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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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27/29

番外編⑦ 泣かない少女

番外編 十年前

――泣かない少女――

 夜は、明けなかった。

 少なくとも。

 銀華には、そう思えた。

 食卓の上。

 三人分の料理は、もう何度目か分からないほど温め直されていた。


「銀華様」

「はい」

「少し、お休みになられては」

「大丈夫です」

「ですが」

「父様と母様が帰ってきたとき、誰もいなかったら寂しいでしょう」


 使用人は口を閉じた。

 銀華は椅子に座っている。

 背筋を伸ばして。

 膝の上に両手を置いて。

 いつものように。

 ただ、何度も玄関の方を見る。


 外で音がするたび。

 顔を上げる。

 馬の蹄。

 兵の声。

 遠くで何かが崩れる音。

 そのたびに。


「帰ってきましたか?」


 聞く。

 違う。

 また待つ。


    ◇


 王城では。

 瑠璃が着替えもせずに座っていた。

 鎧には血がついている。

 自分の血ではないものも。

 誰のものか分からないものも。

 静は窓辺に立っている。

 朱は少し離れた場所。

 誰も喋らない。

 外では。

 まだ兵が走っていた。

 負傷者を運ぶ声。

 火を消す声。

 捕らえた反乱兵を移す声。

 戦は終わりつつある。

 けれど、終わったと言える人間は。


 まだ誰もいなかった。


「……行きましょう」


 瑠璃が言った。

 静は振り返らない。


「今?」

「はい」

「夜中だ」

「分かっています」

「銀華は」

「待っています」


 静の肩がわずかに動いた。


「……そうだな」


 瑠璃は立つ。

 足が重い。

 戦場を走ったからではない。

 銀華の屋敷まで。

 ほんの少し。

 なのに。

 遠い。


「朱」

「はい」

「ここをお願いします」

「承知しました」


 朱は二人を見る。


「……瑠璃様」

「何ですか」


 言葉を探す。

 見つからない。


「いえ」


 朱は頭を下げた。


「お気をつけて」

「はい」


    ◇


 王城を出る。

 夜の王都。

 道には瓦礫。

 焼けた家。

 血。

 壊れた荷車。

 泣く人。

 名前を呼ぶ人。

 瑠璃は歩いた。

 昨日まで。

 ここは。

 朝になればパンの匂いがして。

 店主が声を上げ。

 子どもたちが走り。

 自分を見つけた人が笑って頭を下げた。

 あの街だった。


「……私」


 瑠璃が呟く。

 静は横を歩く。


「何」

「この国を、何も知りませんでした」

「……」

「知っているつもりでした」


 返事はない。


「皆が優しくて」


 瑠璃は足元に視線を落とした。


「話せば分かってくれて」


 隣を歩く静は、何も言わない。


「困っている人がいれば、助ければよくて」

「悪いことが起きても、理由を聞けば」


 声が止まる。


「……理由を聞けば、何とかなると思っていました」

「瑠璃」

「はい」

「今、答えを出すな」


 瑠璃が静を見る。


「え?」

「今日だけで全部決めるな」

「でも」

「お前は今、家族を殺された」

「……」

「国も壊された」


 瑠璃の指先が、わずかに震えた。


「……はい」

「そんな日に決めたことを、一生の答えにするな」


 静は前を見る。


「迷え」


 父と同じ言葉。

 瑠璃は目を伏せる。


「静まで、それを言うのですね」

「王が言ってたから」

「聞いていたのですか」

「少し」

「……そうですか」


 瑠璃は小さく息を吐いた。


「では」

「何」

「今日だけは、分からないままでいます」

「ああ」


 静はそれ以上、答えを求めなかった。


「人を信じていいのかも。話すことに意味があるのかも……」


 瑠璃の指先が、わずかに震えた。


「私は何を守れるのかも」


 静は瑠璃の隣を歩いていた。

 何も言わず、ただ離れずに。

 今は、それでよかった。


    ◇


 銀華の屋敷が見えた。

 二人の足が。

 同時に止まった。

 灯りがついている。

 玄関だけではない。

 食堂も。


「……起きてる」


 静が言う。


「はい」

「待ってる」

「はい」


 瑠璃の手が震える。


「静」

「何」

「私」

「逃げるな」

「……」

「私も逃げない」


 瑠璃は静を見る。

 静の顔も。

 白かった。


「はい」


 二人で門をくぐる。


    ◇


 扉を叩く前に。

 開いた。

 使用人がいた。

 二人の顔を見た瞬間。

 何も聞かなかった。

 ただ、深く頭を下げた。



「銀華は」


 静が聞く。


「食堂に」

「まだ?」

「はい」


 使用人の声が震える。


「ずっと……お待ちです」


 静が目を閉じる。


「分かった」

「静様」

「何」

「銀華様は、まだ」

「分かってる」

「……はい」


 瑠璃が一歩入る。

 使用人が瑠璃へ頭を下げる。


「姫様」

「今は、いいです」

「ですが」

「今は」


 瑠璃は首を振った。


「私は、銀華のところへ来ただけです」


    ◇


 食堂。

 銀華は足音に気づいた。

 ぱっと顔を上げる。


「父様?」


 その声。

 静の足が止まった。

 瑠璃も。

 銀華が立つ。


「……瑠璃様」

「銀華」

「静様も」


 少し驚く。

 それから。

 二人の後ろを見る。


「父様と母様は?」


 瑠璃の喉が閉じる。


「一緒ではないのですか?」


 銀華が聞く。


「……」

「戦いは?」

「終わりました」


 瑠璃がやっと答える。


「そうですか」


 銀華の顔が少し緩む。


「よかった」


 静が俯く。


「なら、父様たちも、もうすぐ」

「銀華」


 静が呼ぶ。


「はい」

「座って」

「?」

「いいから」


 銀華は二人を見る。

 何か。

 初めて。

 違和感を覚えた。


「……静様?」

「座って」

「はい」


 銀華は座る。

 瑠璃と静も。

 食卓。

 三人分の器。

 空いている二つの席。

 瑠璃はそこを見られなかった。



「銀華」

「はい」

「私から」


 瑠璃が言う。

 静が顔を上げる。


「私が、言います」

「瑠璃」

「私が命じました」

「それは」

「だから」


 瑠璃は銀華を見る。


「私から、伝えます」


 銀華は黙っている。

 まだ。

 何を伝えられるのか。

 分かっていない。

 いや。

 もう。

 分かり始めているのかもしれない。


「銀華」

「はい」


 瑠璃の声が震える。


「あなたのお父様と、お母様は」


 言えない。

 息を吸う。


「反乱軍の本陣へ向かいました」

「はい」

「五百の兵を率いて」

「……はい」

「敵の指揮を、壊しました」


 銀華の手が。

 膝の上で。

 少しだけ握られる。


「そのおかげで」


 瑠璃の目から涙が落ちる。


「私たちは、勝てました」

「……」

「王都を」


 声が詰まる。


「守ることが、できました」


 銀華は瑠璃を見る。


「瑠璃様」

「はい」

「父様と母様は」


 瑠璃が唇を噛む。


「……帰ってきますか」


 静が目を閉じた。

 瑠璃は逃げなかった。



「いいえ」


 銀華の指が止まる。


「……そうですか」


 小さな声。

 それだけ。


「二人とも」


 瑠璃は続ける。


「亡くなりました」


    ◇


 音が。

 消えた。

 銀華には。

 瑠璃の口が動いているのだけが見えた。

 何を言っているのか。

 分からない。

 亡くなった。

 誰が。

 父様。

 母様。

 誰の。

 自分の。

 どうして。

 帰ると言った。

 朝。

 母は。

 髪を直してくれた。

 父は。

 昨日。

 剣の持ち方を見てくれた。

 今日。

 続きを。

 見るはずだった。


「……銀華」


 静の声。

 遠い。


「銀華」

「はい」


 返事をする。

 癖だった。


「聞こえてる?」

「はい」

「……」

「聞こえています」


 銀華は空いている二つの席を見る。



「では」


 言う。


「お食事は」


 瑠璃が息を止める。


「……片づけた方が、いいですね」

「銀華」

「冷めてしまいましたし」

「銀華」

「何度も温めたので」


 手が震える。


「もう、あまり美味しくないかもしれません」

「銀華!」


 静が銀華の手を掴んだ。

 冷たい。

 震えている。


「いい」

「何がですか」

「そんなこと、今考えなくていい」

「でも」

「いい!」


 銀華が静を見る。

 顔が。

 少しずつ。

 崩れていく。


「……静様」

「何」

「本当に?」


 十四歳の声。


「……ああ」

「父様も?」

「ああ」

「母様も?」

「ああ」

「二人とも?」


 銀華は一度だけ息を整えた。


「……ああ」


 銀華の唇が震えた。


「そう……ですか」


 下を向く。

 泣く。

 瑠璃はそう思った。

 静も。

 けれど、銀華は泣かなかった。



    ◇


 拳を握る。

 爪が手のひらへ食い込む。

 歯を食いしばる。

 喉の奥から。

 何かが上がってくる。

 声。

 涙。

 全部。

 出したら。

 壊れる。

 そんな気がした。


「銀華」


 瑠璃が手を伸ばす。

 銀華は少しだけ首を振った。



「大丈夫です」

「大丈夫じゃありません」

「大丈夫です」

「銀華」

「父様と母様は」


 声が掠れる。


「逃げなかったのですね」

「……はい」

「瑠璃様を」


 息をする。


「国を」

「はい」

「守ったのですね」

「はい」

「最後まで?」


 瑠璃は泣きながら頷く。


「はい」

「……そうですか」


 銀華は俯く。

 肩が震えている。


「なら」


 言葉が切れる。


「なら……」


 唇を噛む。

 血が滲む。


「私は」


 静が手を伸ばす。


「銀華、もういい」

「私は」

「言わなくていい!」

「……父様と」


 声が震える。


「母様を」


 顔を上げる。

 泣いていない。

 けれど、泣いているより。


 ずっと苦しい顔。


「尊敬しています」


 瑠璃が口元を押さえた。


「二人の子で」


 息が止まる。


「よかったと……」


 続かない。

 銀華は俯いた。


「思います」


 静が銀華を抱いた。



    ◇


「静様?」

「喋るな」

「でも」

「今は喋るな」


 強く。

 抱く。

 銀華の身体は。

 驚くほど小さかった。

 いつも剣を持っている。

 真っ直ぐ立つ。

 大人の話を聞く。

 戦術書を読む。

 だから。

 忘れていた。

 十四歳。

 まだ。

 十四歳だ。


「泣いていい」


 静が言う。

 銀華の身体が固まる。


「泣きません」

「何で」

「父様と母様が」


 声が震える。


「立派だったから」

「それと泣くのは別だ」

「でも」

「別だ」

「……」

「銀華」


 静の声も震える。


「泣いていい」

「……嫌です」

「どうして」

「泣いたら」


 銀華が静の服を掴む。


「父様と母様が」


 言葉を探す。


「心配するかもしれないから」


 静は何も言えなくなった。


 瑠璃も。


「私」


 銀華が呟く。


「ちゃんとします」

「しなくていい」

「します」

「銀華」

「一人でも」

「一人じゃない」


 静が即座に言った。

 銀華が止まる。


「……え?」

「一人じゃない」


 静は銀華を離さない。


「私がいる」

「静様」

「瑠璃もいる」


 瑠璃が銀華の隣へ座る。


「はい」


 手を握る。


「います」

「でも」

「銀華」


 瑠璃は王女としてではなく。


 十七歳の少女として。

 言った。


「お願いですから」


 涙を拭わず。


「今だけは、私たちに何かさせてください」

「……」

「あなたのお父様とお母様に」


 声が震える。


「私は、命をいただきました」

「瑠璃様」

「国も」

「……」

「私も」


 瑠璃は首を振る。


「返せません」


 銀華の手を握る。


「何をしても、返せない」

「返さなくていいです」


 銀華が言った。

 瑠璃が止まる。


「父様と母様は」


 銀華は苦しそうに、それでも真っ直ぐ瑠璃を見る。


「返してほしくて、戦ったのではないと思います」

「……」

「だから」


 瑠璃の涙が増える。


「銀華」

「はい」

「あなたは」


 声にならない。

 この子は。

 どうして。

 自分の方が。

 何もなくなったのに。


「……ずるいです」

「え?」

「そんなことを言われたら」


 瑠璃は銀華の手を握ったまま。

 俯いた。


「もっと、大切にしたくなるではありませんか」


 銀華は答えられなかった。



    ◇


 その夜。

 銀華は結局。


 一滴も涙を見せなかった。

 静と瑠璃が帰ったあとも。

 泣かなかった。

 使用人が部屋へ下がっても。

 泣かなかった。

 自室へ入り。

 扉を閉め。

 父からもらった木刀を見た。

 母が縫ってくれた剣袋を見た。

 泣かなかった。

 机の上。

 昨日まで読んでいた戦術書。

 父の書き込み。

 赤い線。

 横に。


『ここは銀華ならどうする?』


 そう書いてある。

 銀華は椅子へ座った。

 文字を見る。


「……父様」


 声が出た。

 それでも、涙は出なかった。


 次に。

 鏡台。

 母の櫛。

 今朝。

 髪を直してもらった。


「……母様」


 喉が痛い。

 胸が痛い。

 息ができない。

 でも。

 泣かない。

 銀華は両手で顔を覆った。


 声も出さなかった。


    ◇


 朝。

 静が屋敷へ来た。

 眠っていない。

 瑠璃も眠っていない。

 だが。

 瑠璃には。

 国がある。

 王が死んだ。

 王妃も。

 王子も。

 今。

 国の頂点に立つ者は。

 十七歳の瑠璃しかいない。

 銀華にかける言葉を探しながら、瑠璃は自分もまた、誰かに慰めてほしいのだと気づいていた。


「行って」


 静が言った。


「でも銀華が」

「私がいる」

「静」

「国へ行け」


 瑠璃が黙る。


「お前にしかできない」

「……」

「私は銀華のそばにいる」


 瑠璃は少しだけ迷って。


 頷いた。


「お願いします」

「ああ」

「夕方、来ます」

「ああ」

「必ず」

「分かった」


 瑠璃は王城へ戻った。

 静は銀華の部屋へ向かう。

 銀華の前では、いつもどおりの自分でいようとした。そうしていなければ、蒼華を失った現実に押し潰されそうだった。



    ◇


 庭から。

 音がした。

 木刀。

 何かを打つ音。

 静が止まる。


「……まさか」


 走る。

 庭。

 銀華がいた。

 木刀を振っている。

 一。

 二。

 三。

 何度も。

 何度も。


「銀華!」


 止まらない。


「銀華!」


 静が木刀を掴む。


「何してる!」

「鍛錬です」

「見れば分かる!」

「では」

「そういう意味じゃない!」


 銀華が木刀を取り返そうとする。


「返してください」

「嫌だ」

「静様」

「寝たのか」

「……少し」

「嘘つけ」


 銀華は一度だけ息を整えた。


「大丈夫です」

「またそれか!」


 静が怒鳴る。

 銀華が止まる。


「大丈夫なわけないだろ!」

「……」

「昨日、両親を亡くしたんだぞ!」

「分かっています」

「なら何で剣を振ってる!」

「強くなるためです」


 即答。

 静の胸に。

 嫌なものが刺さる。


「どうして」

「強ければ」

「銀華」

「私がもっと強ければ」

「やめろ」

「父様と母様を」


 銀華は一度だけ息を整えた。


「やめろ!」


 静の声が庭へ響く。

 銀華が息を止める。


「お前が強くても関係ない!」

「でも」

「十四歳のお前が何をできた!」

「……」

「五百人で行って!」


 静の声が震える。


「ほとんど帰らなかった!」

「……」

「お前一人がいたら何が変わった!」

「分かりません」

「変わらない!」

「分かりません!」


 銀華が。

 初めて声を荒らげた。

 静が止まる。


「分からないです!」


 銀華の顔が歪む。


「私がもっと強かったら!」

「……」

「もしかしたら!」

「銀華」

「一人でも倒せたかもしれない!」

「……」

「一人倒せたら、父様の傷が一つ減ったかもしれない!」

「……」

「母様を刺した人を!」


 声が壊れる。


「私が先に倒せたかもしれない!」


 静は何も言えなかった。


 理屈ではない。

 分かっている。

 銀華も。

 本当は。

 分かっている。

 十四歳の自分が。

 あの戦場へ行っても。

 両親を救えなかったことくらい。

 それでも、考えてしまう。


 もし。

 もし。

 もし。


「だから」


 銀華は木刀を握る。


「強くなります」


 静の中で。

 昔の声が蘇った。


    ◇


『この子には才能がある』


 軍務官。

 まだ幼かった静。


『もっと鍛えればいい』

『実戦へ出せ』

『国の剣になる』

『余計なことを考えさせるな』

『剣だけ教えればいい』


 そして。

 女の声。


『ふざけないで』


 蒼華。


『この子は剣じゃない』

『白峰静という、人間でしょう』

『国のためなら』

『国のためなら子どもを壊していいの?』

『才能があるのだ』

『だから何?』

『この国を守る力になる』

『本人が望んでない』

『子どもに何が分かる』

『なら、あなたたちにはもっと分からない』


 静はあの日の蒼華の背中を。


 覚えている。


『この子を道具にするなら』


 錫杖を握った。


『私が連れて出る』

『国を捨てると言うのか』

『静を捨てる国ならね』


    ◇


 今。

 目の前に。

 その娘がいる。


「強くなります」


 同じ。

 違う。

 軍に言われているのではない。

 銀華自身が。

 自分を剣にしようとしている。

 静は木刀を離した。


「……分かった」


 銀華が顔を上げる。


「静様?」

「強くなれ」

「はい」

「私が教える」

「……」

「剣を」


 銀華の目が揺れる。


「本当ですか」

「ああ」

「私を」

「ああ」

「弟子に?」

「ああ」


 銀華は木刀を握り直した。


「お願いします」

「ただし」

「はい」

「私が止めろと言ったら止める」

「……」

「返事」

「はい」

「無茶は私が決める」

「静様が?」

「ああ」

「静様の無茶は、かなり無茶だと思います」

「お前に言われたくない」


 ほんの少し。

 銀華の口元が動いた。

 笑ったのか。

 分からないくらい。


「それから」


 静が言う。


「剣だけは教えない」

「え?」

「食べろ」

「……」

「寝ろ」

「……」

「本を読め」

「読んでいます」

「剣と戦術書以外も」

「……」

「街へ行け」

「なぜですか」

「人を見ろ」

「人?」

「ああ」


 静は母の言葉を。


 自分の中で探した。


「剣で守るものを知らない人間に」


 銀華を見る。


「剣を持つ資格はない」


 銀華は黙った。


「……分かりました」

「本当に?」

「努力します」

「努力じゃなくてやれ」

「はい」

「それから」

「まだあるのですか」

「ある」


 静は少し迷った。



「私の家へ来い」

「え?」

「ここでもいいけど」


 屋敷を見る。


「一人になる」

「使用人の方が」

「そういう意味じゃない」

「……」

「私のところへ来い」


 銀華は静を見る。



「静様と?」

「ああ」

「一緒に暮らすのですか」

「嫌ならここに来る」

「毎日?」

「ああ」

「静様が?」

「ああ」

「……暇なのですか」

「お前」


 静が銀華の額を軽く小突いた。


「痛いです」

「今のは師匠としてだ」

「もう師匠なのですか」

「今なった」

「勝手ですね」

「嫌か」


 銀華は少し考えた。



「いいえ」

「そうか」

「お願いします」


 静は頷いた。


「分かった」


    ◇


 その日の夕方。

 瑠璃が来た。

 銀華は庭で。

 立てなくなっていた。


「……何をしたのですか」


 瑠璃が静を見る。


「鍛錬」

「昨日の今日で?」

「本人がやるって」

「止めてください!」

「止めた」

「止まっていません!」

「だから今倒れてる」

「静!」


 瑠璃が珍しく怒鳴る。

 銀華が地面から顔を上げる。


「瑠璃様」

「銀華は黙っていてください」

「はい」

「静」

「何」

「十四歳です!」

「知ってる」

「両親を亡くした翌日です!」

「知ってる」

「では!」

「だから私が見る」


 瑠璃が止まる。


「何を」

「全部」


 静は銀華を見る。


「こいつは放っておいたら、一人で壊れるまでやる」

「……」

「だから私が止める」


 瑠璃の表情が変わる。


「弟子にしたのですか」

「ああ」

「……そうですか」

「反対?」


 瑠璃は銀華を見る。

 泥だらけ。

 疲れている。

 それでも、木刀を離していない。



「いいえ」


 瑠璃はしゃがむ。


「ただ」

「何ですか」

「銀華」

「はい」

「強くなることだけを、生きる理由にしないでください」


 銀華が黙る。


「今は」


 瑠璃は続ける。


「それしか考えられなくてもいいです」

「……」

「でも、いつか」


 銀華の手に触れる。


「別の理由も、見つけてください」

「別の」

「はい」

「何ですか」

「それは」


 瑠璃は少し笑った。

 悲しい笑顔。


「私にも、まだ分かりません」

「……そうですか」

「一緒に探しましょう」


 銀華はすぐには答えなかった。


 やがて。


「はい」


 小さく頷いた。


    ◇


 王家の弔い。

 銀華の両親の弔い。

 戦死した兵たちの弔い。

 王都には。

 何日も鐘が鳴った。

 泣く人がいた。

 怒る人がいた。

 何も言えない人がいた。

 瑠璃は毎日。


 誰かの前に立った。


「申し訳ありません」


 何度。

 言ったか分からない。


「姫様のせいでは」


 そう言われても。

 頭を下げた。

 家族を失った人。

 家を失った人。

 怪我をした人。

 反乱側に家族がいた人。

 王国側に家族がいた人。

 昨日まで隣人だった者同士が。

 違う旗の下で。

 殺し合った。


「全員を罰するのですか」


 家臣が聞いた。

 瑠璃はすぐに答えなかった。


 以前なら。

 迷わず言ったかもしれない。

 許しましょう。

 話しましょう。

 きっと分かり合えます。

 今は。

 言えない。

 だからといって。

 皆殺しにしろとも。

 言えない。


「調べます」

「姫様?」

「一人ずつ」

「それでは時間が」

「かかっても」

「兵として従っただけの者と」


 瑠璃は言う。


「計画した者を、同じにはできません」

「しかし」

「家族を人質に取られた者もいると聞きました」

「はい」

「金で加わった者も」

「います」

「王家を殺した者も」

「……います」

「全部」


 瑠璃は目を閉じる。


「同じ罪ではありません」

「では、許すと?」

「いいえ」


 目を開ける。


「許すとも言っていません」


 家臣が黙る。


「調べます」


 瑠璃は繰り返した。


「知ってから決めます」


 それが。

 今の瑠璃にできる。

 最初の答えだった。


    ◇


 反乱軍本陣から。

 大量の文書が回収された。

 焼け残ったもの。

 破られたもの。

 暗号のもの。

 署名のないもの。

 誰が。

 どこまで。

 何を知っていたのか。

 まだ分からない。


「妙ですね」


 軍務卿が言った。


「何がですか」

「兵糧」


 帳簿を見せる。


「国内の領主だけで、これだけを短期間に揃えるのは難しい」

「では」

「まだ分かりません」


 瑠璃が帳簿を見る。


「武器も?」

「一部、出所の確認できないものがあります」

「……」

「断定はできません」

「はい」


 瑠璃はそこで止めた。


 分からないことを。

 分かったことにしない。

 父の言葉。

 自分を疑え。

 人の言葉を聞け。


「調べてください」

「承知しました」


 この時。

 瑠璃はまだ。

 その先に何があるのか。

 知らなかった。


    ◇


 数日後。

 静の家。


「立て」

「はい」


 銀華が立つ。


「構え」

「はい」

「違う」

「どこがですか」

「全部」

「昨日は良いと」

「昨日と今日は違う」

「理不尽です」

「敵も理不尽だ」

「それはそうですが」

「もう一回」


 銀華が構える。

 静が木刀を振る。

 銀華が受ける。

 飛ばされる。


「痛いです」

「知ってる」

「少しは手加減を」

「してる」

「これで?」

「かなり」

「……」

「何、その顔」

「静様は性格が悪いと思いました」

「師匠に言う言葉か」

「事実です」

「もう一回」

「はい」


 銀華は木刀を握り直した。

 立ち上がっては打ち込む。そのたびに静の木刀に弾かれ、地面へ倒れた。

 それでも、また立つ。

 静は容赦しなかった。

 容赦なく。

 間違いを指摘した。

 痛いところを打った。

 甘い判断を許さなかった。

 けれど。


「終わり」

「まだできます」

「終わり」

「あと百回」

「駄目」

「五十」

「駄目」

「十」

「駄目」

「一回」

「駄目」

「静様」

「飯」

「まだ」

「飯」

「……はい」


 剣を置かせる。

 食べさせる。

 風呂へ入れる。

 寝かせる。

 夜中。

 銀華がこっそり起きて木刀を持とうとすれば。


「どこ行く」

「……お手洗いです」

「木刀持って?」

「護身です」

「寝ろ」

「はい」


 布団へ戻す。

 しばらくして。


「静様」

「何」

「起きていますか」

「寝てる」

「返事しています」

「何」

「……」

「銀華?」

「何でもありません」

「そう」


 静はそれ以上聞かない。


 ただ、少しだけ。


 銀華の布団へ近づく。

 暗闇。

 銀華の呼吸。

 眠っていない。

 分かる。


「静様」

「何」

「父様と母様は」


 静の胸が痛む。


「うん」

「最後まで、一緒だったのですか」

「……ああ」

「そうですか」

「お父さんが、お母さんを抱えてた」

「父様が?」

「ああ」

「母様、重いって怒りませんでしたか」


 静は少しだけ笑った。



「たぶん怒ってた」

「そうでしょうね」

「お父さんも、重いって言ってたと思う」

「それは父様が悪いです」

「ああ」


 沈黙。


「静様」

「何」

「教えてくださって、ありがとうございます」

「……ああ」

「おやすみなさい」

「おやすみ」


 しばらくして。

 銀華の呼吸が。

 少しだけ深くなった。

 静は眠るまで。


 そこにいた。


    ◇


 朝。


「銀華」

「はい」

「起きろ」

「起きています」

「目閉じてる」

「心は起きています」

「身体も起こせ」

「……はい」


 銀華が布団から出る。


「朝飯」

「鍛錬は?」

「飯」

「食べてから?」

「街」

「街?」

「行くぞ」

「なぜですか」

「昨日言った」

「人を見る」

「そう」

「鍛錬ではないのでは」

「鍛錬」

「どういう」

「黙って来い」


 街へ。

 まだ傷だらけの王都。

 銀華は静の後ろを歩く。

 瓦礫を運ぶ人。

 屋根を直す人。

 負傷した兵。

 炊き出し。

 親を失った子。

 子を失った親。

 銀華の足が止まる。


「静様」

「何」

「手伝っても?」

「好きにしろ」


 銀華は炊き出しへ行った。


 水を運ぶ。

 器を洗う。

 重い荷を持つ。

 子どもへ食事を渡す。


「ありがとう」


 言われる。


「いいえ」


 銀華は頭を下げる。

 また。

 水を運ぶ。

 剣は。

 一本も振らなかった。


    ◇


 夕方。


「静様」

「何」

「これも鍛錬ですか」

「ああ」

「どこが?」

「分からないならまだいい」

「?」

「そのうち分かる」

「曖昧ですね」

「師匠だからな」

「師匠は曖昧でいいのですか」

「いい」

「横暴です」

「知ってる」


 銀華は少しだけ。


 笑った。

 静は見た。

 でも。

 何も言わなかった。


    ◇


 その夜。

 瑠璃が来た。

 銀華は食事を終えたところだった。


「瑠璃様」

「こんばんは、銀華」

「お仕事は?」

「山ほどあります」

「では、なぜここへ」

「逃げてきました」

「え?」


 銀華が本気で驚く。

 瑠璃が笑う。


「冗談です」

「瑠璃」


 静が呆れる。


「半分だけ」

「半分は本当なのですか」

「はい」


 瑠璃は椅子へ座る。


「少しだけ、銀華の顔を見たくなりました」

「私の?」

「はい」

「なぜですか」


 瑠璃は答えようとして。


 やめた。


「秘密です」

「……変ですね」

「銀華に言われたくありません」

「私は普通です」


 静が吹き出した。


「静様?」

「何でもない」


 瑠璃も笑う。

 銀華だけ。

 少し不満そうな顔。

 ほんの一瞬。

 そこに。

 戦の前のような空気が戻った。

 ほんの一瞬だけ。


    ◇


 帰り際。

 瑠璃が静へ囁く。


「少し、笑いましたね」

「ああ」

「よかった」

「まだだ」

「分かっています」


 静は銀華のいる部屋を見る。



「全然、まだだ」

「はい」

「泣いてない」

「……はい」

「一度も」


 瑠璃は黙る。


「そのうち」

「分からない」

「静」

「無理に泣かせるものでもない」

「そうですね」

「でも」


 静の手が。

 少し握られる。


「いつか、泣けるといい」


 瑠璃は静の横顔を見る。



「静も」

「何」

「泣いていいのですよ」

「……」

「銀華に言ったのでしょう」

「言った」

「なら、静も」


 静は目を逸らす。


「私はいい」

「よくありません」

「……」

「あなたも、二人を失ったのですから」


 静は長く黙った。



「瑠璃」

「はい」

「帰れ」

「話を逸らしましたね」

「仕事あるんだろ」

「あります」

「行け」

「はいはい」


 瑠璃が歩き出す。

 数歩。

 振り返る。


「また明日」

「ああ」

「銀華にも伝えてください」

「ああ」


 瑠璃が去る。

 静は一人。


 門の前に残った。


「……泣けるか」


 小さく呟く。

 自分でも。

 分からなかった。


    ◇


 それから。

 数日が過ぎた。

 銀華は毎朝起きた。


 食べた。

 鍛錬した。

 街へ出た。

 手伝った。

 本を読んだ。

 眠った。

 静がそばにいた。

 瑠璃が時間を見つけて来た。

 銀華は泣かなかった。


 ただ、時々。


 食卓に。

 器を一つ多く置いた。


「あ」


 気づく。


「……」


 静は何も言わない。

 銀華が片づける。

 別の日。


「静様」

「何」

「母様の櫛がありません」

「机の右」

「……ありました」

「昨日、自分で置いた」

「そうでしたか」

「ああ」


 また別の日。


「父様に聞きたいことが」


 言って。

 止まる。


「……」


 静は待つ。


「何でもありません」

「そう」


 日常の中に。

 穴がある。

 そこへ。

 何度も落ちる。

 そのたび。

 銀華は何もなかったように立ち上がった。



    ◇


 そして。

 王都の外では。

 まだ。

 戦の傷が。

 見つかり続けていた。


「姫様」


 瑠璃が報告書から顔を上げる。


「何ですか」

「北東の小村から、捜索隊が戻りました」

「被害は」


 兵が。

 一瞬。

 言葉を詰まらせた。


「村は」

「はい」

「……全滅です」


 瑠璃の手が止まる。


「全滅?」

「はい」

「生存者は」

「一人」


 瑠璃が立つ。


「一人?」

「子どもです」

「年は」

「十一ほどかと」

「名前は?」

「……刹那、と」


 瑠璃はその名を。


 初めて聞いた。


「今、どこに」

「王都の救護所です」

「容体は」


 兵は答えに迷った。


「怪我はありますが、命に別状は」

「では」

「ただ」

「ただ?」

「何を話しかけても」


 兵が目を伏せる。


「反応がありません」


    ◇


 瑠璃はすぐに救護所へ向かった。


 静も呼んだ。

 二人で。

 小さな部屋へ入る。

 少女がいた。

 十一歳。

 銀色の髪。

 汚れている。

 腕に包帯。

 頬に傷。

 毛布を掛けられ。

 椅子に座っている。

 目は開いていた。

 けれど、何も見ていない。



「刹那」


 瑠璃が呼ぶ。


「私は瑠璃といいます」



「あなたを見つけた兵から、お話を聞きました」



「怖かったですね」


 刹那は答えなかった。

 静が瑠璃の肩へ手を置く。



「今はやめろ」

「でも」

「届いてない」


 瑠璃が少女を見る。


「……はい」


 医師が言う。


「食事も、こちらが口元へ運べば少しは」

「自分からは?」

「ほとんど」

「眠れていますか」

「薬で、少し」


 瑠璃は刹那の前へしゃがむ。



「刹那」


 やはり。

 何もない。

 瑠璃はその顔を見ながら。


 別の少女を思い出した。

 泣かず。

 歯を食いしばり。

 立ち続けている。

 十四歳。


「静」

「何」

「銀華に」

「駄目だ」


 即答だった。

 瑠璃が静を見る。


「まだ何も言っていません」

「分かる」

「……」

「銀華も傷ついてる」

「はい」

「この子を背負わせるな」

「そのつもりでは」

「同じだ」


 静は刹那を見る。


「今の銀華に『この子を助けて』なんて言うな」

「言いません」

「本当に?」

「はい」


 瑠璃は少し考える。



「ただ」

「何」

「会わせてみたいとは、思いました」

「なぜ」

「分かりません」

「……」

「でも」


 瑠璃は刹那を見る。


「私たちが何を言っても」


 静かに。


「届かない気がするのです」

「銀華なら届く?」

「分かりません」

「また分からないか」

「はい」


 瑠璃はほんの少し。


 苦く笑った。


「最近、分からないことばかりです」


 静は黙る。


「だから」


 瑠璃は続ける。


「決めつけずに」

「……」

「一度だけ」


 刹那を見る。


「会わせてみませんか」


 静は長く。


 考えた。


「……銀華に決めさせる」

「はい」

「この子を見て」

「はい」

「銀華が嫌だと言ったら、それで終わり」

「もちろんです」

「助けろとも言わない」

「言いません」

「約束」

「約束します」


 静は刹那を見た。


 少女の瞳は。

 まだ。

 どこにも向いていなかった。


    ◇


 その日の夕方。

 銀華は静と一緒に。


 救護所へ来た。


「瑠璃様がお呼びと」

「ああ」

「何でしょう」

「行けば分かる」

「静様も知らないのですか」

「知ってる」

「では教えてください」

「見た方が早い」

「……静様は説明が苦手ですね」

「知ってる」


 部屋の前。

 瑠璃が待っていた。


「銀華」

「瑠璃様」

「来てくれて、ありがとうございます」

「はい」


 瑠璃は扉を見る。



「中に、一人の女の子がいます」

「女の子?」

「十一歳です」

「はい」

「村が」


 瑠璃の声が少し止まる。


「反乱で、なくなりました」


 銀華の顔から。

 表情が消える。


「……家族は」

「確認できた限り」


 瑠璃は誤魔化さなかった。



「誰も」

「……」

「その子だけが、生きていました」


 銀華は扉を見る。



「私に、何を?」

「何も」

「え?」

「何も頼みません」


 瑠璃が言う。


「会ってほしいとも、本当は言うべきではないのかもしれません」

「……」

「嫌なら、帰ってください」


 銀華はしばらく黙った。



「名前は?」

「刹那」

「刹那……」


 初めて。

 その名を口にする。


「会います」


 静が銀華を見る。


「いいのか」

「はい」

「無理しなくていい」

「無理ではありません」


 静はその言葉を聞いて。


 少し嫌な顔をした。


「大丈夫とも言うなよ」

「言っていません」

「顔に書いてる」

「書いていません」


 瑠璃が。

 ほんの少し笑った。


「では」


 扉を開ける。


    ◇


 銀華は刹那を見た。


 椅子。

 毛布。

 細い身体。

 銀色の髪。

 開いている目。

 でも。

 何も見ていない。

 銀華は何も言わなかった。


 一歩。

 近づく。

 刹那は動かない。

 もう一歩。

 銀華は少女の前へしゃがんだ。



「……こんにちは」


 返事はない。


「銀華といいます」


 刹那の視線は窓の方へ向いたままだった。

 瑠璃が。

 後ろから見ている。

 静も。


「刹那さん」


 少女のまぶたが一度だけ動いた。銀華はそれを返事だとは思わなかった。

 銀華はしばらく待った。


 それから。


「今日は」

 銀華は言いかけて、口を閉じた。何を話せばいいのか、自分でも決めていなかった。

 けれど、目の前の少女に悲しいことを尋ねる気にはなれなかった。


 何を言うのか。

 二人にも分からない。


「とても疲れました」


 静が眉を動かす。


「朝から静様に、何度も倒されました」

「おい」


 銀華は振り返らない。


「静様は、とても厳しいです」

「銀華」

「でも」


 刹那を見る。


「ご飯は、たくさん食べさせてくれます」

 刹那の手は毛布の上に置かれていた。銀華はその手に触れず、同じ高さで話を続けた。



「私は、あまり食欲がないのですが」

「ちゃんと食べろ」

「今その話ではありません」


 瑠璃が口元を押さえる。

 銀華は、今日あったことを話し始めた。


「今日は街で、水も運びました。桶が思ったより重くて、途中で何度も持ち直したんです」


 刹那は窓の外を見たままだった。


「それから、子どもにパンを渡したら、半分返してくれたんです。自分の分が減ってしまうのに」


 銀華は少しだけ笑った。


「私は配る側だったのに、もらってしまいました。あの子、私がお腹をすかせていると思ったのかもしれません」

「少し迷ったんですけど、結局、半分いただきました。あの子が嬉しそうだったから」

 銀華は自分の手を見た。差し出された小さなパンの温かさを、まだ覚えている気がした。

「……おいしかったです」


 刹那は何も言わなかった。けれど銀華は、その沈黙を埋めようと急がなかった。

 自分だって、今はうまく答えられないことがたくさんある。

 励ましの言葉を探すより、今日の出来事を一つずつ伝える方が、銀華には自然だった。

 窓から差す光が、毛布の端を淡く照らしていた。

 しばらくして、銀華は膝に置いていた手をほどいた。


「では」


 銀華が立つ。


「今日は帰ります」


 刹那は窓の外を見ていた。


「また来てもいいですか」


 答えはなかった。銀華は急かさず、その場に少しだけ留まった。

 いつか返事をしてくれるかどうかも分からない。

 それでも、今日ここへ来たことを後悔はしていなかった。

 銀華は立ち上がりかけて、もう一度少女の顔を見た。

 何かを約束させるために来たわけではなかった。


「……返事は、また今度でいいです」

 返事がなくても、今日の話を聞いてくれたかもしれない。それだけで、銀華は十分だと思った。


 頭を下げる。


「おやすみなさい、刹那さん」


 部屋を出る。


    ◇


 廊下。

 瑠璃が銀華を見る。


「銀華」

「はい」

「どうして」

「何がですか」

「どうして、あんな話を?」

「……」


 銀華は少し考える。


「何を言えばいいか、分からなかったので」

「そうですか」

「はい」

「また来るのですか」

「迷惑でなければ」

「銀華」


 静が呼ぶ。


「はい」

「毎日来なくていい」

「はい」

「自分のことを優先しろ」

「はい」

「本当に分かってる?」

「分かっています」

「怪しい」


 銀華は少し黙って。



「静様」

「何」

「私」


 廊下の床を見る。


「昨日まで」


 言葉を探す。


「父様と母様がいないことばかり考えていました」

「……ああ」

「今も考えています」

「ああ」

「でも」


 扉を見る。


「刹那さんは」


 小さな声。


「私より、ずっと一人に見えました」


 静は何も言えない。



「だから」


 銀華はそれ以上。


 うまく説明できなかった。


「明日も、来たいです」


 静は目を閉じる。


 母の声が。

 また聞こえた気がした。

 この子は剣じゃない。

 人間でしょう。


「……分かった」

「ありがとうございます」

「ただし鍛錬を増やすな」

「なぜですか」

「時間を作るために朝早く起きるのも禁止」

「まだ何も」

「考えただろ」

「……少し」

「禁止」

「はい」


 瑠璃が。

 二人を見ていた。

 銀華はまだ。


 自分自身も。

 立っているのがやっとなのに。

 それでも、誰かのところへ。


 一歩。

 歩こうとしていた。


    ◇


 翌日。

 銀華は来た。


「こんにちは、刹那さん」


 返事はなかった。

 その翌日も。


「今日は静様に十七回倒されました」

「十八」

「十七です」

「最後のも入れろ」

「最後は転んだだけです」

「私が足を払った」

「では十八です」


 返事はなかった。

 その翌日。


「瑠璃様が、仕事から逃げてきました」

「逃げてません」

「半分は本当だと以前」

「銀華、それは秘密です」


 返事はなかった。

 五日。

 十日。

 二十日。

 刹那は。

 ほとんど変わらなかった。

 銀華の声が。

 届いているのか。

 誰にも分からなかった。

 それでも。


「また明日」


 銀華は言った。

 毎日。

 同じように。


「おやすみなさい、刹那さん」


 そして。

 また来た。


    ◇


 一か月近く経った日。

 銀華はいつものように。


 刹那の前へ座った。


「今日は」


 少し考える。


「静様に勝ちました」

「嘘つけ」


 後ろから声。


「一本だけです」

「私がくしゃみした時だろ」

「隙は隙です」

「数えるな」

「勝ちは勝ちです」


 瑠璃が笑う。

 刹那は。

 動かない。


「それで」


 銀華が続ける。


「静様が悔しそうでした」

「してない」

「していました」

「してない」

「顔が」

「銀華」


 銀華がほんの少し笑った。

 その時、刹那の目が動いた。

 ほんの少し、銀華の方へ。

 最初は誰も気づかなかった。

 銀華も、静も、瑠璃も。

 ただ、刹那の瞳が初めて、何もない場所ではなく人のいる場所へ、ほんのわずかに向いた。


番外編⑦「泣かない少女」を最後までお読みいただき、ありがとうございます。


今回の題名である「泣かない少女」。


この言葉が指しているのは、一人の少女ではありません。


紅蒼瑠璃、白峰静、雪乃銀華、そして刹那。


境遇も、立場も、抱えている想いも異なる四人の少女たちが、今回の物語の主人公です。


**紅蒼瑠璃。**


わずか十七歳にして、父、母、弟という大切な家族を失い、さらに冬真と蒼華までも失った少女。


悲しみに暮れる時間も与えられないまま、王族として、そして国を背負う者として、前を向かなければなりません。


本当は誰かに慰めてもらいたい。誰かに頼りたい。


それでも、彼女の前には、自分以上に傷ついているかもしれない銀華がいます。


だからこそ、瑠璃は自分の悲しみを胸の奥にしまい、銀華に優しく接しようとします。


その優しさは、決して悲しみを乗り越えたから生まれたものではありません。


**白峰静。**


かつて自分を救い、育て、進むべき道を示してくれた蒼華を失いました。


剣聖と呼ばれる彼女も、決して何も感じない強い人間ではありません。


むしろ、大切な存在を失った痛みを、誰よりも深く抱えているのかもしれません。


それでも銀華の前では、いつもどおりの自分であろうとします。


厳しさの中に優しさを隠し、悲しみを見せることなく、残された少女を支えようとする。


けれど、本当は静自身も、誰かに支えてほしい一人の少女なのです。


**雪乃銀華。**


両親を失い、それまで当たり前だった日常が、突然失われてしまいました。


どれほど優れた才能を持っていても、どれほど強い剣を振るえたとしても、大切な人を失う悲しみから逃れることはできません。


周囲の人々に支えられながらも、簡単には受け止められない現実。


それでも銀華は、少しずつ自分の足で歩こうとします。


決して迷わないから強いのではなく、迷いながらも歩みを止めない。


そんな少女の姿を描きたかったのです。


**そして、刹那。**


彼女が物語に姿を見せるのは、最後の方になります。


ほかの三人とは異なる事情を抱え、言葉も感情も、簡単には表に出しません。


けれど、沈黙しているからといって、何も感じていないわけではありません。


言葉にならない想いも、表情に現れない感情も、確かに存在しています。


銀華が何気ない日常の出来事を話しかける時間。


その小さな積み重ねが、いつか刹那にとって大切な意味を持つことを願っています。


四人とも、涙を見せません。


けれど、**泣かないことと、悲しくないことは違います。**


そして、泣かないことが、そのまま強さを意味するわ

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