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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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番外編⑨ 選んだ居場所

 木刀を握った刹那は、構えることもできずに立ち尽くしていた。

「構えろ」

 静が短く促した。

「……分からない」

「だろうな」

 刹那が静を見る。

「教えて」

 静は刹那の手元に目を戻した。

「だから今教えてる」

「構え方を」

「自分で持ってみろ」

「……」

 刹那は木刀を見る。

 

 銀華は少し離れた場所で座っていた。

 口を出さないようにと、静から言われていた。

「銀華」

「はい」

 静の視線が、刹那ではなく銀華へ向いた。

「見るな」

「見ています」

 

 銀華は膝の上で手をそろえ、思わず背筋を伸ばした。

「見すぎ」

「どういう意味ですか」

 

 静は銀華の表情を見て、呆れたように言った。

「顔がうるさい」

「喋っていません」

 静が自分の頬を指してみせると、銀華はますます困った顔になった。

「顔で頑張れって言ってる」

「……」

 

挿絵(By みてみん)


 銀華は顔を伏せた。

「これで?」

「余計気になる」

 刹那の口元が、ほんの少し動いた。


「笑ったな」

「……笑ってない」

「銀華と同じこと言うな」


「私は笑っています」

「お前は黙ってろ」

「はい」

 刹那は木刀を両手で持った。右手と左手の位置を確かめながら、握り方に迷う。

「重い」


「本物はもっと重い」

「銀華は?」


「毎日持っています」


「聞いてない」

「……」

 刹那は木刀を見下ろしたまま、今度は銀華本人に尋ねた。

「銀華は、重くない?」

 銀華が答えようとする。

 静が先に言った。

「重い」


「静様」

「重いものを、重くないふりして持ってるだけ」

「そんなことは」

「ある」

 静は刹那を見る。

「剣は軽くならない」

「……」

「だから」

 刹那の手を指す。

「最初から力むな」

 静が近づいたが、木刀には触れなかった。

「握りすぎ」

「どうするの」

 刹那は指の力を緩めようとして、かえって木刀を揺らした。

「落とさないくらい」

「落ちそう」

「落ちたら拾え」

「……」

 刹那が少し力を抜くと、木刀の先が下がった。

「それでいい」

「これ?」

「ああ」

 刹那は下がった切っ先を眺め、不満そうに呟いた。

「弱そう」

「最初から強そうに見せる必要ない」

 静は少し離れた。

 静は刹那の握り方をもう一度確かめた。

「今日は持つだけ」

「振らない?」

「振らない」

「……」

「不満?」


「少し」

 静は木刀を置く場所を顎で示した。

「じゃあ終わり」

「え」

「不満言う元気あるなら飯」

「静様」

 銀華が笑う。

「刹那さん、静様は本当にこういう人です」

「お前も飯」


「私は見ていただけです」

「見てるだけでも腹は減る」

「理不尽です」

 刹那が、小さく声を漏らした。

「……ふふ」

 銀華も静も動きを止めた。声を出した刹那自身が、いちばん驚いているようだった。

「……」


「刹那さん」

「見ないで」

「はい」

 銀華が慌てて横を向く。

「それはそれで不自然」

「どうすれば」

「普通にして」

「難しいです」

 静がため息をついた。

「飯にするぞ」

     ◇

 刹那の鍛錬は、剣を振ることから始まったわけではなかった。走ることも、歩くことも、きちんと立って食べ、眠ることさえ、静は鍛錬の一つだと言った。


「走れない」

 刹那は足を止め、息を整えながら静を見上げた。

「歩け」

「歩けない」

「休め」

「……それでいいの?」

 静は刹那の息遣いを確かめてから答えた。

「いい」

「銀華は」

「銀華と比べるな」

「でも」

「刹那」

 静がしゃがむ。

「銀華は銀華」

「……」

「お前はお前」

「……」

「同じになろうとするな」

 刹那は、少し離れたところで素振りをする銀華を見た。


「銀華みたいに」

「何」

「強く」

「なる必要はない」


「どうして」

「銀華の横に銀華が二人いても邪魔だろ」

「静様」


「何」

「私が邪魔みたいに聞こえます」

「お前じゃない」

「分かっています」

 刹那は銀華を見る。

「じゃあ」

「自分にできることを探せ」

「……」

「時間はある」

 静は立つ。

「急ぐな」

     ◇

 「急ぐな」。その言葉は、銀華にも向けられていた。銀華は木刀を構え直そうとした。

「もう一回」

「終わり」

「まだできます」

 銀華は木刀を下ろさず、静に食い下がった。

「終わり」

「今日は昨日より少ないです」

「知ってる」

「なら」


「昨日より疲れてる」

「そんなことは」

「ある」

「……」

「寝不足」

 銀華が目を逸らす。

「銀華」

「少しだけです」

「何時に寝た」

「……」

 銀華が口ごもると、静は腕を組んで待った。

「何時に寝たんだ」

「本を読んでいて……」

「だから、何時だ」

「二刻ほど、遅くなりました」

 静は眉間を押さえた。

「勉強だったんです」

「それでも寝ろ」

「……はい」

 静は木刀を取り上げる。刹那がそれを見ていた。

「銀華も」

「何ですか」

「止められるんだ」

「毎日です」



「私はもっとやりたいのですが」

「やるな」

 刹那が言い切ると、銀華は驚いて瞬きをした。

「刹那さん?」


「静が止めたなら」

「静様です」

「……静様」

 静が少し笑う。

「やるな」

 刹那は言い直した。

「なぜ刹那さんまで」

「倒れたら」

 言葉が止まる。

「……嫌」

 銀華は木刀から手を離した。

「分かりました」

 静が眉を上げる。

「私の時より素直」


「そうでしょうか」

「そう」

「気のせいです」

「絶対違う」

     ◇

 刹那は少しずつ、銀華のそばにいる時間を増やしていった。

 救護所から、静の家へ。

 最初は昼だけで、夕方には救護所へ戻っていた。やがて食事を共にし、その次には暗くなるまで過ごすようになった。

 夕暮れの気配が濃くなった頃、銀華が刹那に尋ねた。

「泊まる?」


 刹那の身体が固まった。

「あ」

 銀華はすぐに首を振る。

「すみません」

「……」

「無理にではありません」

「……」

「帰りましょう」

 刹那は少し考える。

「銀華は?」


「ここにいます」

「……静様も?」

「いる」

「……」

「嫌なら帰っていい」

 静が言う。

「明日また来ればいい」

 刹那は玄関へ目を向けた。外は暗い。救護所には慣れた部屋があり、今ならまだ戻ることができる。

 銀華を見る。

「……泊まる」


「いいのですか」

「うん」

「では」

「騒ぐな」

 静が銀華の頭を軽く押さえた。

「騒いでいません」

「顔」

「顔は仕方ありません」

     ◇

 その夜、刹那はなかなか眠れなかった。

 部屋も天井も、漂う匂いも違った。風の音や廊下の軋みまで、何もかもが知らないものだった。

 目を閉じると、村を焼いた火が浮かぶ。思わず目を開けても、そこは見知らぬ暗い部屋だった。もう一度閉じれば、今度は叫び声が蘇り、刹那はまた目を開けた。

「……」

 刹那は起き上がり、静かな廊下へ出た。銀華の部屋の扉の前で手を伸ばしたが、触れる寸前で止めた。

「……」

 帰ろうとする。

「刹那さん?」

 扉が開いた。

「……!」

 寝間着姿の銀華が、髪を下ろしたまま立っていた。

「どうしました?」

「……何でもない」

「眠れませんか」

「……」

「私もです」

「銀華も?」

「はい」

 銀華は少しだけ扉を開ける。

「入りますか」

 刹那は迷う。

「何もしません」

「……」

「話もしなくていいです」

「……」

「ここにいるだけでも」

 刹那は迷いながらも、一歩だけ部屋へ入った。

     ◇

 二人は銀華の部屋の壁際に腰を下ろした。小さな灯りだけが、床を淡く照らしていた。

「銀華」

「はい」

「眠れないの」

「時々」

「どうして」

 銀華はすぐには答えなかった。


「父様と母様の夢を見ます」

「……」

「夢の中では」

 膝を抱える。

「帰ってきます」

 刹那が銀華を見る。

「普通に」

「はい」

「母様が髪を直して」

「……」

「父様が、朝から剣の話をして」

「……」

「それで」

 銀華は少し笑う。

「起きます」

 笑顔が消える。

「起きたら、いません」


 刹那の指が床を強く掴んだ。

「……私も」

「はい」

「夢」

「見ますか」

「うん」

「村の?」

 刹那が頷く。

「みんな、いる」

「……」

「起きたら」

 刹那は唇を動かしたが、その先の言葉は出てこなかった。

 銀華はその沈黙を遮らず、刹那の隣に座り続けた。

「刹那さん」

「何」

「嫌ですね」

「……うん」

「夢なのに」

「うん」

「起きた方が」

 銀華は膝の上に目を落とした。

「辛い時があります」

「……うん」

 二人は黙った。慰める言葉も、大丈夫という約束も口にしなかった。ただ同じ夜に、同じように眠れずにいた。

     ◇

 しばらくして、刹那が銀華の袖を掴んだ。


「ここで寝てもいい?」

「はい」

「床?」

「布団を持ってきます」

「ここがいい」

「床は痛いですよ」

「銀華も」

「私も?」

「ここ」

「……」

 銀華は少し考える。

「分かりました」

 二人で壁にもたれた。

「静様に怒られそうです」

「……怒る?」

「たぶん」

「嫌」

「朝までに布団へ戻れば」

「それは余計怒られる」

 扉の外では、静が二人の声を聞いていた。何も言わず、毛布だけを扉の前に置いて立ち去った。


挿絵(By みてみん)


     ◇

 朝。

「身体が痛いです」

 銀華が身体を起こそうとして、顔をしかめた。

「……私も」

「床で寝たからです」

「銀華がいいって」

「刹那さんがここがいいと」

 二人の言い合いを聞いていた静が、戸口から声をかけた。

「二人とも馬鹿」


「静様」

「何」

「毛布、ありがとうございました」

「知らない」


「扉の前に」

「知らない」

「静様しか」

「知らない」

 刹那が静を見る。

「……ありがとう」

 静が止まる。

「……飯」

 静は話を切り上げるように台所へ向かった。

「逃げましたね」

「銀華、外十周」

「なぜですか」

「口答え」

「理不尽です」

 刹那が笑った。

     ◇

 その日から刹那は時々静の家に泊まるようになり、やがて救護所へ戻る日の方が少なくなった。

 医師も止めなかった。

「環境が変わること自体は、慎重に」

「はい」

 静が聞く。

「ただ」

 医師は庭へ目を向けた。銀華と刹那が並んで洗濯物を干している。

「本人が、あそこへ行きたがっています」

「……そうか」

「はい」

「なら」

 静はそれ以上理由を求めなかった。

     ◇

「違います」

 刹那が言った。

「何がですか」

 刹那は銀華の手元を指さした。

「畳み方」

「同じでは?」

「違う」

 銀華が畳んだ布の端を指して、刹那は首を振った。

「どこが」

「端」

「……」

「ずれてる」

「これくらい」

 刹那は布を持ち上げ、ずれた角を銀華に見せた。

「駄目」

「刹那さん」

「やり直し」

 銀華が洗濯物を見る。

「剣より厳しいです」

「普通」

「普通では」

「普通」

 銀華が言い返す前に、刹那はもう一度端をそろえた。

 刹那は洗濯物を取り上げ、丁寧に角を合わせた。

「こう」

「上手ですね」

「……」

「誰に教わったのですか」

 刹那の手が止まる。銀華がしまったと思う。

「……母さん」

 刹那が言った。

「……」

「家で」

「そうですか」

「うん」

 銀華はそれ以上何も聞かなかった。刹那はもう一枚畳む。

「銀華も」

「はい」

「やって」

「はい」

     ◇

 少しずつ、刹那は掃除や洗濯、食事の準備を手伝うようになった。

 まるで、ここにいてもいい理由を自分で作ろうとするかのようだった。

「刹那さん」

「何」

「座ってください」

 銀華は掃除道具を握ったままの刹那に手を差し出した。

「まだ」

「終わっています」

「ここ」

「埃はありません」

「ある」


「見えません」

「ある」

「刹那」

 静が呼ぶ。

「何」

「休め」

「まだ」


「銀華と同じことするな」

「……」

「働かないと追い出すなんて誰も言ってない」

 刹那の手が、掃除道具を握ったまま止まった。

「……」

「何もしなくても」


「ここにいていい」

 刹那はすぐには信じられず、表情を強張らせた。

「本当?」

「嘘ついてどうする」

「……」

 銀華も頷く。

「もちろんです」

「……」

「でも」

 銀華は洗濯物を見る。

「畳み方は教えてください」

「銀華」

「何ですか」


「今それ言う?」

「大事です」

 刹那が小さく笑った。

     ◇

 ある日、瑠璃が訪ねてきた。

「ずいぶん馴染みましたね」

「瑠璃様」

 銀華が立ち上がったが、刹那は座ったままだった。

「刹那」

 静が見る。

「……」

「別にいい」

 瑠璃が笑う。

「そのままで」

 刹那は瑠璃をじっと見上げた。

「仕事」

「はい?」


「逃げた?」


「銀華!」

「私は何も」

「朱から聞きましたね?」


「今回は刹那さんです」

「刹那?」

 瑠璃は驚いて動きを止めた。刹那はほんの少し得意そうだった。

「朱が言ってた」

「朱……!」

 静が吹き出す。

「瑠璃」

「何ですか」

 静は笑いをこらえながら、瑠璃へ言った。

「諦めろ」

「私の威厳が」

「最初からここにはない」

「静まで!」

 銀華が声を出して笑った。

     ◇

 その笑い声に瑠璃が動きを止め、静と刹那も銀華を見た。

「……何ですか」

 銀華が聞く。

「いえ」

 瑠璃は微笑む。

「何でもありません」

 銀華があの日から初めて、声を出して笑った。

 その笑い声だけで、瑠璃の胸の奥が少し温かくなった。

     ◇

 夜、瑠璃が帰る前のことだった。

「銀華」

「はい」


「少し歩きませんか」

「はい」

 二人は庭へ出た。静と刹那は家の中にいる。

「もうすぐ」

 瑠璃が言う。

「戴冠の日が決まりそうです」

「そうですか」

「怖いです」

「瑠璃様が?」


「はい」

「意外です」

「ひどいですね」

「すみません」

「銀華は」


「はい」

「私を、どう思いますか」

「瑠璃様?」

「王として」

「まだ王ではありません」

「もうすぐです」

 銀華は考える。

「優しい方だと思います」

「それだけ?」

「少し無理をします」


「銀華に言われたくありません」

「静様と同じことを」

「当然です」

「それから」

「はい」

「以前より」

 銀華は言葉を探す。

「考えるようになった気がします」

 瑠璃が苦笑する。

「以前は考えていなかったと?」

「そういう意味では」

「分かっています」

 瑠璃は空を見る。

「以前の私は」

 瑠璃はゆっくりと話し始めた。

「正しいことをすれば」

「はい」

「正しい結果になると思っていました」


「……」

「人に優しくすれば、人は優しく返してくれる」

「はい」

「話せば、分かり合える」

「……」

「それを」

 瑠璃は少し目を伏せる。

「全部、嘘だったとは思いたくありません」

「はい」


「でも」

「はい」

「それだけでは、守れないものがある」

 銀華は黙って聞く。

「私は」

 瑠璃が言う。


「優しくない王になるのが怖い」

「……」

「でも」

 拳を握る。

「優しいだけの王になるのも」

 声が小さくなる。

「もっと怖い」

 銀華はしばらく考えた。

「瑠璃様」

「はい」

「両方でいいのでは?」

「……え?」


「優しくて」


「必要な時は、厳しくて」

「そんなに簡単では」

「はい」

「矛盾します」

「人は」

 銀華が首を傾げる。

「矛盾するものではないのですか」

 瑠璃が銀華を見る。

「父様は」

 銀華は少し笑う。

「とても優しかったですが、鍛錬では容赦がありませんでした」

「……」


「母様も」

「はい」

「笑いながら、父様を殴っていました」

「それは少し違う気がします」

「そうでしょうか」

 瑠璃が笑った。

「銀華」

「はい」

「あなたと話すと」


「はい」

「難しく考えている自分が、少し馬鹿らしくなります」

「褒めていますか」

「とても」

「なら、ありがとうございます」

     ◇

 家へ戻る。刹那が玄関に立っていた。

「刹那さん?」

「……遅い」

「庭にいただけです」

「遅い」

「すみません」

 刹那は銀華の袖を掴んだ。その小さな手を見つめて、瑠璃は以前よりもずっとしっかりした力を感じた。


「刹那」

「何」

「銀華を借りてしまって、ごめんなさい」

 刹那が瑠璃を見る。

「……返して」


「はい」

「刹那さん、私は物では」

「銀華」


「はい」

「入る」

「はい」

 引っ張られる。瑠璃が笑う。

「ずいぶん好かれましたね」

「そうなのでしょうか」

「分かってないの?」

 静が奥から言う。

「何がですか」

「もういい」

「?」

     ◇

 刹那の剣の鍛錬は少しずつ形になってきた。ただ、静の教え方は銀華に対するものとはまるで違っていた。

 静は刹那の足の位置を見ながら指示した。

「正面から受けるな」

「うん」

「逃げろ」

「……剣なのに?」


「逃げろ」

「銀華は」

「銀華は馬鹿」

「静様」


「聞こえてる」

「なら訂正を」

「馬鹿正直」

「それなら」

「納得するな」

 刹那が木刀を持つ。

「刹那」

「何」

「お前は小さい」

「……」

「力もない」

「……」

「だから」

 静が木刀を振る。刹那は受けようとする。

「受けるな!」

 慌てて避ける。

「相手の力に付き合うな」

「うん」

「見ろ」

「何を」


「全部」

 静は相手の足、肩、目、呼吸を順に示した。

「相手が動く前に」

 静が言う。

「逃げる場所を決めろ」

 刹那は静を見る。

「それで守れる?」

「守れる」

「銀華を?」


「まず自分を」

「……」

「お前が倒れたら」

 静の声が少し強くなる。

「銀華は守れない」

 刹那は頷いた。

「……うん」

     ◇

 だが、その言葉がすべて刹那に届いたわけではなかった。銀華が庭で転ぶだけで胸が跳ねる。

 帰りが少し遅いだけでも落ち着かない。ある日、街で銀華の姿が人混みに隠れた。

「銀華?」

 返事がない。

「銀華」

 足が速くなる。

「銀華!」

「ここです」

 店の陰から銀華が出てくる。

「どうしました?」

 刹那は銀華の腕を掴んだ。

「……勝手にいなくならないで」

「いなくなっていません」

「見えなかった」


「すみません」

「……」

「刹那さん」

「何」

「私は」

 銀華は少し困った顔をした。

「たまには、一人で動きます」

「嫌」

 刹那の返事に、銀華は言葉を失った。

「え」

「嫌」

「……」

 銀華はどう答えればいいのか分からなかった。

     ◇

 その夜、静は刹那を呼んだ。

「座れ」

「何」

「銀華のこと」

「……」

「怖い?」

 刹那の目が揺れる。

「何が」

「いなくなるのが」

「……」


「怖いんだろ」

「……うん」

「私も」

 刹那が静を見る。

「静様も?」

「ああ」


「銀華が?」

「ああ」

 静は隠さなかった。

「怖い」

「……」

「でも」

 静は続ける。


「閉じ込めることはできない」

「どうして」

「銀華だから」

「……」

「あいつは」

 少し考える。

「たぶん」

「何」

「どこかへ行く」


「どこ」

「知らない」

「嫌」

「うん」

「止めたい」


「うん」

「静様は止めない?」

「危ないなら止める」

「じゃあ」

「でも」

 静は刹那を見る。

「銀華が自分で決めたことまで、全部止めたくない」

「……」

「それをしたら」

「……」

「守るんじゃなくて」

 静の声が静かになる。

「縛ることになる」

 刹那は意味をすぐには飲み込めなかった。

「難しい」

「私も」

「静様も分からない?」

「分からない」

「……」

「だから」

 静は少し笑った。

「一緒に覚える」

     ◇

 戴冠の日、王都には久しぶりに多くの旗が掲げられた。

 壊れた建物も焼け跡も、戻らない人々の空席も、まだ残っている。それでも人々は王都へ集まった。

 十七歳の瑠璃は、王冠を受けるために歩み出た。父も母も弟も、もう隣にはいない。

 玉座へ向かう途中、瑠璃は足を止めそうになった。その時、人々の中に白い髪が見えた。

 静だ。その横には銀髪の銀華がいて、さらに銀華の袖を刹那がそっと掴んでいた。

 瑠璃は息を吸い、再び歩き出した。

     ◇

 王冠が頭に置かれると、歓声が広がった。瑠璃は笑わず、泣きもせず、ただ国を見渡した。

 父の言葉がよみがえる。正しいと思い込むな。自分を疑い、人の言葉を聞け。迷え。

 それでも、決めなければならない時は自分で決めろ。


「……はい」

 誰にも聞こえないほど小さく答え、瑠璃は玉座に座った。

     ◇

 式の後。

「瑠璃様」

 銀華が頭を下げる。

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「似合っています」

「王冠が?」

「はい」


「重いですよ」

「そうなのですか」

「かなり」

「持ちますか」

「駄目です」

「冗談です」

 静が瑠璃を見る。

「王様」

「やめてください」

「女王様」


「静」

「似合ってる」

「……」


 瑠璃が少し目を潤ませる。

「今それを言うのは、ずるいです」

「そう?」

「はい」

 刹那が瑠璃を見る。

「……瑠璃」

「はい」

「おめでとう」

 瑠璃は驚き、それから笑った。

「ありがとう、刹那」

     ◇

 その夜、四人は静の家で食卓を囲んだ。豪華な祝宴ではなく、いつもの食事だった。


「女王がここでいいのですか」


「ここがいいのです」

「護衛は」

「外にいます」


「仕事は」

「今日は終わりです」

「本当に?」



「……たぶん」

「逃げた」

「違います!」

 静が笑い、銀華と刹那もつられて笑った。最後には瑠璃まで笑っていた。

     ◇

 四人分の器が並ぶ食卓を前に、銀華はふと手を止めた。

 かつて三人分の器を並べ、帰らない二人を待ち続けた夜がよみがえる。胸の奥が、鈍く痛んだ。

 向かいにいた静が、その変化に気づいた。

「銀華」

「はい」

「どうした」

「……」

 銀華は四人分の器へ視線を落とした。

「何でもありません」

「嘘」

「少し」

 言葉を探す。

「思い出しただけです」

 瑠璃は何も言わずに銀華の隣へ座り、刹那は銀華の袖を掴んだ。静も向かいの席に着いた。

「食べるぞ」

「はい」

 銀華の返事を聞き、四人は食事を始めた。いなくなった人の席を埋めるためではない。誰も、その代わりにはなれない。

 父は父であり、母は母だった。二人は戻らない。それでも、新しい席を作ることはできる。

     ◇

 食事のあと、刹那が食器を片づけ始めた。

「私も」

 銀華が立つ。

「座って」

「なぜですか」

「邪魔」


「ひどいです」

「銀華は洗うと遅い」

「丁寧なのです」

「遅い」

「私も手伝います」

 瑠璃が袖をまくる。

「瑠璃はもっと邪魔」


「刹那!?」

「女王様だぞ」

 静が言う。

「静様」


「何」

「笑っていますね」

「笑ってない」

「笑っています」

「……」

 刹那は食器を持ったまま、小さく笑った。

「みんな邪魔」

 銀華が瑠璃を見る。

「追い出されました」

「女王なのに」


「女王でも関係ないようです」

「刹那さんですから」

「聞こえてる」

「すみません」

     ◇

 夜が更け、瑠璃は王城へ戻った。静が見送る間に、銀華と刹那は並んで部屋へ向かった。

「銀華」

「はい」

「私」

「はい」

 部屋へ向かう途中、刹那が足を止めて銀華を見上げた。

「ここにいていい?」

 銀華が止まる。

「もちろんです」

「ずっと?」

 銀華は少し考えた。守れないかもしれない「絶対」という言葉だけは、口にしたくなかった。

「刹那さんが、いたいと思う間は」

「……」

「いてください」

「追い出さない?」

「追い出しません」

「迷惑じゃない?」

 刹那は銀華の袖を握り直し、確かめるように問いかけた。

「迷惑ではありません」

「何もしなくても?」

 銀華は以前、静が刹那にかけた言葉を思い出した。刹那の目を見て、頷いた。

「はい」

「……」

「何もしなくても」


「いてください」

 刹那の目が少し潤む。

「……うん」

 銀華の袖を掴む。

「いる」

「はい」

「銀華のそばに」

「はい」

「ずっと」

 けれど、銀華は最後の言葉にだけは返事をしなかった。

 守れるか分からない約束を、軽々しく交わしたくなかったからだ。

 ただ、刹那の手へ自分の手を重ねた。

     ◇

 それから刹那は、自分の意思で静の家に暮らすことを選んだ。

 誰かに命じられたからではない。瑠璃に保護されたからでも、静に置いてもらったからでも、銀華に救われた恩を返すためでもなかった。

 ただ、ここにいたい。銀華のそばにいたい。その気持ちを、自分で選んだ。

     ◇

 そして、その選択は形を変え、時には危ういほど深まりながら、十年後まで続いていく。

 けれど、この時の刹那は、まだそんな未来を知らなかった。

 ただ隣の部屋に銀華がいて、明日の朝もその声が聞こえる。それだけで、刹那は眠ることができた。

     ◇

 銀華も眠る前、父と母を思い出していた。

 痛みは消えていない。たぶん、これからも簡単には消えない。

 それでも今日は、笑って、食べて、誰かと話した。

 隣には刹那がいて、静もいる。瑠璃も、また来てくれる。

「……父様」

 銀華は小さく呟いた。

「母様」

 目を閉じる。

「私は」

 言葉を探す。

「まだ」

 胸が痛む。

「ちゃんとできているか」

 まだ、ちゃんとできているのかは分からない。それでも――

「明日も」

 銀華は静かに息を吸った。

「起きます」

 その言葉を、明日への小さな約束として胸に刻んだ。


### あとがき


番外編⑨『選んだ居場所』を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


大切な人を失った銀華と刹那。


二人の悲しみが消えたわけではありません。それでも、静や瑠璃と過ごす何気ない日々の中で、少しずつ笑顔を取り戻していきます。


今回描きたかったのは、誰かに与えられた居場所ではなく、自分の意思で選ぶ居場所です。


何かができるから、役に立つから、そこにいていいのではない。


ただ、一緒にいたいと思う。


そんな小さな気持ちが、十年後の彼女たちへと繋がっていきます。


そして、十七歳で王冠を受けた瑠璃もまた、新しい一歩を踏み出しました。


彼女たちの歩みを、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


作品を気に入っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると、今後の執筆の大きな励みになります。


次回もよろしくお願いいたします。


**はしたけ/朋**

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