番外編④ 王家の終焉
十年前の蒼緑国を描く番外編、第4話です。
王都を襲う反乱の炎。
守るべきものを前に、それぞれが決断を迫られていきます。
崩れゆく王国で、彼らが何を守ろうとしたのか。
どうぞ最後までお付き合いください。
正午まで、あと三刻。
王都の鐘楼は沈黙していた。
時を告げる鐘さえ、今は敵にこちらの動きを知らせるかもしれない。
城壁の外には反乱軍。
城壁の内側には、避難してきた民。
そのさらに中央にある王城で、紅蒼瑠璃は地図を見つめていた。
地図の端に、小さな村の名がある。
反乱軍が、最初に焼くと告げてきた村。
「救援隊は?」
「一刻前に出ました」
軍務卿が答える。
「間に合いますか」
「……分かりません」
その言葉が、今は何より怖かった。
分からない。
昨日までなら、それは可能性が残っている言葉だった。
今は違う。
悪い知らせが届くまでの空白に聞こえる。
「私が行けば」
「瑠璃」
国王の声が飛ぶ。
「……分かっています」
国王の視線は地図から動かなかった。
瑠璃は唇を噛んだ。
「もう、言いません」
静は壁際に立っている。
蒼華は医務室。
深手ではないとはいえ、まだ動かすべきではない。
冬真は西門へ戻った。
王妃と弟は、国王の命令で王城最奥へ移されている。
家族は全員、生きている。
だからまだ大丈夫だと、瑠璃は思いたかった。
◇
王都の外れ。
刹那の村では、男たちが街道へ土嚢を積んでいた。
土嚢と呼べるほど立派なものではない。
穀物袋へ土を詰め、荷車を横倒しにして道を塞いだだけだった。
「これで兵隊を止められるの?」
刹那が尋ねる。
父は振り返らなかった。
「家へ戻ってろ」
「でも」
父は土嚢の向こうへ視線を戻した。
「母さんと一緒にいなさい」
いつもより強い声だった。
刹那は黙る。
「……お父さんは?」
「すぐ戻る」
刹那は父の横顔を見上げた。
「本当?」
「ああ」
父がようやく振り返った。
笑った。
その笑顔を見て、刹那も少しだけ笑った。
「じゃあ、待ってる」
「おう」
走っていく娘の背中を、父は長く見ていた。
村の外から、馬の蹄の音が聞こえ始めていた。
◇
「見えた!」
王国軍の救援隊が丘を越える。
先頭の兵が村を指した。
煙は、まだ上がっていない。
「間に合ったぞ!」
誰かが叫ぶ。
だが次の瞬間。
林の両側から矢が飛んだ。
「伏せろ!」
馬が倒れる。
兵が落ちる。
「待ち伏せだ!」
左右の森から領軍が現れる。
救援隊長は歯を食いしばった。
敵はこちらが来ることを知っていた。
いや。
来ることを前提に待っていた。
「村へ抜けろ!」
「ですが!」
「ここで止まれば村が焼かれる!」
盾を並べる。
矢を受けながら前へ進む。
村までは、もう見えている。
あと少しだった。
◇
刹那は母と、街道から離れた家の奥にいた。
外が騒がしい。
怒鳴り声。
馬。
何かが割れる音。
「お母さん」
「ここにいなさい」
街道の先で鳥が一斉に飛び立った。
「お父さんは?」
「大丈夫」
母が刹那を抱きしめる。
「絶対、外へ出ちゃ駄目」
「でも――」
「刹那」
母の手が震えている。
刹那は初めて気づいた。
母も怖いのだ。
「……うん」
外で悲鳴が上がった。
刹那の身体が跳ねる。
母がさらに強く抱きしめる。
家の前を誰かが走った。
「逃げろ!」
村人の声。
「兵が入ったぞ!」
扉が激しく叩かれた。
「開けろ!」
母が刹那を離す。
「裏から逃げるよ」
「お父さんは?」
「後で会える」
「一緒じゃないの?」
「後で!」
母が刹那の手を引く。
母は街道を避け、家の裏手から畑へ抜けようとした。
裏口を開ける。
煙の匂いがした。
隣家の屋根から火が上がっている。
「走って!」
二人は畑の脇を走り、家々の裏を抜けた。
刹那は何度も振り返った。
父を探した。
見つからない。
「お父さん!」
「呼ばないで!」
蹄の音が、さっきよりはっきり聞こえる。
「でも!」
燃える家の間を抜けた先で、母が急に足を緩めた。
刹那はその視線の先を追った。
道の向こう。
一人の男が倒れていた。
見慣れた上着。
刹那の足が止まる。
「……お父さん?」
母が刹那の顔を自分の胸へ押しつけた。
「見ないで」
「お父さん!」
刹那は返事を待った。
「見ちゃ駄目!」
刹那が暴れる。
「離して! お父さんが!」
「刹那!」
母の声が震えた。
「お願いだから……!」
その声に、刹那は動けなくなった。
母は泣いていた。
初めて見た。
泣いている母を。
次の瞬間、近くに矢が刺さった。
「走るよ!」
二人は再び走った。
母は刹那の手を握り直し、村の北側へ向かった。
街道には戻れない。畑沿いの細道を進むと、逃げ惑う村人たちの声が近づいてきた。
◇
王城。
「救援隊が待ち伏せを受けました!」
伝令の声が響いた。
瑠璃が立ち上がる。
「村は!」
「現在、交戦中!」
地図の上の小さな村名から、瑠璃は目を離せなかった。
「村民は!」
「確認できません!」
瑠璃の手が震える。
「追加の兵を」
「出せない」
国王が言った。
「父上!」
「西門が押されている。東でも攻撃が始まった」
瑠璃の指が、村を示す文字の手前で止まった。
「でも、あと少しなら!」
「出せない」
伝令の荒い息だけが指揮所に残る。
「村の人が死にます!」
「分かっている!」
国王の拳が机へ落ちる。
瑠璃は息を止めた。
国王の目が赤い。
眠っていないからだけではない。
「……すまない」
国王が呟く。
「お前に怒鳴ることではなかった」
「父上……」
地図の一点が、今はひどく遠く感じられた。
「だが、出せない」
瑠璃は地図を見る。
小さな点。
名前だけの村。
そこに何人いるのかも知らない。
どんな家族がいるのかも。
昨日までなら、いつか訪ねてみたいと思ったかもしれない。
今は、その人たちが自分のために殺されようとしている。
「私のせいですか」
「違う」
軍務卿の報告書が机へ置かれる。
「私を渡せと言われたから」
「違う」
伝令は報告を終えると、壁際へ下がった。
「でも――」
「殺す者が悪い」
国王は娘をまっすぐ見た。
「脅す者が悪い。お前が生きていることは罪ではない」
「……」
瑠璃は村までの街道を目で追った。
「それだけは間違えるな」
瑠璃は答えられなかった。
◇
村では、救援隊がようやく入口へ到達した。
「民を北へ逃がせ!」
「道を作れ!」
王国兵が領軍とぶつかる。
村人たちが走る。
火は三軒、四軒へ燃え移っていた。
家々の裏から北へ回り込んだ刹那と母も、避難する村人の列に合流した。
「こっちだ!」
王国兵が叫ぶ。
「森へ! 北の森へ逃げろ!」
「お母さん、北の森ってどっち?」
刹那が人垣の向こうを見ようとすると、母が握る手に力を込めた。
「兵隊さんの言う方よ。私から離れないで」
母の声は落ち着いていたが、足取りは速かった。
「手を離さないで!」
「うん!」
刹那は強く握った。
絶対に離さない。
そう思った。
北へ向かう細い道に、別の路地から逃げてきた人々がなだれ込んだ。
道幅は二人が並んで歩くのがやっとだった。
人波が押し寄せる。
背後から押された男が、刹那の肩にぶつかった。
刹那の身体がよろける。
手が滑った。
「お母さん!」
「刹那!」
母が手を伸ばす。
ほんの一歩の距離だった。
二人の間に人が入った。
「お母さん!」
「刹那、こっち!」
手を伸ばす。
届かない。
そのとき、列の後ろから逃げ込んできた馬が暴れた。
悲鳴。
人々が一斉に脇へ逃げ、刹那の前を塞いだ。
刹那は地面へ倒れた。
誰かの足が横を通る。
頭を守る。
「お母さん!」
返事がない。
顔を上げる。
煙。
人。
炎。
母がいない。
「お母さん!」
立ち上がる。
走る。
「お母さん!」
声が枯れるまで呼んだ。
返事はなかった。
北の森へ続く道は人で埋まり、刹那は母の姿を探して何度も背伸びをした。
押し寄せる人波に逆らって母を探すうち、刹那は避難の列から外れた。気づけば北の森ではなく、燃える家並みへ戻っていた。
◇
反乱軍本陣。地図を囲む領主たちの奥に、作戦を指示する男が座っていた。
「村は?」
「救援隊が入りました」
奥の男が、報告を聞き終える前に命じた。
「焼け」
報告に来た領軍の将校が言い淀む。
「しかし、こちらの兵も」
将校は泥のついた軍靴を揃えたまま、命令の続きを待った。
「構わん」
領主の顔が引きつる。
地図のそばにいた領主が、思わず声を漏らす。
「味方ごとか」
奥の男は領主の顔も見ずに答えた。
「王都から見える程度に煙が上がればいい」
扉の外を伝令が駆け抜けた。
「……」
「何だ」
「いや」
領主は目を逸らした。
ここまで来た。
王家を倒す。
自分が国を握る。
そう決めたはずだった。
だが、いつからだ。
自分の兵まで、駒のように捨てる話になった。
「次の段階へ移る」
奥にいる男が言う。
「王都内の残りは?」
「王都内に潜ませた兵は、配置を終えています」
「今夜だ」
男の合図を受け、将校は伝令へ命令を渡した。
「王城へ入れるのか」
先ほどから黙っていた領主が、奥の男に問いかけた。
扉の外では、次の伝令が待っていた。
「正面から入る必要はない」
男は地図の一点を指した。
「王を外へ出す」
奥の男は地図の城門ではなく、城の地下へ伸びる細い線を指でなぞった。
「騒ぎを起こして王の目を外へ向ける。その間に、内側から門を開けさせる」
領主は地下へ通じる搬入口の印を見つめ、ようやく作戦の意味を悟った。
◇
夕刻。
王都の城壁から、遠くに黒い煙が見えた。
瑠璃も見ていた。
「……あれが」
誰も答えない。
「村ですか」
静が隣にいる。
「たぶん」
「救援隊は」
黒い煙は、遠くの空でゆっくり形を変えていた。
「まだ報告がない」
瑠璃は手すりを握った。
指が白くなる。
「私が行けばよかった」
「違う」
煙の根元は城壁からでは見えなかった。
「でも」
「違う」
静の声は強かった。
「お前が行っても、あいつらは止めない」
「どうして分かるの」
風向きが変わり、煙が横へ長く伸びる。
「止める人間なら、最初から村を脅さない」
「……」
瑠璃の手が城壁の手すりを強く掴む。
「お前を殺して、次を焼く」
瑠璃は煙を見る。
「そんな人が、本当にいるのですね」
「ああ」
瑠璃は手すりから指を離せなかった。
「話しても?」
「話す前に斬る人間もいる」
瑠璃は一度、握り締めた指を緩めた。
「それでも私は……」
瑠璃は言葉を止めた。
静が待つ。
「それでも、話せるなら話したい」
「ああ」
城壁の下で兵の交代を告げる声がする。
瑠璃は自分の言葉に、困ったように笑った。
「私、馬鹿でしょうか」
「少し」
石の手すりの冷たさだけが掌に残る。
「静」
「でも、お前だ」
瑠璃が静を見る。
「変えなくていいところまで変えるな」
「……分かりません」
静は瑠璃の返事を急かさない。
「今はそれでいい」
瑠璃はまた煙を見た。
優しさを捨てたくない。
けれど、優しいだけでは守れない。
その二つが初めて、瑠璃の中でぶつかっていた。
◇
日没後。
蒼華は医務室の寝台から起き上がった。
「どこへ行く」
静が入口に立っている。
「戻るの」
「寝ろ」
廊下の向こうから、負傷兵のうめき声が聞こえた。
「もう十分寝たわ」
「傷が開く」
蒼華は静の視線を受け止めた。
「塞がってる」
静は蒼華の脇腹に目をやり、傷が開いていないか確かめた。
「あなた、本当にそればっかりね」
「寝ろ」
「静」
蒼華は少し笑った。
「今、王城にどれだけ兵が残ってる?」
「……」
蒼華は一度、深く息を吸った。
「答えられないくらい少ないでしょう」
「だからといって、怪我人を戦場へ出すわけにはいかない」
「私は怪我人である前に、銀華の母親よ」
「母親でも、怪我は怪我だ」
「だからこそ、銀華のいる場所を守りたいの」
静が眉を寄せる。
「私が守る」
静は蒼華の行く手を塞いだまま、首を振った。
「あなた一人で全部は守れない」
蒼華は身体を支えるように寝台へ手をついた。
「ね?」
静が黙る。
蒼華は立ち上がる。
痛みで一瞬、顔が歪んだ。
静が支える。
「ほら、立つだけでも痛むだろう」
静の声はいつもより低かった。
「……少し動いただけよ」
窓から入る夜風が蒼華の髪を揺らす。
「寝ろ」
静は何も言わず、蒼華のすぐ隣に残った。
「そんなに無理をするな。子供か」
「あなたにだけは言われたくないわ」
二人はしばらく睨み合った。
やがて静が息を吐く。
「分かった」
「はいはい。無理はしないわ」
蒼華は寝台へ腰を下ろしたものの、まだ納得した顔ではなかった。
「分かったなら、ちゃんと休んで」
「はいはい、分かりました。静様」
蒼華がまた立ち上がらないよう、静は寝台の脇に立った。
「……馬鹿にしてる」
「少しね」
静は不満そうだった。
それでも静は、蒼華の腕を離さなかった。
◇
銀華の屋敷へ、一通の短い手紙が届いた。
母からだった。
『銀華へ。
父様も母様も無事です。
剣は百回まで。
静に言いつけます。
母より』
銀華は何度も読んだ。
「……百回まで」
少し笑う。
でも泣かなかった。
手紙を胸へ抱く。
それだけでよかった。
今は。
◇
深夜。
王都の北門で火が上がった。
「火事だ!」
兵が走る。
続いて東側でも鐘が鳴る。
「まだ残っていたのか!」
王城の指揮所が騒然となる。
「陛下! 北門の兵糧庫が!」
「消火を!」
指揮所へ次々と伝令が飛び込んでくる。
「東の避難区画でも騒ぎが!」
「守備隊を二百回せ!」
国王が命令を飛ばす。
「西門は?」
「敵が動き始めました!」
新しい報告が机の上へ重ねられる。
「同時か」
西門から戻ったばかりの冬真が、地図を睨んだ。
「やっぱり狙ってやがった」
冬真は西門の状況を報告すると、再び持ち場へ戻る支度を始めた。
「陛下」
軍務卿が言う。
「指揮所を移すべきです」
「どこへ」
廊下では伝令同士の声が飛び交っている。
「内郭へ」
「ここを捨てれば兵に動揺が出る」
地図の上で、北門と東区画に新しい印が置かれた。
「ですが」
「私は残る」
国王は報告を聞きながら即座に駒を動かす。
「父上」
瑠璃が立ち上がる。
「お前は母と弟のところへ」
「嫌です」
「瑠璃」
「私も残ります」
軍務卿が北門の駒を内側へ動かす。
「駄目だ」
「王女だから守られるだけではいられないと、父上が言いました」
国王は報告の途中で次の指示を出した。
「今は別だ」
「同じです」
瑠璃は国王の横顔を見たが、引き下がれなかった。
「瑠璃!」
「父上!」
視線がぶつかる。
静が二人を見る。
「私がいる」
国王が静を見る。
「瑠璃は死なせない」
「静」
北門からの報告に続き、東からも兵が来る。
「約束する」
国王は長く黙った。
「……分かった」
瑠璃が息を吐く。
「ただし、私のそばを離れるな」
「はい」
国王は一つずつ命令を返していく。
「静の言うことを聞け」
「……はい」
国王は地図から目を離し、瑠璃の返事を待った。
「今の間は何だ」
「何でもありません」
国王がほんの少し笑った。
瑠璃も笑った。
その笑顔が。
父娘が交わす最後の笑顔になるとは、どちらも知らなかった。
◇
北門の火は囮だった。
東の騒ぎも。
西門への攻撃さえ。
本当の狙いは、王城の地下だった。
かつて王妃と王子が連れ出された古い搬入口。
奪還されたあと、王国軍は当然そこを封鎖した。
石を積み、兵も置いた。
だが。
「交代だ」
夜半。
見張りの兵へ、王国軍の鎧を着た男たちが近づいた。
「早いな」
「上が混乱してる。配置変更だ」
「命令書は?」
紙が差し出される。
印章がある。
本物だった。
少なくとも、見張りにはそう見えた。
見張りが持ち場を離れると、交代を装った男たちは鎧の下から工具を取り出した。
積まれた石を音を殺して外し、地下搬入口の隙間から一人ずつ潜り込む。
地下の荷運び用通路は、城内の倉庫を経て内郭南門の裏手へ続いていた。
「分かった」
兵が持ち場を離れる。
男たちは見送った。
そして。
石を一つずつ外し始めた。
◇
「瑠璃様」
朱が小さく呼んだ。
「何です?」
「少しお休みになってください」
指揮所の中央では国王が報告を受け続け、壁際にいる瑠璃たちにも休む余裕はなかった。
「眠れません」
「目を閉じるだけでも」
火災箇所を示す印が地図の二か所へ置かれる。
「朱は?」
「私は平気です」
「私も平気です」
「同じことを言わないでください」
瑠璃が少し笑う。
「では、一緒に休みましょうか」
「はい」
壁際に並んで座る。
静は少し離れて立っている。
「静も」
「私はいい」
また扉が開き、泥だらけの兵が入ってくる。
「眠るつもりはない」
静は壁から離れず、廊下の物音に耳を澄ませた。
「どうして」
静は廊下へ通じる扉に視線を向けた。
「見張る」
静は瑠璃の方を向かず、扉の前に立ち続けた。
「それなら、私も起きていたい」
瑠璃は静の頑固さに小さく息を吐いた。
「頑固ですね」
「知ってる」
それでも瑠璃は、壁に背を預けて目を閉じた。
ほんの少しだけ。
家族の食卓を思い出した。
弟が蜂蜜を塗りすぎて母に注意される。
父が笑う。
自分も笑う。
明日、城下へ行く約束をした。
まだ果たしていない。
「……明日」
「何?」
朱が隣から瑠璃の顔を覗き込む。
「何でもありません」
明日になれば。
きっと。
◇
その頃。
王妃は弟王子とともに、王城最奥の部屋にいた。
「姉上は?」
「お父様と一緒よ」
王妃は息子の肩を抱き寄せた。
「僕も行きたい」
「駄目」
王子は不満そうに唇を尖らせる。
「でも僕も王子です」
「だからここにいるの」
扉の外を、護衛の足音が一度通り過ぎた。
「姉上はいるのに」
「瑠璃はもう大人に近いもの」
母子の間にだけ、戦の前と同じ空気が少し戻る。
「三つしか違わない」
「三つは大きいわ」
王子が不満そうにする。
王妃は笑った。
「戦が終わったら、姉上と城下へ行くのでしょう?」
「はい。約束しました」
王子は母の袖を握った。
「なら、その約束を守ってもらわないとね」
「姉上、忘れてました」
王子は納得できない顔で母を見上げた。
「もう一度約束したのでしょう?」
「はい」
「なら大丈夫」
王妃が息子の頭を撫でる。
扉の外で、小さな音がした。
「何かしら」
護衛兵が振り返る。
「確認します」
扉を開ける。
廊下には誰もいない。
「……?」
兵が一歩出る。
暗がりから刃が伸びた。
護衛が声を上げるより先に、背後から別の男たちが押し入った。
王妃は王子を抱き寄せ、部屋の奥へ下がる。
「その子に触れないで!」
だが、退路を塞がれた母子は、刃を突きつけられたまま中庭へ連れ出された。
◇
同時刻。
王城の中央で、静が目を開いた。
眠ってはいない。
ただ。
何かを感じた。
「静?」
瑠璃が顔を上げる。
「どうしたの」
「……分からない」
静は剣へ手をかける。
「嫌な感じがする」
瑠璃の心臓が跳ねた。
静がその言葉を口にしたのは、反乱が始まる前と同じだった。
「どこ?」
「分からない」
その瞬間。
遠くで。
短い悲鳴が聞こえた。
静が走り出す。
「瑠璃、ここにいろ!」
瑠璃がその背中を呼び止める。
「静!」
静は振り返らず、朱に声をかけた。
「朱!」
「はい!」
「瑠璃から離れるな!」
白い髪が廊下の向こうへ消える。
瑠璃は立ち上がった。
「今の声……」
聞き覚えがあった。
気のせいだ。
そう思いたかった。
「母上……?」
◇
静が最奥区画へ駆け込んだとき。
護衛兵は倒れていた。
まだ息はある。
「王妃は!」
兵が震える指で奥を指す。
「つ……れて……」
「どこへ!」
「中庭……」
静は走る。
途中で反乱兵が二人現れる。
止まらない。
一人目の剣を弾く。
二人目の膝を蹴る。
峰で首筋を打つ。
倒れる。
さらに走る。
中庭へ出る。
月明かり。
王妃と王子がいた。
周囲に十数人。
王妃の首元に刃がある。
「止まれ!」
静が止まる。
「剣を捨てろ」
「……」
王妃は扉の方へ一度だけ目を向けた。
「捨てろ!」
王子が泣いている。
王妃は震えながら息子を背に庇っている。
「静!」
「王妃」
「瑠璃を守って!」
「黙れ!」
反乱兵が王妃を押す。
静の目が冷たくなる。
「触るな」
「剣を捨てろ!」
静は動かない。
十数人。
距離。
王妃。
王子。
自分なら斬れる。
何人かは。
だが、その間に二人が殺される。
「静」
王妃がもう一度呼ぶ。
「お願い」
「……」
王妃の手が息子の髪を撫でた。
「瑠璃を」
静の指が震える。
剣を捨てた。
乾いた音が、中庭に響いた。
◇
それは、罠だった。
静を瑠璃から離すための。
同じ頃。
中央指揮所へ続く廊下で、王国兵の一団が走っていた。
「西門より緊急報告!」
先頭の男が叫ぶ。
見張りが道を開ける。
「通れ!」
男たちは指揮所へ近づく。
扉まで十歩。
五歩。
三歩。
冬真は西門にいる。
静は中庭。
蒼華は医務室を出たばかり。
王国でも最も強い三人が。
その瞬間だけ。
王のそばにいなかった。
「報告を!」
扉が開く。
男が入る。
国王が振り返る。
「西門がどうした」
「陛下」
男は頭を下げた。
そして。
懐から短剣を抜いた。
◇
「父上!」
瑠璃の声。
国王が身体を捻る。
短剣が肩へ刺さる。
「ぐっ!」
「陛下!」
護衛が動く。
同時に、後ろの兵たちも剣を抜いた。
味方ではない。
「瑠璃様を!」
朱が瑠璃の前へ出る。
剣を抜く。
「下がってください!」
「父上!」
「瑠璃! 下がれ!」
国王が刺さった短剣を抜く。
血が流れる。
それでも剣を取った。
「王を殺せ!」
指揮所が戦場になる。
机が倒れる。
地図が床へ落ちる。
駒が散る。
瑠璃は動けなかった。
父が剣を振っている。
重臣が倒れる。
護衛が敵を押し返す。
「瑠璃様!」
朱が敵の刃を受ける。
「動いて!」
「でも父上が!」
朱は瑠璃を庇う位置を崩さない。
「陛下が逃がそうとしてるんです!」
瑠璃の腕を掴む。
「嫌!」
「瑠璃!」
父の声が響く。
瑠璃が振り返る。
「行け!」
「父上!」
瑠璃の前で、朱の剣先がわずかに上がる。
「行け!!」
初めて聞くほど強い声。
朱が瑠璃を引く。
「嫌です!」
「瑠璃様!」
朱は背後の瑠璃を確かめる余裕もなかった。
「父上!」
扉が閉じる。
最後に見えたのは。
血を流しながら剣を構える父の姿だった。
◇
蒼華が異変を知ったのは、廊下へ出てすぐだった。
「中央指揮所が襲撃!」
「何ですって!」
「王妃様と王子様も!」
蒼華の顔が変わる。
「静は!」
「王妃様の方へ!」
「……やられた」
傷の痛みを忘れて走る。
「奥方様!」
「ついてきて!」
脇腹が痛む。
無視する。
走る。
角を曲がる。
血。
倒れた兵。
中央指揮所。
扉が開いている。
「陛下!」
中へ。
国王はまだ立っていた。
敵は三人残っている。
護衛もほとんど倒れている。
「遅いぞ」
王が笑った。
「笑ってる場合ですか!」
蒼華は倒れた護衛のそばへ踏み込む。
一人目の懐へ入り、体勢を崩す。
二人。
傷が開く。
服の下を血が伝う。
それでも止まらない。
三人目は国王が倒す。
静かになった。
「瑠璃は?」
「朱が連れていった」
「よかった」
「妻と息子が」
短剣の刺さった肩から、国王の血が落ちる。
「静が向かっています」
「ああ」
国王が壁へ手をつく。
「陛下」
「大丈夫だ」
「全然大丈夫に見えません」
「お互い様だろう」
蒼華が自分の脇腹を見る。
「……確かに」
国王が笑う。
次の瞬間。
外から大きな音がした。
王城の一角が揺れる。
「何?」
兵が駆け込む。
「陛下! 内郭南門が破られました!」
「敵が城内へ!」
国王の顔から笑みが消えた。
◇
中庭。
中庭では、静が剣を捨てたまま、王妃と王子を見ていた。
「静様、こちらへ」
「動くな」
「では王妃を」
刃が首へ近づく。
静が一歩進む。
「止まれ!」
止まる。
「静」
王妃が言った。
「私たちはいい」
「よくない」
「瑠璃を」
「全員守る」
「無理よ」
「守る」
「静!」
王妃の声が強くなる。
「あなた一人で全部を背負わないで!」
静の目が揺れる。
どこかで聞いた言葉だった。
剣を持っていないあなたにも価値がある。
剣だけの人になってはいけない。
蒼華の声。
静は息を吸った。
「……分かった」
反乱兵が笑う。
「ようやく――」
「だから」
静の身体が沈む。
「一人ではやらない」
矢が飛んだ。
反乱兵の肩へ刺さる。
「何!」
中庭上部の回廊。
王国兵が並んでいる。
静が時間を稼いでいる間に、別方向から回り込んでいた。
「今!」
静が地面の剣を蹴り上げる。
掴む。
一気に間合いを詰める。
王妃へ刃を向けていた男の腕を斬る。
「王妃を!」
王国兵が飛び込む。
「王子も!」
静は二人の前へ立つ。
敵が押し寄せる。
王妃が静を呼んだ。
「静!」
静は王妃と王子を庇い、護衛兵へ叫んだ。
「下がれ!」
剣を振る。
もう迷わない。
回廊から降りてきた王国兵が王妃と王子の両脇を固めた。静は二人の無事を確かめ、先頭に立って北棟へ退いた。
そこならまだ王国兵の守る通路が残っている。
だが内郭の門が破られ、敵が城内へ流れ込んだことを、静はまだ知らなかった。
◇
王城の内郭へ、反乱軍が雪崩れ込んだ。
地下搬入口から荷運び用通路を抜けた反乱兵が、内郭南門の裏手へ回り、見張りを背後から襲って閂を外したのだ。
王国兵が迎え撃つ。
数が違う。
廊下。
庭。
階段。
至るところで戦いが始まる。
瑠璃は朱に手を引かれて走っていた。
「どこへ!」
「東塔です!」
「父上のところへ戻ります!」
「駄目です!」
「朱!」
「駄目!」
朱が初めて瑠璃へ怒鳴った。
瑠璃が止まる。
「……ごめんなさい」
朱の目に涙がある。
「でも、今だけは聞いてください」
「朱……」
「私は瑠璃様を守ります」
「どうして」
「どうしてって……」
朱は瑠璃を壁の陰へ引き寄せ、追手がいないことを確かめた。泣きそうな顔で、それでも笑った。
「大切だからに決まってるでしょう」
息を整える間も、朱は瑠璃の手を離さなかった。
瑠璃の胸が詰まる。
「だから、生きて」
静と同じ言葉。
父と同じ願い。
「……はい」
二人は再び走った。
◇
村。
夜になっても、火は消えなかった。
救援隊は半数以上を失いながら、逃げられる村人を森へ送った。
だが、全員ではない。
刹那は一人で歩いていた。
「お母さん……」
声が出ない。
煙で喉が痛い。
「お母さん……」
返事はない。
家が燃えている。
いつも遊んだ場所。
井戸。
畑。
全部が赤い。
倒れている人を見ても、もう誰なのか確かめられなかった。
「……お父さん」
足が止まる。
何も考えられない。
怖い。
悲しい。
逃げなければ。
母を探さなければ。
父のところへ行かなければ。
全部が頭の中でぶつかる。
やがて。
何も考えられなくなった。
刹那は焼けた家の陰へ座り込んだ。
膝を抱く。
炎を見た。
泣かなかった。
泣けなかった。
◇
王城では、夜明け前まで戦いが続いた。
反乱軍は内郭の半分を占拠した。
王国側は王城北東部へ押し込まれている。
国王。
王妃。
王子。
瑠璃。
全員、生きていた。
だが、離れ離れだった。
国王は中央棟。
王妃と王子は静に守られ、北棟。
瑠璃と朱は東塔。
蒼華は国王のそば。
冬真は西門から戻れない。
それぞれが。
それぞれの場所で。
夜を越えようとしていた。
◇
夜明け直前。
国王は窓から空を見た。
「もうすぐ朝だな」
蒼華が隣にいる。
「ええ」
「昨日の朝が、ずいぶん昔に思える」
夜明け前の空が、わずかに白み始めていた。
「まだ二日も経ってませんよ」
「そうか」
国王が笑う。
「瑠璃は」
「東塔で無事です」
窓の外の闇が少しずつ薄くなる。
「妻と息子は」
「静が守っています」
「なら、大丈夫だな」
「はい」
蒼華は答えた。
「大丈夫です」
その言葉を口にするのが、少し怖くなっていた。
国王が剣を取る。
「次の攻撃が来る」
「分かります?」
夜の終わりだけが静かに近づいていた。
「分からん」
「では?」
「王の勘だ」
「それ、一番信用できないやつですね」
蒼華は疲労を隠すように背筋を伸ばす。
「ひどいな」
二人が少し笑う。
そのとき。
王城の外から声が響いた。
拡声のための角笛。
反乱軍の使者だった。
『国王へ告ぐ!』
城内の兵が動きを止める。
『王妃と王子は、我らの手にある!』
国王と蒼華が顔を見合わせる。
「嘘よ」
「静がいる」
遠い東の空に灰色の光が差す。
『正午までに王と王女が投降しなければ――』
声が続く。
『王妃と王子の命はない!』
国王が窓へ近づく。
「確認しろ!」
「はっ!」
蒼華も走る。
胸騒ぎ。
静がいる。
だから大丈夫。
そう思う。
それでも。
嫌な予感が消えない。
◇
北棟。
中庭から北棟へ退いたあとも、敵の襲撃は止まらなかった。
夜明け前、内側から開けられた通路を通って新手が押し寄せた。
北棟の通路で静は王妃と王子を背に戦った。前方の敵を押し返した直後、背後の階段からも足音が響く。護衛兵が一人、また一人と倒れ、二人を守る輪が狭まった。
静は奥の避難通路を示した。そこはまだ王国兵が守っているはずだった。残った護衛兵に王妃と王子を託し、自分は追手を止めるため入口に踏みとどまる。だが、地下から回り込んだ敵が先に通路の出口を押さえていた。
奥から剣のぶつかる音がした。静が追おうとした瞬間、正面の敵が再び斬りかかり、膝をつかされる。
「静!」
通路の奥から王子の声が届いた。静が振り返った瞬間、敵の刃が左肩を裂いた。
静は肩を押さえて立ち上がった。駆けつけた王国兵が敵を押し返し、奥の扉を開いたときには、護衛兵が倒れ、王妃と王子の姿はなかった。
左肩から血が流れている。
「静様!」
兵士が支える。
「平気」
「ですが!」
王城の影が、朝の光に輪郭を取り戻していく。
「王妃は」
誰も答えない。
「王子は」
答えない。
静が立ち上がる。
「どこ」
「……申し訳ありません」
眠らないまま迎える朝が近い。
「どこだ」
「退路側から、新手が」
静の顔から表情が消える。
「連れ去られました」
「……」
夜明けの冷気が窓から入り込む。
「静様!」
静は走り出した。
傷などなかったように。
「静様!」
呼び止める声も聞かない。
守れなかった。
また。
守れなかった。
その言葉だけが頭の中で響いた。
◇
正午。
王城の正門前。
反乱軍が一時的に攻撃を止めた。
城壁の上に、瑠璃もいた。
「見せたいものがあるそうです」
軍務卿が低く言う。
「私も見ます」
「姫様」
外では交代の兵が低い声で呼び合っている。
「見ます」
朱が隣に立つ。
静はまだ戻っていない。
国王も城壁へ上がり、瑠璃から数歩離れた場所に立っていた。
門の外。
反乱軍の兵が道を開けた。
一台の荷車が進んでくる。
瑠璃は目を細める。
「……何?」
荷台に二人。
縛られている。
母。
弟。
「母上!」
瑠璃が身を乗り出す。
「姫様!」
朱が抱き止める。
「母上!」
遠すぎて声は届かない。
王妃が顔を上げた。
瑠璃を見つけた。
そう見えた。
王妃が、ほんの少し笑った。
いつものように。
朝食の席で笑うときのように。
そして、隣の息子の手を握った。
反乱軍の男が前へ出る。
『王よ!』
角笛を通した声。
『王女を渡せ!』
国王が一歩前へ出た。
「断る!」
『ならば!』
空が明るくなるほど、城の傷が見えてくる。
「待って!」
瑠璃が叫ぶ。
「私が行きます!」
「瑠璃!」
国王の怒声。
「でも母上が!」
「駄目だ!」
朝は来ても、戦は終わっていない。
「弟が!」
「駄目だ!!」
瑠璃は国王を見る。
「どうして!」
国王の顔が歪んでいた。
「父上!」
「……王だからだ」
瑠璃は城壁の外から目を逸らせなかった。
「そんなの!」
「私は王だ!」
国王が叫ぶ。
自分へ言い聞かせるように。
「お前を渡せば国が終わる!」
「でも家族が!」
瑠璃の視線は荷車へ縫いつけられたままだった。
「分かっている!」
声が震える。
「分かっているんだ……!」
門の外で。
王妃が夫を見た。
首を横へ振った。
来るな。
そう言っている。
国王の手が震える。
「……すまない」
誰にも聞こえないほど小さく。
「すまない」
反乱軍の男が腕を上げた。
「待って!」
瑠璃が叫ぶ。
王妃は最後まで息子の手を離さなかった。
弟は泣いていた。
それでも母へしがみついていた。
「母上!」
刃が振り下ろされた。
瑠璃の視界から。
音が消えた。
◇
何が起きたのか。
理解できなかった。
目の前で。
母と弟が倒れた。
それだけは見えた。
「……え?」
瑠璃の口から、小さな声が漏れた。
「母……上?」
朱が瑠璃を抱く。
「見ないで!」
「離して」
城壁の下で何かが動いても、瑠璃には見えない。
「瑠璃様!」
「離して!」
暴れる。
「母上!」
国王の声が聞こえた。
獣のような声だった。
瑠璃が国王を見る。
国王は城壁から飛び降りようとして、兵士たちに押さえられている。
「陛下!」
「離せ!」
朱が隣で瑠璃の腕を支える。
「駄目です!」
「離せ!!」
王ではなかった。
妻と息子を目の前で奪われた、一人の男だった。
「父上……」
瑠璃の足から力が抜ける。
朱が支える。
「嘘……」
昨日。
母に抱きしめられた。
弟と話した。
城下へ行く約束をした。
明日。
明日行くと。
絶対にと。
「約束……」
瑠璃の唇が震える。
「私……約束したのに」
涙が落ちる。
「明日って……」
もう明日は来ていた。
約束を守る相手はいなくなった。
◇
反乱軍は、その日の夕刻。
王妃と王子の亡骸を王城正門前に晒した。
王国側の心を折るために。
王家の権威を踏みにじるために。
瑠璃は見せてもらえなかった。
静と朱が、絶対に窓へ近づけなかった。
それでも。
何がされているのかは聞こえてきた。
兵士たちの怒声。
泣き声。
国王の部屋から物が壊れる音。
瑠璃は床へ座っていた。
泣いていた。
声は出なかった。
朱が隣にいる。
静は扉の前に立っている。
左肩には包帯。
誰も話さない。
長い時間が過ぎた。
「静」
瑠璃が呼んだ。
「何」
「私が行けば、母上と弟は生きていた?」
瑠璃は瞬きさえ忘れたように外を見ている。
「違う」
「どうして分かるの」
朱の腕が、瑠璃の身体を必死に支える。
「違う」
「答えて」
「違う!」
静が初めて声を荒らげた。
瑠璃が顔を上げる。
静の目にも涙があった。
「お前のせいじゃない」
「でも」
「違う」
「……」
崩れそうになる瑠璃を、朱が抱き止めた。
「殺した奴らのせいだ」
静は拳を握っていた。
「お前が生きてるせいじゃない」
瑠璃は顔を伏せる。
「私……聖女なんかじゃない」
静は答えない。
「誰も救えない」
「……」
「母上も。弟も。村の人たちも」
「瑠璃」
朱は瑠璃の肩を離さなかった。
「何が聖女なの」
声が崩れる。
「話せば分かるって……そんなことばっかり言って……」
静が瑠璃の前へ座った。
「瑠璃」
「私、何も知らなかった」
「ああ」
「馬鹿だった」
瑠璃の体重が朱の腕へ預けられる。
「少し」
瑠璃が泣きながら静を見る。
「こんなときまで……」
「でも」
静は続けた。
「それで全部捨てるな」
「……何を」
「お前が信じてたもの」
「信じたから、こうなった!」
朱自身も泣きながら、瑠璃を支えている。
「違う」
「違わない!」
「信じたことと、備えなかったことは別だ」
瑠璃が息を止める。
国王の言葉。
信じることと、確かめないことは違う。
「……父上も、同じことを」
「そうか」
瑠璃は泣いた。
「嫌です」
「何が」
瑠璃の耳には自分の鼓動ばかりが響く。
「こんなの……嫌」
「ああ」
瑠璃の膝が折れ、朱が一緒にしゃがみ込む。
「戻りたい」
「ああ」
静は瑠璃の悲しみを否定せず、短く応えた。
「昨日に戻りたい」
「ああ」
静は否定しなかった。
できないとも言わなかった。
ただ。
瑠璃が泣き止むまで、そこにいた。
◇
夜。
国王は一人で座っていた。
机の上に、妻の髪飾りがある。
蒼華が拾ったもの。
扉が開く。
冬真が入ってきた。
「陛下」
「西門は」
冬真は扉を閉め、王の向かいへ立った。
「持ってる」
「そうか」
国王は手の中の髪飾りへ視線を落とした。
「……聞いた」
「ああ」
国王は何も言えない。
国王が髪飾りを手に取る。
「私は王だ」
「……ああ」
冬真は王との間にある机へ目を落とした。
「王だから、瑠璃を渡せなかった」
「ああ」
髪飾りの金具が、灯りを鈍く返した。
「正しかったか」
冬真は答えない。
「なあ」
「分からん」
王の部屋には、戦の音が遠く聞こえている。
「そうか」
「俺が同じ立場でも、分からん」
国王は笑った。
「皆、分からないばかりだな」
「ああ」
冬真は兜を脇へ置いた。
「瑠璃も、そう言っていた」
沈黙。
「雪乃」
「何だ」
国王は椅子に座ったまま動かない。
「もし私が死んだら」
「やめろ」
王の親指が髪飾りの縁をなぞる。
「聞け」
「縁起でもない」
机の上には、ほかに何も置かれていない。
「王の命令だ」
冬真が顔をしかめる。
「……何だ」
「瑠璃を頼む」
冬真の鎧にも、まだ戦場の汚れが残っている。
「静がいる」
「お前たちもだ」
机の上へ落ちた影が長く伸びている。
「自分で守れ」
「ああ」
王は笑った。
「そのつもりだ」
◇
王都の外。
反乱軍の陣では、王妃と王子を殺したことで歓声が上がっていた。
だが一部の領主たちは笑っていなかった。
「ここまでやる必要があったのか」
「今さら何を言う」
二人の間に、言葉より先に沈黙が落ちた。
「王を退かせればよかったはずだ」
「王家が残れば反乱になる。我々がな」
「……」
奥にいた男は黙って聞いていた。
「次は王だ」
一人が言う。
「その次が王女」
「王女まで殺すのか」
「当然だろう」
領主たちの間に、わずかな沈黙が生まれた。
男はその沈黙を見逃さなかった。
「怖じ気づいたか」
「違う」
「なら進めろ」
冷たい声。
「もう後戻りはできない」
その言葉だけは。
全員が理解していた。
◇
翌朝。
国王は鎧を着た。
「父上」
瑠璃が部屋へ入る。
目は腫れている。
「どうした」
「私も戦います」
窓の外で警備の兵が交代している。
「駄目だ」
「剣は習っています」
国王は髪飾りを握ったまま顔を上げない。
「知っている」
「軍略も」
「知っている」
「なら」
「まだ駄目だ」
「どうして!」
「怒りで剣を持っているからだ」
瑠璃が止まる。
「違います」
「では何のためだ」
「国を守るためです」
「本当に?」
部屋の外の足音だけが途切れず続く。
「……」
「母と弟を殺した者を斬りたいと思っていないか」
瑠璃の拳が震える。
「思っています」
嘘はつけなかった。
「殺したいくらい憎いです」
言葉にした瞬間、瑠璃は自分の声に怯えるように息を詰めた。
「そうか」
「そんな自分も嫌です」
涙が滲む。
「昨日まで、人を憎むなんて……」
「瑠璃」
国王が娘の前へ立つ。
「憎んでもいい」
「え?」
机の上には冷めた水が残っていた。
「家族を殺されたんだ。憎まない方がおかしい」
「でも」
王の肩が、ほんのわずかに落ちた。
「ただし、その憎しみに国の剣を預けるな」
瑠璃は国王を見る。
「王の剣は、自分のために振るうものではない」
「……」
「いつかお前が剣を持つなら、誰かを殺したいからではなく、誰かを生かすために持て」
国王は瑠璃の頭へ手を置いた。
いつものように。
「分かったか」
「……はい」
「よし」
「父上」
「何だ」
「死なないでください」
国王の手が止まる。
「命令か?」
「娘からのお願いです」
国王の目には、眠れない夜の疲れが残っていた。
「それは断れないな」
国王が笑った。
「分かった」
瑠璃も、泣きながら笑った。
◇
その日の午後。
反乱軍は王都へ最後通告を出した。
降伏しなければ、総攻撃を開始する。
王国側の兵力は、戦える者をかき集めても三千を下回っていた。
反乱軍は三万を超える。
十倍以上。
援軍は来ない。
街道で阻まれた。
王都の食糧も、兵糧庫の火災で余裕がなくなっている。
会議室で。
誰も口を開かなかった。
「籠城を続ければ」
軍務卿が言う。
「二日です」
「二日?」
会議室の灯りが、沈黙する者たちの影を床へ落とす。
「長くて」
瑠璃が地図を見る。
「援軍は」
「間に合いません」
冬真は短く息を吐いた。
「では」
言葉が続かない。
国王が立ち上がる。
「降伏はしない」
「陛下」
王は髪飾りから手を離さない。
「ここで降りれば、王都の民がどう扱われるか分からん」
「しかし、この兵力差では」
国王は一度、長く息を吐いた。
「分かっている」
国王が全員を見る。
「勝てとは言わない」
部屋が静まる。
「生き残れ」
「……」
廊下を走る兵の足音が一度近づき、また遠ざかる。
「一人でも多く」
瑠璃が国王を見る。
国王はもう。
自分が生き残る話をしていない。
そう感じた。
「父上」
「瑠璃」
国王が娘を見る。
「お前は生きろ」
「嫌です」
冬真は次の命令を待つ兵のようには立っていなかった。
「命令だ」
「嫌です」
髪飾りを置くこともできず、王は握り続ける。
「瑠璃」
「一緒に生きます」
願いではなく、そうすると決めた声だった。
国王の目が揺れる。
「父上も。私も。静も。朱も。銀華の父上と母上も」
瑠璃は涙を拭った。
「全員で生きます」
静が壁際で瑠璃を見る。
蒼華も。
国王も。
誰も否定しなかった。
否定できなかった。
その願いが、どれほど難しいか知っていても。
国王は軍務卿に残る兵の配置を確認した。西門は冬真が守り、蒼華は中央棟で負傷兵と退路を支える。東塔には国王と瑠璃、静、朱が残る。
「勝つための配置ではない。民が逃げる時間を、一刻でも長くつくる」
軍務卿がうなずき、伝令たちがそれぞれの持ち場へ走った。
◇
同じ頃。
焼けた村の跡で。
王国兵が一人の少女を見つけた。
「おい」
返事がない。
「大丈夫か」
銀色の髪。
十一歳ほど。
煤で顔が汚れている。
腕にも脚にも傷がある。
少女は焼けた家の壁にもたれ、何もない場所を見ていた。
「名前は?」
返事がない。
「家族は?」
反応しない。
兵士がしゃがむ。
「聞こえるか?」
少女の目は動かなかった。
泣いてもいない。
ただ。
何も映していないように見えた。
「……生存者、一名!」
兵士が叫ぶ。
その声にも。
刹那は振り向かなかった。
◇
王都では。
反乱軍の総攻撃を告げる太鼓が鳴り始めた。
低い音が。
一つ。
また一つ。
城壁を越え。
王城まで届く。
西門の防衛線で、冬真が剣を抜いた。
王城の中央棟では、蒼華が傷の上から帯をきつく巻いた。
国王と瑠璃がいる東塔の守備区画では、静が瑠璃の前に立った。
会議を終えた国王たちは、伝令が配置につくのを見届けてから東塔の防衛線へ移っていた。
朱はその後ろで剣を握る。
瑠璃は国王から渡された剣を見つめた。
「使うなと言ったはずでは」
「最後の最後だ」
国王が言う。
「誰かを殺すためではない」
「……はい」
国王は剣を見つめる瑠璃の手に、自分の手を重ねた。
「生きるために使え」
瑠璃は剣を腰へ差した。
手が震えている。
怖い。
死にたくない。
誰にも死んでほしくない。
それでも。
もう逃げる場所はなかった。
太鼓が止まる。
一瞬の静寂。
そして。
王都の四方から。
反乱軍の鬨の声が上がった。
十倍を超える兵が。
最後の攻撃を始めた。
* * *
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
守ろうとしたものが、必ずしも守れるとは限らない。
それでも、誰かのために剣を取り、最後まで抗おうとする人々がいます。
次回、第5話「剣を取る王女」。
失われていくものを前に、瑠璃は何を選ぶのか。
引き続き『南のオーフェリア』をよろしくお願いします。




