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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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23/29

番外編③ 失われた朝

 夜が明けた。

 けれど、蒼緑国オルディアの王都に朝は来なかった。

 空は明るくなっている。

 東の森から太陽も昇っている。

 それでも街には、昨日までの朝がなかった。

 パンを焼く匂いはしない。

 店先へ木箱を並べる商人もいない。

 子供の声もない。

 代わりに聞こえるのは、遠くでぶつかる鉄の音と、走る兵士の足音だった。

 城壁の外には領軍の旗が並んでいる。

 西。

 東。

 南。

 王都は、ほぼ包囲されていた。


     ◇


「西門、第二防壁まで後退!」

「負傷兵を内側へ!」


 城壁の上を兵が駆けていく。


「矢を無駄にするな! 近づいてから撃て!」


 冬真は、城壁の上から声を張り上げた。

 一晩中戦っていた。

 鎧は泥と血に汚れ、左頬には浅い傷がある。


「旦那、少し休んでください!」

「俺が寝たら敵も寝てくれるのか?」


 冬真は矢の飛んできた方角へ顔を向けた。


「そんなわけ――」

「なら後だ!」


 矢が飛んでくる。

 身体を沈める。

 石壁へ突き刺さった。


「敵、動きます!」

「どこだ!」


 若い兵が息を切らしながら北西を指す。


「北西!」


 見る。

 数百の兵が移動を始めている。


「門じゃない」

「え?」


 冬真の視線が門から王城へ移る。


「あいつら、門を落とす気じゃない」


 冬真は目を細めた。

 昨夜から感じていた違和感。

 数は多い。

 攻撃も激しい。

 だが、本気で門を破る攻めではない。

 こちらを城壁へ縛りつけている。


「城内へ伝令!」

「何と!」


 伝令は命令を聞くなり踵を返した。


「敵の本命は中だ! 王城を見ろ!」

「はっ!」


 伝令が走る。

 冬真は剣を握り直した。

 蒼華は城内にいる。

 静も。

 瑠璃も。


「頼むぞ……」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


     ◇


 王城では、夜明けと同時に城内の内通者を排除する戦いが始まっていた。


「右!」


 蒼華の声。

 王国兵が盾を上げる。

 矢が弾かれた。


「三人、奥!」

「はい!」


 盾を構えた兵たちが蒼華の前へ出る。


「殺さなくていい! 武器を落とさせて!」


 自ら先頭へ出る。

 男が斬りかかる。

 一歩だけずらす。

 踏み込み、男の手首を外へ払う。

 男の手から剣が落ちる。

 体勢を崩したところへ肩を入れ、そのまま床へ転がした。


「縛って」

「はっ!」


 蒼華は倒れた男からすぐに視線を切った。


「次!」


 兵士たちは息を呑んでいた。

 強い。

 噂には聞いていた。

 だが、実際に見るのは初めての者も多い。

 肩書きのない女性。

 王国軍の将でもない。

 それなのに、彼女が前へ立つだけで隊列が整う。


「奥方様!」

「何?」


 報告に来た兵の肩が大きく上下している。


「西回廊を確保しました!」

「王妃様と王子様は?」


 蒼華の視線が地下へ続く廊下へ向いた。


「まだ!」


 蒼華の表情が曇る。


「地下は?」

「捜索中です!」


 戦場の声が途切れず続く。


「急いで」


 返事を待たず走り出す。

 昨夜拾った王妃の髪飾りは、懐に入れてある。

 まだ生きている。

 そう信じていた。


     ◇


 東棟奥。

 瑠璃は一睡もしていなかった。

 朱が水を差し出す。


「少しでもお飲みください」

「……ありがとう」


 口をつける。

 ほとんど飲めない。

 静は扉の前に立っている。

 昨夜から一度も座っていない。


「静」

「何」


 瑠璃は静の顔を覗き込んだ。


「少し休んで」

「必要ない」


 静は扉から目を離さない。


「必要です」

「平気だ」

「平気に見えません」

「見なくていい」

「そういう問題では――」


 廊下を走る足音。

 静の手が剣へ伸びる。


「静様!」


 王国兵だった。


「何」

「陛下より伝令です。東棟の安全を確認。姫様を中央指揮所へ」


 瑠璃が立ち上がる。


「父上のところへ行けるのですね?」

「はい」

「母上と弟は?」


 兵士が目を伏せた。


「まだ……」


 瑠璃の顔から笑みが消える。


「行きます」


 静が先に扉を出る。

 朱が瑠璃の後ろにつく。

 廊下を歩く。

 昨日まで何度も通った場所。

 壁に傷がある。

 床に血が残っている。

 倒れた兵士はすでに運ばれていた。


「……ここで?」

「ああ」


 静が短く答える。

 瑠璃は唇を噛んだ。

 王城。

 自分の家。

 ここで、人が殺し合った。


     ◇


 中央指揮所へ入る。


「父上!」


挿絵(By みてみん) 


国王が振り返った。

 瑠璃は走った。

 王女としての振る舞いも忘れ、国王へ抱きついた。


「父上……!」

「瑠璃」


 国王の腕が娘を包む。


「よかった……」

「お前も無事でよかった」


 国王の腕に、わずかに力がこもる。


「母上は? 弟は?」


 国王の腕が止まる。


「まだ見つかっていない」

「でも、生きていますよね」


 瑠璃はその一瞬の間を振り払うように言葉を重ねた。


「……ああ」


 一瞬の間を、瑠璃は聞かなかったことにした。


「きっと大丈夫です」

「ああ」


 国王は娘を離し、正面から向き合った。


「銀華の母上が探してくださっているのでしょう?」

「ああ」


 静の眉がわずかに寄る。


「なら大丈夫です」


 何度も言う。

 自分に。

 国王に。

 この部屋にいる全員に。


「大丈夫です」


 国王は娘の髪を撫でた。


「瑠璃」

「はい」


 瑠璃は二人の間へ視線を走らせた。


「これから、王都の防衛について話す」


 瑠璃が顔を上げる。


「私も?」

「お前もだ」


 赤い駒が、王都を囲むように並んでいる。


「はい」

「もう、ただ守られているだけではいられない」


 国王の言葉に、静がわずかに目を動かした。


「陛下」

「分かっている、静」


 瑠璃の指先が地図の縁を掴む。


「瑠璃を戦わせるのか」

「剣を持たせるとは言っていない」


 軍務卿は街道を示す駒へ指を置いた。


「同じだ」

「違う」


 二人の視線がぶつかる。


「静」


 瑠璃が止めた。


「聞きます」

「瑠璃」


 国王の指が王都の中央で止まった。


「私も知りたい。何が起きているのか」


 静は何も言わなかった。


「父上。教えてください」


 国王は頷いた。


     ◇


 地図の上には、昨日までなかった駒が並んでいた。

 赤い駒。

 反乱軍。

 王都の周囲を埋めている。


「確認できた領軍は七家」

「七……」


 瑠璃は地図の外側へ目を向けた。


「兵数は、少なく見積もって三万」


 瑠璃が息を呑む。


「王都側は?」

「城内の守備隊、近郊から合流できた部隊を合わせて五千に届かない」


 兵数を聞いた瑠璃が言葉を失う間、部屋には紙の擦れる音だけが残った。


「そんな……」

「さらに敵側へ加わる領軍がある可能性もある」


 軍務卿が続ける。


「忠誠を表明している地方軍へ招集をかけています。しかし最短でも到着まで二日」

「二日、耐えれば」


 国王は一度、深く息を吐いた。


「来られれば、です」


 瑠璃が軍務卿を見る。


「どういう意味です?」

「街道が押さえられています。各個撃破される可能性があります」


 瑠璃は涙を拭わず国王を見た。


「では……」


 言葉が出ない。

 国王が地図を指す。


「だから籠城する」

「籠城……」


 国王の声から怒気が消える。


「王都を守り、援軍を待つ」

「城下の人々は?」


 瑠璃は答えを探すように地図を見下ろした。


「可能な限り城壁内へ避難させる」

「外の村は?」


 沈黙。


「父上。外の村は?」

「今から全てを救援する兵は出せない」


 国王の答えが、一つずつ逃げ道を塞いでいく。


「でも!」

「瑠璃」


 瑠璃の拳が小さく震えた。


「村には兵士ではない人たちがいます!」

「分かっている」


 国王は娘の言葉を否定せず受け止めた。


「子供も!」

「分かっている!」


 国王の声が響いた。

 瑠璃が固まる。

 国王は目を閉じた。


「……分かっている」


 今度は小さかった。


「分かっているんだ、瑠璃」

「……」


 瑠璃は言葉の重さに息を詰めた。


「だが、今ここから兵を割けば王都が落ちる」

「だから見捨てるのですか」


 瑠璃は地図から国王へ視線を戻した。


「違う」

「同じです!」


 瑠璃の目に涙が浮かぶ。


「助けを待っている人がいるのに!」

「では何人出す」

「え?」

「千か。二千か。三千か」


 国王は娘の問いを受け、口元を引き結んだ。


「それは……」

「どの村へ出す。西か。南か。北か」

「……」

「全部へ出せば王都は守れない。王都が落ちれば、ここに避難している何万人もの民が敵の手に落ちる」


 瑠璃は答えられない。


「選ばなければならない」


 国王の声が苦しそうだった。


「王は、選びたくないものまで選ばなければならない」

「そんなの……」


 瑠璃は答えの出ない問いを飲み込んだ。


「ああ」

「そんなの、正しくありません」

「正しくない」


 国王は否定しなかった。


「だから苦しい」


 瑠璃は拳を握った。

 誰かを救うために。

 誰かを救わない。

 そんなことを、瑠璃は考えたことがなかった。


「……嫌です」

「ああ」


 軍務卿が赤い駒を一つ置き直した。


「私は、そんな王にはなりたくありません」

「そうか」

「皆を助けたい」

「ああ」


 瑠璃は涙を拭い、もう一度国王を見た。


「父上は、そう思わないのですか」


 国王は娘を見る。


「思っている」


 瑠璃の涙が落ちた。


「毎日、思っている」


     ◇


 銀華の屋敷。

 昼を過ぎても、冬真も蒼華も戻らなかった。

 銀華は食卓に座っている。

 料理は冷めている。


「銀華様。少しでも」

「食べます」


 箸を持つ。

 一口。

 味がしない。


「父様から連絡は?」

「ありません」


 銀華は冷めた料理へ視線を落とした。


「母様は?」

「同じく」


 使用人は答えられず、静かに頭を下げた。


「静様は?」

「王城にいらっしゃいます」


 銀華は震える指で箸を持ち直した。


「瑠璃様は?」

「ご無事だと」

「そうですか」


 銀華はもう一口食べた。

 手が震えている。


「銀華様」

「大丈夫です」

「ですが」

「食べないと、母様に怒られますから」


 少し笑った。

 使用人は何も言えなくなった。


「父様も、ちゃんと食べているでしょうか」


 誰も答えない。


「戦っているなら、食べないと駄目です」

「……はい」

「母様も」

「はい」

「静様は、言わないと食べないかもしれません」


 銀華は笑おうとした。

 うまく笑えなかった。


「だから……皆、大丈夫です」


 箸を持つ指へ力を入れる。


「大丈夫です」


     ◇


 王都西門。


「交代だ!」

「まだいける!」


 冬真は敵陣から目を逸らさない。


「命令だ! 下がれ!」


 冬真が若い兵士の肩を押した。


「寝ろ。食え。二刻後に戻れ」

「旦那は?」

「俺はもう少しいる」

「それじゃ――」


 張りつめた空気が二人の間に残る。


「俺はお前より年上だ」

「だから休むべきでは?」


 若い兵は冬真の返事を黙って待った。


「うるさい!」


 周囲から笑いが漏れた。

 ほんの一瞬。

 張りつめた空気が緩む。


「笑えるならまだ大丈夫だ!」


 冬真が声を張る。


「門は落とさせるな! だが死に急ぐな! 死んだ奴は次の交代に来られんぞ!」

「はっ!」


 兵士たちが応える。

 冬真は城壁の向こうを見る。

 敵陣。

 そのさらに奥。

 森。


「旦那」

「何だ」

「勝てますか」


 若い兵が聞いた。

 冬真はすぐに答えなかった。


「勝つ」

「……はい」


 冬真は剣を肩へ担ぎ直した。


「勝てるかじゃない」

「勝って帰る」


 銀華の顔が浮かぶ。

 蒼華の顔も。


「帰らないと怒られるからな」


挿絵(By みてみん)


     ◇


 王城の地下。

 蒼華は、ついに痕跡を見つけた。


「ここ」


 古い通路。

 床に擦れた跡。

 血。

 そして、王子の上着から取れた小さな留め具。


「通った」

「この先は旧貯蔵庫です」


 兵士が古い見取り図を蒼華の前へ広げた。


「出口は?」

「城外へ続く古い搬入口があったはずですが、何十年も使われていません」


 蒼華は出口までの線を指でなぞった。


「地図」


 兵士が広げる。

 蒼華は見る。


「ここへ回って」

「奥方様は?」


 兵士はなおも止めたそうに口を開く。


「私は先に行く」

「一人で?」


 蒼華は返事を待たず暗がりへ踏み込んだ。


「時間がない」

「危険です!」


 蒼華が兵士を見る。


「だから行くの」

「ですが」

「王妃様と王子様が連れ出される」

「……」

「あなたたちは反対側から。挟む」

「分かりました」


 蒼華が走る。

 暗い地下通路。

 湿った空気。

 足音。

 遠くに声。

 追いつく。

 曲がり角。

 数人の反乱兵。

 その先に。


「王妃様!」


 王妃は息子を庇いながら後ろへ下がる。

 王妃が振り返る。


「……!」


 声を出す前に、反乱兵が剣を抜いた。


「来たぞ!」


 蒼華は足を止めない。

 一人目。

 振り下ろされた刃を紙一重でかわす。

 そのまま懐へ入る。

 腹へ蹴り。

 二人目の刃を屈んでかわす。

 手首を打ち、剣を落とさせる。

 致命傷にはしない。


「退きなさい!」

「殺せ!」


 三人。

 四人。

 狭い通路。

 数の差を作らせない。

 蒼華は一歩ずつ前へ進む。


「王妃様! 王子様を連れてこちらへ!」

「でも!」


 駆けつけた兵たちが王妃と王子を囲む。


「早く!」


 王妃が息子の手を引く。

 走る。

 反乱兵が追おうとする。

 蒼華が道を塞ぐ。


「行かせない」


 低い声。

 狭い通路に、刃が壁を叩く音が響く。


     ◇


 別の通路から回り込んだ王国兵が到着した。


「奥方様!」

「王妃様を!」


 王妃は蒼華の傷を見て足を止めた。


「はっ!」

「王子様も!」


 兵が二人を囲む。


挿絵(By みてみん)


「あなたは?」


 王妃が蒼華を見る。


「後から行きます」

「一緒に!」

「大丈夫です」

「でも――」

「銀華に、まだ叱られたくありませんから」


 蒼華が笑った。

 王妃は一瞬迷い、頷いた。


「必ず来て」

「はい」


 王妃たちが走る。

 蒼華は残る。

 敵はまだいる。


「さて」


 蒼華は王妃たちの背を隠すように立った。


「ここから先は通さないわよ」


     ◇


 数刻後。

 王妃と王子が王城へ戻った。


「母上!」


 瑠璃が走る。


「瑠璃!」


 抱き合う。


「母上……!」

「ごめんなさい。心配をかけたわね」

「弟は?」

「ここにいる」

「姉上!」


 三人が抱き合う。

 瑠璃は泣いた。

 声を上げて。


「よかった……本当に……」

「姉上、痛いです」

「我慢してください」

「姉上が泣いてる」

「泣いていません」

「泣いてます」

「うるさいです」


 王妃が二人を抱きしめる。

 静は少し離れた場所から見ていた。

 朱も涙を拭っている。

 国王が入ってくる。


「無事か!」

「あなた」


 王妃が夫へ駆け寄る。

 国王が王妃と息子を抱く。

 家族が揃った。

 一瞬だけ。

 戦が消えたようだった。


「雪乃夫人は?」


 国王が尋ねる。


「後ろに残って……」


 王妃の顔が曇る。

 静がすぐに立ち上がった。


「行く」

「待て」


 国王が止める。


「なぜ」

「救援を出している」


 静の足が、もう地下通路へ向きかけている。


「私が行った方が早い」

「瑠璃を頼む」


 王妃は静の背へ声を投げた。


「今は家族がいる」

「静」


 王妃が呼んだ。


「あの人は、私たちを逃がすために残った」

「分かってる」


 瑠璃は静の手を離さなかった。


「だから――」

「分かってるから行く」


 静の声が低くなる。


「静」


 瑠璃が近づく。


「行ってください」


 静が瑠璃を見る。


「私はここにいます」

「……」


 静は瑠璃の目を見て、ようやく頷いた。


「父上も母上もいます。朱も」

「瑠璃様」


 朱が頷く。


「私がおそばに」

「だから」


 瑠璃が静の手を握る。


「銀華の母上を、お願いします」


 静は数秒、瑠璃を見つめた。


「ああ」


 それだけ言い、走り出した。


     ◇


 地下通路。

 静が着いたとき、戦いはほぼ終わっていた。

 王国兵が負傷者を運んでいる。


「どこ」

「静様!」


 静の視線が蒼華の脇腹で止まる。


「どこだ」

「奥方様なら――」


 その先。

 壁際に蒼華が座っていた。


「遅い」

「……」


 静が歩み寄る。


「怪我」

「少しだけ」


 蒼華は立とうとして壁へ手をついた。


「見せろ」

「命令?」


 静は黙って蒼華の腕を肩へ回した。


「見せろ」


 蒼華が笑う。


「本当に可愛くなくなったわね」

「いいから」


 脇腹。

 服が赤く染まっている。

 静の目が鋭くなる。


「深い」

「浅いわ」


 蒼華の冗談に、静の表情は緩まない。


「嘘」

「昔から、そういうところだけ鋭いのよね」


 静の指が蒼華の衣を強く掴む。


「医師」

「もう来るって」


 蒼華はその手を見て声を柔らげた。


「立てるか」

「たぶん」


 静が腕を貸す。

 蒼華は立ち上がった。

 少しふらつく。

 静が支える。


「ほら。まだ私の方が大きい」

「何が」


 静は俯いたまま答えを飲み込んだ。


「昔は私があなたを抱えてた」

「覚えてない」


 蒼華は返事を急かさず待った。


「嘘」

「……」


 静は蒼華の顔を見たまま動かなかった。


「静」

「何」

「怖かった?」


 静が黙る。


「私が死ぬと思った?」

「言うな」


 蒼華は静の強張った手へ目を落とした。


「ごめん」

「言うな」


 静の声が震えた。

 蒼華が静の頬へ手を伸ばす。


「大丈夫」

「……」

「まだ死なないわ」

「当たり前だ」


 静はようやく肩の力を少し抜いた。


「銀華も待ってるしね」

「ああ」

「あなたも?」


 静は答えない。


「静?」

「待ってる」


 蒼華が微笑んだ。


「そう」


 その笑顔を見て。

 静は初めて、少しだけ息を吐いた。


     ◇


 その日の夕刻。

 王都の外では、反乱軍が攻撃を止めた。

 静かだった。

 不自然なほどに。


「何を待っている」


 国王が地図を見る。


「援軍では?」

「こちらの援軍が来る前に決めたいはずです」


 軍務卿が答える。


「なら、なぜ止まる」


 冬真も戻っている。

 蒼華は医務室。

 命に別状はない。

 それを聞いてから、ようやく水を飲んだ。


「何か仕掛けてくる」


 冬真が言う。


「城内の内通者はほぼ抑えた」

「なら別の手だ」


 瑠璃も会議にいる。

 顔には疲労がある。

 だが昨日までとは違う目で地図を見ている。


「父上」

「何だ」


 会議卓の地図へ全員の視線が集まる。


「敵は、私たちの援軍が来る場所を知っているのでしょうか」


 国王が娘を見る。


「なぜそう思う」

「街道を押さえる位置が……偶然にしては正確すぎます」


 軍務卿が地図を見る。


「確かに」

「この国の地理を知っている者なら分かるのでは?」


 軍務卿が街道沿いの駒を見直した。


「それだけではない」


 冬真が口を挟む。


「守備隊の動きも読まれてる」

「内通者から?」


 冬真は守備隊の配置を指で追った。


「それもあるだろう」

「他にも?」


 瑠璃は七つの領軍旗を順に見た。


「分からん」


 瑠璃は地図を見る。

 七家。

 三万以上。

 内通者。

 大量の武器。

 同時に落ちた関所。


「これを……七人の領主だけで?」


 誰も答えなかった。

 その疑問は。

 今はまだ、疑問のままだった。


     ◇


 夜。

 反乱軍の陣。


「失敗した?」


 男の声は静かだった。


「王妃と王子を奪還されました」

「誰に」


 領主は男の顔色を窺った。


「雪乃の女です」

「……あれか」


 男が指で机を叩く。


「始末したのか」

「負傷させましたが」


 男の指が机を一定の間隔で叩く。


「生きている」

「はい」


 天幕の入口が風で小さく揺れた。


「厄介だな」


 領主が唇を噛む。


「次はどうする」

「予定を早める」

「総攻撃か?」

「違う」


 男が立ち上がる。


「王家の心を折る」

「どうやって」


 男は答えなかった。

 代わりに、天幕の外へ声をかける。


「連れてこい」


 二人の兵が、一人の男を引きずってきた。

 王国軍の伝令兵だった。


「何をする」

「伝えてもらう」


 男が伝令を見る。


「王へ」


 伝令は睨み返す。


「誰が貴様らの言葉など――」

「伝えなければ、お前の家族がいる村から焼く」


 伝令の顔色が変わる。


「……何を」

「知っている」


 男は微笑んだ。


「こちらは、よく知っている」


     ◇


 同じ夜。

 王都から少し離れた村。

 刹那は母と一緒に、窓へ板を打ちつけていた。


「これでいい?」

「もう少し右」


 母は窓板へ手を添えたまま答えた。


「ここ?」

「そう」


 父は村の男たちと入口を見張っている。

 遠くの空が赤い。


「お母さん」

「何?」


 刹那の目が遠い空の赤へ向く。


「王都、燃えてるの?」

「分からない」

「戦なの?」


 母の手が止まる。


「……そうかもしれないね」

「ここにも来る?」


 母はすぐには答えなかった。


「来ないよ」

「本当?」

「王都には強い兵隊さんがたくさんいるから」

「じゃあ大丈夫?」

「大丈夫」


 母が刹那の頭を撫でる。

 その言葉を。

 今日、何人の人間が口にしただろう。

 大丈夫。

 きっと大丈夫。

 誰もが、それを信じたかった。

 刹那は窓の隙間から赤い空を見た。

 まだ。

 村には家がある。

 父がいる。

 母がいる。

 知っている人たちがいる。

 自分の寝床がある。

 明日もある。

 そう思っていた。


     ◇


 深夜。

 王城の門前へ、一騎の馬が近づいた。


「止まれ!」


 門兵が弓を構える。


「王国軍だ!」


 男が叫ぶ。


「伝令! 陛下へ!」


 門が少しだけ開く。

 男は中へ入った。

 顔は腫れ、片腕を負傷している。


「何があった!」

「反乱軍から……」


 門兵が倒れかけた伝令の身体を支えた。


「何だ!」

「陛下へ、直接……」


 男はその場に崩れた。


     ◇


 国王の前で。

 伝令兵は震えていた。


「申せ」

「……敵から、伝言です」


 伝令は痛む腕を庇いながら息を整えた。


「何だ」

「明日の正午までに……王女殿下を引き渡せと」


 部屋の空気が凍った。

 瑠璃が息を止める。


「私を?」

「はい……」


 国王は伝令から目を逸らさない。


「続けろ」


 国王の声が低くなる。


「引き渡さなければ……王都周辺の村を、一つずつ焼くと」


 瑠璃の顔から血の気が引いた。


「村を……?」

「最初の村は……」


 伝令が名前を告げた。

 小さな村だった。

 王都の外れ。

 軍事的な価値などほとんどない。

 そこに。

 十一歳の刹那が暮らしている。


「父上」


 瑠璃が立ち上がる。


「駄目だ」


 国王が即座に言った。


「まだ何も言っていません!」

「分かっている」


 瑠璃の背筋が強張った。


「私が行けば村が――」

「駄目だ!」


 国王の声が娘の言葉を遮った。


「でも!」

「お前を渡して終わると思うのか!」


 瑠璃が言葉を失う。


「相手は王家を潰すつもりだ」

「それでも、村の人たちには関係がありません!」


 瑠璃は一歩も退かなかった。


「分かっている!」

「だったら!」


 静が瑠璃と国王の間へ身体を入れる。


「瑠璃!」


 父娘の声がぶつかる。


「行かせない」

「静まで」


 瑠璃の言葉に、静の目が鋭くなる。


「絶対に」

「でも人が死ぬんです!」


 静は震える拳を隠そうともしなかった。


「お前も死ぬ」

「私一人で済むなら!」


 静の表情が変わった。


「それを言うな」

「え?」


 瑠璃はそこで初めて口を閉じた。


「二度と言うな」


 低い。

 瑠璃が初めて聞く声だった。


「静……」

「お前一人ならいいなんて、言うな」


 軍務卿が地図上の村へ目を落とす。


「でも――」

「お前を大事に思う人間がいる」


 静の拳が震えている。


「勝手に一人で決めるな」


 瑠璃は何も言えなくなった。

 蒼華が医務室で言った言葉。

 守りたい人は、あなたにも生きていてほしい。

 それと同じだった。


「では……どうするの」


 瑠璃の声が小さくなる。


「村を見殺しにするの?」


 誰も答えられない。

 国王が目を閉じた。

 長い沈黙。


「救援隊を出す」


 軍務卿が顔を上げる。


「陛下!」

「少数でいい。村民の避難を」


 国王は机に置いた手へ力を込めた。


「敵はそれを待っている可能性が」

「分かっている」


 瑠璃は国王の横顔を見つめた。


「兵を割けば――」

「分かっている!」


 国王が机を叩いた。


「それでも出す!」


 瑠璃が国王を見る。


「父上……」

「全ては救えない」


 国王の声が震えていた。


「だが、最初から諦めることはできない」


 瑠璃の目から涙が落ちる。


「はい」

「救援隊を編成しろ」

「はっ!」


 命令を受けた兵がすぐに部屋を出る。


「静」


 静は短く息を吐いた。


「何」

「お前は残れ」


 部屋の空気が張りつめる。


「分かってる」

「怪我人を出す気はない」

「冬真を呼べ」


 兵が走る。

 夜は、まだ終わらない。


     ◇


 そして。

 王都から見えない森の向こうで。

 すでに別の部隊が動いていた。

 村へ向かって。

 救援ではない。

 松明を持った兵たちが。

 静かに。

 暗い道を進んでいた。


* * *


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