
「疲れていますね」
銀華が言う。
「顔に出ていますか」
「少し」
「静より?」
「静様はいつも同じ顔です」
「聞こえてる」
静が奥から言う。
「悪口ではありません」
「ならいい」
瑠璃は椅子へ座る。
「銀華」
「はい」
「人を許すとは、何でしょう」
銀華が瞬きをする。
「急ですね」
「急に聞きたくなりました」
「私に?」
「はい」
銀華はしばらく考えた。
「分かりません」
瑠璃が笑った。
「またですか」
「分からないものは分かりません」
「そうですね」
「でも」
「はい」
銀華は父の席だった場所を。
一瞬見る。
「許すことと」
ゆっくり。
「忘れることは、違うと思います」
瑠璃の目が動く。
「どうして?」
「父様と母様を殺した人を」
銀華の手が少し握られる。
「私は、今は許せません」
「……はい」
「たぶん」
声が小さくなる。
「ずっと許せない人もいると思います」
「銀華」
「でも」
銀華は瑠璃を見る。
「その人と同じ国にいた人まで、全部嫌いになるのは」
言葉を探す。
「違う気がします」
瑠璃は黙って聞く。
「すみません」
「なぜ謝るのです」
「うまく言えません」
「十分です」
瑠璃は銀華の言葉を心の中へ置いた。
答えではない。
それでいい。
◇
四か月目。
刹那は自分で水を飲んだ。
最初は誰も見ていない時だった。
器の水が減っている。
医師が気づく。
次の日。
銀華がいる時。
刹那の指がゆっくり。
器へ動いた。
「……」
銀華は話を止めない。
「それで、静様が」
指。
器に触れる。
「私に、剣は力で振るものではないと」
刹那が器を持つ。
「言った直後に」
少し震える。
「力で私を吹き飛ばしました」
静がすかさず訂正した。
「語弊がある」
器が口元へ。
銀華は刹那の手元を見守りながら返した。
「ありません」
一口。
飲む。
「静様は」
刹那の手から器が落ちそうになる。
銀華は反射的に手を伸ばしかけた。
止めた。
刹那が自分で持ち直す。
「……」
銀華の手が膝へ戻る。
「とても理不尽です」
静は呆れたように言った。
「お前な……」
刹那が水をもう一口飲んだ。
◇
部屋を出た瞬間。
銀華は壁へ背をつけた。
「飲みましたね」
銀華は静を振り返った。
静も、あの一口を見届けていた。
「自分で、器を持って」
「ああ。落とさずに飲めた」
「……本当に、飲めたんですね」
「見間違いじゃない」
「瑠璃様にも伝えたいです」
「今日は王城だ」
「そうでした」
銀華は少し笑った。
それでも、明日には瑠璃にも知らせようと心に決めた。
「明日来る」
「はい」
「走って王城行くなよ」
「行きません」
「本当に?」
「……少し考えました」
「銀華」
「行きません」
◇
五か月目。
銀華の鍛錬は厳しくなっていた。
「もう一回」
「はい」
静の木刀。
銀華が受ける。
崩れる。
「遅い」
「はい」
「腕で受けるな」
「はい」
「足」
「はい」
「返事だけするな」
「はい」
「……」
「今のは必要です」
「もう一回」
立つ。
銀華は強くなっている。
十四歳とは思えない速度で。
だが静はそれ以上に休ませた。
「今日はここまで」
「まだ」
「駄目だ。休め」
「あと」
「明日、続きだ」
「……はい」
以前より。
銀華も少しだけ。
止まれるようになった。
◇
夜。
銀華が眠ったあと。
静は一人で庭へ出た。
木刀ではなく。
本物の剣。
抜く。
一閃。
空気が鳴る。
もう一度速い。
鋭い。
誰にも見せない。
何度も何度も振る。
『もっと強ければ』
銀華の声。
静は剣を止める。
「……私もだ」
誰もいない庭。
「私がもっと強ければ」
王妃を王子を王をあの二人を。
守れたかもしれない。
だから、銀華の気持ちは痛いほど分かる。
分かるから止めなければならない。
「……嫌になる」
静は剣を鞘へ戻した。
「似てる」
自分と。
銀華がそして。
蒼華と。
◇
六か月目。
刹那は食事を自分で持つようになった。
全部ではない。
途中で止まる。
手が動かなくなる。
何も見えなくなる。
それでも、また。
数分後。
動く。
銀華は隣で食べるようになった。
「今日は一緒に食べてもいいですか」
返事はない。
「では、食べます」
勝手に決める。
自分の器を置く。
「静様が作りました」
「作ってない」
「手伝いました」
「野菜切っただけ」
「料理です」
「違う」
刹那の指が止まる。
銀華が食べる。
「少し大きいです」
「何が」
「野菜」
「文句言うなら食うな」
「食べます」
刹那の視線が銀華の器へそれから。
静へ一瞬。
静が固まる。
「……」
刹那の視線が戻る。
「今」
「言うな」
静が小声で言う。
「はい」
銀華は何事もなかったように。
野菜を食べた。
◇
七か月目。
瑠璃は正式に国を率いる立場へ進む準備をしていた。
戴冠。
制度。
反乱後の再編。
処罰。
復興。
外交。
毎日。
選ぶ。
迷う。
決める。
「姫様」
「はい」
「この署名を」
「確認します」
「こちらも」
「置いてください」
「こちらは急ぎです」
「先に見ます」
以前の瑠璃なら。
人の話を全部そのまま信じた。
今は。
「根拠は?」
聞く。
「誰が確認しましたか」
聞く。
「反対意見は?」
聞く。
「この数字は」
聞く。
疑う。
でも、人を疑うことと。
人を信じないことは同じではない。
それを瑠璃は少しずつ覚えていった。
◇
反乱軍本陣の文書。
調査はまだ続いている。
「姫様」
軍務卿が一枚の紙を置く。
「これを」
「何ですか」
「兵糧の購入記録です」
「以前の」
「はい」
「出所が分かりましたか」
「一部だけ」
瑠璃が見る。
国内に存在しない商会名。
複数の経由地。
偽名。
「誰が?」
「まだ」
軍務卿は首を振る。
「ただ」
「はい」
「反乱を起こした領主だけで準備したものではない可能性が高い」
瑠璃は紙を見た。
「外から?」
「その可能性があります」
「どこから」
「断定できません」
「……」
瑠璃は紙を置く。
「では」
「はい」
「まだ、決めません」
「承知しました」
以前なら。
誰かを信じて。
すぐ答えを求めた。
今は待つ。
確かめる。
それも戦うことなのだと。
知り始めていた。
◇
八か月目。
雨の日。
銀華はいつもの時間に救護所へ来た。
「濡れました」
髪から水。
「傘は」
静が聞く。
「風で壊れました」
「だから待てと言った」
「刹那さんが」
「逃げない」
「分かっています」
「なら」
「でも約束したので」
「……」
静は銀華へ布を投げた。
「拭け」
「ありがとうございます」
部屋へ。
「こんにちは、刹那さん」
返事はない。
「雨がすごいです」
銀華が椅子へ座る。
「傘が壊れました」
刹那の目が銀華の濡れた髪へ。
「静様に怒られました」
「当たり前」
「でも来ました」
銀華は笑う。
「今日は」
言葉が止まる。
外で雷。
大きな音。
刹那の身体が跳ねた。
「……!」
初めて明確な反応。
刹那が頭を抱える。
呼吸が速くなる。
「刹那さん?」
銀華が立つ。
刹那の目は今ではない場所を見ている。
火。
叫び。
村。
人。
倒れる。
「刹那さん」
銀華が近づこうとする。
「待て」
静が腕を掴む。
「でも」
「急に触るな」
刹那の身体が震える。
呼吸。
浅い。
速い。
銀華は刹那との距離を残したまま、その場にしゃがんだ。
「刹那さん」
返事はない。
「ここにいます」
刹那の手が震える。
「私は銀華です」
雷。
刹那がさらに身体を縮める。
「大丈夫」
言いかけて。
銀華は止めた。
大丈夫ではない。
刹那にとって。
今。
何が見えているのか。
分からない。
「……雨です」
銀華は言った。
「今の音は」
ゆっくり。
「雷です」
刹那の呼吸。
「ここは王都です」
少しずつ。
「救護所です」
銀華は自分の手を床へ置いた。
届かない距離。
「静様もいます」
「いる」
「私もいます」
刹那の目が動く。
「ここには」
銀華は言葉を選んだ。
「今、火はありません」
刹那の呼吸が少し。
変わる。
「雨が降っています」
銀華は続ける。
「とても強い雨です」
刹那の目。
「傘も壊れました」
静が黙って見ている。
「私は」
銀華が少し笑う。
「びしょ濡れです」
刹那の瞳が銀華の濡れた袖へ。
そこに止まる。
呼吸が少しずつ。
遅くなる。
◇
その日。
銀華は帰らなかった。
刹那が眠るまで部屋の隅に座った。
何も話さず。
ただ、そこにいた。
静も廊下で待った。
夜。
刹那の呼吸が深くなる。
銀華が立つ。
「帰りましょう」
「ああ」
扉を閉める。
廊下。
静が銀華を見る。
「怖かった?」
「はい」
「刹那が?」
「いいえ」
銀華は首を振る。
「何もできないことが」
静は少しだけ目を伏せる。
「何もしてないと思う?」
「……」
「お前」
静は銀華の額を軽く小突く。
「痛いです」
「ずっといた」
「はい」
「それでいい時もある」
「……」
「覚えとけ」
「はい」
◇
九か月目。
刹那は部屋の外へ出た。
自分からではない。
医師が誘った。
銀華が少し先を歩いた。
「嫌なら戻りましょう」
返事はない。
一歩。
刹那が歩く。
もう一歩。
廊下。
窓。
外の光。
刹那が眩しそうに目を細める。
銀華は待つ。
十歩。
それだけ。
刹那は部屋へ戻った。
「今日は十歩でした」
銀華が静へ言う。
「ああ」
「明日は十一歩でしょうか」
「決めるな」
「そうですね」
「ゼロかもしれない」
「はい」
「それでも?」
「また明日です」
静は銀華を見る。
「お前」
「はい」
「しつこいな」
「よく言われます」
「誰に」
「静様に」
「そうだった」
◇
十か月目。
銀華がいつものように刹那の前で話していた。
「今日は瑠璃様が」
「私ですか」
「戴冠の衣装合わせから逃げようとしました」
「逃げていません」
「窓を見ていました」
「外を見ただけです」
「朱さんが扉の前に立ったら諦めました」
「銀華」
「はい」
「誰から聞いたのです」
「朱さんです」
「また朱……」
刹那の。
口元が動いた。
ほんの少し音はない。
銀華が止まる。
瑠璃も静も刹那の唇がもう一度。
動く。
「……」
声にはならない。
でも、何かを言おうとした。
「刹那さん」
銀華が小さく呼ぶ。
刹那の目が銀華を見る。
真正面。
初めて視線が合った。
銀華は笑わなかった。
泣かなかった。
ただ。
「はい」
と言った。
何も聞こえていないのに返事をした。
◇
その日から刹那は時々。
唇を動かした。
声は出ない。
意味も分からない。
それでも、銀華が来ると。
目で追うことが増えた。
帰る時。
扉を見る。
翌日。
銀華が入る。
視線が動く。
少しずつ少しずつ。
◇
十一か月目。
銀華がいつもより遅れた。
鍛錬中。
古傷でもないのに足を捻った。
「走るな」
「走っていません」
「嘘」
「早歩きです」
「同じ」
「違います」
静に肩を貸され。
救護所へ。
「こんにちは、刹那さん」
刹那の目がすぐ銀華へ向く。
そして、足。
静の肩。
銀華。
「大丈夫です」
銀華が言う。
静が睨む。
「今それ言うな」
「今回は本当に」
「捻挫だぞ」
「軽いです」
「軽くても捻挫は捻挫だ」
刹那の指が毛布を握る。
「……」
銀華が座る。
「今日は遅くなってすみません」
刹那の唇が動く。
「……」
「はい?」
銀華は少しだけ身を寄せる。
近づきすぎない。
「何ですか」
刹那の喉が動く。
「……」
空気。
小さな音。
「……お」
銀華の目が大きくなる。
静が息を止める。
「刹那さん?」
「……そ」
声。
掠れている。
「……おそ……い」
銀華は動けなかった。
「……」
刹那の目が銀華を見ている。
「おそい」
もう一度。今度は、少しだけはっきりと聞こえた。
◇
銀華は泣かなかった。
ただ、顔がくしゃりと崩れた。
「……すみません」
声が震える。
「遅くなりました」
刹那はそれ以上言わない。
「明日は」
銀華が言う。
「いつもの時間に来ます」
刹那が握っていた毛布の端が、少しだけ緩んだ。
◇
部屋を出る。
銀華は扉を閉めた。
静を見る。
「静様」
「聞こえた」
「刹那さんが、喋りました」
「ああ。確かに」
静は頷いた。銀華の声はまだ震えている。
銀華は何度も扉を振り返った。
「私に、言ってくれたんです」
信じられないように、銀華は言葉を重ねた。
「遅いって」
静の口元がわずかに緩む。
「怒られました」
「そうだな」
「……」
銀華の顔が、また歪んだ。
「……よかった」
静は黙って頷いた。
その一言だけでは、胸にあふれるものを言い表せなかった。
「よかったな、銀華」
静は銀華の頭を抱き寄せた。
「泣いていいぞ」
「……泣いていません」
「知ってる」
「静様」
「何」
「苦しいです」
静の腕が止まる。
「嬉しいのに」
静は返事の代わりに、銀華を抱く腕に少し力を込めた。
「すごく」
銀華は言葉を探したが、うまく続けられなかった。
「苦しいです」
静はその意味をたぶん分かっていた。
誰かの声が戻る。
誰かが生きる方へ少し歩く。
嬉しい。
だからこそ、
戻らなかった二人を思い出す。
「銀華」
「はい」
「それでいい」
「……」
「嬉しくて」
静は銀華の髪へ頬を寄せる。
「苦しくていい」
銀華は静の服を少しだけ掴んだ。
◇
十二か月目。
もうすぐ。
一年。
刹那は短い言葉なら。
時々。
話すようになった。
「水」
「はい」
「……自分で」
「分かりました」
銀華が手を引く。
刹那が銀華を見上げた。
「今日は?」
「鍛錬です」
「……何回」
「倒された回数ですか」
刹那がほんの少し。
頷く。
「二十三回です」
「二十四」
静。
「最後は転んだだけです」
「私が避けたから転んだ」
「では二十四です」
刹那の口元がほんの少し動く。
笑った。
とはまだ言えない。
でも、以前の無表情とは違った。
◇
ある日。
銀華が帰ろうとした。
「では、また明日」
立つ。
刹那の手が動く。
銀華の袖。
指先が布を掴んだ。
「……」
銀華が振り返る。
刹那も自分が何をしたのか。
分からないような顔。
「刹那さん?」
手を離さない。
「どうしました?」
長い沈黙。
「……」
刹那の喉が動く。
「……いかないで」
銀華はその場へもう一度座った。
「はい」
即答だった。
「今日は、もう少しいます」
刹那の手。
袖を握る。
強くはない。
でも、離れない。
◇
廊下。
瑠璃と静は扉の隙間から二人を見ていた。
「……静」
「何」
「一年ですね」
「一年か」
「まだ」
静は小さく頷いた。
「元には戻っていません」
「戻るって何だ」
瑠璃が静を見る。
「え?」
「元に戻るって」
静は刹那を見る。
「村があった頃には戻れない」
「……」
「家族も」
「はい」
「だから」
静は少し考える。
「戻るんじゃない」
「では」
「ここから」
銀華を見る。
「別の生き方を作るしかない」
瑠璃は静の言葉を聞く。
「……そうですね」
「銀華も」
「はい」
「私も」
「はい」
「お前も」
瑠璃が小さく笑う。
「私もですか」
「当たり前」
「そうですね」
二人は部屋の中を見る。
十四歳から十五歳へ近づく少女。
十一歳から十二歳へ近づく少女。
二人とも失ったものは戻らない。
それでも、同じ部屋にいる。
◇
その夜。
刹那が銀華へ聞いた。
「……どうして」
「はい?」
「どうして……来るの」
銀華は少し考えた。
「最初は」
正直に言う。
「分かりませんでした」
「……」
「瑠璃様に会ってみないかと言われて」
「……」
「会って」
刹那を見る。
「一人に見えたから」
刹那の指が少し動く。
「私も」
銀華は続ける。
「一人になったばかりでした」
「……」
「だから」
うまく言えない。
「放っておけなかったのだと思います」
「……かわいそう?」
銀華はすぐ首を振った。
「違います」
「……」
「可哀想だからではありません」
「じゃあ」
「分かりません」
刹那が銀華を見る。
「……変」
「よく言われます」
「誰に」
「静様に」
「言ってない」
廊下から声。
「聞いていたのですか」
「聞こえた」
刹那の目が扉へ向き、それから銀華へ戻った。
「……変」
「二回目です」
刹那の口元が、ほんの少し上がった。
今度は銀華にも分かった。
笑った。
◇
それから数日後。
刹那が初めて。
救護所の外まで歩いた。
銀華が横。
静は少し後ろ。
瑠璃も仕事を抜けてきた。
「逃げてきたのですか」
「違います」
「朱さんは?」
「……置いてきました」
「逃げています」
「銀華」
刹那が小さく。
息を漏らした。
笑い声。
四人が止まる。
刹那自身も驚いている。
「……」
銀華は何も言わなかった。
ただ、歩き出す。
「行きましょう」
刹那が一歩。
ついてくる。
また一歩。
陽の光。
風。
王都の音。
怖いものもまだたくさんある。
大きな音がすれば。
刹那は止まる。
兵士の鎧を見れば。
呼吸が浅くなる。
知らない男が近づけば。
銀華の後ろへ隠れる。
元には戻っていない。
それでも、歩いている。
◇
「銀華」
帰り道。
刹那が呼ぶ。
初めて敬称もなく。
名前だけ。
銀華が振り返る。
「はい」
「……明日も」
「はい」
「来る?」
「来ます」
「……ほんと?」
「はい」
銀華は迷わなかった。
「約束します」
刹那が銀華の袖を掴む。
「……約束」
「はい」
「絶対?」
銀華は少しだけ考えた。
「できる限り」
刹那の眉がほんの少し動く。
「絶対じゃない」
「できない約束は、したくありません」
「……」
「でも」
銀華は刹那を見る。
「来られる限り、来ます」
刹那は長い間。
銀華を見た。
「……うん」
袖を掴んだまま。
歩く。
◇
静は少し後ろから二人を見ていた。
瑠璃が二人の背中を見ながら言った。
「銀華らしいですね」
瑠璃が言う。
「ああ」
「絶対と言ってあげればいいのに」
静は迷いなく答えた。
「銀華は言わないだろうな」
瑠璃は小さく頷いた。
「できないかもしれない約束ですからね」
静は、前を歩く銀華を見た。
「馬鹿正直なやつだ」
「でも、そこが銀華らしいのでしょう」
瑠璃は微笑む。
「だからこそ……」
「何だ?」
瑠璃は刹那の小さな手に目を向けた。
「刹那には、届いたのかもしれません」
静は答えなかった。
ただ、銀華の袖を握る。
小さな手を見た。
◇
その頃から刹那は銀華が何をしているのか。
聞くようになった。
「剣?」
「はい」
「どうして」
「強くなりたいからです」
「……どうして」
銀華は少し黙る。
「守りたいから」
「誰を」
「……」
父。
母。
守れなかった。
言葉が胸へ刺さる。
「これから会う人を」
銀華は答えた。
刹那が銀華を見る。
「……私も?」
銀華は驚いた。
「はい」
それから、笑う。
「もちろんです」
刹那の目が揺れた。
「……」
「刹那さん?」
「何でもない」
顔を逸らす。
その日。
刹那はいつもより長く。
銀華の袖を握っていた。
◇
数日後。
「私も」
刹那が言った。
「何ですか」
「剣」
「?」
「教えて」
銀華が瞬きをする。
「私が?」
「うん」
銀華は困ったように静を振り返った。
「私も教わっている途中です」
「じゃあ」
刹那は後ろを見る。
「静」
静が眉を上げる。
「私?」
「教えて」
「嫌」
即答。
刹那が固まる。
銀華が静を見る。
「静様」
「何」
「もう少し言い方が」
「剣を持つ理由がない」
静は刹那を見る。
「何のため」
刹那は答えられない。
「銀華と同じ」
「違う」
「……」
静の声は厳しかった。刹那はその言葉を聞き、表情をこわばらせた。
「銀華の真似なら教えない」
刹那の顔が少し強張る。
「静様」
「銀華は黙ってろ」
「でも」
「刹那」
静が真正面から見る。
「お前が決めろ」
「……」
「銀華が剣を持つからじゃない」
「……」
「自分が何のために持つのか」
刹那は俯いた。
「分からないなら」
静は言う。
「今は持たなくていい」
◇
その夜。
刹那は長く眠れなかった。
毎日のように銀華が来て、話をして、笑って帰っていく。そして翌日には、また顔を見せてくれる。
いつの間にか、その繰り返しが刹那の日常になっていた。
けれど、もし銀華が来なくなったら。そう考えた途端、胸が苦しくなる。
村で迎えた、あの朝が浮かんだ。家族は確かにそこにいた。それなのに、次の日には誰もいなくなっていた。
銀華も、ある日突然いなくなるのだろうか。
その考えが頭から離れなかった。
「……嫌」
小さな声。
誰も聞いていない。
「嫌……」
◇
翌日。
刹那は静へ言った。
「守る」
静が刹那に問い返した。
「何を守る?」
「銀華」
銀華が隣で固まる。
銀華は自分を指さした。
「私を?」
「うん」
静は刹那の目を見て尋ねた。
「どうして?」
「……いなくなるの、嫌」
静の目が少し細くなる。
「それだけか?」
「……」
刹那は唇を結び、うつむいたまま答えなかった。静は急かさず、その顔を見つめた。
「刹那」
刹那は首を横に振った。何を尋ねられても、今はそれ以外の言葉が見つからない。
静は言葉を挟まず、刹那が続きを話すのを待った。
「嫌」
静は小さく頷いた。
「もう」
声が震える。
「いなくなるの、嫌」
銀華は何も言えなかった。
静は刹那を見る。
危うい。
そう思った。
でも、今。
その気持ちまで否定するべきではない。
「分かった」
静が言う。
「ただし」
「……」
「銀華のために死ぬ剣は教えない」
刹那が顔を上げる。
「守るなら」
静は自分にも言い聞かせるように続けた。
「生きて守れ」
刹那には、その言葉の意味がまだ
すべて分かったわけではなかった。
「……うん」
小さく頷く。
◇
銀華が刹那を見る。
「私も」
「?」
「刹那さんに死んでほしくありません」
刹那の目が揺れる。
「だから」
銀華は刹那を真っ直ぐ見た。
「一緒に強くなりましょう」
「一緒?」
「はい」
「銀華も?」
「私もです」
「……」
「静様は厳しいですよ」
「おい」
「本当です」
「お前が無茶するからだ」
「それは少しだけです」
「かなりだ」
刹那の口元が少し上がる。
「……やる」
「はい」
「私も」
「はい」
刹那は初めて、自分の意思で前へ進むことを選んだ。
その道がどこへ続くのか、まだ誰にも分からなかった。
### あとがき
番外編⑧「届きはじめた声」を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
前回の「泣かない少女」から一年。
銀華、静、瑠璃、そして刹那。
大切なものを失った四人は、それぞれの悲しみを抱えながら、少しずつ前へ進み始めました。
今回、特に描きたかったのは刹那の変化です。
言葉を失っていた少女が、銀華との何気ない日常を通じて、少しずつ自分の気持ちを伝えられるようになる。
その歩みは決して早くありません。
けれど、誰かを待ち、誰かと一緒にいたいと願い、やがて自分の意思で未来を選ぶ。
そんな小さな変化を大切にしました。
そして、静が伝えた「生きて守る」という考え方。
大切な人を守るために、自分の命まで捨ててほしくない。
その願いも、これからの物語につながっていきます。
四人の物語は、まだ始まったばかりです。
これからも彼女たちの歩みを見守っていただければ幸いです。
**作品を気に入っていただけましたら、ブックマークや評価、感想をいただけると大変励みになります。**
引き続き『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』をよろしくお願いいたします。
**はしたけ/朋**




