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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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22/29

番外編② 崩れ始める日常

【お知らせ】


今回より、より読みやすくお楽しみいただけるよう、本文の改行や行間など、表示形式を一部調整しました。


物語の内容や文体そのものに変更はありません。


これまでより少し見やすくなった『南のオーフェリア』を、引き続き楽しんでいただければ嬉しいです。

 翌朝。

 紅蒼瑠璃が目を覚ましたとき、窓の外はいつもと変わらない色をしていた。

 

 薄い朝靄。

 城下の屋根。

 遠くの森。

 まだ昇りきらない太陽が、王都を柔らかく照らしている。

 瑠璃はしばらく寝台の上からその景色を眺めた。

 昨夜、朱と交わした言葉が残っていた。

 

 ――きっと大丈夫です。

 自分で言った言葉だった。

 そうであってほしいという願いだったのかもしれない。

 けれど朝になれば、不安は少し薄れていた。

 何も起きていない。

 城はいつもどおり目を覚まし、侍女たちが廊下を歩いている。

 なら、今日も自分にできることをすればいい。


「姫様。お目覚めですか?」

「はい」

「本日は朝食の後、陛下がお呼びです」


 瑠璃は衣服へ伸ばしかけた手を止めた。


「父上が?」

「はい。雪乃様ご夫妻も同席されると」

「……分かりました」


 胸の奥へ、昨夜の小さな棘が戻ってくる。

 それでも瑠璃は笑った。


「では、急ぎましょう」


◇


 朝食の席に、国王はいなかった。

 王妃と弟だけが座っている。


「父上は?」

「夜明け前から政務室よ」


 王妃が答えた。


「何かあったのですか?」

「まだ分からないわ」

「母上も?」


 王子が顔を上げる。王妃は息子へ頬を寄せた。


「ええ」


 王妃の表情は穏やかだった。

 だが、いつもより紅茶へ手を伸ばす回数が少ない。

 弟だけが事情を知らないらしく、焼いたパンへ蜂蜜を塗っている。


「姉上」

「何です?」

「今日、時間あります?」


 弟はパンから顔を上げ、期待を隠さず瑠璃を見た。


「どうして?」

「昨日の約束」

「約束?」


 弟がむっとする。


「城下へ行くって」

「あ」

「忘れてた」


 瑠璃は一瞬だけ視線を泳がせた。


「忘れてはいません」

「今、忘れてた顔でした」


 弟の視線が、じっと瑠璃へ向く。


「今日は少し難しいかもしれません」

「また?」

「ごめんなさい」


 弟が頬を膨らませた。

 瑠璃は少し考え、手を伸ばしてその髪を撫でた。


「明日」

「本当ですか?」

「はい。明日は必ず」

「絶対?」


 瑠璃は絡めた小指へ少し力を込めた。


「絶対です」


 弟の顔が明るくなる。


「じゃあ、約束です」

「ええ」


 小指を差し出され、瑠璃は笑った。

 王族の作法にはない。

 それでも二人は小指を絡めた。


「約束」

「約束です」


 王妃がその様子を見ていた。

 少しだけ寂しそうな顔に見えたのは、瑠璃の気のせいだった。


◇


 政務室には、すでに冬真と蒼華がいた。

 静もいる。

 朱は瑠璃の後ろへ控えた。

 机の中央には、大きな地図が広げられている。


「瑠璃。来たか」

「はい」


 国王の声に、いつもの柔らかさは残っている。

 だが目は笑っていない。


「座りなさい」


 瑠璃が席につく。


「昨夜、北西の関所から連絡が途絶えた」

「……連絡が?」

「ああ」

「事故では?」


 瑠璃は地図へ視線を落とした。まだ、そこに敵意があるとは思いたくなかった。


「その可能性もある」


 国王は地図の一点を指した。


「ただ、同じ時刻に西部街道の二つの中継所からも定時報告が来ていない」

「三か所……」


 地図の上で、国王の指が南へ移る。


「さらに、南の河川港で領軍の兵が確認された」

「領軍が王都近くまで?」

「訓練からの帰路だと説明している」


 瑠璃は報告書へ目を落とす。


「なら、本当に帰路なのでは」


 誰もすぐには答えなかった。


「姫様」


 蒼華が静かに呼んだ。


「はい」

「そうであれば、一番いいと思います」

「では」


 蒼華の声は穏やかなままだった。


「でも、そうでなかったときの準備も必要です」


 瑠璃は唇を結ぶ。


「母上と同じことを言うのですね」

「私も母親ですから」


 少しだけ笑った。

 その笑顔を見て、瑠璃の緊張がわずかに緩む。


「雪乃殿には、王都西部の警戒を任せる」


 国王が冬真へ告げる。


「ああ」

「夫人には城内に残ってもらいたい」

「私は外へ出た方が役に立つと思いますけど」

「分かっている。だが、もし王都内で何か起きた場合、静とあなたが城にいれば心強い」


 蒼華は一瞬だけ静を見る。


「分かりました」

「静」

「何」


 国王の視線が静へ移る。


「瑠璃を頼む」


 静の表情が変わらない。


「言われなくても」

「……そうか」


 国王が苦笑した。

 瑠璃は地図を見た。


「父上」

「何だ」

「領主へ使者を」

「もう出した」

「返事は?」


 国王はすぐには答えず、地図の上に置いた指を止めた。


「まだだ」

「なら、待ちましょう」


 国王は瑠璃の言葉を否定しなかった。


「待つ」


 国王は頷いた。


「ただし、備えながらだ」


 瑠璃は納得しきれないまま頷いた。


◇


 銀華は、自宅の庭で剣を振っていた。


「百四十七……百四十八……」


 昨日より回数は減らした。

 蒼華に言われたからではない。

 ――いや、半分くらいはそうだった。

 残り半分は、数だけ増やしても意味がないと自分でも思ったからだ。

 一振りごとに足を確認する。

 腰。

 肩。

 剣先。


「百四十九……」

「銀華様」


 声をかけられ、剣を止めた。

 家に仕える兵士が立っている。


「どうしました?」

「旦那様から、本日は屋敷を出られぬようにとのことです」

「父様が?」


 銀華は木剣を下ろした。兵士の硬い表情が、いつもと違って見える。


「はい」

「理由は?」

「念のため、とだけ」


 銀華は眉を寄せた。


「母様は?」

「王城です」

「静様も?」

「はい」


 胸がざわつく。


「何かあったんですか?」

「私どもには何も」


 兵士は本当に知らない顔をしていた。

 銀華は剣を下ろす。


「分かりました」

「お願いいたします」


 兵士が去る。

 銀華は庭に一人残った。

 昨日までと同じ庭。

 同じ木。

 同じ空。

 なのに、何かが違う。

 風の音まで落ち着かなく聞こえる。


「……考えても仕方ない」


 自分へ言い聞かせ、再び構える。


「百四十九」


 剣を振る。


「百五十」


 もう一度。

 強くなりたい。

 昨日と同じ気持ちだった。

 ただ、その理由に小さな不安が混じり始めていることを、十四歳の銀華はまだ知らなかった。


◇


 昼。

 瑠璃は王城を出ようとして、静に止められた。


「どこへ行く」

「施療院です」

「駄目だ」

「どうして?」

「今日は城にいろ」


 静はそれだけ言って、瑠璃の進路を塞いだ。


「父上からは何も」


 静は廊下の先へ目をやった。人の往来は普段と変わらない。それでも警戒を解く様子はない。

 静は腕を組んだ。


「私が言ってる」

「静」

「駄目だ」


 瑠璃は困った顔になる。


「患者さんと約束しています」

「別の日にしろ」

「待っている人がいるのです」

「生きていれば会える」


 瑠璃の表情が固まった。


「それは、どういう意味ですか」


 静は答えない。


「何か知っているの?」

「何も」

「では、なぜそんな言い方を」


 問い詰める瑠璃に、静は一度だけ眉を寄せた。


「嫌な感じがする」

「静が?」

「ああ」


 剣士の勘。

 瑠璃はそういう言葉をあまり好まなかった。

 理由の説明がつかないからだ。


「でも、城下はいつもどおりです」

「だから何だ」


 城下へ向かう人々の声が、窓の外からいつもどおり聞こえてくる。


「不安を煽るようなことをすれば、民まで混乱します」

「外へ出ないだけだ」

「私が急に予定を取りやめれば、それこそ何かあったと思われます」


 静が瑠璃を見る。


「お前は王女だ」

「分かっています」


 瑠璃は反射的に言い返したが、静の目は逸れなかった。


「分かってない」

「静」

「自分一人の予定じゃない」


 瑠璃の胸に、国王と同じ言葉が刺さる。

 自分一人ではない。


「……では、護衛を増やします」

「駄目だ」

「静!」


 静は短く息を吐いた。


「私も行く」


 瑠璃が目を瞬く。


「それならいい」

「最初からそう言ってください」

「言った」

「言ってません」


 静は当然のことのように言う。


「同じだ」

「全然違います」


 朱が後ろで小さく息を吐いた。


「お二人とも、そろそろ出発しなければ本当に遅れます」

「朱はどちらの味方なのです?」

「瑠璃様の味方です」


 朱は淡々と答え、今度は静へ視線を移した。


「なら――」

「だから静様もご一緒ください」


 瑠璃は黙った。

 静がわずかに勝ち誇った顔をしたように見える。


「今、笑いました?」

「笑ってない」

「絶対笑いました」


 静はさっさと歩き出す。


「行くぞ」

「誤魔化しましたね」


 ほんの一瞬。

 いつもの日常が戻った。


◇


 城下は穏やかだった。

 少なくとも、表面上は。

 施療院へ向かう途中、瑠璃はいつものように声をかけられた。

 果物屋の主人。

 子供たち。

 洗濯物を抱えた女性。

 老人。


「姫様、今日は静様も一緒ですか」

「はい。私一人では危ないそうです」

「余計なことを言うな」

「本当でしょう?」


 静が無言になる。

 子供が静を見上げた。


「静様って強いの?」

「とても強いですよ」


 瑠璃が答える。


「姫様より?」

「……それは」

「強い」


 静が即答した。


「静!」


 周囲から笑い声が上がる。

 瑠璃も少しむっとしながら、結局笑った。

 そのとき。

 通りの向こうで荷車が急に止まった。

 積み荷が崩れる。

 木箱が地面へ落ちた。

 中から鉄の音がした。

 静の目が変わる。


「止まれ」


 低い声。

 御者が固まった。

 護衛兵が駆け寄る。


「箱を開けろ」

「ただの農具です!」


 静の声から、先ほどまでの軽さが消えていた。


「開けろ」


 挿絵(By みてみん)


 御者の顔から血の気が引く。

 兵士が木箱をこじ開ける。

 中に入っていたのは、剣だった。

 一振りや二振りではない。

 布に包まれた剣が何十本も並んでいる。

 通りが静まった。

 瑠璃も言葉を失う。


「これは……」

「農具か?」


 静が御者を見る。


「し、知らない! 俺は運べと言われただけで!」

「誰に」

「知らないんだ!」


 男が後ずさる。

 静の手が剣へ伸びる。


「静」


 瑠璃が止めた。


「まだ何もしていません」

「逃げる」


 瑠璃は静の手元へ視線を落とす。


「だからといって斬る必要はありません」

「斬らない」


 静は御者の前へ一歩出ただけだった。

 それだけで男は腰を抜かした。


「話を聞きましょう」


 瑠璃が男の前にしゃがむ。


「怖がらなくて大丈夫です」

「ひ、姫様……」

「誰から頼まれました?」


 瑠璃は声を落とした。御者の肩から、少しずつ力が抜けていく。


「本当に知らないんです。荷を受け取って、王都まで運べと……金をもらっただけで」

「どこで?」

「西の……小さな宿場です」

「相手の顔は?」

「フードを……」


 瑠璃は男の返答を急かさなかった。


「声は?」

「男です。たぶん……」


 瑠璃は一つずつ聞いた。

 男の呼吸が少しずつ落ち着く。

 やがて護衛へ引き渡された。


「姫様」


 施療院の職員が不安そうに瑠璃を見る。


「大丈夫です」


 瑠璃は笑った。


「念のため、今日は早めにお家へ帰ってください」


 自分でそう言いながら。

 胸の中では、もう「何もない」とは思えなくなっていた。


◇


 王城へ戻ると、国王が待っていた。


「剣が?」

「はい」


 瑠璃が説明する。


「御者は何も知らないと思います」

「なぜそう思う」


 瑠璃は先ほどの御者の顔を思い返した。震える声も、逃げようとした足も。


「怯え方が……嘘をついているようには」

「瑠璃」


 国王が遮る。


「お前がそう感じたことは報告として聞く。だが、それで無実とは決めない」

「……はい」

「静」

「同じだと思う」

「男は?」

「戦える人間じゃない」

「そうか」


 国王が地図へ目を落とす。


「武器が王都へ入っている」


 冬真が言う。


「一台だけとは思わない方がいいな」

「門の検査を強化する」

「そうすれば相手にも気づかれたと伝わる」

「構わん」


 軍務卿が言った。


「今は入れないことが先です」

「待ってください」


 瑠璃が声を上げた。


「もし領主の一部が本当に何かを企んでいるとしても、まだ国全体ではありません」

「当然です」

「なら、城門を閉じたり兵を増やしたりすれば、関係のない人まで恐れます」

「姫様」


 軍務卿が瑠璃を見る。


「恐れさせないために、何もせず武器を通すわけにはいきません」

「でも――」

「瑠璃」


 国王が呼んだ。


「今日はここまでだ」

「父上」

「分かっている。お前の言いたいことは」

「では」


 国王は地図から目を上げ、瑠璃をまっすぐ見た。


「それでも、門を強化する」


 瑠璃は黙った。


「民を怖がらせるかもしれない。商人に迷惑をかけるかもしれない。それでも今は、武器を止める」

「……はい」

「嫌か?」

「嫌です」


 正直に答えた。


「そうか」

「でも……必要なのだと思います」


 国王が少しだけ笑った。


「それでいい」


 瑠璃は自分の手を見る。

 昨日までなら、もっと強く反対したかもしれない。

 何かが変わり始めている。

 それが正しいのか、間違っているのか。

 まだ分からなかった。


◇


 夕方。

 冬真が屋敷へ戻った。


「父様!」


 銀華が玄関まで走る。


「走るな」

「ごめんなさい」

「母さんみたいなこと言うな」


 冬真は笑った。


「今日はずっと家にいました」


 銀華は少し胸を張った。冬真の口元がわずかに緩む。


「偉いな」

「子供じゃありません」


 銀華がむっとすると、冬真は堪えきれずに笑った。


「十四は子供だ」

「静様は十七歳なのに母様に子供って言われてました」


 父娘の間に、束の間だけいつもの空気が戻る。


「あいつも子供だ」

「聞こえたら怒りますよ」

「本人の前でも言える」

「本当ですか?」

「……たぶんな」


 銀華が笑う。

 冬真は娘の顔を見て、少しだけ目を細めた。


「銀華」

「はい?」

「もし、何かあったら」

「何か?」


 言いかけて止める。

 何を言うつもりだったのか。

 自分でも分からなかった。


「いや。何でもない」

「父様?」


 銀華が首を傾げる。冬真は娘の顔を見たまま、続ける言葉を飲み込んだ。


「母さんは今夜も城だ。俺も飯を食ったら戻る」

「またですか」

「ああ」

「私も城へ行ってはいけませんか?」

「駄目だ」


 銀華の顔が曇る。


「どうして?」

「危ないからだ」


 初めて、はっきり言った。

 銀華が黙る。


「……戦になるんですか?」

「まだ分からない」

「父様」

「本当に分からない」


 冬真の声から、いつもの冗談めいた調子が消えていた。


「なら、私にも何か――」

「銀華」


 冬真が娘の肩へ手を置いた。


「今、お前がすることは生きていることだ」


 銀華は肩に置かれた冬真の手を見た。その言葉だけでは、まだ納得できない。


「それだけ?」

「ああ」

「でも私は剣を習っています」

「だから何だ」

「戦えるように」

「十四歳のお前を戦わせるために教えてるんじゃない」


 冬真の声が少し強くなる。

 銀華が目を伏せる。


「……ごめんなさい」


 冬真は息を吐いた。


「怒ってるんじゃない」

「はい」

「強くなるのはいい。でもな」


 挿絵(By みてみん)


 冬真の手が、銀華の髪をくしゃりと乱す。


「強いから戦わなきゃいけないわけじゃない」

「母様と同じことを言いますね」


 張りつめていた銀華の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。


「夫婦だからな」

「そういうものですか?」

「そういうものだ」


 銀華は少し笑った。

 冬真も笑った。

 その夜、二人は向かい合って食事をした。

 銀華は冬真の好きな料理を自分の皿から少し分けた。

 冬真は「いらない」と言いながら食べた。

 どうでもいい会話をした。

 剣の話。

 蒼華の話。

 静の昔話。

 瑠璃がまた訓練場で静に負けた話。

 何でもない夜だった。

 銀華は、その一つ一つを覚えようとはしなかった。

 また次があると思っていた。


◇


 深夜。

 王城へ、馬が一頭駆け込んだ。

 騎手は鞍から落ちるように降りた。


「陛下へ……!」


 服は泥と血で汚れている。

 門兵が支える。


「北西……関所……」

「何があった!」


 門兵が身体を支える。騎手の服から泥と血が床へ落ちた。


「襲撃……」

「誰に!」


 男は息を吸う。

 男は喉を鳴らし、ようやく声を絞り出した。


「領軍……です」


 門兵の顔色が変わった。


「数は!」

「分かりません……内側から……門を……」


 そこで男の身体から力が抜けた。


「医師を呼べ!」


 兵士が走る。

 鐘は鳴らされなかった。

 まだ。

 王都を眠らせておくために。


◇


 政務室。

 報告を聞いた国王は、長く目を閉じた。


「間違いないのか」

「生存者は三名。全員、同じ証言です」


 軍務卿が答える。


「領軍の旗を?」

「確認しています」

「どこの領だ」


 名前が告げられる。

 瑠璃が何度も会ったことのある貴族だった。

 国王の即位記念式典にも来ていた。

 去年、王城の宴で笑って話していた。

 瑠璃へ「立派な王女になられた」と頭を下げた男。


「使者を」


 国王が言った。

 軍務卿が顔を上げる。


「陛下」

「最後にもう一度送る」

「危険です」


 軍務卿の声は低い。室内にいる誰も、反対の理由を説明される必要はなかった。


「分かっている」

「すでに関所を襲っています」

「だからこそだ」


 国王は立ち上がる。


「勘違いでも、現場の暴走でも、まだ止められる可能性が一つでもあるなら確かめる」


 蒼華が国王を見る。


「瑠璃様に似ていますね」

「逆だ。あれが私に似たんだ」


 少しだけ笑う。

 だが、誰も笑い返せなかった。


「同時に、王都守備隊を招集。各門を閉鎖する準備を。民にはまだ知らせるな」

「はっ」

「雪乃」

「ああ」


 国王は冬真へ向き直った。


「西門を頼む」


 冬真は短く頷いた。国王の視線が、次に蒼華へ移る。


「任せろ」

「夫人」


 国王が蒼華へ向き直る。


「私は城内ですね」

「頼む」

「静は?」


 蒼華の問いに、国王は城内の方角へ視線をやった。


「瑠璃のところだ」

「なら大丈夫ね」


 蒼華が言った。

 国王がその言葉へ頷く。

 まだ。

 このときは。

 誰も、間に合わないとは思っていなかった。


◇


 瑠璃は自室で眠れずにいた。

 扉が叩かれる。


「誰です?」

「私」

「静?」


 扉を開ける。

 静は剣を帯びていた。

 いつもの木剣ではない。

 本物の剣。


「どうしたのです?」


 瑠璃は静の腰の剣を見る。木剣ではない。それだけで胸の奥が冷えた。


「着替えろ」

「え?」

「動ける服に」

「なぜ?」

「いいから」


 瑠璃の心臓が強く打つ。


「何があったの」

「関所が落ちた」


 頭の中が真っ白になる。


「……落ちた?」

「領軍に襲われた」


 瑠璃の指先から力が抜ける。


「そんな」


 瑠璃は窓辺から一歩離れた。胸の奥で、不安が急に形を持ち始める。


「瑠璃」

「何かの間違いです」

「生き残りがいる」

「でも、命令したのが領主本人とは――」

「分からない」


 静は誤魔化さなかった。その答えが、今の瑠璃にはかえって重かった。


「なら、まだ」


 瑠璃はその言葉に縋るように静を見た。


「ああ」


 静が瑠璃を見る。


「まだ分からない」


 その言葉に、瑠璃は少しだけ救われた。


「父上は?」

「政務室」


 短い返事だった。静の声に、普段にはない切迫感が混じる。


「行きます」

「駄目だ」

「なぜ!」

「ここにいろと言われた」

「こんなときに部屋で待てと?」

「ああ」

「できません」

「やれ」


 廊下の向こうで何かが倒れる音がした。静の手が剣の柄へ伸びる。


「静!」


 瑠璃が声を荒らげた。


「私は王女です!」

「だからだ」

「父上が動いているのに、私だけ――」

「お前まで動けば守る場所が増える」


 瑠璃が言葉を失う。


「今はここにいろ」


 瑠璃は反論しかけたが、静の表情を見て言葉を止めた。


「……」

「朱も来る」


 朱は無言で頷き、瑠璃のすぐそばへ寄った。


「静は?」

「ここにいる」

「ずっと?」


 瑠璃は静を見上げた。返事を聞くのが怖いのに、聞かずにはいられない。


「ああ」


 瑠璃は静の剣を見る。


「そんなに危険なのですか」

「分からない」


 今日何度目かの言葉だった。

 分からない。

 それが怖かった。

 瑠璃は窓へ近づく。

 城下は暗い。

 いつもの夜。

 家々には灯りが残り、何も知らない人々が眠っている。


「静」

「何」

「明日になれば、話せるでしょうか」


 瑠璃は窓の外の暗がりへ目を向けた。


「誰と」

「その領主と」

「分からない」

「私は……」


 瑠璃は窓の外を見たまま言った。


「話したいです」

「ああ」

「どうしてこんなことをしたのか。何が不満だったのか。何を望んでいるのか」

「ああ」

「聞けば、まだ止められるかもしれない」

「そうだな」


 瑠璃が振り返る。


「否定しないのですね」


 静の手は剣の柄から離れない。


「話して止まるなら、その方がいい」

「静もそう思う?」

「ああ」


 瑠璃はほんの少し笑った。


「良かった」


 静は答えなかった。

 ただ剣の柄へ手を置いたまま、扉のそばに立った。


◇


 夜明け前。

 王都から西へ離れた森の中。

 何百という兵が、音を殺して進んでいた。

 松明はない。

 馬の蹄には布が巻かれている。

 王都の守備隊に気づかれないためだった。


「関所は」

「予定どおりです」

「使者は?」


 領主の問いに、報告役の男がわずかに目を伏せた。


「一人は処理しました。もう一人は逃しました」

「逃がした?」

「申し訳ありません」


 男が舌打ちする。


「まあいい。今さらだ」


 領主は進軍する兵の列へ目をやった。


「王都は警戒を始めるでしょう」

「始めさせろ」

「よろしいので?」

「こちらだけを見てくれるならな」


 男が笑う。

 その背後に、蒼緑国の領軍旗が揺れている。

 さらに離れた場所。

 木々の影に、一人の男が立っていた。

 蒼緑国の鎧ではない。

 領軍の鎧でもない。

 顔の半分を布で隠している。


「予定は変わらない」


 低い声。

 領主が振り返る。


「分かっている」

「王家を残すな」


 領主の笑みが薄れる。


「命令されるまでもない」


 男の声には、迷いがなかった。


「王女もだ」


 一瞬。

 領主の顔から笑みが消えた。


「……十七の娘だぞ」

「それが?」

「いや」


 領主は目を逸らす。


「何でもない」

「ここまで来て迷うな」

「迷ってなどいない」

「ならいい」


 男は森の闇へ消えた。

 領主はしばらくその方向を見ていた。


「閣下」

「進め」

「はっ」


 兵が動き始める。

 誰も、あの男の名を口にしない。

 どこの国の者なのかも。

 少なくとも、表向きは。


◇


 朝。

 鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 いつもの朝の鐘ではなかった。

 短く。

 激しく。

 間を置かず。

 瑠璃が椅子から立ち上がる。


「静!」

「いる」


 すでに静は剣を抜いていた。

 廊下から足音が聞こえる。

 朱が扉を開けて飛び込んでくる。


「瑠璃様!」

「何がありました!」


 朱は一度息を整えた。それでも声の緊張は隠せない。


「西門近郊で戦闘!」

「王都の外ですか?」

「それが……」



「南門でも、内側から騒ぎが!」


 瑠璃の顔から血の気が引く。


「内側?」

「城下に武器を持った者が複数!」


 昨日の荷車。

 剣。

 瑠璃の頭の中でつながる。


「父上のところへ行きます」

「駄目だ」


 静が前へ出る。


「でも!」

「ここを動くな」

「静!」


 遠くで爆発音がした。

 窓が震える。

 鳥が一斉に空へ飛び立つ。

 そして。

 王都のどこかから悲鳴が上がった。

 瑠璃は窓へ駆け寄る。

 遠く。

 南の市街地から、細い煙が上がっていた。


「……嘘」


 昨日まで。

 そこを歩いた。

 子供と話した。

 果物をもらった。

 皆、笑っていた。


「何で……」


 また音がした。

 今度は近い。

 静が瑠璃の腕を掴む。


「下がれ」

「でも、城下に人が」

「兵が行く」


 瑠璃は窓の向こうの煙を見た。そこには昨日、自分が歩いた通りがある。


「私も」

「駄目だ」

「私は聖女と呼ばれているんです!」


 瑠璃が叫んだ。


「こんなときに部屋に隠れていたら――!」

「聖女だから何だ」


 静の声が冷たく響く。

 瑠璃が息を止める。


「お前は死なないのか」

「……」

「斬られても平気なのか」


 静の問いに、瑠璃の喉が詰まる。


「それは」

「違うだろ」


 静が瑠璃をまっすぐ見る。


「お前も人だ」


 その言葉に。

 瑠璃は何も返せなかった。

 廊下から兵士が駆けてくる。


「静様!」

「何」

「陛下より! 姫様を東棟奥へ! 城内に内通者がいる可能性があります!」

「分かった」


 静が頷くより早く、瑠璃は兵士へ向き直った。


「父上は?」


 瑠璃が尋ねる。


「陛下は指揮所へ!」


 瑠璃は兵士へ詰め寄る。


「母上と弟は!」


 兵士の返事が一瞬遅れた。


「王妃様は北棟に。王子殿下は――現在確認中です」

「確認中?」

「瑠璃」


 静が止める。


「弟はどこです!」

「姫様!」

「昨日、約束したんです!」


 自分でも何を言っているのか分からなかった。

 城下へ行く。

 ただそれだけの約束。


「探してください!」

「すでに兵が――」


 瑠璃の声が廊下へ響いた。


「絶対に!」

「瑠璃!」


 静が肩を掴む。


「行くぞ」

「でも!」

「私を信じろ」


 瑠璃が静を見る。

 白い髪。

 いつもと変わらない顔。

 その目だけが、今まで見たことがないほど鋭い。


「……はい」


 瑠璃は頷いた。


◇


 西門。

 冬真は馬上から敵兵を見た。


「多いな」


 隣の兵士が乾いた声を漏らす。


「笑ってる場合ですか」

「笑ってないとやってられん」


 城外の街道を埋める領軍。

 まだ全軍ではない。

 それでも王都守備隊より多い。


「旗を確認しろ!」

「三家です!」

「三つ?」

「はい!」


 冬真の表情から笑みが消える。

 一つではない。

 複数の領主が同時に動いている。


「最初から組んでやがったか」


 門上から矢が放たれる。

 敵も射返す。


「門を死守しろ!」

「はっ!」


 冬真は門外へ視線を据えた。


「市街へ入れるな!」


 剣を抜く。

 銀華の顔が浮かんだ。

 朝、見送れなかった。

 昨日の夜が最後になっている。


「……縁起でもない」


 自分で呟き、首を振る。

 帰る。

 当然だ。

 帰って、銀華に説教をする。

 また剣を見てやる。

 妻に「甘やかしすぎ」と怒られる。


「全員、生きて帰るぞ!」


 兵士たちが応える。

 門の外で、最初の激突が始まった。


◇


 王城。

 蒼華は、廊下を走る兵士たちの中で立ち止まった。


「静は?」

「姫様と東棟へ!」

「分かった」

「奥方様は?」

「王妃様のところへ行く」


 兵士の顔に迷いが浮かぶ。蒼華は足を止めなかった。


「護衛を!」

「いらない」

「しかし!」

「なら二人だけついてきて」


 走り出す。

 途中、曲がり角から男が現れた。

 王国兵の鎧。

 蒼華は一瞬も疑わなかった。


「北棟は?」

「こちらです!」


 男が近づく。

 次の瞬間。

 腰の剣が抜かれた。

 蒼華の身体が動く。

 刃が空を切る。

 男の手首を掴み、そのまま壁へ叩きつけた。


「ぐっ!」


 剣が落ちる。

 同行していた兵が驚く。


「な、何を!」

「内通者よ」


 同行していた兵が、落ちた剣を蹴り遠ざける。


「誰の命令?」

「……」


 蒼華は男の目を見据えた。


「言いなさい」


 男が笑った。


「もう遅い」


 蒼華の目が細くなる。


「何が?」

「王家は今日で終わる」


 兵士が男を押さえ込む。

 蒼華は北棟を見る。

 嫌な予感がした。


「急ぐわよ」


◇


 銀華の屋敷にも、鐘の音は届いていた。


「何の鐘ですか」


 銀華が尋ねる。

 兵士は答えない。


「教えてください」


 銀華は兵士の顔を覗き込む。だが視線を合わせてもらえない。


「銀華様は中へ」


 返事の代わりに、屋敷の門が軋みながら閉じ始めた。


「何が起きているんですか!」

「中へ!」


 初めて強い声で命じられた。

 銀華が固まる。

 屋敷の門が閉じられる。

 使用人たちが窓を閉める。

 剣を持った兵士が配置につく。


「戦……?」


 誰も答えない。

 銀華は自室へ戻された。

 扉の前にも兵が立つ。

 窓から王都を見る。

 遠くに煙が見えた。


「父様……」


 西門にいる。

 蒼華は王城。

 静も。

 瑠璃も。

 自分だけがここにいる。

 何もできない。

 銀華は机の上の木剣を見る。

 手を伸ばす。

 握る。

 それでも。

 冬真の言葉が蘇った。

 ――今、お前がすることは生きていることだ。


「……分かってます」


 誰もいない部屋で呟く。


「分かってますけど……」


 手が震えた。

 木剣を強く握る。


「何もできないのは……嫌です」


◇


 東棟奥。

 瑠璃は窓から離れた場所に座らされていた。

 朱が隣にいる。

 静は扉の前。

 外から剣戟が聞こえる。

 近くはない。

 だが確実に城内だ。


「静」

「何」

「城の中で戦っているの?」

「ああ」

「味方同士が?」


 瑠璃の指が膝の上で強く組まれた。


「もう味方じゃない」


 瑠璃の顔が歪む。


「そんな言い方……」

「剣を向けてきた」

「でも」

「瑠璃」


 静が少しだけ声を落とす。


「今は考えるな」

「無理です」


 静の声がわずかに低くなる。


「なら、生きることだけ考えろ」

「皆は?」

「兵が守る」


 答えを聞くたび、瑠璃の問いは家族へ近づいていく。


「父上は?」

「戦ってる」

「母上は?」


 瑠璃の問いが重なるたび、静の表情が硬くなっていく。

 瑠璃は兵士の沈黙を見逃さなかった。


「分からない」

「弟は?」


 静が答えない。

 瑠璃は立ち上がった。


「探しに行きます」

「座れ」

「嫌です」

「瑠璃」

「私は姉です!」


 瑠璃は立ったまま静を見返した。声だけでは引き下がれない。


「王女だ」


 瑠璃は静を睨み返した。


「その前に姉です!」

「……」

「弟がどこにいるかも分からないのに、ここで座っていろなんて――!」


 静が瑠璃へ近づく。

 頬を打つことも、怒鳴ることもしなかった。

 ただ、両肩を掴んだ。


「私も行きたい」


 その一言で、瑠璃の動きが止まった。静の声にも、押し殺した焦りがある。

 瑠璃が止まる。


「王と王妃を探したい。銀華の両親のところにも行きたい。外の兵も助けたい」


 静の声は低い。


「でも私は、お前を頼まれた」

「……」


 静の指が瑠璃の肩に食い込む。


「だからここにいる」

「静……」

「私に、守らせろ」


 瑠璃の目に涙が浮かんだ。


「……ごめんなさい」

「謝るな」

「でも」

「生きろ」


 短い言葉だった。

 瑠璃は唇を噛み、頷いた。


◇


 正午を待たず、王都の西門外では地面が血と泥に変わっていた。

 冬真が敵兵の剣を受け流す。

 一人。

 二人。

 三人。

 強い。

 王国の兵士たちが目で追えないほどに。

 だが、斬っても次が来る。

 その次も。


「押されるな!」


 味方の兵が倒れる。


「隊列を崩すな!」


 矢が飛ぶ。

 盾で受ける。


「旦那!」

「何だ!」


 伝令の兵が息を切らして駆け寄る。


「北側にも敵!」


 伝令は膝に手をつき、息を切らしたまま北を指した。


「分かってる!」

「このままじゃ挟まれます!」


 冬真が周囲を見る。

 数が違いすぎる。

 まだ守れる。

 だが、このままでは削られる。


「第二隊を門内へ下げろ!」

「ですが!」


 冬真は門内を指した。


「門を守る兵まで死なせるな!」

「はっ!」


 敵の動きが妙だった。

 こちらの配置を知っている。

 増援を送ろうとする場所へ、先に兵を置いてくる。


「……内通だけじゃないな」


 冬真が呟く。


「何です?」

「いや」


 冬真は剣を握り直す。

 戦場の勘が告げている。

 この反乱は、昨日今日で考えられたものではない。


◇


 王城北棟。

 蒼華が駆け込んだとき、床には兵士が倒れていた。


「王妃様!」


 返事はない。

 奥へ進む。

 一室の扉が開いている。


「王妃様!」


 中へ。

 そこに王妃はいなかった。

 代わりに、侍女が一人、壁にもたれていた。


「しっかりして!」

「雪乃……様……」

「王妃様は?」

「連れて……」


 蒼華は侍女の肩を支える。


「誰に!」

「王国兵……だと……思って……」

「どこへ?」


 侍女の声が途切れかける。


「西の……回廊……王子様も……」


 蒼華の顔色が変わる。


「医師を呼んで!」


 同行兵へ叫ぶ。

 自分は走る。

 西の回廊。

 途中で血痕を見つける。

 一滴。

 また一滴。

 角を曲がる。

 そこには、壊れた装飾品が落ちていた。

 王妃がいつも髪につけているものだった。


「……っ」


 拾う。

 まだ温かいような気がした。


「待っていてください」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


◇


 その頃。

 王都の外れにある小さな村でも、鐘の音が聞こえていた。


「何の鐘?」


 十一歳の少女が、畑の端で顔を上げる。

 銀色の髪を編み込みにしている。


「王都の方だねえ」


 近くにいた老婆が目を細める。


「お祭り?」

「そんな鳴り方じゃないよ」

「じゃあ何?」

「さあね」


 少女――刹那は、王都の空を見た。

 細い煙。

 遠すぎて、何が起きているのかは分からない。


「お母さんに言ってくる」

「ああ。今日は早く家へお帰り」

「うん」


 刹那は走り出す。

 村では、まだ誰も逃げていなかった。

 まだ誰も。

 自分たちのところまで戦が来るとは思っていなかった。


◇


 王城。

 午後。

 瑠璃のもとへ、一人の兵士が駆け込んできた。


「姫様!」

「父上は?」

「陛下はご無事です!」


 瑠璃が息を吐く。


「母上は?」


 兵士が黙る。


「母上は?」

「現在、捜索中です」

「弟は?」

「同じく……」


 瑠璃の指先が冷たくなる。


「私も探します」

「瑠璃」


 静が止める。


「でも!」

「駄目だ」

「いつまでここにいればいいの!」

「安全になるまで」


 瑠璃の声が震えた。


「いつ安全になるの!」


 静は答えられない。

 瑠璃の目から涙が落ちた。


「私は何のための王女なの……」


 言葉と一緒に、堪えていたものが崩れた。


「瑠璃様」


 朱が手を伸ばす。


「皆が戦っている。父上も。静も。銀華の父上と母上も。兵士も。城下の人たちも」

「……」

「なのに私は、ここで守られているだけ」


 拳を握る。


「聖女なんて呼ばれて」


 声が震える。


「誰も助けられない」

「まだ終わってない」


 静が言った。


「え?」

「今、お前が死ねば終わる」

「……」


 静は言いにくい言葉を、それでも口にした。


「王が死んでも、お前がいる」

「父上は死にません!」

「ああ」


 静は否定しない。


「でも、そういうことだ」


 瑠璃は静を見る。


「王女だから、守られているのではない」


 静は言葉を探すように少し間を置いた。


「お前を守ることが、国を守ることになる」


 瑠璃はその意味を理解した。

 理解したくなかった。


「嫌です」

「……」

「そんな理由で皆に死んでほしくない」

「分かってる」

「私は……」


 涙を拭う。

 瑠璃は袖で乱暴に涙を拭った。


「私は、誰にも死んでほしくありません」


 静は何も言わなかった。

 それができるなら。

 誰もがそうする。

 だが現実は、瑠璃の願いを待ってはくれなかった。


◇


 日が傾き始めた頃。

 王城の指揮所へ、最悪の報告が届いた。


「東門にも敵影!」

「何だと!」

「領軍二家! およそ四千!」

「西だけではなかったのか!」


 別の伝令が重ねるように叫ぶ。


「南の河川港からも兵が!」


 地図へ駒が置かれていく。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 王都を囲むように。

 国王が地図を睨む。


「総数は」

「現時点で確認できるだけで二万を超えます」

「王都守備隊は?」

「城内を含めても三千弱」


 部屋が静まり返る。


「地方の忠誠軍へ伝令を!」

「すでに!」


 返答が、指揮所の空気をさらに重くした。


「最短でも二日!」

「二日……」


 冬真が西門から戻ってきた。

 鎧に血がついている。

 自分の血ではない。


「陛下」

「西は」

「まだ持つ。ただ、あれは陽動かもしれん」

「なぜ」

「攻めが甘い」


 軍務卿が顔をしかめる。


「あれで?」

「数の割にな。門を本気で落とすなら、もっと来る」

「では狙いは」


 冬真は地図の中央――王城を指した。


「城内」


 冬真が地図を見る。


「最初から中にいる連中と合流するつもりだ」


 国王が目を閉じる。


「王妃と王子はまだ見つからない」

「……」


 冬真の顔が険しくなる。


「妻が探している」

「分かっている」

「陛下」

「何だ」

「最悪を考えろ」


 重い沈黙。

 王は拳を握った。


「ああ」


◇


 夜。

 王都では、ところどころに火が見えた。

 大火ではない。

 それでも、昨日までなかった炎だった。

 瑠璃は窓からそれを見ていた。


「ごめんなさい」


 小さく呟く。


「何が」


 静が聞く。


「私、昨日まで……本当に何も知らなかった」

「皆そうだ」


 静は火の見える窓の外から目を離さなかった。


「父上は気づいていました」

「全部じゃない」

「静も」

「嫌な感じがしただけだ」

「銀華の母上も」


 瑠璃の脳裏に、昼間まで変わらず落ち着いていた蒼華の顔が浮かぶ。


「……あの人は勘がいい」

「私は」


 瑠璃が自分の手を見る。


「話せば分かるって、そればかり」

「間違いじゃない」

「でも、話す前に剣を向けられました」

「そうだな」

「どうすればよかったの?」


 静は答えない。

 瑠璃は答えを求めるように静を見る。


「疑えばよかった?」


 瑠璃は答えを求めて静を見る。だが静は簡単な正解を差し出さなかった。


「分からない」

「最初から敵だと思えば?」

「分からない」


 二度目の答えにも、静の声は変わらなかった。


「静はそればかりですね」

「ああ」


 瑠璃が泣きながら少し笑った。


「ずるい」

「分からないものは分からない」

「私は王女なのに」


 静は窓の外へ目を向ける。


「王女でも同じだ」

「……」

「全部分かる人間なんていない」


 瑠璃は窓の外を見る。


「明日になったら、終わっているでしょうか」

「終わらせる」


 静の返事は初めて断定だった。

 瑠璃が振り返る。


「静が?」

「皆で」

「……はい」


 瑠璃は頷いた。

 まだ信じていた。

 国王も。

 王妃も。

 弟も。

 銀華の両親も。

 皆、生きてこの夜を越えられると。

 王都が傷ついても、また直せると。

 裏切った者とも、いつか理由を聞けると。

 まだ。

 瑠璃は、何も失っていなかった。


◇


 王都の西。

 森の奥。

 反乱軍の本陣では、領主たちが地図を囲んでいた。


「王都は予想以上に持つ」


 地図を囲む領主たちの顔には、苛立ちが浮かんでいた。


「雪乃が西門にいる」

「あの男か」

「厄介だ」

「静は?」


 領主の一人が地図の王城を指で叩く。


「王女のそばを離れていない」

「ならいい」

「何がいい。あれが出てきたら――」

「出てこられないようにしてある」


 領主の一人が笑う。


「王妃と王子は?」


 領主の一人が声を潜める。


「確保した」


 部屋が静まる。


「殺したのか」

「まだだ」

「なぜ」

「使える」


 別の領主が身を乗り出す。


「人質に?」


 領主たちの視線が、奥にいる異国の男へ集まる。


「それもある」


 奥にいた男が口を開いた。

 蒼緑国の者ではない男。


「夜明けまでに処理しろ」


 領主が眉を寄せる。


「人質にした方が王を――」

「必要ない」

「だが」

「王家を残すなと言ったはずだ」


 冷たい声だった。

 男は領主たちを順に見渡した。


「王と王女もだ」

「……」

「躊躇うなら、ここで降りてもいい」


 男が領主を見る。


「今さら戻れる場所があるならな」


 誰も答えなかった。

 男は立ち上がる。


「予定どおり進めろ」

「帝――」


 領主の一人が言いかける。

 男の目が動いた。

 その瞬間、領主は口を閉じた。


「余計な名は口にするな」


 領主は一度だけ目を伏せた。


「……分かった」


 男は天幕を出る。

 夜風が吹く。

 遠くに王都の灯りが見える。

 まだ落ちていない。


「時間の問題だ」


 男は誰にも聞こえない声で呟いた。


◇


 そして。

 王城の地下にある古い通路で。

 王妃は、息子を抱きしめていた。


「母上……」

「大丈夫」


 暗闇。

 両手は縛られている。

 周囲には反乱兵。


「姉上は?」


 王子の手が王妃の衣をさらに強く掴んだ。


「大丈夫よ」

「父上は?」

「大丈夫」


 同じ言葉を繰り返す。


「みんな、大丈夫だから」


 王妃自身が一番、それを信じたかった。

 王子が震えている。


「母上」

「何?」

「怖いです」

「……そうね」


 王妃は息子の額へ頬を寄せた。


「私も怖いわ」

「母上も?」

「ええ」


 王子は不思議そうに王妃を見上げた。


「王妃なのに?」

「王妃だって人間だもの」


 王子は少しだけ目を見開いた。

 王妃が笑う。


「でも、一人じゃないでしょう?」

「はい」

「だから大丈夫」


 足音が近づいてくる。

 反乱兵たちが姿勢を正す。

 一人の男が地下室へ入った。


「時間だ」


 王妃は息子を強く抱きしめた。


「どこへ連れていくの」


 男は答えなかった。

 ただ。


「立て」


 それだけを命じた。

 王妃は息子の手を握った。

 決して離さないように。

 暗い通路の向こうへ。

 二人は歩き始めた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


昨日までと変わらなかった日常は、少しずつ崩れ始めました。


まだ、このときの彼女たちは知りません。

この反乱が、それぞれの人生を大きく変えてしまうことを。


次回、番外編 十年前

第3話「失われた朝」


引き続きお楽しみいただければ嬉しいです。


作品を気に入っていただけましたら、フォローや★、評価などで応援していただけると、今後の執筆の大きな励みになります。

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