番外編⑥ 帰らぬ二人
西側の小門が閉じた。
その音を背に、五百の兵が走る。
戻るための門が閉じたのではない。
追撃を防ぐため。
そう分かっていても。
冬真は、一度だけ振り返った。
高い城壁。
その向こうに王都がある。
さらにその中に。
娘がいる。
「前を見て」
隣を走る妻が言った。
「見てる」
「今、思いきり後ろ見てたでしょう」
「最後に位置を確認しただけだ」
蒼華は走りながら夫を見た。
「何の?」
「王都の」
「十年以上住んでるのに?」
冬真は返事の代わりに、王都から前方へ視線を戻した。
「うるさい」
蒼華が笑う。
脇腹には厚く布が巻かれている。
白かった布は、もう薄く赤く染まり始めていた。
蒼華の手には、使い慣れた錫杖がある。
夫はそれを見た。
「やっぱり戻れ」
「嫌」
「まだ間に合う」
蒼華は脇腹を押さえもせず、走る速度を落とさなかった。
「嫌」
「お前な」
「前を見て」
「……」
「今度こそ」
冬真は舌打ちした。
「帰ったら覚えてろ」
森が近づき、二人は自然に声を落とした。
「何を?」
「説教する」
「銀華と二人で聞いてあげる」
冬真は苦笑した。
「お前が銀華を盾にするな」
「じゃあ三人でご飯にしましょう」
「……ああ」
短い返事。
それ以上は言わなかった。
五百の兵が森へ入る。
◇
王城。
瑠璃は西の地図から目を離せなかった。
「別働隊、第一地点を通過!」
伝令。
「敵の追撃は?」
「まだ気づかれていません!」
「北側は」
「反乱軍およそ四千が移動!」
軍務卿が駒を動かす。
「もう少し引きつけます」
「はい」
瑠璃の手は震えていた。
五百。
数字で書けば、それだけだった。
だが今は違う。
五百人。
五百人に家がある。
家族がいる。
帰りたい場所がある。
その先頭に冬真と蒼華がいる。
「瑠璃」
静が呼ぶ。
「何です」
「地図を睨んでも速くならない」
「分かっています」
瑠璃は言い返した。
「なら息をしろ」
「しています」
「浅い」
瑠璃は気づいて、ゆっくり息を吸った。
「……静は平気なのですか」
「何が」
「二人を行かせて」
「平気に見えるか」
瑠璃が静を見る。
静の右手。
剣の柄を握りすぎて、指が白くなっている。
「……見えません」
「そうか」
「ごめんなさい」
「謝るな」
また同じ言葉。
瑠璃は少しだけ目を伏せた。
「私が命じました」
「ああ」
「二人が死んだら」
静がすぐに遮った。
「まだ死んでない」
「でも」
「まだだ」
静の声が強くなる。
「勝手に殺すな」
「……はい」
瑠璃は頷いた。
自分にも言い聞かせる。
まだ。
まだ帰ってくる。
◇
五百の別働隊は、森を抜ける直前で止まった。
冬真が手を上げる。
全員が伏せる。
木々の向こう。
街道を反乱軍の一隊が横切っている。
およそ二百。
「やり過ごす?」
蒼華が囁く。
「時間がない」
「なら?」
「三つに割る」
冬真は後ろの隊長たちを呼んだ。
「第一隊、俺と正面。第二隊は右から回れ。第三隊は左。合図まで出るな」
「はっ」
「声を出すな。短く終わらせる」
「捕虜は?」
「取れるなら取れ。ただし足は止めるな」
隊長たちが散る。
蒼華が夫を見る。
「正面好きね」
「一番分かりやすい」
「馬鹿正直」
「お前に言われたくない」
蒼華は娘の顔を思い浮かべた。
「銀華、あなたに似たのね」
「お前にも似てる」
「困った子」
二人は小さく笑った。
そして。
冬真の手が下がる。
五百のうち百五十が森から飛び出した。
「敵襲!」
反乱兵が振り返る。
遅い。
先頭の冬真が一人目の槍を払う。
懐へ。
剣を返す。
倒す。
「前だけ見ろ! 止まるな!」
別働隊が突き抜ける。
敵が正面へ集まる。
その瞬間。
「今!」
左右から残りの兵が出る。
挟む。
反乱軍の隊列が崩れる。
蒼華は右側から入った。
脇腹の傷が痛む。
無視する。
一人の剣を錫杖で受ける。
石突きを返し、相手の体勢を崩す。
肘を打つ。
続けて首筋へ一撃。
必要な分だけ。
次。
「殺しすぎない!」
味方へ叫ぶ。
「道を開ければいい!」
敵が退く。
「進め!」
冬真の声。
五百は止まらない。
戦うためではない。
本陣へ届くために。
◇
最初の接触で、五百は四百七十二になった。
二十八人。
瑠璃が地図の上で見ることはない数字。
けれど、冬真は全員の顔を見た。
倒れた兵を回収する時間はない。
「負傷者は?」
「歩けない者が十一!」
「二人ずつ残せ」
「戦力が」
冬真は隊長の言葉を遮った。
「置いていけない」
「しかし旦那!」
「帰りに拾う!」
冬真が怒鳴る。
「生きて待てと伝えろ!」
「はっ!」
蒼華が夫の横へ来る。
「甘い」
「知ってる」
「軍なら置いていくところよ」
「それでも、置いていけない」
「でも、嫌いじゃない」
「帰ってから言え」
「はいはい」
四百四十九。
さらに進む。
◇
反乱軍本陣。
「西側で敵?」
領主が立ち上がる。
「小勢です!」
「何人だ」
「五百ほど!」
「五百?」
周囲に失笑が漏れる。
「放っておけ」
「ですが、進路が本陣へ」
笑いが止まる。
「誰が率いている」
「雪乃です」
領主の顔が変わった。
「男か」
「女も確認されています」
「……夫婦で来たか」
奥にいた男が立ち上がる。
顔の半分を布で隠した男。
「止めろ」
「五百だぞ」
「数を見るな」
冷たい声。
「あの二人を本陣へ入れるな」
「そんなに?」
「今すぐ三千回せ」
「三千?」
「足りなければ五千」
領主が眉をひそめる。
「北の追撃を減らすことになる」
「構わない」
「王都への圧力が」
「本陣が潰れれば全部終わる」
男は地図を指す。
「ここで止めろ」
◇
王城へ報告が届いた。
「敵西部隊、動きました!」
「数は!」
「約三千! 本陣南東へ!」
軍務卿の目が鋭くなる。
「気づかれた」
瑠璃が地図を見る。
「二人のところへ?」
「おそらく」
「こちらから攻めます」
軍務卿が首を横に振る。
「まだ早い」
「でも!」
「今出れば、敵は西へ兵を戻します」
「では見ていろと?」
「姫様」
瑠璃は声を荒らげた。
「五百に三千です!」
地図の上では、赤い駒が別働隊へ向かっている。
「分かっています」
「銀華の両親が!」
「分かっています!」
軍務卿の声が響く。
瑠璃が止まる。
「だからこそ、待つのです」
「……」
「あの方々は、こちらが動く時間を作るために行った」
「でも」
「今、我々が焦れば、その時間を無駄にする」
瑠璃は唇を噛んだ。
正しい。
分かる。
分かるから苦しい。
「……いつまで」
「敵本陣が揺れるまで」
「それは、いつです」
「分かりません」
また。
分からない。
瑠璃は目を閉じた。
「分かりました」
言うしかなかった。
◇
静は黙っていた。
軍務卿の判断は正しい。
自分でも分かる。
だから何も言えない。
剣を抜いて走れば。
追いつけるかもしれない。
自分なら。
五百のところへ。
あの人のところへ。
「静」
瑠璃の声。
「……何」
「行かないでください」
静が瑠璃を見る。
「顔に出ていました」
「そうか」
「行きたい?」
静の指が、剣の柄を強く締めた。
「ああ」
嘘をつかなかった。
「私もです」
「……」
「でも」
瑠璃は自分の胸へ手を置く。
「ここにいます」
静は目を伏せる。
蒼華の言葉。
それがあなたの戦い。
「……ああ」
二人は残った。
◇
三千が来る。
別働隊は丘陵地の手前でそれを確認した。
「多いな」
冬真が言う。
「笑うところ?」
「笑ってない」
蒼華が敵を見る。
「正面は無理ね」
「ああ」
蒼華は谷の方角を指した。
「谷へ入れる?」
「こっちが?」
「向こうを」
蒼華が地形を見る。
浅い谷。
両側に低い斜面。
道幅は狭い。
「こちらが逃げるふりをして」
「追わせる」
「半分を上へ」
「分ける時間があるか」
「作る」
「どうやって」
蒼華が夫を見る。
「私が前へ出る」
冬真の眉間に深い皺が寄った。
「却下」
「早い」
「却下」
「話を聞いて」
冬真は首を振った。
「怪我人が何言ってる」
「あなたより強い怪我人です」
「そこは否定しにくいのが腹立つな」
蒼華は笑った。
「二百を斜面へ。残りで谷へ誘う」
「お前は」
「あなたの横」
「後ろ」
「横」
蒼華は譲らず、錫杖の石突きを地面へ軽く当てた。
「後ろ」
「譲らないわ」
「……帰ったら本当に説教だからな」
「楽しみにしてる」
◇
反乱軍は食いついた。
「逃げるぞ!」
「追え!」
三千の兵が谷へ入る。
先頭を走る別働隊。
冬真が振り返る。
「まだ!」
敵がさらに入る。
「まだ!」
後方まで細長く伸びる。
蒼華が斜面を見る。
味方の姿は隠れている。
「今!」
旗が上がる。
斜面から矢。
石。
倒木。
狭い谷へ一斉に落ちる。
「伏せろ!」
反乱軍が混乱する。
先頭と後方が分断される。
「反転!」
冬真が叫ぶ。
逃げていた別働隊が一斉に向きを変える。
突撃。
「前の五百だけ潰せ!」
敵全体を相手にしない。
細く伸びた先端だけ。
冬真が斬る。
蒼華が錫杖を低く払って、その横を抜く。
「右!」
「見えてる!」
「後ろ!」
「そっち!」
背中合わせ。
剣。
槍。
血。
泥。
二人の動きは長年一緒に戦ってきた者のそれだった。
言葉より先に分かる。
夫が一歩踏み込めば。
蒼華が錫杖で空いた側を塞ぐ。
蒼華が錫杖で敵の剣を流せば。
夫がその隙へ入る。
「旦那!」
味方が叫ぶ。
「後方が回復します!」
「三十数える!」
「はっ!」
「三十で離脱!」
時間だけを買う。
一。
二。
冬真は数えながら斬った。
十五。
蒼華の呼吸が荒い。
二十。
脇腹の血が増えている。
二十五。
「おい」
「平気!」
二十八。
二十九。
「三十! 離れろ!」
別働隊が一斉に退く。
斜面の兵も合流する。
追撃が来る前に谷を抜ける。
敵三千を倒したわけではない。
ほんの一部を削り。
足を止めただけ。
それで十分だった。
◇
残り三百八十一。
五百から。
もう百以上減った。
「傷は」
冬真が妻を見る。
「増えてない」
「嘘つけ」
「ちょっとだけ」
「見せろ」
走りながらでは、巻いた布の下を確かめることすらできない。
「止まれないでしょう」
「だから言ったんだ」
「怒る元気あるなら大丈夫」
「お前が大丈夫じゃない!」
蒼華は少しだけ黙った。
「……痛い」
冬真の顔が変わる。
「どれくらい」
「結構」
「戻るぞ」
「嫌」
「もう作戦とか知らん。戻る」
冬真は引き返す方向へ目を向けた。
「駄目」
「お前が死ぬ」
「まだ死なない」
「何を根拠に」
「銀華に会ってない」
その名前だけで、冬真の言葉が一瞬止まった。
冬真が言葉を失う。
「帰るんでしょう?」
「……ああ」
「なら進む」
蒼華は錫杖を握り直した。
「本陣は近い」
森の向こう。
反乱軍の大旗が見え始めていた。
◇
「見えた!」
王城の物見台から報告。
「敵本陣周辺に煙!」
瑠璃が立ち上がる。
「二人は?」
「確認できません!」
「別働隊の旗は!」
「見えます! まだ進んでいます!」
軍務卿が地図を見る。
「届いた」
「では!」
「まだです」
瑠璃が軍務卿を見る。
「まだ?」
「本陣へ入っただけでは足りない。敵の指揮が乱れるまで」
「……」
静が窓の外を見る。
遠い。
何も見えない。
ただ。
煙だけ。
◇
本陣外周。
反乱軍はすでに待ち構えていた。
「来るぞ!」
柵。
盾兵。
弓兵。
その後ろに槍。
「真正面は?」
蒼華が聞く。
「死ぬ」
「じゃあ左」
「何がある」
「炊事場」
「……なるほど」
兵を守る柵は厚い。
食料や荷を運ぶ場所は広く開く。
「火を使う」
「本陣ごと?」
「天幕だけだ。風は王都と逆」
「確認した?」
「した」
「偉い」
「褒めるな」
冬真が隊を三つに分ける。
「弓隊、火矢! 狙うのは外側の天幕だけ! 中央は撃つな!」
「はっ!」
「第二隊、火が出たら左へ!」
「第三隊は俺たちと突破!」
蒼華が見る。
「百五十?」
「十分だ」
「少ない」
「お前がいる」
「便利に使うわね」
「帰ったら謝る」
「覚えておく」
火矢が上がる。
夕暮れの空へ。
弧を描き。
天幕へ落ちる。
「火だ!」
「消せ!」
反乱軍の視線が散る。
「今!」
百五十が走る。
左。
荷車の間。
柵の薄い場所。
「止めろ!」
槍兵。
冬真が先頭へ。
槍を剣で叩き上げる。
肩からぶつかる。
蒼華が錫杖で二人目の足を払う。
「開いた!」
「入れ!」
別働隊が本陣へ雪崩れ込んだ。
◇
「何だ!」
領主たちが立ち上がる。
外で悲鳴。
火。
馬が暴れる。
「雪乃です!」
「入られたのか!」
「外周を突破!」
「兵を戻せ!」
伝令の報告を聞き、領主が怒鳴った。
「もう戻しています!」
「北の部隊も!」
「戻せ!」
命令が重なる。
誰の命令を聞くのか。
兵が迷う。
「東の攻撃は!」
「継続です!」
「止めろ! 本陣を守れ!」
別の領主が反論した。
「いや、王都を押せ! 今止めれば立て直される!」
「本陣が落ちれば終わりだ!」
領主同士が怒鳴り合う。
顔を隠した男は、その様子を冷たく見ていた。
「……もう崩れ始めたか」
領主の一人が男を睨んだ。
「何だと?」
「お前たちのことだ」
「貴様!」
「指揮官が七人いて、七人が違うことを言う」
男は外を見る。
「だから頭を一つにしろと言った」
「今さら何を!」
顔を隠した男は淡々と言った。
「私は退く」
「待て!」
「ここで捕まる義理はない」
「我々を捨てるのか!」
「最初から仲間ではない」
男が天幕を出る。
「貴様、どこの――」
「それ以上言うな」
振り返らない。
「生きたければな」
◇
別働隊は本陣の中を走った。
「旗を倒せ!」
「伝令所を潰せ!」
「地図と命令書を燃やせ!」
兵そのものを倒すのではない。
指揮を壊す。
伝令用の馬を逃がす。
旗を切る。
太鼓を壊す。
命令を運ぶ場所を潰す。
冬真の狙いは明確だった。
「中央天幕!」
大きな旗。
「あそこだ!」
走る。
だが。
「伏せろ!」
蒼華が叫んだ。
矢。
冬真が身を沈める。
一本。
二本。
三本。
別働隊の兵が倒れる。
「弓兵!」
天幕の裏。
高台。
「盾!」
前へ。
進む。
「左から回る!」
蒼華が走る。
「待て!」
冬真の声。
聞かない。
弓兵の死角へ。
一人目の弓を錫杖で跳ね上げる。
二人目の足を払う。
倒れた二人を越え、高台へ上がる。
傷が痛む。
足が一瞬止まる。
「……っ」
その瞬間。
槍が横から来た。
かわす。
間に合わない。
穂先が脇腹へ。
すでに傷のある場所。
「――!」
身体が揺れる。
槍が抜ける。
血が一気に落ちた。
「お前!」
冬真の声。
蒼華は膝をつく。
敵兵がもう一度槍を構える。
冬真が飛び込んだ。
剣。
敵の槍を弾く。
斬る。
「おい!」
蒼華を抱き起こす。
「見ろ!」
「……見てる」
「傷!」
「ちょっと……増えた」
冬真は蒼華の傷口を見た。
「馬鹿!」
「怒鳴らないで」
「医務兵!」
「ここに医務兵なんていないでしょう」
「黙れ!」
布を押し当てる。
血が止まらない。
「戻るぞ」
「駄目」
「今度は聞かん!」
冬真は血に濡れた布をさらに強く押さえた。
「中央天幕」
「知るか!」
「あと少し」
「もう少しで届くんだぞ!」
蒼華が夫の腕を掴む。
「あなた」
「何だ!」
「銀華が生きる場所」
怒号の向こうに、王都の城壁がかすんで見えた。
「……」
「残すんでしょう」
「お前が死んだら意味がない!」
「ある」
蒼華が笑った。
弱い笑顔。
「銀華が生きていれば」
「やめろ」
「私たちは」
「やめろ!」
「親でしょう」
冬真の目が赤くなる。
「帰るって言っただろ」
「うん」
「約束した」
「うん」
「なら立て」
「……うん」
蒼華は錫杖を地面へ突き。
立とうとした。
足に力が入らない。
崩れる。
冬真が抱き止める。
「ほら見ろ!」
「ごめん」
「謝るな!」
周囲では戦いが続いている。
「旦那!」
隊長が叫ぶ。
「敵増援! あと数分です!」
冬真は妻を見る。
中央天幕を見る。
王都の方向を見る。
選ぶ。
また。
誰かが選ばなければならない。
「……隊長」
「はっ!」
「残りを二つに分けろ」
「旦那?」
「一隊は中央天幕。もう一隊は退路を作れ」
隊長が冬真の腕の中の蒼華を見る。
「旦那は!」
冬真は妻を抱き上げた。
「俺も行く」
「その状態で?」
「うるさい」
蒼華が夫の首へ腕を回す。
「重い?」
「重い」
「失礼ね」
「帰ったら痩せろ」
蒼華の腕が冬真の首へ回り、ほんの少しだけ力が戻る。
「嫌」
冬真が剣を握る。
片腕に妻。
片手に剣。
「進むぞ!」
◇
それは。
英雄のような姿ではなかった。
血に濡れ。
泥に汚れ。
息を切らし。
一人の男が、傷ついた妻を抱いて歩いている。
剣を振るたび。
身体が揺れる。
速くはない。
無敵でもない。
味方が前を開ける。
横を守る。
一人が倒れる。
また一人。
「旦那、右!」
剣を受ける。
「奥方様を!」
「触るな!」
冬真が怒鳴る。
「自分で持つ!」
「こんな時まで」
蒼華が小さく笑う。
「うるさい」
「格好つけ」
「黙ってろ」
「はい」
蒼華の声が弱くなる。
「寝るな」
「寝てない」
「喋れ」
「何を」
「何でもいい」
蒼華は息を整えながら答えた。
「……銀華」
「ああ」
「朝、ちゃんと起きたかな」
「起きてる」
「髪、自分で結べたかな」
冬真は前を向いたまま、娘の朝の姿を思い浮かべた。
「十四だぞ」
「でも、たまに変になる」
「お前が直してやれ」
「うん」
「帰って」
「うん」
「直せ」
「……うん」
中央天幕まで。
あと百歩。
◇
王城。
「敵西部隊、反転!」
伝令が叫ぶ。
「本陣へ戻っています!」
軍務卿が立ち上がる。
「数は!」
「西、北から合わせて六千以上!」
瑠璃が地図を見る。
反乱軍の駒が。
王都から離れる。
本陣へ。
「今です」
軍務卿が瑠璃を見る。
「姫様」
瑠璃の心臓が跳ねる。
これを待っていた。
でも。
「二人は?」
「分かりません」
「……」
「姫様」
決める。
今度は。
迷っている時間がない。
「全軍へ」
瑠璃は立ち上がった。
「反撃します」
静が剣を抜く。
朱も。
「東地区は押し返す。西門は開けない。南から出られる部隊だけ外へ」
伝令たちが命令を受け、次々に指揮所を飛び出していく。
軍務卿が頷く。
「敵が本陣へ戻る道を横から叩きます」
「はい」
「北は?」
「追撃に出た敵が戻る前に、避難民を城内へ」
「承知しました」
瑠璃が剣を握る。
「行きます」
「瑠璃」
静が見る。
「今度は止めないのですね」
「止めても行くだろ」
「はい」
「なら横にいる」
瑠璃は頷いた。
「お願いします」
◇
王都の門から王国軍が出た。
守るだけだった軍が。
初めて前へ出る。
「姫様がいる!」
「押せ!」
「本陣が襲われてるぞ!」
反乱軍に動揺が走る。
命令が来ない。
旗が見えない。
太鼓が鳴らない。
「退くのか!」
「本陣へ戻れと言われた!」
反乱兵たちは互いの顔を見ても、答えを持っていなかった。
「誰に!」
「知らん!」
「東は攻めろと!」
「どっちだ!」
数万の軍勢。
それが一つの身体ではなくなる。
瑠璃はその変化を見た。
「今!」
剣を振る。
「押し返して!」
王国兵が進む。
静が前を切り開く。
朱が瑠璃の背を守る。
「右から来ます!」
「見えています!」
静が瑠璃へ叫んだ。
「前に出すぎ!」
「静より後ろです!」
「またそれですか!」
瑠璃が剣を受ける。
流す。
斬る。
怖い。
まだ怖い。
でも。
動ける。
「南隊、敵の側面へ!」
伝令が走る。
「弓兵は前へ出ない! 距離を保って!」
学んだこと。
冬真に教わったこと。
軍務卿から聞いたこと。
全部を使う。
奇跡ではない。
敵はまだ多い。
味方は少ない。
それでも。
初めて。
戦況がこちらへ傾いた。
◇
中央天幕まで。
あと三十歩。
「旦那!」
隊長が倒れる。
「隊長!」
「行け!」
肩に矢。
それでも立つ。
「ここは俺たちが!」
「でも!」
「何のために来た!」
冬真が止まる。
「頭を潰せ!」
隊長が笑う。
「帰るんでしょう!」
冬真は歯を食いしばった。
「……死ぬなよ!」
「そっちも!」
進む。
二十歩。
蒼華の腕から力が抜けている。
「おい」
「……いる」
「喋れ」
「いるって」
「目を開けろ」
冬真は蒼華の顔を覗き込んだ。
「開いてる」
「嘘つけ」
十歩。
中央天幕の前。
領主の護衛。
十数人。
冬真は妻を下ろさない。
「退け」
「一人で何ができる!」
冬真の背後へ、生き残った兵たちが追いついた。
「一人じゃない」
背後。
残った兵が来る。
二十。
三十。
血まみれの兵たち。
「俺たちは五百で来た」
冬真が剣を構える。
「まだ終わってない」
ぶつかる。
◇
蒼華は夫の腕の中で。
音を聞いていた。
剣。
怒号。
足音。
遠く。
もっと遠く。
王都の方角から。
何か大きな声が聞こえた。
「……反撃」
「何?」
「始まった」
冬真も気づく。
王都側の鬨の声。
「瑠璃様……」
蒼華が小さく笑う。
「やったね」
「ああ」
「ちゃんと……見てた」
「ああ」
「静も」
「ああ」
「銀華も……」
「家だ」
「そうだった」
冬真が敵の剣を受ける。
腕に傷。
「あなた」
「何だ」
「下ろして」
「嫌だ」
「戦いにくい」
「知るか」
「重いでしょう」
蒼華は夫の腕の中で小さく笑った。
「さっき言った」
「怒った」
「お前がな」
「……ふふ」
笑った。
ほんの少し。
そして。
「ありがとう」
「何が」
「一緒に来てくれて」
炎の向こうで、中央の大旗が揺れている。
「俺の台詞だ」
「そう?」
「ああ」
中央天幕の支柱が見える。
「火を!」
味方が叫ぶ。
油。
火。
天幕へ。
炎が上がる。
「地図を!」
「命令書を燃やせ!」
「旗を倒せ!」
中央の大旗が切られる。
倒れる。
巨大な旗が。
地面へ。
◇
王都から。
瑠璃はそれを見た。
遠く。
本陣の大旗。
倒れた。
「……!」
軍務卿が叫ぶ。
「本陣の旗が落ちた!」
王国兵から歓声が上がる。
「押せ!」
瑠璃が叫ぶ。
「今です!」
反乱軍の一部が逃げ始める。
一部はまだ戦う。
一部は命令を待つ。
その命令は来ない。
領主たちの指揮は。
壊れた。
◇
本陣の中央。
炎。
煙。
領主たちが逃げる。
「捕らえろ!」
別働隊の兵が追う。
冬真は追わなかった。
蒼華を抱いている。
「終わった」
呟く。
「おい」
返事がない。
「終わったぞ」
「……」
「聞こえてるか」
蒼華の目は閉じていた。
「おい」
頬を叩く。
「起きろ」
反応がない。
「おい!」
少し。
まぶたが動いた。
「……うるさい」
冬真の息が漏れる。
「馬鹿!」
「声……大きい」
「終わった」
「うん」
「帰るぞ」
冬真は蒼華の手を握ったまま、近づく王国軍の旗を見た。
「……うん」
「銀華のところへ」
「うん」
冬真は妻を抱き直した。
立ち上がる。
一歩。
足がふらつく。
自分も傷だらけだった。
「旦那!」
生き残った兵が来る。
「奥方様を!」
「大丈夫だ」
「でも!」
「帰る」
歩く。
本陣の外へ。
そこに。
新たな反乱軍が見えた。
本陣へ戻ってきた六千の先頭。
間に合わなかった。
「……多いな」
冬真が言った。
蒼華が目を開ける。
「笑ってる?」
「笑ってない」
「またそれ」
「こんな時まで、同じこと言うのね」
百にも満たない。
「旦那」
「何だ」
「王都側が押しています」
遠くに。
王国軍の旗。
瑠璃たち。
「見えるか」
「はい」
「なら」
冬真が妻を地面へそっと座らせる。
「ここで止める」
蒼華が夫の袖を掴んだ。
「あなた」
「何だ」
「行かないで」
初めて。
蒼華がそう言った。
冬真が止まる。
「……ずるいな」
「うん」
「今それ言うか」
「ごめん」
冬真は妻の前へしゃがんだ。
「一緒だ」
「え?」
「置いていかない」
蒼華の身体を背負う。
「ちょっと」
「両手が使える」
「無茶」
「お前に言われたくない」
剣を握る。
「帰るんだろ」
「……うん」
「なら最後まで一緒だ」
蒼華が夫の肩へ額を預けた。
「銀華に怒られるね」
冬真は背中の蒼華を支え直した。
「怒らせとけ」
「泣くかな」
「……泣かせたくない」
「うん」
「だから」
冬真は敵を見る。
「帰る」
◇
百に満たない兵が。
六千の前へ立った。
勝つためではない。
もう勝負は決まり始めている。
瑠璃たちが来るまで。
戻ってきた敵を。
あと少しだけ止めるため。
「全員!」
冬真が叫ぶ。
「死ぬな!」
兵たちが笑った。
「旦那、それ無理があります!」
「うるさい!」
「相手六千ですよ!」
それでも、兵たちの笑いは消えなかった。
「数えるな!」
「旦那が一番数えてたでしょう!」
「今は忘れろ!」
笑い声。
それから。
「帰るぞ!」
「おお!」
最後の隊列が組まれる。
◇
戦いは長くなかった。
長くできるはずがなかった。
一人。
また一人。
倒れる。
冬真も傷を受ける。
肩。
脚。
腕。
それでも立つ。
蒼華を背負ったまま。
「下ろして」
「嫌だ」
「あなたが」
「俺は下ろさない」
「死ぬ」
「お前もだろ」
「……」
「なら一緒だ」
剣を振る。
敵を倒す。
次。
また次。
数の暴力。
どれほど強くても。
一人の人間には限界がある。
剣は欠ける。
腕は重くなる。
足は動かなくなる。
息が切れる。
「あなた」
「何だ」
「銀華に」
「自分で言え」
冬真は首を横に振った。
「聞いて」
「帰ってから聞く」
「……頑固」
「お前がな」
蒼華の声が、もうほとんど聞こえない。
「大好きって」
「自分で言え」
「……うん」
「それから」
冬真が息を切らす。
「俺もだ」
「何が」
「銀華が」
冬真は息を整えようとして、血の味を飲み込んだ。
「……うん」
「大好きだ」
蒼華が少し笑った。
「知ってる」
槍が来る。
冬真は避けきれない。
肩を貫く。
「ぐっ……!」
膝をつく。
それでも。
蒼華を落とさない。
「あなた!」
「平気だ!」
「平気じゃ」
「立つ!」
剣を杖に。
立つ。
前を見る。
その向こう。
王国軍の旗が。
近づいていた。
「来た」
冬真が笑った。
「瑠璃様」
蒼華も目を開ける。
遠い。
けれど。
紅蒼の髪が。
白い髪が。
見えたような気がした。
「静……」
◇
「前方!」
朱が叫ぶ。
「別働隊です!」
瑠璃が見る。
ほんのわずかな兵。
囲まれている。
「静!」
返事はなかった。
静はもう走っていた。
「静様!」
朱が叫ぶ。
白い髪が戦場を抜ける。
一人。
二人。
敵を倒す。
速い。
今まで瑠璃の横で戦っていたときよりも。
ずっと。
「道を開けて!」
瑠璃が叫ぶ。
「別働隊まで!」
王国軍が押す。
「あと少しです!」
瑠璃も走る。
◇
冬真は。
白い髪を見た。
「……静だ」
蒼華が小さく動く。
「ほんと?」
「ああ」
「見えない」
「来てる」
「そっか」
「もう少しだ」
「うん」
「帰れる」
「……うん」
冬真が一歩進む。
敵兵が前に出る。
剣。
受ける。
もう腕が上がらない。
刃が胸へ入る。
「――」
身体が止まった。
「あなた?」
冬真は倒れなかった。
剣を振る。
敵を退かせる。
もう一歩。
「あなた」
「大丈夫」
声が出ない。
それでも言った。
「大丈夫だ」
蒼華の腕が。
首から滑り落ちる。
「おい」
返事がない。
「おい?」
冬真の足が止まる。
「……寝るな」
返事がない。
「帰るぞ」
返事がない。
「銀華が待ってる」
返事がない。
「おい」
冬真は。
初めて振り返ろうとした。
背中の妻を。
その瞬間。
膝から力が抜けた。
二人で地面へ崩れる。
冬真は最後まで。
蒼華を下敷きにしなかった。
腕の中へ抱く。
「……馬鹿」
蒼華の顔を見る。
穏やかだった。
「先に寝るなよ」
血のついた頬へ触れる。
「帰るって……」
声が震える。
「約束しただろ」
遠く。
静の声。
自分を呼んでいる。
冬真はそちらを見た。
「……遅い」
少し笑った。
「静」
届いたかは分からない。
「あとは」
息をする。
胸が痛い。
「銀華を……」
言い切れなかった。
違う。
頼む、ではない。
あの子は誰かの所有物ではない。
守られるだけの子でもない。
冬真はもう一度息を吸った。
「……そばに」
それだけだった。
蒼華の手を握る。
「帰ろう」
目を閉じる。
「三人で……飯……」
その先は。
声にならなかった。
◇
「どいて!」
静の剣が敵を弾く。
一人。
二人。
三人。
もう何人斬ったか分からない。
「どけ!」
叫ぶ。
瑠璃が聞いたことのない声。
敵が退く。
王国軍が追いつく。
反乱軍は本陣の崩壊と瑠璃側の反撃で統制を失っている。
六千はもう六千ではなかった。
逃げる者。
武器を捨てる者。
まだ戦う者。
ばらばら。
静はその間を抜けた。
そして。
見つけた。
二人。
寄り添うように。
倒れている。
「……」
足が止まった。
世界が。
静かになった。
「……ねえ」
歩く。
「起きて」
返事がない。
「終わった」
近づく。
「もう終わったから」
膝をつく。
蒼華の頬へ触れる。
冷たい。
「……帰るよ」
冬真にも触れる。
返事はない。
「銀華が待ってる」
声が震える。
「ねえ」
静は。
剣を落とした。
「帰ってよ」
十七歳の少女が。
二人の前で。
何もできずに座っていた。
◇
瑠璃が追いついた。
「静!」
そして。
見た。
銀華の両親。
瑠璃の足が止まる。
「……嘘」
また。
その言葉。
「嘘……」
朱も後ろで立ち尽くす。
瑠璃は歩いた。
一歩。
一歩。
「約束……」
母の言葉。
必ず帰る。
「約束したでしょう……」
膝をつく。
「私が命じた」
静が顔を上げる。
「私が……行けって」
静は二人の亡骸から目を逸らさなかった。
「違う」
「でも」
「違う」
静の声は低い。
「二人が決めた」
「でも私が!」
「瑠璃!」
静が初めて。
瑠璃へ怒鳴った。
「今それを言うな!」
瑠璃が息を止める。
「二人が何のために行ったと思ってる!」
「……」
「お前が自分を責めるためじゃない!」
静の目から。
初めて涙が落ちた。
「そんなことのために……」
続かなかった。
瑠璃も泣いた。
朱が二人のそばへ膝をつく。
誰も。
すぐには立てなかった。
◇
戦は。
その日のうちに大勢が決した。
反乱軍本陣の指揮系統は崩壊。
複数の領主が逃亡。
一部は捕縛。
残った領軍も、王都側の反撃と指揮の混乱によって次々に武器を捨てた。
数で勝っていた軍が。
数を動かす頭を失った。
それだけだった。
奇跡ではない。
五百の別働隊が。
その頭を壊した。
そして。
五百のうち。
王都へ自力で戻れた者は。
百にも届かなかった。
◇
夜。
王城の一室。
静は椅子に座っていた。
剣は壁へ立てかけてある。
触りたくなかった。
瑠璃が入ってくる。
「静」
「……何」
「二人を……王城へ」
「ああ」
「明日、弔いを」
「ああ」
瑠璃は言いかけて口を閉じた。
「銀華には」
その名が出た瞬間、部屋の空気が重く沈んだ。
静の指が動いた。
「……まだ」
「はい」
「知らない」
「はい」
十四歳。
屋敷で。
帰りを待っている。
「誰が言う」
静が聞く。
瑠璃は答えられない。
「私が言います」
「……」
「私が」
「お前だけじゃない」
静が立つ。
「私も行く」
「でも」
「行く」
「……はい」
瑠璃は頷いた。
「二人で」
「ああ」
長い沈黙。
「静」
「何」
「怖いです」
「……ああ」
瑠璃は膝の上で手を握り締めた。
「銀華に会うのが」
「ああ」
「何と言えばいいのか」
「分からない」
「私も」
静は目を閉じた。
母の最後の姿。
冬真の最後の言葉。
――銀華を。
違う。
その後。
――そばに。
「……そばにいる」
「え?」
「言葉がなくても」
静は瑠璃を見る。
「そばにいる」
瑠璃は涙を拭った。
「はい」
◇
同じ頃。
銀華は。
屋敷の食卓に三人分の器を並べていた。
「銀華様」
「父様と母様、帰ってくるかもしれません」
食卓には、まだ三人分の温もりを残すつもりだった。
「……」
「遅いので、お腹が空いていると思います」
使用人は何も言えない。
「温め直せますよね」
「はい」
「よかった」
銀華は父の席を見る。
母の席を見る。
そして自分の席。
「今日は」
少しだけ笑う。
「ちゃんと剣の回数を減らしたって、母様に言うんです」
返事はない。
「父様には……」
考える。
「昨日の続き、見てもらいます」
誰も。
止められなかった。
銀華は待った。
夜が深くなっても。
三人分の食卓の前で。
冬真と母が帰ってくると。
信じて。
待ち続けた。
* * *
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回の物語では、銀華の両親である冬真と蒼華、そして五百の兵たちの戦いを描きました。
二人が最後まで願っていたのは、英雄として名を残すことではなく、大切な人の待つ場所へ帰ることでした。
戦いは終わりへと向かいます。
しかし、残された人々にとって、本当につらい時間はこれから始まります。
次回、番外編⑦「泣かない少女」。
引き続き、『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』をよろしくお願いいたします。




