番外編③ 失われた朝
夜が明けた。
けれど、蒼緑国オルディアの王都に朝は来なかった。
空は明るくなっている。
東の森から太陽も昇っている。
それでも街には、昨日までの朝がなかった。
パンを焼く匂いはしない。
店先へ木箱を並べる商人もいない。
子供の声もない。
代わりに聞こえるのは、遠くでぶつかる鉄の音と、走る兵士の足音だった。
城壁の外には領軍の旗が並んでいる。
西。
東。
南。
王都は、ほぼ包囲されていた。
◇
「西門、第二防壁まで後退!」
「負傷兵を内側へ!」
城壁の上を兵が駆けていく。
「矢を無駄にするな! 近づいてから撃て!」
冬真は、城壁の上から声を張り上げた。
一晩中戦っていた。
鎧は泥と血に汚れ、左頬には浅い傷がある。
「旦那、少し休んでください!」
「俺が寝たら敵も寝てくれるのか?」
冬真は矢の飛んできた方角へ顔を向けた。
「そんなわけ――」
「なら後だ!」
矢が飛んでくる。
身体を沈める。
石壁へ突き刺さった。
「敵、動きます!」
「どこだ!」
若い兵が息を切らしながら北西を指す。
「北西!」
見る。
数百の兵が移動を始めている。
「門じゃない」
「え?」
冬真の視線が門から王城へ移る。
「あいつら、門を落とす気じゃない」
冬真は目を細めた。
昨夜から感じていた違和感。
数は多い。
攻撃も激しい。
だが、本気で門を破る攻めではない。
こちらを城壁へ縛りつけている。
「城内へ伝令!」
「何と!」
伝令は命令を聞くなり踵を返した。
「敵の本命は中だ! 王城を見ろ!」
「はっ!」
伝令が走る。
冬真は剣を握り直した。
蒼華は城内にいる。
静も。
瑠璃も。
「頼むぞ……」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
◇
王城では、夜明けと同時に城内の内通者を排除する戦いが始まっていた。
「右!」
蒼華の声。
王国兵が盾を上げる。
矢が弾かれた。
「三人、奥!」
「はい!」
盾を構えた兵たちが蒼華の前へ出る。
「殺さなくていい! 武器を落とさせて!」
自ら先頭へ出る。
男が斬りかかる。
一歩だけずらす。
踏み込み、男の手首を外へ払う。
男の手から剣が落ちる。
体勢を崩したところへ肩を入れ、そのまま床へ転がした。
「縛って」
「はっ!」
蒼華は倒れた男からすぐに視線を切った。
「次!」
兵士たちは息を呑んでいた。
強い。
噂には聞いていた。
だが、実際に見るのは初めての者も多い。
肩書きのない女性。
王国軍の将でもない。
それなのに、彼女が前へ立つだけで隊列が整う。
「奥方様!」
「何?」
報告に来た兵の肩が大きく上下している。
「西回廊を確保しました!」
「王妃様と王子様は?」
蒼華の視線が地下へ続く廊下へ向いた。
「まだ!」
蒼華の表情が曇る。
「地下は?」
「捜索中です!」
戦場の声が途切れず続く。
「急いで」
返事を待たず走り出す。
昨夜拾った王妃の髪飾りは、懐に入れてある。
まだ生きている。
そう信じていた。
◇
東棟奥。
瑠璃は一睡もしていなかった。
朱が水を差し出す。
「少しでもお飲みください」
「……ありがとう」
口をつける。
ほとんど飲めない。
静は扉の前に立っている。
昨夜から一度も座っていない。
「静」
「何」
瑠璃は静の顔を覗き込んだ。
「少し休んで」
「必要ない」
静は扉から目を離さない。
「必要です」
「平気だ」
「平気に見えません」
「見なくていい」
「そういう問題では――」
廊下を走る足音。
静の手が剣へ伸びる。
「静様!」
王国兵だった。
「何」
「陛下より伝令です。東棟の安全を確認。姫様を中央指揮所へ」
瑠璃が立ち上がる。
「父上のところへ行けるのですね?」
「はい」
「母上と弟は?」
兵士が目を伏せた。
「まだ……」
瑠璃の顔から笑みが消える。
「行きます」
静が先に扉を出る。
朱が瑠璃の後ろにつく。
廊下を歩く。
昨日まで何度も通った場所。
壁に傷がある。
床に血が残っている。
倒れた兵士はすでに運ばれていた。
「……ここで?」
「ああ」
静が短く答える。
瑠璃は唇を噛んだ。
王城。
自分の家。
ここで、人が殺し合った。
◇
中央指揮所へ入る。
「父上!」
国王が振り返った。
瑠璃は走った。
王女としての振る舞いも忘れ、国王へ抱きついた。
「父上……!」
「瑠璃」
国王の腕が娘を包む。
「よかった……」
「お前も無事でよかった」
国王の腕に、わずかに力がこもる。
「母上は? 弟は?」
国王の腕が止まる。
「まだ見つかっていない」
「でも、生きていますよね」
瑠璃はその一瞬の間を振り払うように言葉を重ねた。
「……ああ」
一瞬の間を、瑠璃は聞かなかったことにした。
「きっと大丈夫です」
「ああ」
国王は娘を離し、正面から向き合った。
「銀華の母上が探してくださっているのでしょう?」
「ああ」
静の眉がわずかに寄る。
「なら大丈夫です」
何度も言う。
自分に。
国王に。
この部屋にいる全員に。
「大丈夫です」
国王は娘の髪を撫でた。
「瑠璃」
「はい」
瑠璃は二人の間へ視線を走らせた。
「これから、王都の防衛について話す」
瑠璃が顔を上げる。
「私も?」
「お前もだ」
赤い駒が、王都を囲むように並んでいる。
「はい」
「もう、ただ守られているだけではいられない」
国王の言葉に、静がわずかに目を動かした。
「陛下」
「分かっている、静」
瑠璃の指先が地図の縁を掴む。
「瑠璃を戦わせるのか」
「剣を持たせるとは言っていない」
軍務卿は街道を示す駒へ指を置いた。
「同じだ」
「違う」
二人の視線がぶつかる。
「静」
瑠璃が止めた。
「聞きます」
「瑠璃」
国王の指が王都の中央で止まった。
「私も知りたい。何が起きているのか」
静は何も言わなかった。
「父上。教えてください」
国王は頷いた。
◇
地図の上には、昨日までなかった駒が並んでいた。
赤い駒。
反乱軍。
王都の周囲を埋めている。
「確認できた領軍は七家」
「七……」
瑠璃は地図の外側へ目を向けた。
「兵数は、少なく見積もって三万」
瑠璃が息を呑む。
「王都側は?」
「城内の守備隊、近郊から合流できた部隊を合わせて五千に届かない」
兵数を聞いた瑠璃が言葉を失う間、部屋には紙の擦れる音だけが残った。
「そんな……」
「さらに敵側へ加わる領軍がある可能性もある」
軍務卿が続ける。
「忠誠を表明している地方軍へ招集をかけています。しかし最短でも到着まで二日」
「二日、耐えれば」
国王は一度、深く息を吐いた。
「来られれば、です」
瑠璃が軍務卿を見る。
「どういう意味です?」
「街道が押さえられています。各個撃破される可能性があります」
瑠璃は涙を拭わず国王を見た。
「では……」
言葉が出ない。
国王が地図を指す。
「だから籠城する」
「籠城……」
国王の声から怒気が消える。
「王都を守り、援軍を待つ」
「城下の人々は?」
瑠璃は答えを探すように地図を見下ろした。
「可能な限り城壁内へ避難させる」
「外の村は?」
沈黙。
「父上。外の村は?」
「今から全てを救援する兵は出せない」
国王の答えが、一つずつ逃げ道を塞いでいく。
「でも!」
「瑠璃」
瑠璃の拳が小さく震えた。
「村には兵士ではない人たちがいます!」
「分かっている」
国王は娘の言葉を否定せず受け止めた。
「子供も!」
「分かっている!」
国王の声が響いた。
瑠璃が固まる。
国王は目を閉じた。
「……分かっている」
今度は小さかった。
「分かっているんだ、瑠璃」
「……」
瑠璃は言葉の重さに息を詰めた。
「だが、今ここから兵を割けば王都が落ちる」
「だから見捨てるのですか」
瑠璃は地図から国王へ視線を戻した。
「違う」
「同じです!」
瑠璃の目に涙が浮かぶ。
「助けを待っている人がいるのに!」
「では何人出す」
「え?」
「千か。二千か。三千か」
国王は娘の問いを受け、口元を引き結んだ。
「それは……」
「どの村へ出す。西か。南か。北か」
「……」
「全部へ出せば王都は守れない。王都が落ちれば、ここに避難している何万人もの民が敵の手に落ちる」
瑠璃は答えられない。
「選ばなければならない」
国王の声が苦しそうだった。
「王は、選びたくないものまで選ばなければならない」
「そんなの……」
瑠璃は答えの出ない問いを飲み込んだ。
「ああ」
「そんなの、正しくありません」
「正しくない」
国王は否定しなかった。
「だから苦しい」
瑠璃は拳を握った。
誰かを救うために。
誰かを救わない。
そんなことを、瑠璃は考えたことがなかった。
「……嫌です」
「ああ」
軍務卿が赤い駒を一つ置き直した。
「私は、そんな王にはなりたくありません」
「そうか」
「皆を助けたい」
「ああ」
瑠璃は涙を拭い、もう一度国王を見た。
「父上は、そう思わないのですか」
国王は娘を見る。
「思っている」
瑠璃の涙が落ちた。
「毎日、思っている」
◇
銀華の屋敷。
昼を過ぎても、冬真も蒼華も戻らなかった。
銀華は食卓に座っている。
料理は冷めている。
「銀華様。少しでも」
「食べます」
箸を持つ。
一口。
味がしない。
「父様から連絡は?」
「ありません」
銀華は冷めた料理へ視線を落とした。
「母様は?」
「同じく」
使用人は答えられず、静かに頭を下げた。
「静様は?」
「王城にいらっしゃいます」
銀華は震える指で箸を持ち直した。
「瑠璃様は?」
「ご無事だと」
「そうですか」
銀華はもう一口食べた。
手が震えている。
「銀華様」
「大丈夫です」
「ですが」
「食べないと、母様に怒られますから」
少し笑った。
使用人は何も言えなくなった。
「父様も、ちゃんと食べているでしょうか」
誰も答えない。
「戦っているなら、食べないと駄目です」
「……はい」
「母様も」
「はい」
「静様は、言わないと食べないかもしれません」
銀華は笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「だから……皆、大丈夫です」
箸を持つ指へ力を入れる。
「大丈夫です」
◇
王都西門。
「交代だ!」
「まだいける!」
冬真は敵陣から目を逸らさない。
「命令だ! 下がれ!」
冬真が若い兵士の肩を押した。
「寝ろ。食え。二刻後に戻れ」
「旦那は?」
「俺はもう少しいる」
「それじゃ――」
張りつめた空気が二人の間に残る。
「俺はお前より年上だ」
「だから休むべきでは?」
若い兵は冬真の返事を黙って待った。
「うるさい!」
周囲から笑いが漏れた。
ほんの一瞬。
張りつめた空気が緩む。
「笑えるならまだ大丈夫だ!」
冬真が声を張る。
「門は落とさせるな! だが死に急ぐな! 死んだ奴は次の交代に来られんぞ!」
「はっ!」
兵士たちが応える。
冬真は城壁の向こうを見る。
敵陣。
そのさらに奥。
森。
「旦那」
「何だ」
「勝てますか」
若い兵が聞いた。
冬真はすぐに答えなかった。
「勝つ」
「……はい」
冬真は剣を肩へ担ぎ直した。
「勝てるかじゃない」
「勝って帰る」
銀華の顔が浮かぶ。
蒼華の顔も。
「帰らないと怒られるからな」
◇
王城の地下。
蒼華は、ついに痕跡を見つけた。
「ここ」
古い通路。
床に擦れた跡。
血。
そして、王子の上着から取れた小さな留め具。
「通った」
「この先は旧貯蔵庫です」
兵士が古い見取り図を蒼華の前へ広げた。
「出口は?」
「城外へ続く古い搬入口があったはずですが、何十年も使われていません」
蒼華は出口までの線を指でなぞった。
「地図」
兵士が広げる。
蒼華は見る。
「ここへ回って」
「奥方様は?」
兵士はなおも止めたそうに口を開く。
「私は先に行く」
「一人で?」
蒼華は返事を待たず暗がりへ踏み込んだ。
「時間がない」
「危険です!」
蒼華が兵士を見る。
「だから行くの」
「ですが」
「王妃様と王子様が連れ出される」
「……」
「あなたたちは反対側から。挟む」
「分かりました」
蒼華が走る。
暗い地下通路。
湿った空気。
足音。
遠くに声。
追いつく。
曲がり角。
数人の反乱兵。
その先に。
「王妃様!」
王妃は息子を庇いながら後ろへ下がる。
王妃が振り返る。
「……!」
声を出す前に、反乱兵が剣を抜いた。
「来たぞ!」
蒼華は足を止めない。
一人目。
振り下ろされた刃を紙一重でかわす。
そのまま懐へ入る。
腹へ蹴り。
二人目の刃を屈んでかわす。
手首を打ち、剣を落とさせる。
致命傷にはしない。
「退きなさい!」
「殺せ!」
三人。
四人。
狭い通路。
数の差を作らせない。
蒼華は一歩ずつ前へ進む。
「王妃様! 王子様を連れてこちらへ!」
「でも!」
駆けつけた兵たちが王妃と王子を囲む。
「早く!」
王妃が息子の手を引く。
走る。
反乱兵が追おうとする。
蒼華が道を塞ぐ。
「行かせない」
低い声。
狭い通路に、刃が壁を叩く音が響く。
◇
別の通路から回り込んだ王国兵が到着した。
「奥方様!」
「王妃様を!」
王妃は蒼華の傷を見て足を止めた。
「はっ!」
「王子様も!」
兵が二人を囲む。
「あなたは?」
王妃が蒼華を見る。
「後から行きます」
「一緒に!」
「大丈夫です」
「でも――」
「銀華に、まだ叱られたくありませんから」
蒼華が笑った。
王妃は一瞬迷い、頷いた。
「必ず来て」
「はい」
王妃たちが走る。
蒼華は残る。
敵はまだいる。
「さて」
蒼華は王妃たちの背を隠すように立った。
「ここから先は通さないわよ」
◇
数刻後。
王妃と王子が王城へ戻った。
「母上!」
瑠璃が走る。
「瑠璃!」
抱き合う。
「母上……!」
「ごめんなさい。心配をかけたわね」
「弟は?」
「ここにいる」
「姉上!」
三人が抱き合う。
瑠璃は泣いた。
声を上げて。
「よかった……本当に……」
「姉上、痛いです」
「我慢してください」
「姉上が泣いてる」
「泣いていません」
「泣いてます」
「うるさいです」
王妃が二人を抱きしめる。
静は少し離れた場所から見ていた。
朱も涙を拭っている。
国王が入ってくる。
「無事か!」
「あなた」
王妃が夫へ駆け寄る。
国王が王妃と息子を抱く。
家族が揃った。
一瞬だけ。
戦が消えたようだった。
「雪乃夫人は?」
国王が尋ねる。
「後ろに残って……」
王妃の顔が曇る。
静がすぐに立ち上がった。
「行く」
「待て」
国王が止める。
「なぜ」
「救援を出している」
静の足が、もう地下通路へ向きかけている。
「私が行った方が早い」
「瑠璃を頼む」
王妃は静の背へ声を投げた。
「今は家族がいる」
「静」
王妃が呼んだ。
「あの人は、私たちを逃がすために残った」
「分かってる」
瑠璃は静の手を離さなかった。
「だから――」
「分かってるから行く」
静の声が低くなる。
「静」
瑠璃が近づく。
「行ってください」
静が瑠璃を見る。
「私はここにいます」
「……」
静は瑠璃の目を見て、ようやく頷いた。
「父上も母上もいます。朱も」
「瑠璃様」
朱が頷く。
「私がおそばに」
「だから」
瑠璃が静の手を握る。
「銀華の母上を、お願いします」
静は数秒、瑠璃を見つめた。
「ああ」
それだけ言い、走り出した。
◇
地下通路。
静が着いたとき、戦いはほぼ終わっていた。
王国兵が負傷者を運んでいる。
「どこ」
「静様!」
静の視線が蒼華の脇腹で止まる。
「どこだ」
「奥方様なら――」
その先。
壁際に蒼華が座っていた。
「遅い」
「……」
静が歩み寄る。
「怪我」
「少しだけ」
蒼華は立とうとして壁へ手をついた。
「見せろ」
「命令?」
静は黙って蒼華の腕を肩へ回した。
「見せろ」
蒼華が笑う。
「本当に可愛くなくなったわね」
「いいから」
脇腹。
服が赤く染まっている。
静の目が鋭くなる。
「深い」
「浅いわ」
蒼華の冗談に、静の表情は緩まない。
「嘘」
「昔から、そういうところだけ鋭いのよね」
静の指が蒼華の衣を強く掴む。
「医師」
「もう来るって」
蒼華はその手を見て声を柔らげた。
「立てるか」
「たぶん」
静が腕を貸す。
蒼華は立ち上がった。
少しふらつく。
静が支える。
「ほら。まだ私の方が大きい」
「何が」
静は俯いたまま答えを飲み込んだ。
「昔は私があなたを抱えてた」
「覚えてない」
蒼華は返事を急かさず待った。
「嘘」
「……」
静は蒼華の顔を見たまま動かなかった。
「静」
「何」
「怖かった?」
静が黙る。
「私が死ぬと思った?」
「言うな」
蒼華は静の強張った手へ目を落とした。
「ごめん」
「言うな」
静の声が震えた。
蒼華が静の頬へ手を伸ばす。
「大丈夫」
「……」
「まだ死なないわ」
「当たり前だ」
静はようやく肩の力を少し抜いた。
「銀華も待ってるしね」
「ああ」
「あなたも?」
静は答えない。
「静?」
「待ってる」
蒼華が微笑んだ。
「そう」
その笑顔を見て。
静は初めて、少しだけ息を吐いた。
◇
その日の夕刻。
王都の外では、反乱軍が攻撃を止めた。
静かだった。
不自然なほどに。
「何を待っている」
国王が地図を見る。
「援軍では?」
「こちらの援軍が来る前に決めたいはずです」
軍務卿が答える。
「なら、なぜ止まる」
冬真も戻っている。
蒼華は医務室。
命に別状はない。
それを聞いてから、ようやく水を飲んだ。
「何か仕掛けてくる」
冬真が言う。
「城内の内通者はほぼ抑えた」
「なら別の手だ」
瑠璃も会議にいる。
顔には疲労がある。
だが昨日までとは違う目で地図を見ている。
「父上」
「何だ」
会議卓の地図へ全員の視線が集まる。
「敵は、私たちの援軍が来る場所を知っているのでしょうか」
国王が娘を見る。
「なぜそう思う」
「街道を押さえる位置が……偶然にしては正確すぎます」
軍務卿が地図を見る。
「確かに」
「この国の地理を知っている者なら分かるのでは?」
軍務卿が街道沿いの駒を見直した。
「それだけではない」
冬真が口を挟む。
「守備隊の動きも読まれてる」
「内通者から?」
冬真は守備隊の配置を指で追った。
「それもあるだろう」
「他にも?」
瑠璃は七つの領軍旗を順に見た。
「分からん」
瑠璃は地図を見る。
七家。
三万以上。
内通者。
大量の武器。
同時に落ちた関所。
「これを……七人の領主だけで?」
誰も答えなかった。
その疑問は。
今はまだ、疑問のままだった。
◇
夜。
反乱軍の陣。
「失敗した?」
男の声は静かだった。
「王妃と王子を奪還されました」
「誰に」
領主は男の顔色を窺った。
「雪乃の女です」
「……あれか」
男が指で机を叩く。
「始末したのか」
「負傷させましたが」
男の指が机を一定の間隔で叩く。
「生きている」
「はい」
天幕の入口が風で小さく揺れた。
「厄介だな」
領主が唇を噛む。
「次はどうする」
「予定を早める」
「総攻撃か?」
「違う」
男が立ち上がる。
「王家の心を折る」
「どうやって」
男は答えなかった。
代わりに、天幕の外へ声をかける。
「連れてこい」
二人の兵が、一人の男を引きずってきた。
王国軍の伝令兵だった。
「何をする」
「伝えてもらう」
男が伝令を見る。
「王へ」
伝令は睨み返す。
「誰が貴様らの言葉など――」
「伝えなければ、お前の家族がいる村から焼く」
伝令の顔色が変わる。
「……何を」
「知っている」
男は微笑んだ。
「こちらは、よく知っている」
◇
同じ夜。
王都から少し離れた村。
刹那は母と一緒に、窓へ板を打ちつけていた。
「これでいい?」
「もう少し右」
母は窓板へ手を添えたまま答えた。
「ここ?」
「そう」
父は村の男たちと入口を見張っている。
遠くの空が赤い。
「お母さん」
「何?」
刹那の目が遠い空の赤へ向く。
「王都、燃えてるの?」
「分からない」
「戦なの?」
母の手が止まる。
「……そうかもしれないね」
「ここにも来る?」
母はすぐには答えなかった。
「来ないよ」
「本当?」
「王都には強い兵隊さんがたくさんいるから」
「じゃあ大丈夫?」
「大丈夫」
母が刹那の頭を撫でる。
その言葉を。
今日、何人の人間が口にしただろう。
大丈夫。
きっと大丈夫。
誰もが、それを信じたかった。
刹那は窓の隙間から赤い空を見た。
まだ。
村には家がある。
父がいる。
母がいる。
知っている人たちがいる。
自分の寝床がある。
明日もある。
そう思っていた。
◇
深夜。
王城の門前へ、一騎の馬が近づいた。
「止まれ!」
門兵が弓を構える。
「王国軍だ!」
男が叫ぶ。
「伝令! 陛下へ!」
門が少しだけ開く。
男は中へ入った。
顔は腫れ、片腕を負傷している。
「何があった!」
「反乱軍から……」
門兵が倒れかけた伝令の身体を支えた。
「何だ!」
「陛下へ、直接……」
男はその場に崩れた。
◇
国王の前で。
伝令兵は震えていた。
「申せ」
「……敵から、伝言です」
伝令は痛む腕を庇いながら息を整えた。
「何だ」
「明日の正午までに……王女殿下を引き渡せと」
部屋の空気が凍った。
瑠璃が息を止める。
「私を?」
「はい……」
国王は伝令から目を逸らさない。
「続けろ」
国王の声が低くなる。
「引き渡さなければ……王都周辺の村を、一つずつ焼くと」
瑠璃の顔から血の気が引いた。
「村を……?」
「最初の村は……」
伝令が名前を告げた。
小さな村だった。
王都の外れ。
軍事的な価値などほとんどない。
そこに。
十一歳の刹那が暮らしている。
「父上」
瑠璃が立ち上がる。
「駄目だ」
国王が即座に言った。
「まだ何も言っていません!」
「分かっている」
瑠璃の背筋が強張った。
「私が行けば村が――」
「駄目だ!」
国王の声が娘の言葉を遮った。
「でも!」
「お前を渡して終わると思うのか!」
瑠璃が言葉を失う。
「相手は王家を潰すつもりだ」
「それでも、村の人たちには関係がありません!」
瑠璃は一歩も退かなかった。
「分かっている!」
「だったら!」
静が瑠璃と国王の間へ身体を入れる。
「瑠璃!」
父娘の声がぶつかる。
「行かせない」
「静まで」
瑠璃の言葉に、静の目が鋭くなる。
「絶対に」
「でも人が死ぬんです!」
静は震える拳を隠そうともしなかった。
「お前も死ぬ」
「私一人で済むなら!」
静の表情が変わった。
「それを言うな」
「え?」
瑠璃はそこで初めて口を閉じた。
「二度と言うな」
低い。
瑠璃が初めて聞く声だった。
「静……」
「お前一人ならいいなんて、言うな」
軍務卿が地図上の村へ目を落とす。
「でも――」
「お前を大事に思う人間がいる」
静の拳が震えている。
「勝手に一人で決めるな」
瑠璃は何も言えなくなった。
蒼華が医務室で言った言葉。
守りたい人は、あなたにも生きていてほしい。
それと同じだった。
「では……どうするの」
瑠璃の声が小さくなる。
「村を見殺しにするの?」
誰も答えられない。
国王が目を閉じた。
長い沈黙。
「救援隊を出す」
軍務卿が顔を上げる。
「陛下!」
「少数でいい。村民の避難を」
国王は机に置いた手へ力を込めた。
「敵はそれを待っている可能性が」
「分かっている」
瑠璃は国王の横顔を見つめた。
「兵を割けば――」
「分かっている!」
国王が机を叩いた。
「それでも出す!」
瑠璃が国王を見る。
「父上……」
「全ては救えない」
国王の声が震えていた。
「だが、最初から諦めることはできない」
瑠璃の目から涙が落ちる。
「はい」
「救援隊を編成しろ」
「はっ!」
命令を受けた兵がすぐに部屋を出る。
「静」
静は短く息を吐いた。
「何」
「お前は残れ」
部屋の空気が張りつめる。
「分かってる」
「怪我人を出す気はない」
「冬真を呼べ」
兵が走る。
夜は、まだ終わらない。
◇
そして。
王都から見えない森の向こうで。
すでに別の部隊が動いていた。
村へ向かって。
救援ではない。
松明を持った兵たちが。
静かに。
暗い道を進んでいた。
* * *




