番外編⑤ 剣を取る王女
最初に響いたのは、東門からだった。
大地を叩くような音。
丸太を束ねた破城槌が、城門へぶつかる。
一度。
二度。
三度。
門そのものではなく、王都全体が揺れているようだった。
「来るぞ!」
城壁の上で兵が叫ぶ。
矢が空を埋めた。
反乱軍から放たれた矢が、朝の光を一瞬だけ隠す。
「盾!」
王国兵が身を寄せる。
木と鉄へ、雨のように矢が突き刺さった。
その下を、梯子を抱えた兵が走る。
「落とせ!」
石。
槍。
熱した油。
使えるものは何でも使った。
昨日まで同じ国の紋章を掲げていた者同士が、城壁を挟んで殺し合う。
冬真は西門の上で剣を振るっていた。
「右の梯子!」
「はい!」
城壁の外では、破城槌の音が途切れない。
「登らせるな!」
城壁へ手をかけた兵を斬り落とす。
次。
また次。
終わらない。
「旦那!」
「何だ!」
城壁の外では、破城槌の音が途切れない。
「東門が危ないと!」
「こっちもだ!」
冬真は城外へ視線を戻した。
「南門も!」
「知るか! 全部守れ!」
叫んでから、自分でも無茶な命令だと思った。
だが、他に言いようがなかった。
兵が足りない。
敵は多すぎる。
どこか一つへ援軍を回せば、別の場所が薄くなる。
王都を囲む城壁が、巨大な一枚の盾ではないことを、今ほど思い知らされたことはなかった。
「雪乃殿!」
伝令が駆けてくる。
「陛下より! 至急、中央指揮所へ!」
冬真は眉を寄せた。
「今か?」
「はい!」
城外を見る。
敵兵が押し寄せている。
離れたくない。
だが王が、この状況で自分を呼ぶ。
「三番隊長!」
「はっ!」
「ここを任せる!」
「承知!」
「死ぬなよ!」
「そちらこそ!」
冬真は城壁を駆け下りた。
◇
中央指揮所には、すでに蒼華がいた。
脇腹の傷は塞がっていない。
それでも傷の上から戦装束を整え、ここへ来ている。
「お前、その身体で何してる」
冬真を見るなり、蒼華は眉を上げた。
「あなたこそ、その顔どうしたの」
「かすり傷だ」
蒼華も自分の脇腹を指した。
「私も」
「お前のは刺し傷だろ」
「浅いわ」
「医師が寝てろって――」
伝令の足音が、怒号の中へ消えていく。
「夫婦喧嘩は後にしてくれ」
国王の声が割って入った。
二人が同時に口を閉じる。
「すまん」
「申し訳ありません」
王は地図の前に立っていた。
瑠璃もいる。
静。
朱。
軍務卿。
王妃と王子の姿だけがない。
もう、ここにはいない。
その事実を誰も口にしなかった。
瑠璃の顔は青白い。
それでも立っている。
「西は?」
「まだ持ちます」
冬真が答える。
「東は?」
「外門があとどれだけ耐えるか」
軍務卿が首を横に振る。
「南は市街地に潜伏していた反乱兵が呼応しています。城壁内でも戦闘が」
「北は」
「攻めが薄い」
王が地図を見る。
「逃げ道を残しているつもりか」
「追い出して狩るためでしょう」
蒼華が言った。
「あるいは、こちらが北へ兵を集めるのを待っている」
「どちらにせよ、誘われているな」
冬真が腕を組む。
瑠璃は黙って地図を見ていた。
赤い駒。
王都を囲む敵。
青い駒。
自分たち。
数が違いすぎる。
「……十倍」
瑠璃が呟いた。
国王が娘へ顔を向けた。
「何?」
「私たちの十倍以上、いるのですよね」
「そう見ていい」
父が答えた。
「援軍は?」
「一番近い部隊が街道で足止めされている」
「今日中には?」
「難しい」
「明日は?」
誰も答えない。
瑠璃は理解した。
援軍を待てば助かる。
昨日までは、そう思っていた。
その『待つ』時間すら、もう残されていない。
「父上」
「何だ」
瑠璃は父の顔を見上げた。
「勝てますか」
部屋が静まった。
国王は娘を見た。
嘘をつくこともできた。
大丈夫だ、と。
必ず勝てる、と。
けれど。
「分からない」
父はそう答えた。
瑠璃は目を伏せた。
「そうですか」
「怖いか」
瑠璃は父の顔を見上げた。
「はい」
迷わず答えた。
「私もだ」
「父上も?」
「ああ」
王が笑った。
疲れた笑顔だった。
「王だから怖くないわけではない」
瑠璃は、地下で母が弟へ言った言葉を思い出した。
王妃だって人間だもの。
父も同じだった。
自分も。
静も。
銀華の両親も。
皆、人間だ。
怖くても立っているだけだ。
「瑠璃」
「はい」
「これから私は前へ出る」
瑠璃の顔が上がった。
「駄目です」
「王が奥に隠れたままでは、兵が持たん」
「でも父上が出る必要は――」
「ある」
国王の手が、娘の肩に触れる。
「ありません!」
「瑠璃」
瑠璃は涙を拭わずに聞いていた。
「母上も、弟も……もう……」
声が崩れる。
「父上まで行かないでください」
国王は何も言わず、娘の前へ歩いた。
瑠璃の頬へ手を添える。
「すまない」
「嫌です」
「すまない」
「謝らないでください」
国王の手が、娘の肩に触れる。
「お前に、こんなものを残したくなかった」
「何を……」
瑠璃は涙を拭わずに聞いていた。
「国を」
瑠璃の呼吸が止まった。
「父上」
「聞け」
「嫌です」
「聞きなさい」
父の声が、王のものになった。
瑠璃は泣きながら父を見る。
「私に何かあれば、お前が蒼緑国を継げ」
「嫌です」
「瑠璃」
「私は王になりたくありません!」
国王の手が、娘の肩に触れる。
「知っている」
「父上がいればいい!」
瑠璃は涙を拭わずに聞いていた。
「ああ」
「帰ってきてください!」
父の言葉が、戦の音より近く響いた。
「ああ」
「なら、そんな話をしないで!」
国王は娘を抱きしめた。
「帰るつもりだ」
「……」
「だが、王は『つもり』だけで国を預けられない」
瑠璃は父の服を掴んだ。
「お前は優しい」
「……」
「その優しさを捨てるな」
「でも、私の優しさでは誰も救えませんでした」
国王の手が、娘の肩に触れる。
「違う」
「母上も、弟も!」
瑠璃は涙を拭わずに聞いていた。
「違う」
父は瑠璃の肩を掴んだ。
「お前の優しさが二人を殺したんじゃない」
瑠璃の目が揺れる。
「殺したのは、殺すことを選んだ者だ」
「……」
「そこを間違えるな」
瑠璃の涙が止まらない。
「ただし」
父は続けた。
「優しいだけでは守れないこともある」
瑠璃は唇を噛んだ。
「信じるだけでは止められない者もいる。言葉を聞く気のない者もいる。お前がどれほど手を伸ばしても、その手を斬ろうとする者もいる」
「……はい」
「だから、力を持て」
瑠璃の腰の剣を見る。
「人を支配するためではない」
「……」
「優しくあるために、守れる力を持て」
瑠璃は何度も頷いた。
「はい……」
「それから」
父が少し笑う。
「迷え」
「え?」
「前にも言っただろう」
あの日の朝。
まだ家族四人で食卓を囲んでいた。
父は言った。
迷え。考えろ。人の話を聞け。それでも最後は自分で決めろ。
「正しいと思い込むな。自分を疑え。人の言葉を聞け」
「はい」
「それでも決めなければならないときは」
父の手が瑠璃の頭へ乗る。
「決めろ」
「……はい」
「よし」
いつもの父の顔だった。
瑠璃はまた泣いた。
◇
国王が指揮所を出る。
瑠璃は追わなかった。
追えば、止めてしまうから。
扉が閉じる。
その音を聞いて。
膝から力が抜けた。
「瑠璃様!」
朱が支える。
「父上……」
静は扉を見ていた。
追うこともできる。
王を守るために。
だが自分は瑠璃を頼まれている。
まただ。
守りたい人間が複数いる。
それなのに、自分の身体は一つしかない。
剣がどれだけ強くても。
一度に二か所には立てない。
「静」
瑠璃が呼ぶ。
「何」
「父上を……」
言いかける。
静は待った。
「……いえ」
瑠璃が首を横に振る。
「ここにいてください」
「……ああ」
城壁の向こうで、また木材の割れる音がした。
「ごめんなさい」
「謝るな」
静は剣の柄を握った。
強く。
◇
王が前線へ姿を見せると、兵士たちの声が変わった。
「陛下だ!」
「陛下が来られた!」
疲れ切っていた兵が立ち上がる。
負傷した者まで剣を取ろうとする。
「寝ていろ!」
国王が怒鳴った。
「動ける者だけでいい! 死にかけまで立つな!」
兵たちから、わずかに笑いが漏れた。
「聞け!」
王が城壁の上から声を張る。
「我々が戦っている相手は、昨日まで同じ国に生きていた者たちだ!」
兵が静まる。
「憎めとは言わん!」
敵陣にも届くほどの声。
「だが、ここを通せば民が死ぬ! 家族が死ぬ! だから守れ!」
王が剣を抜く。
「生きて守れ! 生きて帰れ!」
歓声が上がった。
その直後。
東門が大きく軋んだ。
「来るぞ!」
破城槌。
もう一度。
門の木材が割れる。
「陛下を後ろへ!」
「断る!」
城壁の向こうで、また木材の割れる音がした。
「陛下!」
「私も兵だ!」
最後の一撃。
東門が破れた。
反乱軍が雪崩れ込む。
「迎え撃て!」
王国兵がぶつかった。
◇
その頃。
銀華の屋敷にも、戦の音が近づいていた。
「銀華様、地下へ!」
「嫌です」
城壁の向こうで、また木材の割れる音がした。
「命令です!」
「屋敷の人たちは?」
銀華は握っていた木剣へ目を落とした。
「我々が守ります!」
「なら私も――」
兵士の顔には、隠しきれない焦りがあった。
「旦那様から、何があっても銀華様を戦わせるなと!」
銀華が止まる。
「父様が?」
「はい!」
兵士の顔は必死だった。
「お願いします。私たちに命令を破らせないでください」
銀華は木剣を握っていた。
本物の剣も屋敷にはある。
使える。
自分は弱くない。
十四歳の中では、きっと強い。
けれど。
父は言った。
強いから戦わなければならないわけではない。
母も言った。
守るために、自分を壊してはいけない。
「……分かりました」
木剣を置く。
「地下へ行きます」
「ありがとうございます」
銀華は歩き出した。
その途中で、振り返る。
「父様と母様は、帰ってきますよね」
兵士は一瞬だけ黙った。
銀華はその沈黙を見た。
「……帰ってきますよね」
「はい」
兵士は答えた。
「必ず」
銀華は頷いた。
「はい」
信じた。
信じるしかなかった。
◇
東門を突破した反乱軍は、予想以上の速さで市街へ広がった。
だが王国軍も退かなかった。
路地を使う。
建物を盾にする。
大軍が一度に動けない場所へ誘い込む。
瑠璃が学んできた兵法書にもある、ごく基本的な戦い方だった。
しかし、紙の上で読むのと。
窓から実際に見るのとでは。
何もかもが違った。
「……あれが戦」
瑠璃は王城の高窓から市街を見ていた。
朱が隣にいる。
静は少し後ろ。
兵が走る。
人が倒れる。
煙。
悲鳴。
自分が軍議で動かしていた駒には、顔がなかった。
今は見える。
一人一人に顔がある。
「瑠璃様。見ない方が」
「見ます」
朱が瑠璃を見る。
「見なければいけません」
「……」
城壁の向こうで、また木材の割れる音がした。
「父上が、私に国を継げと言いました」
声が震える。
「なら、見ます」
怖い。
吐きそうになる。
それでも目を逸らさなかった。
「静」
「何」
瑠璃は市街図へ視線を落とした。
「東門から入った敵は、なぜ真っ直ぐ王城へ来ないのです?」
静が窓の外を見る。
「王国兵が止めてる」
「それだけ?」
瑠璃は市街図へ視線を落とした。
「何が言いたい」
「数では敵が圧倒しています。でも狭い道へ入って、動きが鈍っている」
朱も外を見る。
「確かに」
「なら」
瑠璃が机へ向かった。
地図を広げる。
王都の市街図。
何度も見た。
軍議でも学んだ。
「ここ」
指を置く。
「東門から王城へ来るなら大通りを使いたいはず。でも今、父上たちはここで止めています」
「そうだな」
「この二本の路地を封鎖すれば、もっと狭くできます」
朱が驚く。
「ですが、そこには家屋が」
「避難は?」
「ほぼ終わっています」
「なら荷車を倒して塞ぐ。完全に止めなくていい。敵の列を細くするだけ」
静が瑠璃を見る。
「誰に教わった」
「軍学の授業です」
「覚えてたのか」
「失礼ですね」
ほんの一瞬、瑠璃らしい顔が戻った。
だがすぐに地図へ戻る。
「ここへ弓兵を置けば、正面から戦う人数を減らせる」
「瑠璃様」
朱が息を呑む。
瑠璃自身も驚いていた。
頭の中で、学んだことがつながっていく。
敵の数。
道幅。
高低差。
兵の配置。
今まで試験のために覚えていたものではない。
今、そこで人が死んでいる。
一人でも減らすために使う。
「伝令を」
瑠璃が言った。
しかし、すぐに止まる。
「……いえ」
「どうした」
「私は指揮官ではありません」
父の言葉が蘇る。
正しいと思い込むな。
自分を疑え。
人の言葉を聞け。
「軍務卿に見せます」
静の目が少し変わった。
「それでいい」
瑠璃は地図を持って走った。
◇
「姫様の案ですか」
軍務卿は地図を見た。
「はい。ただ、間違っているかもしれません」
「……」
「見てください」
軍務卿が数秒考える。
「この路地は使えます。ただ、こちらを塞ぐと味方の退路も減ります」
「では一方だけ?」
「そうしましょう」
「弓兵は」
朱も地図を覗き込む。
「ここではなく、もう一つ後ろの建物へ。高さが取れます」
瑠璃が地図を見る。
「なるほど……」
「姫様」
「はい」
「よく見ておられます」
瑠璃は首を横に振った。
「まだ何もしていません」
「では、今からします」
軍務卿が伝令を呼ぶ。
命令が飛ぶ。
瑠璃はその様子を見ていた。
自分の考えが。
現実の兵を動かす。
怖かった。
もし間違えれば。
人が死ぬ。
「瑠璃様」
朱が隣に立つ。
「怖いです」
瑠璃は正直に言った。
「はい」
「私の言葉で、人が動きました」
「はい」
「間違っていたら」
「一人で決めてはいません」
瑠璃が朱を見る。
「軍務卿が確認しました。静様も見ました」
「……はい」
「瑠璃様は、考えたことを伝えただけです」
「それでも」
「それでも怖いなら」
朱が瑠璃の手を握った。
「私も一緒に怖がります」
瑠璃は少し笑った。
「変な慰め方ですね」
「すみません」
「いいえ」
握り返す。
「ありがとう」
◇
瑠璃の提案は、小さな効果を生んだ。
大軍の進行が鈍る。
王国兵が数で押し潰される速度が落ちる。
それだけだった。
戦況をひっくり返すほどではない。
だが。
「東地区、持ち直しました!」
報告が届く。
瑠璃は息を吐いた。
「よかった……」
「まだだ」
静が言う。
「はい」
瑠璃は頷く。
以前なら、静の言い方に少し腹を立てたかもしれない。
今は違った。
「次を見ます」
地図へ目を戻す。
静は何も言わない。
ただ、その横顔を見た。
◇
夕刻前。
国王は東地区の防衛線にいた。
「押せ!」
王自身が剣を振るう。
達人ではない。
静や雪乃夫妻のような剣ではない。
それでも長年鍛えてきた。
一人を受ける。
兵が横から倒す。
「陛下!」
「大丈夫だ!」
敵の攻撃が一瞬弱まる。
「今だ! 前へ!」
王国兵が押し返す。
そのとき。
屋根の上。
誰も気づいていなかった場所で。
一人の弓兵が弦を引いた。
狙いは一人。
国王。
矢が放たれる。
「陛下!」
兵士が叫ぶ。
遅い。
王が振り向く。
矢が胸へ刺さった。
「――っ」
身体が揺れる。
「陛下!」
二本目。
肩。
王が膝をつく。
「弓兵! 屋根だ!」
味方の矢が返る。
敵弓兵が落ちる。
だが。
「陛下! 陛下!」
王は地面へ倒れた。
◇
報告は、すぐには瑠璃へ届かなかった。
届かせられなかった。
王が倒れたと知られれば、兵が崩れる。
軍務卿は命じた。
「陛下の負傷は伏せろ」
「しかし姫様には」
寝台の周りで医師たちが手を動かし続けている。
「私が伝える」
王は王城へ運ばれた。
意識はある。
だが血が止まらない。
医師が傷を見る。
一本目の矢。
深い。
「抜くな」
王が言う。
「陛下」
「分かっている」
自分の身体だ。
分かる。
「瑠璃を」
「……」
寝台の周りで医師たちが手を動かし続けている。
「呼べ」
◇
瑠璃が部屋へ入ったとき。
父は寝台に横たわっていた。
「……父上?」
胸に矢。
血。
医師たち。
世界から音が消えた。
「父上」
歩く。
「父上?」
「瑠璃」
返事がある。
それだけで走った。
「抜いてください!」
医師を見る。
「早く!」
「姫様……」
「何をしているのです! 治してください!」
「瑠璃」
瑠璃は父の手を離さなかった。
「父上は黙っていてください!」
父が少し笑う。
「怒られたな」
「笑わないで!」
涙が落ちる。
「お願い……」
父の手を握る。
「母上も、弟も……父上までなんて……」
「瑠璃」
「嫌です」
「聞け」
瑠璃は父の手を離さなかった。
「嫌です!」
「……聞いてくれ」
声が弱い。
それが怖かった。
瑠璃は首を横に振りながら、父の手を握った。
「さっき話したことを」
「覚えています」
「そうか」
「だから、もう話さなくていいです」
「……そうだな」
父が目を閉じる。
「父上?」
「少し、疲れた」
「寝ないで」
「眠るだけだ」
「駄目です」
「瑠璃」
父の呼びかけに、瑠璃は顔を上げた。
その短い間にも、父の呼吸が遠く感じられた。
「はい」
「お前は」
息をする。
苦しそうに。
「お前のままで、いい」
瑠璃の顔が歪む。
「……分かりません」
「分からなくていい」
「私は、どうすれば」
「迷え」
また、その言葉。
「父上」
「それで……いい」
手から力が抜けていく。
「父上?」
返事がない。
「父上」
医師が目を伏せた。
「……父上?」
瑠璃は父の手を揺らした。
「起きてください」
返事はない。
「約束したでしょう」
朝食の席。
弟と城下へ行く約束。
父は笑っていた。
母も。
皆いた。
「帰ってくるって……」
父は言った。
帰るつもりだ、と。
「父上……」
瑠璃の喉から声が漏れた。
泣き声にもならない。
父の胸へ顔を伏せる。
「いや……」
十七歳の少女の声だった。
「いや……いや……」
王女でも。
聖女でもない。
ただの娘だった。
◇
静は部屋の外にいた。
中から瑠璃の声が聞こえる。
入れなかった。
剣を握る手が震えていた。
王妃。
王子。
王。
守れなかった。
「静」
蒼華が来た。
傷を押さえながら。
「……何」
「陛下は」
静は首を横に振った。
蒼華が目を閉じる。
「そう」
静は剣を握り締めた。
「私が行けば」
蒼華が遮った。
「駄目」
「でも」
「静」
蒼華が強く呼ぶ。
「あなたは一人しかいない」
「……」
「全部は守れない」
「分かってる」
「分かってない顔をしてる」
静が蒼華を見る。
「私がもっと強ければ」
「違う」
「もっと速ければ」
「違う」
「私が――」
「静!」
蒼華が静の頬を両手で挟んだ。
「あなたは剣じゃない」
静の目が揺れる。
「何でも斬れる剣になれば、全部救えると思わないで」
「……」
蒼華は瑠璃を抱いたまま離さなかった。
「そんなものにならなくていい」
静の唇が震えた。
「でも……」
「悔しいね」
蒼華の声が柔らかくなる。
「……ああ」
「悲しいね」
蒼華は瑠璃を抱いたまま離さなかった。
「……ああ」
「それでいいの」
静は目を閉じた。
涙は落ちなかった。
ただ、蒼華の手へ自分の手を重ねた。
◇
瑠璃が部屋から出てきたのは、しばらく後だった。
泣き腫らした目。
足取りは弱い。
朱が駆け寄る。
「瑠璃様」
瑠璃は何も言わなかった。
静を見る。
蒼華を見る。
「……父上が」
声が出ない。
蒼華は瑠璃を抱きしめた。
瑠璃の身体から力が抜ける。
「もう、いないんです」
「……うん」
「母上も」
「うん」
静は何も挟まず、瑠璃の声を聞いている。
「弟も」
「うん」
廊下の向こうを伝令が駆け抜けた。
「私だけ……」
「違う」
蒼華が瑠璃を強く抱く。
「一人じゃない」
「でも家族が……」
「家族は、いなくならない」
「いません!」
瑠璃が叫んだ。
「もう誰もいない!」
廊下に声が響く。
「帰ってこないんです!」
「……うん」
「触れない! 話せない! 笑ってくれない!」
「うん」
「それを、いなくなったって言うんです!」
「そうだね」
蒼華は否定しなかった。
瑠璃が泣く。
「どうして……」
答えはない。
「私、何も悪いことしてないのに……」
「うん」
「父上も、母上も、弟も……」
「うん」
「どうして……」
十七歳だった。
答えなど出せるはずがなかった。
大人でも出せない。
蒼華は、ただ抱いていた。
◇
そのとき。
遠くで歓声が上がった。
反乱軍のものだった。
王の死が、どこからか漏れた。
「国王は死んだ!」
「王は討ち取られた!」
城壁の外から声が響く。
王国兵がざわめく。
動揺が広がる。
「まずい」
静が顔を上げた。
伝令が走ってくる。
「姫様!」
瑠璃はまだ蒼華に抱かれている。
「軍務卿より! 兵が……兵が崩れ始めています!」
瑠璃の身体が固まった。
「陛下の死を敵が叫び、東地区で後退が!」
「……」
「姫様!」
返事ができない。
父が死んだ。
今すぐ泣きたい。
何もしたくない。
眠りたい。
全部夢だったことにしたい。
「瑠璃」
静が呼ぶ。
瑠璃は動かない。
「今は無理よ」
蒼華が言う。
「でも」
「十七歳の子よ」
「……」
「父親が死んだばかりなの」
静が拳を握る。
分かっている。
分かっているが。
外では兵が死んでいる。
瑠璃が顔を上げた。
「……行きます」
「瑠璃様?」
朱が驚く。
「行きます」
蒼華の腕から離れる。
足が震える。
「どこへ」
静が聞く。
「兵のところへ」
「駄目だ」
「行きます」
「今のお前じゃ」
「今の私しかいません!」
瑠璃が叫んだ。
静が止まる。
「父上が死んだなら……」
声が震える。
「私が……」
言えない。
王になる。
その言葉を口にすれば、本当に父がいなくなる気がした。
「私が、行かなければ」
腰の剣へ手を置く。
「瑠璃」
「静」
瑠璃は泣いていた。
「怖いです」
「ああ」
「行きたくありません」
「ああ」
「でも」
父の言葉。
決めろ。
「行きます」
静は長く瑠璃を見た。
そして。
「分かった」
剣を抜く。
「私が前に立つ」
「私もです」
朱も剣を握る。
蒼華は瑠璃を見る。
「私は?」
「怪我人は寝ていてください」
瑠璃が答えた。
蒼華が目を丸くする。
「……言うようになったわね」
「あなたにまで死なれたら、銀華に何と言えばいいのです」
その名を聞いて。
蒼華の表情が止まった。
銀華。
家で待っている娘。
「そうね」
小さく笑う。
「でも、ごめんなさい。今はまだ寝ていられない」
「銀華の母上」
「後ろにいるわ。無茶はしない」
静が睨む。
「信用できない」
「あなたに言われたくない」
ほんの一瞬だけ。
四人の間に、昔の日常の空気が戻った。
そして消えた。
「行きましょう」
瑠璃が歩き出した。
◇
王城前の広場。
負傷兵。
伝令。
後退してきた部隊。
誰もが疲れ切っていた。
「姫様だ」
誰かが気づく。
視線が集まる。
瑠璃の足が止まりそうになる。
何を言えばいい。
父のような言葉は出ない。
王らしい言葉など知らない。
静が半歩前にいる。
朱が後ろ。
蒼華もいる。
瑠璃は兵士たちを見た。
血まみれの男。
腕を吊った若者。
泣いている者。
震えている者。
自分と同じだ。
「父は」
声が詰まる。
兵が静まる。
「国王は……亡くなりました」
ざわめき。
瑠璃は続ける。
「母も。弟も」
声が震える。
「私は……今、皆さんに勇敢であれとは言えません」
兵たちが瑠璃を見る。
「私も怖いからです」
静がわずかに目を動かす。
「逃げたいです。泣いていたいです。どうしてこんなことになったのか、私には分かりません」
瑠璃は剣の柄を握った。
「でも」
涙を拭う。
「ここには、まだ生きている人がいます」
兵士を見る。
「皆さんにも、帰りたい場所があると思います」
冬真が言った言葉を、瑠璃は知らない。
それでも同じところへ辿り着いた。
「だから」
剣を抜く。
手は震えていた。
「私は戦います」
歓声は起きなかった。
誰もが聞いていた。
「憎いからではありません」
瑠璃は言った。
「殺したいからでもない」
父の声を思い出す。
憎めとは言わん。
「生きるために」
剣を胸の前へ。
「生きている人を守るために」
瑠璃は息を吸った。
「私も前へ立ちます」
静が瑠璃の横へ並ぶ。
静が短く答えた。
「私も」
朱も。
兵士の一人が剣を持ち直した。
もう一人。
また一人。
「姫様」
年老いた兵が言う。
「後ろにいてください」
瑠璃が彼を見る。
「嫌です」
「しかし」
兵たちの視線が瑠璃へ集まる。
「私だけ後ろにいて、皆さんに前へ行けとは言えません」
「……」
瑠璃は剣を握り直した。
「邪魔なら言ってください」
老兵が、少しだけ笑った。
老兵が瑠璃へ言った。
「なら、邪魔にならんところにいてください」
「努力します」
今度は、兵の間から笑いが漏れた。
小さな笑い。
それで十分だった。
◇
瑠璃が前線へ出たという報せは、王都中へ広がった。
王女が剣を取った。
国王が死んだ直後に。
兵の士気が戻る。
奇跡ではない。
数の差が消えたわけでもない。
傷が治るわけでもない。
ただ。
あと一歩だけ踏ん張る理由になった。
瑠璃は剣を振った。
初めて、人へ向けて。
敵兵が迫る。
怖い。
剣先が震える。
「瑠璃!」
静の声。
身体が動いた。
受ける。
父との稽古。
静との稽古。
何度も繰り返した型。
敵の剣を外へ流す。
踏み込む。
斬る。
肩口。
血が飛ぶ。
瑠璃の顔にかかった。
「……っ」
動きが止まる。
男が倒れる。
自分が斬った。
「瑠璃!」
次が来る。
静が間へ入る。
一閃。
敵の剣が飛ぶ。
「止まるな」
「でも、私……」
兵たちの視線が瑠璃へ集まる。
静が短く告げた。
「後で考えろ」
「……はい」
瑠璃は剣を握る。
手が滑る。
血で。
吐き気がした。
それでも立った。
強かった。
もともと剣の才がなかったわけではない。
王女として学んできた。
静にも鍛えられてきた。
軍学も学んだ。
ただ、それを命のやり取りの中で使ったことがなかっただけだ。
「左から三!」
瑠璃が叫ぶ。
「朱、後ろ!」
「はい!」
「弓兵、屋根!」
兵が動く。
瑠璃自身も動く。
考えるより早く。
学んだものが身体から出てくる。
それは覚醒などという美しいものではなかった。
怖くて。
悲しくて。
死にたくなくて。
それでも必要だから。
十七年間積み重ねてきたものを、必死に掴んでいるだけだった。
◇
「姫様、下がって!」
「まだ!」
「前に出すぎです!」
瑠璃が言い返す。
「静より後ろです!」
瑠璃は剣を握り直した。
「静様を基準にしないでください!」
朱が叫ぶ。
瑠璃が思わず応じた。
「それはそうですね!」
瑠璃が一歩下がる。
その横を静が通る。
「喋る余裕あるな」
「静が無茶をするからです!」
「してない」
「しています!」
剣戟の中で。
ほんの少しだけ、いつもの三人だった。
だから立てた。
◇
しかし。
夕暮れが近づく頃には、再び限界が見え始めた。
「東地区、後退!」
「南から新手!」
「西門も敵増援!」
報告が重なる。
瑠璃は地図を見る。
何度配置を変えても。
狭い道へ誘い込んでも。
交代させても。
敵は減らない。
こちらは減る。
「……足りない」
瑠璃が呟く。
軍務卿が黙る。
「兵が、足りない」
「はい」
「どうすれば」
答えがない。
静が剣の血を拭う。
朱も肩で息をしている。
蒼華は傷が開き、服にまた赤が滲んでいた。
「銀華の母上」
「見ないで」
「寝てください」
「今度こそそうする」
瑠璃は剣を握り直した。
「本当に?」
「たぶん」
静が睨む。
「絶対寝ろ」
「はいはい」
そこへ。
冬真が入ってきた。
「お前」
妻の脇腹を見る。
「また開いてるじゃねえか!」
「声が大きい」
「寝ろ!」
「静にも言われた」
瑠璃は剣を握り直した。
「なら寝ろ!」
「あなたまで」
静が半歩、瑠璃の前へ出る。
「当たり前だ!」
瑠璃は二人を見る。
そして。
父の鎧についた血を見る。
「西は?」
「厳しい」
笑わなかった。
「今夜持つかどうかだ」
部屋が静まる。
「……そうですか」
瑠璃は地図を見る。
今夜。
それが今の王都に残された時間。
冬真が地図へ近づく。
「一つ、手がある」
瑠璃が顔を上げる。
「何です?」
「敵の本陣を叩く」
軍務卿が眉を寄せた。
「無茶だ」
「無茶なのは知ってる」
地図の上で、北と西の駒が離れている。
「敵本陣は王都西方。ここから出れば包囲の中だぞ」
「だから正面からは行かない」
父が地図の北西を指す。
「北の攻めが薄い」
「誘いだと話したはずです」
「分かってる。だから、その誘いに乗ったふりをする」
瑠璃が地図を見る。
「北へ撤退すると見せる?」
「そうだ」
「敵が追撃へ動けば」
「西側の包囲が薄くなる」
瑠璃の目が動く。
「そこを別働隊が抜ける……」
冬真が頷いた。
「本陣まで行って、指揮系統を潰す」
軍務卿が首を横に振る。
「戻れんぞ」
「戻る」
「何人で」
「多すぎれば気づかれる。五百」
冬真は敵本陣を指したまま動かなかった。
「五百で三万の後ろへ回る気か」
「三万を倒すんじゃない」
父が本陣を指す。
「頭を潰す」
瑠璃は黙っていた。
軍学としては分かる。
敵の指揮を乱す。
数の優位を一時的に殺す。
だが。
「誰が行くのです」
答えは分かっていた。
「俺が行く」
「駄目です」
瑠璃は即答した。
「姫様」
「駄目です」
「他に適任がいない」
「でも」
「私も行くわ」
蒼華が言った。
「お前は寝ろ!」
「嫌」
「刺されてるんだぞ!」
「あなた一人じゃ心配」
「何が!」
「無茶するから」
蒼華の脇腹には、また赤が滲んでいる。
「お前に言われたくない!」
「二人とも!」
瑠璃の声が響く。
二人が止まる。
「……銀華は」
瑠璃が言った。
「銀華は、どうするのです」
蒼華の顔から笑みが消えた。
「待っています」
「……」
「十四歳の子が、一人で」
父も黙る。
「帰ると言ったのでしょう?」
「言った」
「なら、行かないでください」
瑠璃の声が震える。
「もう……誰かを待っている子を……」
弟の顔が浮かぶ。
「一人にしないで」
蒼華が瑠璃へ近づいた。
「瑠璃様」
「嫌です」
「聞いて」
「嫌です!」
「私たちは死にに行くんじゃない」
「父上もそう言いました!」
蒼華の言葉が止まる。
瑠璃は泣いていた。
「帰るつもりだって! でも帰ってこなかった!」
「……」
「だから嫌です!」
蒼華は瑠璃を見つめた。
やがて、静かに言う。
「それでも、行かなければ」
「……」
「銀華のいる王都が落ちる」
瑠璃の呼吸が止まった。
「私たちは銀華のためにも行くの」
「でも……」
「娘を一人にしたい親なんていない」
蒼華の声も震えていた。
「帰りたいに決まってる」
冬真が蒼華を見る。
「銀華の顔を見たい。ご飯を食べさせたい。剣の稽古もしたい。あの子がまた回数だけ増やしたら叱りたい」
笑おうとする。
できなかった。
「でも、あの子が生きる場所を残さなきゃ」
瑠璃は何も言えなかった。
静が蒼華を見る。
「私が行く」
「駄目」
「あなたは怪我してる」
「静」
「私なら本陣まで――」
「あなたは瑠璃様のそばにいるの」
蒼華の脇腹には、また赤が滲んでいる。
「でも」
「それがあなたの戦い」
静の顔が歪む。
「また、私だけ残るのか」
小さな声だった。
蒼華だけが聞き取った。
「そう」
「……」
「残って」
静の拳が震える。
「嫌だ」
「静」
「嫌だ」
十七歳の少女だった。
幼い頃。
剣しか見てもらえなかった自分を連れ出してくれた人。
食事をさせた。
眠らせた。
怪我をすれば怒った。
剣を持っていなくても価値があると言った。
その人が。
今、自分を置いて戦場へ行こうとしている。
「私も行く」
「駄目」
「守れる」
「知ってる」
「なら!」
「だから残って」
蒼華は静の頬へ触れた。
「瑠璃様を守れるのは、あなたよ」
「……」
「それから」
少しだけ笑う。
「もし私たちの帰りが遅くなったら」
「言うな」
「静」
「言うな!」
初めて。
静が怒鳴った。
部屋にいた全員が息を止めた。
蒼華は驚かなかった。
「分かった」
静の髪を撫でる。
「じゃあ言わない」
「……」
「帰ってから話す」
静は蒼華の手首を掴んだ。
強く。
「絶対だ」
「うん」
「帰ってこい」
「うん」
「二人とも」
父が苦笑する。
「俺もいるんだが」
静が父を見る。
「あなたも」
「おう」
「絶対に」
「分かった」
父が静の頭へ手を置こうとする。
静が避けた。
「おい」
「それは嫌」
「こいつ……」
蒼華が少し笑った。
瑠璃も。
涙のまま、ほんの少しだけ。
◇
作戦は決まった。
北門から、王都を捨てて撤退するように見せる。
負傷兵と避難民の一部を実際に北側へ移動させる。
反乱軍が追撃のため兵を動かした瞬間。
西側の小門から五百の別働隊が出る。
指揮するのは冬真。
蒼華も同行する。
敵本陣へ到達し。
指揮所を破壊する。
それが成功した瞬間、瑠璃たちが王都側から全軍で押し返す。
賭けだった。
一つでも狂えば終わる。
「瑠璃様」
軍務卿が尋ねる。
「決断を」
瑠璃は地図を見た。
自分が決める。
父はいない。
母も。
弟も。
誰も代わってくれない。
五百人を。
銀華の両親を。
敵の本陣へ送り込む。
死ぬかもしれない場所へ。
嫌だった。
正しくないと思った。
それでも。
他に道が見えない。
父の言葉が聞こえる。
迷え。
考えろ。
人の話を聞け。
それでも最後は自分で決めろ。
瑠璃は目を閉じた。
そして開いた。
「……実行します」
声は震えていた。
「私が、命じます」
冬真が頭を下げる。
蒼華も。
「必ず」
瑠璃は二人を見る。
「必ず帰ってきてください」
「はい」
蒼華が答える。
「約束します」
瑠璃は、その言葉を信じたかった。
◇
出撃まで、半刻。
冬真は小さな紙を前にしていた。
「何を書いてるの」
妻が隣へ座る。
「銀華に」
「遺書?」
「縁起でもないこと言うな」
「じゃあ何」
出撃までの時間だけが減っていく。
「帰るのが遅れたときの手紙だ」
「同じじゃない」
冬真は書きかけの紙へ視線を落とした。
「違う」
筆が止まる。
何を書けばいい。
元気でいろ。
剣ばかり振るな。
母さんの言うことを聞け。
飯を食え。
よく寝ろ。
全部、最後の言葉みたいになる。
「書けない」
父が筆を置いた。
「なら書かなくていいわ」
「でも」
「帰って自分で言えばいい」
「……そうだな」
紙を折る。
何も書かれていない紙。
蒼華が冬真の肩へ頭を預ける。
「怖い?」
「怖い」
「私も」
「お前は残れ」
「まだ言う?」
「言う」
「嫌」
「銀華がいる」
蒼華は夫の隣に座った。
「だから一緒に行く」
「意味分からん」
「あなた一人で死なれたら困るもの」
「二人で死んだらもっと困るだろ」
「死なない」
「……」
「二人で帰る」
冬真が蒼華を見る。
「約束だぞ」
「うん」
二人は手を握った。
◇
北門が開いた。
王都から人が出る。
負傷兵。
荷車。
避難民。
反乱軍の物見が動く。
「逃げるぞ!」
「王都を捨てた!」
敵陣に声が走る。
兵が北へ動き始める。
一千。
二千。
さらに。
西側の包囲が薄くなる。
王城の高所から、瑠璃がそれを見ていた。
「まだ」
軍務卿が言う。
軍務卿が敵の動きを見極める。
「まだです」
瑠璃は頷く。
手が汗で濡れている。
静が隣にいる。
「まだ」
敵が動く。
「まだ」
さらに北へ。
西の陣が割れる。
「今です」
瑠璃が言った。
旗が振られる。
西側の小門が開いた。
五百の兵が飛び出す。
先頭に。
冬真。
そのすぐ横に、蒼華。
小さな軍勢が。
数万の敵の隙間へ。
刃のように走り込んでいく。
静は、その姿が見えなくなるまで見ていた。
瑠璃も。
「……帰ってきて」
誰の声だったのか。
二人とも分からなかった。
* * *




