番外編② 崩れ始める日常
【お知らせ】
今回より、より読みやすくお楽しみいただけるよう、本文の改行や行間など、表示形式を一部調整しました。
物語の内容や文体そのものに変更はありません。
これまでより少し見やすくなった『南のオーフェリア』を、引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。
翌朝。
紅蒼瑠璃が目を覚ましたとき、窓の外はいつもと変わらない色をしていた。
薄い朝靄。
城下の屋根。
遠くの森。
まだ昇りきらない太陽が、王都を柔らかく照らしている。
瑠璃はしばらく寝台の上からその景色を眺めた。
昨夜、朱と交わした言葉が残っていた。
――きっと大丈夫です。
自分で言った言葉だった。
そうであってほしいという願いだったのかもしれない。
けれど朝になれば、不安は少し薄れていた。
何も起きていない。
城はいつもどおり目を覚まし、侍女たちが廊下を歩いている。
なら、今日も自分にできることをすればいい。
「姫様。お目覚めですか?」
「はい」
「本日は朝食の後、陛下がお呼びです」
瑠璃は衣服へ伸ばしかけた手を止めた。
「父上が?」
「はい。雪乃様ご夫妻も同席されると」
「……分かりました」
胸の奥へ、昨夜の小さな棘が戻ってくる。
それでも瑠璃は笑った。
「では、急ぎましょう」
◇
朝食の席に、国王はいなかった。
王妃と弟だけが座っている。
「父上は?」
「夜明け前から政務室よ」
王妃が答えた。
「何かあったのですか?」
「まだ分からないわ」
「母上も?」
王子が顔を上げる。王妃は息子へ頬を寄せた。
「ええ」
王妃の表情は穏やかだった。
だが、いつもより紅茶へ手を伸ばす回数が少ない。
弟だけが事情を知らないらしく、焼いたパンへ蜂蜜を塗っている。
「姉上」
「何です?」
「今日、時間あります?」
弟はパンから顔を上げ、期待を隠さず瑠璃を見た。
「どうして?」
「昨日の約束」
「約束?」
弟がむっとする。
「城下へ行くって」
「あ」
「忘れてた」
瑠璃は一瞬だけ視線を泳がせた。
「忘れてはいません」
「今、忘れてた顔でした」
弟の視線が、じっと瑠璃へ向く。
「今日は少し難しいかもしれません」
「また?」
「ごめんなさい」
弟が頬を膨らませた。
瑠璃は少し考え、手を伸ばしてその髪を撫でた。
「明日」
「本当ですか?」
「はい。明日は必ず」
「絶対?」
瑠璃は絡めた小指へ少し力を込めた。
「絶対です」
弟の顔が明るくなる。
「じゃあ、約束です」
「ええ」
小指を差し出され、瑠璃は笑った。
王族の作法にはない。
それでも二人は小指を絡めた。
「約束」
「約束です」
王妃がその様子を見ていた。
少しだけ寂しそうな顔に見えたのは、瑠璃の気のせいだった。
◇
政務室には、すでに冬真と蒼華がいた。
静もいる。
朱は瑠璃の後ろへ控えた。
机の中央には、大きな地図が広げられている。
「瑠璃。来たか」
「はい」
国王の声に、いつもの柔らかさは残っている。
だが目は笑っていない。
「座りなさい」
瑠璃が席につく。
「昨夜、北西の関所から連絡が途絶えた」
「……連絡が?」
「ああ」
「事故では?」
瑠璃は地図へ視線を落とした。まだ、そこに敵意があるとは思いたくなかった。
「その可能性もある」
国王は地図の一点を指した。
「ただ、同じ時刻に西部街道の二つの中継所からも定時報告が来ていない」
「三か所……」
地図の上で、国王の指が南へ移る。
「さらに、南の河川港で領軍の兵が確認された」
「領軍が王都近くまで?」
「訓練からの帰路だと説明している」
瑠璃は報告書へ目を落とす。
「なら、本当に帰路なのでは」
誰もすぐには答えなかった。
「姫様」
蒼華が静かに呼んだ。
「はい」
「そうであれば、一番いいと思います」
「では」
蒼華の声は穏やかなままだった。
「でも、そうでなかったときの準備も必要です」
瑠璃は唇を結ぶ。
「母上と同じことを言うのですね」
「私も母親ですから」
少しだけ笑った。
その笑顔を見て、瑠璃の緊張がわずかに緩む。
「雪乃殿には、王都西部の警戒を任せる」
国王が冬真へ告げる。
「ああ」
「夫人には城内に残ってもらいたい」
「私は外へ出た方が役に立つと思いますけど」
「分かっている。だが、もし王都内で何か起きた場合、静とあなたが城にいれば心強い」
蒼華は一瞬だけ静を見る。
「分かりました」
「静」
「何」
国王の視線が静へ移る。
「瑠璃を頼む」
静の表情が変わらない。
「言われなくても」
「……そうか」
国王が苦笑した。
瑠璃は地図を見た。
「父上」
「何だ」
「領主へ使者を」
「もう出した」
「返事は?」
国王はすぐには答えず、地図の上に置いた指を止めた。
「まだだ」
「なら、待ちましょう」
国王は瑠璃の言葉を否定しなかった。
「待つ」
国王は頷いた。
「ただし、備えながらだ」
瑠璃は納得しきれないまま頷いた。
◇
銀華は、自宅の庭で剣を振っていた。
「百四十七……百四十八……」
昨日より回数は減らした。
蒼華に言われたからではない。
――いや、半分くらいはそうだった。
残り半分は、数だけ増やしても意味がないと自分でも思ったからだ。
一振りごとに足を確認する。
腰。
肩。
剣先。
「百四十九……」
「銀華様」
声をかけられ、剣を止めた。
家に仕える兵士が立っている。
「どうしました?」
「旦那様から、本日は屋敷を出られぬようにとのことです」
「父様が?」
銀華は木剣を下ろした。兵士の硬い表情が、いつもと違って見える。
「はい」
「理由は?」
「念のため、とだけ」
銀華は眉を寄せた。
「母様は?」
「王城です」
「静様も?」
「はい」
胸がざわつく。
「何かあったんですか?」
「私どもには何も」
兵士は本当に知らない顔をしていた。
銀華は剣を下ろす。
「分かりました」
「お願いいたします」
兵士が去る。
銀華は庭に一人残った。
昨日までと同じ庭。
同じ木。
同じ空。
なのに、何かが違う。
風の音まで落ち着かなく聞こえる。
「……考えても仕方ない」
自分へ言い聞かせ、再び構える。
「百四十九」
剣を振る。
「百五十」
もう一度。
強くなりたい。
昨日と同じ気持ちだった。
ただ、その理由に小さな不安が混じり始めていることを、十四歳の銀華はまだ知らなかった。
◇
昼。
瑠璃は王城を出ようとして、静に止められた。
「どこへ行く」
「施療院です」
「駄目だ」
「どうして?」
「今日は城にいろ」
静はそれだけ言って、瑠璃の進路を塞いだ。
「父上からは何も」
静は廊下の先へ目をやった。人の往来は普段と変わらない。それでも警戒を解く様子はない。
静は腕を組んだ。
「私が言ってる」
「静」
「駄目だ」
瑠璃は困った顔になる。
「患者さんと約束しています」
「別の日にしろ」
「待っている人がいるのです」
「生きていれば会える」
瑠璃の表情が固まった。
「それは、どういう意味ですか」
静は答えない。
「何か知っているの?」
「何も」
「では、なぜそんな言い方を」
問い詰める瑠璃に、静は一度だけ眉を寄せた。
「嫌な感じがする」
「静が?」
「ああ」
剣士の勘。
瑠璃はそういう言葉をあまり好まなかった。
理由の説明がつかないからだ。
「でも、城下はいつもどおりです」
「だから何だ」
城下へ向かう人々の声が、窓の外からいつもどおり聞こえてくる。
「不安を煽るようなことをすれば、民まで混乱します」
「外へ出ないだけだ」
「私が急に予定を取りやめれば、それこそ何かあったと思われます」
静が瑠璃を見る。
「お前は王女だ」
「分かっています」
瑠璃は反射的に言い返したが、静の目は逸れなかった。
「分かってない」
「静」
「自分一人の予定じゃない」
瑠璃の胸に、国王と同じ言葉が刺さる。
自分一人ではない。
「……では、護衛を増やします」
「駄目だ」
「静!」
静は短く息を吐いた。
「私も行く」
瑠璃が目を瞬く。
「それならいい」
「最初からそう言ってください」
「言った」
「言ってません」
静は当然のことのように言う。
「同じだ」
「全然違います」
朱が後ろで小さく息を吐いた。
「お二人とも、そろそろ出発しなければ本当に遅れます」
「朱はどちらの味方なのです?」
「瑠璃様の味方です」
朱は淡々と答え、今度は静へ視線を移した。
「なら――」
「だから静様もご一緒ください」
瑠璃は黙った。
静がわずかに勝ち誇った顔をしたように見える。
「今、笑いました?」
「笑ってない」
「絶対笑いました」
静はさっさと歩き出す。
「行くぞ」
「誤魔化しましたね」
ほんの一瞬。
いつもの日常が戻った。
◇
城下は穏やかだった。
少なくとも、表面上は。
施療院へ向かう途中、瑠璃はいつものように声をかけられた。
果物屋の主人。
子供たち。
洗濯物を抱えた女性。
老人。
「姫様、今日は静様も一緒ですか」
「はい。私一人では危ないそうです」
「余計なことを言うな」
「本当でしょう?」
静が無言になる。
子供が静を見上げた。
「静様って強いの?」
「とても強いですよ」
瑠璃が答える。
「姫様より?」
「……それは」
「強い」
静が即答した。
「静!」
周囲から笑い声が上がる。
瑠璃も少しむっとしながら、結局笑った。
そのとき。
通りの向こうで荷車が急に止まった。
積み荷が崩れる。
木箱が地面へ落ちた。
中から鉄の音がした。
静の目が変わる。
「止まれ」
低い声。
御者が固まった。
護衛兵が駆け寄る。
「箱を開けろ」
「ただの農具です!」
静の声から、先ほどまでの軽さが消えていた。
「開けろ」
御者の顔から血の気が引く。
兵士が木箱をこじ開ける。
中に入っていたのは、剣だった。
一振りや二振りではない。
布に包まれた剣が何十本も並んでいる。
通りが静まった。
瑠璃も言葉を失う。
「これは……」
「農具か?」
静が御者を見る。
「し、知らない! 俺は運べと言われただけで!」
「誰に」
「知らないんだ!」
男が後ずさる。
静の手が剣へ伸びる。
「静」
瑠璃が止めた。
「まだ何もしていません」
「逃げる」
瑠璃は静の手元へ視線を落とす。
「だからといって斬る必要はありません」
「斬らない」
静は御者の前へ一歩出ただけだった。
それだけで男は腰を抜かした。
「話を聞きましょう」
瑠璃が男の前にしゃがむ。
「怖がらなくて大丈夫です」
「ひ、姫様……」
「誰から頼まれました?」
瑠璃は声を落とした。御者の肩から、少しずつ力が抜けていく。
「本当に知らないんです。荷を受け取って、王都まで運べと……金をもらっただけで」
「どこで?」
「西の……小さな宿場です」
「相手の顔は?」
「フードを……」
瑠璃は男の返答を急かさなかった。
「声は?」
「男です。たぶん……」
瑠璃は一つずつ聞いた。
男の呼吸が少しずつ落ち着く。
やがて護衛へ引き渡された。
「姫様」
施療院の職員が不安そうに瑠璃を見る。
「大丈夫です」
瑠璃は笑った。
「念のため、今日は早めにお家へ帰ってください」
自分でそう言いながら。
胸の中では、もう「何もない」とは思えなくなっていた。
◇
王城へ戻ると、国王が待っていた。
「剣が?」
「はい」
瑠璃が説明する。
「御者は何も知らないと思います」
「なぜそう思う」
瑠璃は先ほどの御者の顔を思い返した。震える声も、逃げようとした足も。
「怯え方が……嘘をついているようには」
「瑠璃」
国王が遮る。
「お前がそう感じたことは報告として聞く。だが、それで無実とは決めない」
「……はい」
「静」
「同じだと思う」
「男は?」
「戦える人間じゃない」
「そうか」
国王が地図へ目を落とす。
「武器が王都へ入っている」
冬真が言う。
「一台だけとは思わない方がいいな」
「門の検査を強化する」
「そうすれば相手にも気づかれたと伝わる」
「構わん」
軍務卿が言った。
「今は入れないことが先です」
「待ってください」
瑠璃が声を上げた。
「もし領主の一部が本当に何かを企んでいるとしても、まだ国全体ではありません」
「当然です」
「なら、城門を閉じたり兵を増やしたりすれば、関係のない人まで恐れます」
「姫様」
軍務卿が瑠璃を見る。
「恐れさせないために、何もせず武器を通すわけにはいきません」
「でも――」
「瑠璃」
国王が呼んだ。
「今日はここまでだ」
「父上」
「分かっている。お前の言いたいことは」
「では」
国王は地図から目を上げ、瑠璃をまっすぐ見た。
「それでも、門を強化する」
瑠璃は黙った。
「民を怖がらせるかもしれない。商人に迷惑をかけるかもしれない。それでも今は、武器を止める」
「……はい」
「嫌か?」
「嫌です」
正直に答えた。
「そうか」
「でも……必要なのだと思います」
国王が少しだけ笑った。
「それでいい」
瑠璃は自分の手を見る。
昨日までなら、もっと強く反対したかもしれない。
何かが変わり始めている。
それが正しいのか、間違っているのか。
まだ分からなかった。
◇
夕方。
冬真が屋敷へ戻った。
「父様!」
銀華が玄関まで走る。
「走るな」
「ごめんなさい」
「母さんみたいなこと言うな」
冬真は笑った。
「今日はずっと家にいました」
銀華は少し胸を張った。冬真の口元がわずかに緩む。
「偉いな」
「子供じゃありません」
銀華がむっとすると、冬真は堪えきれずに笑った。
「十四は子供だ」
「静様は十七歳なのに母様に子供って言われてました」
父娘の間に、束の間だけいつもの空気が戻る。
「あいつも子供だ」
「聞こえたら怒りますよ」
「本人の前でも言える」
「本当ですか?」
「……たぶんな」
銀華が笑う。
冬真は娘の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「銀華」
「はい?」
「もし、何かあったら」
「何か?」
言いかけて止める。
何を言うつもりだったのか。
自分でも分からなかった。
「いや。何でもない」
「父様?」
銀華が首を傾げる。冬真は娘の顔を見たまま、続ける言葉を飲み込んだ。
「母さんは今夜も城だ。俺も飯を食ったら戻る」
「またですか」
「ああ」
「私も城へ行ってはいけませんか?」
「駄目だ」
銀華の顔が曇る。
「どうして?」
「危ないからだ」
初めて、はっきり言った。
銀華が黙る。
「……戦になるんですか?」
「まだ分からない」
「父様」
「本当に分からない」
冬真の声から、いつもの冗談めいた調子が消えていた。
「なら、私にも何か――」
「銀華」
冬真が娘の肩へ手を置いた。
「今、お前がすることは生きていることだ」
銀華は肩に置かれた冬真の手を見た。その言葉だけでは、まだ納得できない。
「それだけ?」
「ああ」
「でも私は剣を習っています」
「だから何だ」
「戦えるように」
「十四歳のお前を戦わせるために教えてるんじゃない」
冬真の声が少し強くなる。
銀華が目を伏せる。
「……ごめんなさい」
冬真は息を吐いた。
「怒ってるんじゃない」
「はい」
「強くなるのはいい。でもな」
冬真の手が、銀華の髪をくしゃりと乱す。
「強いから戦わなきゃいけないわけじゃない」
「母様と同じことを言いますね」
張りつめていた銀華の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「夫婦だからな」
「そういうものですか?」
「そういうものだ」
銀華は少し笑った。
冬真も笑った。
その夜、二人は向かい合って食事をした。
銀華は冬真の好きな料理を自分の皿から少し分けた。
冬真は「いらない」と言いながら食べた。
どうでもいい会話をした。
剣の話。
蒼華の話。
静の昔話。
瑠璃がまた訓練場で静に負けた話。
何でもない夜だった。
銀華は、その一つ一つを覚えようとはしなかった。
また次があると思っていた。
◇
深夜。
王城へ、馬が一頭駆け込んだ。
騎手は鞍から落ちるように降りた。
「陛下へ……!」
服は泥と血で汚れている。
門兵が支える。
「北西……関所……」
「何があった!」
門兵が身体を支える。騎手の服から泥と血が床へ落ちた。
「襲撃……」
「誰に!」
男は息を吸う。
男は喉を鳴らし、ようやく声を絞り出した。
「領軍……です」
門兵の顔色が変わった。
「数は!」
「分かりません……内側から……門を……」
そこで男の身体から力が抜けた。
「医師を呼べ!」
兵士が走る。
鐘は鳴らされなかった。
まだ。
王都を眠らせておくために。
◇
政務室。
報告を聞いた国王は、長く目を閉じた。
「間違いないのか」
「生存者は三名。全員、同じ証言です」
軍務卿が答える。
「領軍の旗を?」
「確認しています」
「どこの領だ」
名前が告げられる。
瑠璃が何度も会ったことのある貴族だった。
国王の即位記念式典にも来ていた。
去年、王城の宴で笑って話していた。
瑠璃へ「立派な王女になられた」と頭を下げた男。
「使者を」
国王が言った。
軍務卿が顔を上げる。
「陛下」
「最後にもう一度送る」
「危険です」
軍務卿の声は低い。室内にいる誰も、反対の理由を説明される必要はなかった。
「分かっている」
「すでに関所を襲っています」
「だからこそだ」
国王は立ち上がる。
「勘違いでも、現場の暴走でも、まだ止められる可能性が一つでもあるなら確かめる」
蒼華が国王を見る。
「瑠璃様に似ていますね」
「逆だ。あれが私に似たんだ」
少しだけ笑う。
だが、誰も笑い返せなかった。
「同時に、王都守備隊を招集。各門を閉鎖する準備を。民にはまだ知らせるな」
「はっ」
「雪乃」
「ああ」
国王は冬真へ向き直った。
「西門を頼む」
冬真は短く頷いた。国王の視線が、次に蒼華へ移る。
「任せろ」
「夫人」
国王が蒼華へ向き直る。
「私は城内ですね」
「頼む」
「静は?」
蒼華の問いに、国王は城内の方角へ視線をやった。
「瑠璃のところだ」
「なら大丈夫ね」
蒼華が言った。
国王がその言葉へ頷く。
まだ。
このときは。
誰も、間に合わないとは思っていなかった。
◇
瑠璃は自室で眠れずにいた。
扉が叩かれる。
「誰です?」
「私」
「静?」
扉を開ける。
静は剣を帯びていた。
いつもの木剣ではない。
本物の剣。
「どうしたのです?」
瑠璃は静の腰の剣を見る。木剣ではない。それだけで胸の奥が冷えた。
「着替えろ」
「え?」
「動ける服に」
「なぜ?」
「いいから」
瑠璃の心臓が強く打つ。
「何があったの」
「関所が落ちた」
頭の中が真っ白になる。
「……落ちた?」
「領軍に襲われた」
瑠璃の指先から力が抜ける。
「そんな」
瑠璃は窓辺から一歩離れた。胸の奥で、不安が急に形を持ち始める。
「瑠璃」
「何かの間違いです」
「生き残りがいる」
「でも、命令したのが領主本人とは――」
「分からない」
静は誤魔化さなかった。その答えが、今の瑠璃にはかえって重かった。
「なら、まだ」
瑠璃はその言葉に縋るように静を見た。
「ああ」
静が瑠璃を見る。
「まだ分からない」
その言葉に、瑠璃は少しだけ救われた。
「父上は?」
「政務室」
短い返事だった。静の声に、普段にはない切迫感が混じる。
「行きます」
「駄目だ」
「なぜ!」
「ここにいろと言われた」
「こんなときに部屋で待てと?」
「ああ」
「できません」
「やれ」
廊下の向こうで何かが倒れる音がした。静の手が剣の柄へ伸びる。
「静!」
瑠璃が声を荒らげた。
「私は王女です!」
「だからだ」
「父上が動いているのに、私だけ――」
「お前まで動けば守る場所が増える」
瑠璃が言葉を失う。
「今はここにいろ」
瑠璃は反論しかけたが、静の表情を見て言葉を止めた。
「……」
「朱も来る」
朱は無言で頷き、瑠璃のすぐそばへ寄った。
「静は?」
「ここにいる」
「ずっと?」
瑠璃は静を見上げた。返事を聞くのが怖いのに、聞かずにはいられない。
「ああ」
瑠璃は静の剣を見る。
「そんなに危険なのですか」
「分からない」
今日何度目かの言葉だった。
分からない。
それが怖かった。
瑠璃は窓へ近づく。
城下は暗い。
いつもの夜。
家々には灯りが残り、何も知らない人々が眠っている。
「静」
「何」
「明日になれば、話せるでしょうか」
瑠璃は窓の外の暗がりへ目を向けた。
「誰と」
「その領主と」
「分からない」
「私は……」
瑠璃は窓の外を見たまま言った。
「話したいです」
「ああ」
「どうしてこんなことをしたのか。何が不満だったのか。何を望んでいるのか」
「ああ」
「聞けば、まだ止められるかもしれない」
「そうだな」
瑠璃が振り返る。
「否定しないのですね」
静の手は剣の柄から離れない。
「話して止まるなら、その方がいい」
「静もそう思う?」
「ああ」
瑠璃はほんの少し笑った。
「良かった」
静は答えなかった。
ただ剣の柄へ手を置いたまま、扉のそばに立った。
◇
夜明け前。
王都から西へ離れた森の中。
何百という兵が、音を殺して進んでいた。
松明はない。
馬の蹄には布が巻かれている。
王都の守備隊に気づかれないためだった。
「関所は」
「予定どおりです」
「使者は?」
領主の問いに、報告役の男がわずかに目を伏せた。
「一人は処理しました。もう一人は逃しました」
「逃がした?」
「申し訳ありません」
男が舌打ちする。
「まあいい。今さらだ」
領主は進軍する兵の列へ目をやった。
「王都は警戒を始めるでしょう」
「始めさせろ」
「よろしいので?」
「こちらだけを見てくれるならな」
男が笑う。
その背後に、蒼緑国の領軍旗が揺れている。
さらに離れた場所。
木々の影に、一人の男が立っていた。
蒼緑国の鎧ではない。
領軍の鎧でもない。
顔の半分を布で隠している。
「予定は変わらない」
低い声。
領主が振り返る。
「分かっている」
「王家を残すな」
領主の笑みが薄れる。
「命令されるまでもない」
男の声には、迷いがなかった。
「王女もだ」
一瞬。
領主の顔から笑みが消えた。
「……十七の娘だぞ」
「それが?」
「いや」
領主は目を逸らす。
「何でもない」
「ここまで来て迷うな」
「迷ってなどいない」
「ならいい」
男は森の闇へ消えた。
領主はしばらくその方向を見ていた。
「閣下」
「進め」
「はっ」
兵が動き始める。
誰も、あの男の名を口にしない。
どこの国の者なのかも。
少なくとも、表向きは。
◇
朝。
鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
いつもの朝の鐘ではなかった。
短く。
激しく。
間を置かず。
瑠璃が椅子から立ち上がる。
「静!」
「いる」
すでに静は剣を抜いていた。
廊下から足音が聞こえる。
朱が扉を開けて飛び込んでくる。
「瑠璃様!」
「何がありました!」
朱は一度息を整えた。それでも声の緊張は隠せない。
「西門近郊で戦闘!」
「王都の外ですか?」
「それが……」
「南門でも、内側から騒ぎが!」
瑠璃の顔から血の気が引く。
「内側?」
「城下に武器を持った者が複数!」
昨日の荷車。
剣。
瑠璃の頭の中でつながる。
「父上のところへ行きます」
「駄目だ」
静が前へ出る。
「でも!」
「ここを動くな」
「静!」
遠くで爆発音がした。
窓が震える。
鳥が一斉に空へ飛び立つ。
そして。
王都のどこかから悲鳴が上がった。
瑠璃は窓へ駆け寄る。
遠く。
南の市街地から、細い煙が上がっていた。
「……嘘」
昨日まで。
そこを歩いた。
子供と話した。
果物をもらった。
皆、笑っていた。
「何で……」
また音がした。
今度は近い。
静が瑠璃の腕を掴む。
「下がれ」
「でも、城下に人が」
「兵が行く」
瑠璃は窓の向こうの煙を見た。そこには昨日、自分が歩いた通りがある。
「私も」
「駄目だ」
「私は聖女と呼ばれているんです!」
瑠璃が叫んだ。
「こんなときに部屋に隠れていたら――!」
「聖女だから何だ」
静の声が冷たく響く。
瑠璃が息を止める。
「お前は死なないのか」
「……」
「斬られても平気なのか」
静の問いに、瑠璃の喉が詰まる。
「それは」
「違うだろ」
静が瑠璃をまっすぐ見る。
「お前も人だ」
その言葉に。
瑠璃は何も返せなかった。
廊下から兵士が駆けてくる。
「静様!」
「何」
「陛下より! 姫様を東棟奥へ! 城内に内通者がいる可能性があります!」
「分かった」
静が頷くより早く、瑠璃は兵士へ向き直った。
「父上は?」
瑠璃が尋ねる。
「陛下は指揮所へ!」
瑠璃は兵士へ詰め寄る。
「母上と弟は!」
兵士の返事が一瞬遅れた。
「王妃様は北棟に。王子殿下は――現在確認中です」
「確認中?」
「瑠璃」
静が止める。
「弟はどこです!」
「姫様!」
「昨日、約束したんです!」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
城下へ行く。
ただそれだけの約束。
「探してください!」
「すでに兵が――」
瑠璃の声が廊下へ響いた。
「絶対に!」
「瑠璃!」
静が肩を掴む。
「行くぞ」
「でも!」
「私を信じろ」
瑠璃が静を見る。
白い髪。
いつもと変わらない顔。
その目だけが、今まで見たことがないほど鋭い。
「……はい」
瑠璃は頷いた。
◇
西門。
冬真は馬上から敵兵を見た。
「多いな」
隣の兵士が乾いた声を漏らす。
「笑ってる場合ですか」
「笑ってないとやってられん」
城外の街道を埋める領軍。
まだ全軍ではない。
それでも王都守備隊より多い。
「旗を確認しろ!」
「三家です!」
「三つ?」
「はい!」
冬真の表情から笑みが消える。
一つではない。
複数の領主が同時に動いている。
「最初から組んでやがったか」
門上から矢が放たれる。
敵も射返す。
「門を死守しろ!」
「はっ!」
冬真は門外へ視線を据えた。
「市街へ入れるな!」
剣を抜く。
銀華の顔が浮かんだ。
朝、見送れなかった。
昨日の夜が最後になっている。
「……縁起でもない」
自分で呟き、首を振る。
帰る。
当然だ。
帰って、銀華に説教をする。
また剣を見てやる。
妻に「甘やかしすぎ」と怒られる。
「全員、生きて帰るぞ!」
兵士たちが応える。
門の外で、最初の激突が始まった。
◇
王城。
蒼華は、廊下を走る兵士たちの中で立ち止まった。
「静は?」
「姫様と東棟へ!」
「分かった」
「奥方様は?」
「王妃様のところへ行く」
兵士の顔に迷いが浮かぶ。蒼華は足を止めなかった。
「護衛を!」
「いらない」
「しかし!」
「なら二人だけついてきて」
走り出す。
途中、曲がり角から男が現れた。
王国兵の鎧。
蒼華は一瞬も疑わなかった。
「北棟は?」
「こちらです!」
男が近づく。
次の瞬間。
腰の剣が抜かれた。
蒼華の身体が動く。
刃が空を切る。
男の手首を掴み、そのまま壁へ叩きつけた。
「ぐっ!」
剣が落ちる。
同行していた兵が驚く。
「な、何を!」
「内通者よ」
同行していた兵が、落ちた剣を蹴り遠ざける。
「誰の命令?」
「……」
蒼華は男の目を見据えた。
「言いなさい」
男が笑った。
「もう遅い」
蒼華の目が細くなる。
「何が?」
「王家は今日で終わる」
兵士が男を押さえ込む。
蒼華は北棟を見る。
嫌な予感がした。
「急ぐわよ」
◇
銀華の屋敷にも、鐘の音は届いていた。
「何の鐘ですか」
銀華が尋ねる。
兵士は答えない。
「教えてください」
銀華は兵士の顔を覗き込む。だが視線を合わせてもらえない。
「銀華様は中へ」
返事の代わりに、屋敷の門が軋みながら閉じ始めた。
「何が起きているんですか!」
「中へ!」
初めて強い声で命じられた。
銀華が固まる。
屋敷の門が閉じられる。
使用人たちが窓を閉める。
剣を持った兵士が配置につく。
「戦……?」
誰も答えない。
銀華は自室へ戻された。
扉の前にも兵が立つ。
窓から王都を見る。
遠くに煙が見えた。
「父様……」
西門にいる。
蒼華は王城。
静も。
瑠璃も。
自分だけがここにいる。
何もできない。
銀華は机の上の木剣を見る。
手を伸ばす。
握る。
それでも。
冬真の言葉が蘇った。
――今、お前がすることは生きていることだ。
「……分かってます」
誰もいない部屋で呟く。
「分かってますけど……」
手が震えた。
木剣を強く握る。
「何もできないのは……嫌です」
◇
東棟奥。
瑠璃は窓から離れた場所に座らされていた。
朱が隣にいる。
静は扉の前。
外から剣戟が聞こえる。
近くはない。
だが確実に城内だ。
「静」
「何」
「城の中で戦っているの?」
「ああ」
「味方同士が?」
瑠璃の指が膝の上で強く組まれた。
「もう味方じゃない」
瑠璃の顔が歪む。
「そんな言い方……」
「剣を向けてきた」
「でも」
「瑠璃」
静が少しだけ声を落とす。
「今は考えるな」
「無理です」
静の声がわずかに低くなる。
「なら、生きることだけ考えろ」
「皆は?」
「兵が守る」
答えを聞くたび、瑠璃の問いは家族へ近づいていく。
「父上は?」
「戦ってる」
「母上は?」
瑠璃の問いが重なるたび、静の表情が硬くなっていく。
瑠璃は兵士の沈黙を見逃さなかった。
「分からない」
「弟は?」
静が答えない。
瑠璃は立ち上がった。
「探しに行きます」
「座れ」
「嫌です」
「瑠璃」
「私は姉です!」
瑠璃は立ったまま静を見返した。声だけでは引き下がれない。
「王女だ」
瑠璃は静を睨み返した。
「その前に姉です!」
「……」
「弟がどこにいるかも分からないのに、ここで座っていろなんて――!」
静が瑠璃へ近づく。
頬を打つことも、怒鳴ることもしなかった。
ただ、両肩を掴んだ。
「私も行きたい」
その一言で、瑠璃の動きが止まった。静の声にも、押し殺した焦りがある。
瑠璃が止まる。
「王と王妃を探したい。銀華の両親のところにも行きたい。外の兵も助けたい」
静の声は低い。
「でも私は、お前を頼まれた」
「……」
静の指が瑠璃の肩に食い込む。
「だからここにいる」
「静……」
「私に、守らせろ」
瑠璃の目に涙が浮かんだ。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
「でも」
「生きろ」
短い言葉だった。
瑠璃は唇を噛み、頷いた。
◇
正午を待たず、王都の西門外では地面が血と泥に変わっていた。
冬真が敵兵の剣を受け流す。
一人。
二人。
三人。
強い。
王国の兵士たちが目で追えないほどに。
だが、斬っても次が来る。
その次も。
「押されるな!」
味方の兵が倒れる。
「隊列を崩すな!」
矢が飛ぶ。
盾で受ける。
「旦那!」
「何だ!」
伝令の兵が息を切らして駆け寄る。
「北側にも敵!」
伝令は膝に手をつき、息を切らしたまま北を指した。
「分かってる!」
「このままじゃ挟まれます!」
冬真が周囲を見る。
数が違いすぎる。
まだ守れる。
だが、このままでは削られる。
「第二隊を門内へ下げろ!」
「ですが!」
冬真は門内を指した。
「門を守る兵まで死なせるな!」
「はっ!」
敵の動きが妙だった。
こちらの配置を知っている。
増援を送ろうとする場所へ、先に兵を置いてくる。
「……内通だけじゃないな」
冬真が呟く。
「何です?」
「いや」
冬真は剣を握り直す。
戦場の勘が告げている。
この反乱は、昨日今日で考えられたものではない。
◇
王城北棟。
蒼華が駆け込んだとき、床には兵士が倒れていた。
「王妃様!」
返事はない。
奥へ進む。
一室の扉が開いている。
「王妃様!」
中へ。
そこに王妃はいなかった。
代わりに、侍女が一人、壁にもたれていた。
「しっかりして!」
「雪乃……様……」
「王妃様は?」
「連れて……」
蒼華は侍女の肩を支える。
「誰に!」
「王国兵……だと……思って……」
「どこへ?」
侍女の声が途切れかける。
「西の……回廊……王子様も……」
蒼華の顔色が変わる。
「医師を呼んで!」
同行兵へ叫ぶ。
自分は走る。
西の回廊。
途中で血痕を見つける。
一滴。
また一滴。
角を曲がる。
そこには、壊れた装飾品が落ちていた。
王妃がいつも髪につけているものだった。
「……っ」
拾う。
まだ温かいような気がした。
「待っていてください」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
◇
その頃。
王都の外れにある小さな村でも、鐘の音が聞こえていた。
「何の鐘?」
十一歳の少女が、畑の端で顔を上げる。
銀色の髪を編み込みにしている。
「王都の方だねえ」
近くにいた老婆が目を細める。
「お祭り?」
「そんな鳴り方じゃないよ」
「じゃあ何?」
「さあね」
少女――刹那は、王都の空を見た。
細い煙。
遠すぎて、何が起きているのかは分からない。
「お母さんに言ってくる」
「ああ。今日は早く家へお帰り」
「うん」
刹那は走り出す。
村では、まだ誰も逃げていなかった。
まだ誰も。
自分たちのところまで戦が来るとは思っていなかった。
◇
王城。
午後。
瑠璃のもとへ、一人の兵士が駆け込んできた。
「姫様!」
「父上は?」
「陛下はご無事です!」
瑠璃が息を吐く。
「母上は?」
兵士が黙る。
「母上は?」
「現在、捜索中です」
「弟は?」
「同じく……」
瑠璃の指先が冷たくなる。
「私も探します」
「瑠璃」
静が止める。
「でも!」
「駄目だ」
「いつまでここにいればいいの!」
「安全になるまで」
瑠璃の声が震えた。
「いつ安全になるの!」
静は答えられない。
瑠璃の目から涙が落ちた。
「私は何のための王女なの……」
言葉と一緒に、堪えていたものが崩れた。
「瑠璃様」
朱が手を伸ばす。
「皆が戦っている。父上も。静も。銀華の父上と母上も。兵士も。城下の人たちも」
「……」
「なのに私は、ここで守られているだけ」
拳を握る。
「聖女なんて呼ばれて」
声が震える。
「誰も助けられない」
「まだ終わってない」
静が言った。
「え?」
「今、お前が死ねば終わる」
「……」
静は言いにくい言葉を、それでも口にした。
「王が死んでも、お前がいる」
「父上は死にません!」
「ああ」
静は否定しない。
「でも、そういうことだ」
瑠璃は静を見る。
「王女だから、守られているのではない」
静は言葉を探すように少し間を置いた。
「お前を守ることが、国を守ることになる」
瑠璃はその意味を理解した。
理解したくなかった。
「嫌です」
「……」
「そんな理由で皆に死んでほしくない」
「分かってる」
「私は……」
涙を拭う。
瑠璃は袖で乱暴に涙を拭った。
「私は、誰にも死んでほしくありません」
静は何も言わなかった。
それができるなら。
誰もがそうする。
だが現実は、瑠璃の願いを待ってはくれなかった。
◇
日が傾き始めた頃。
王城の指揮所へ、最悪の報告が届いた。
「東門にも敵影!」
「何だと!」
「領軍二家! およそ四千!」
「西だけではなかったのか!」
別の伝令が重ねるように叫ぶ。
「南の河川港からも兵が!」
地図へ駒が置かれていく。
一つ。
二つ。
三つ。
王都を囲むように。
国王が地図を睨む。
「総数は」
「現時点で確認できるだけで二万を超えます」
「王都守備隊は?」
「城内を含めても三千弱」
部屋が静まり返る。
「地方の忠誠軍へ伝令を!」
「すでに!」
返答が、指揮所の空気をさらに重くした。
「最短でも二日!」
「二日……」
冬真が西門から戻ってきた。
鎧に血がついている。
自分の血ではない。
「陛下」
「西は」
「まだ持つ。ただ、あれは陽動かもしれん」
「なぜ」
「攻めが甘い」
軍務卿が顔をしかめる。
「あれで?」
「数の割にな。門を本気で落とすなら、もっと来る」
「では狙いは」
冬真は地図の中央――王城を指した。
「城内」
冬真が地図を見る。
「最初から中にいる連中と合流するつもりだ」
国王が目を閉じる。
「王妃と王子はまだ見つからない」
「……」
冬真の顔が険しくなる。
「妻が探している」
「分かっている」
「陛下」
「何だ」
「最悪を考えろ」
重い沈黙。
王は拳を握った。
「ああ」
◇
夜。
王都では、ところどころに火が見えた。
大火ではない。
それでも、昨日までなかった炎だった。
瑠璃は窓からそれを見ていた。
「ごめんなさい」
小さく呟く。
「何が」
静が聞く。
「私、昨日まで……本当に何も知らなかった」
「皆そうだ」
静は火の見える窓の外から目を離さなかった。
「父上は気づいていました」
「全部じゃない」
「静も」
「嫌な感じがしただけだ」
「銀華の母上も」
瑠璃の脳裏に、昼間まで変わらず落ち着いていた蒼華の顔が浮かぶ。
「……あの人は勘がいい」
「私は」
瑠璃が自分の手を見る。
「話せば分かるって、そればかり」
「間違いじゃない」
「でも、話す前に剣を向けられました」
「そうだな」
「どうすればよかったの?」
静は答えない。
瑠璃は答えを求めるように静を見る。
「疑えばよかった?」
瑠璃は答えを求めて静を見る。だが静は簡単な正解を差し出さなかった。
「分からない」
「最初から敵だと思えば?」
「分からない」
二度目の答えにも、静の声は変わらなかった。
「静はそればかりですね」
「ああ」
瑠璃が泣きながら少し笑った。
「ずるい」
「分からないものは分からない」
「私は王女なのに」
静は窓の外へ目を向ける。
「王女でも同じだ」
「……」
「全部分かる人間なんていない」
瑠璃は窓の外を見る。
「明日になったら、終わっているでしょうか」
「終わらせる」
静の返事は初めて断定だった。
瑠璃が振り返る。
「静が?」
「皆で」
「……はい」
瑠璃は頷いた。
まだ信じていた。
国王も。
王妃も。
弟も。
銀華の両親も。
皆、生きてこの夜を越えられると。
王都が傷ついても、また直せると。
裏切った者とも、いつか理由を聞けると。
まだ。
瑠璃は、何も失っていなかった。
◇
王都の西。
森の奥。
反乱軍の本陣では、領主たちが地図を囲んでいた。
「王都は予想以上に持つ」
地図を囲む領主たちの顔には、苛立ちが浮かんでいた。
「雪乃が西門にいる」
「あの男か」
「厄介だ」
「静は?」
領主の一人が地図の王城を指で叩く。
「王女のそばを離れていない」
「ならいい」
「何がいい。あれが出てきたら――」
「出てこられないようにしてある」
領主の一人が笑う。
「王妃と王子は?」
領主の一人が声を潜める。
「確保した」
部屋が静まる。
「殺したのか」
「まだだ」
「なぜ」
「使える」
別の領主が身を乗り出す。
「人質に?」
領主たちの視線が、奥にいる異国の男へ集まる。
「それもある」
奥にいた男が口を開いた。
蒼緑国の者ではない男。
「夜明けまでに処理しろ」
領主が眉を寄せる。
「人質にした方が王を――」
「必要ない」
「だが」
「王家を残すなと言ったはずだ」
冷たい声だった。
男は領主たちを順に見渡した。
「王と王女もだ」
「……」
「躊躇うなら、ここで降りてもいい」
男が領主を見る。
「今さら戻れる場所があるならな」
誰も答えなかった。
男は立ち上がる。
「予定どおり進めろ」
「帝――」
領主の一人が言いかける。
男の目が動いた。
その瞬間、領主は口を閉じた。
「余計な名は口にするな」
領主は一度だけ目を伏せた。
「……分かった」
男は天幕を出る。
夜風が吹く。
遠くに王都の灯りが見える。
まだ落ちていない。
「時間の問題だ」
男は誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
そして。
王城の地下にある古い通路で。
王妃は、息子を抱きしめていた。
「母上……」
「大丈夫」
暗闇。
両手は縛られている。
周囲には反乱兵。
「姉上は?」
王子の手が王妃の衣をさらに強く掴んだ。
「大丈夫よ」
「父上は?」
「大丈夫」
同じ言葉を繰り返す。
「みんな、大丈夫だから」
王妃自身が一番、それを信じたかった。
王子が震えている。
「母上」
「何?」
「怖いです」
「……そうね」
王妃は息子の額へ頬を寄せた。
「私も怖いわ」
「母上も?」
「ええ」
王子は不思議そうに王妃を見上げた。
「王妃なのに?」
「王妃だって人間だもの」
王子は少しだけ目を見開いた。
王妃が笑う。
「でも、一人じゃないでしょう?」
「はい」
「だから大丈夫」
足音が近づいてくる。
反乱兵たちが姿勢を正す。
一人の男が地下室へ入った。
「時間だ」
王妃は息子を強く抱きしめた。
「どこへ連れていくの」
男は答えなかった。
ただ。
「立て」
それだけを命じた。
王妃は息子の手を握った。
決して離さないように。
暗い通路の向こうへ。
二人は歩き始めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
昨日までと変わらなかった日常は、少しずつ崩れ始めました。
まだ、このときの彼女たちは知りません。
この反乱が、それぞれの人生を大きく変えてしまうことを。
次回、番外編 十年前
第3話「失われた朝」
引き続きお楽しみいただければ嬉しいです。
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