番外編 十年前 ①壊れる前
蒼緑国オルディアの朝は、いつも緑の匂いがした。
王都を囲む森から吹き込む風が、夜露を含んだまま石造りの城壁を越えてくる。
まだ人影の少ない大通りでは、パン屋が窯の火を起こし、商人たちが店先へ木箱を並べ始めていた。
遠くで鐘が鳴る。
一度、二度。
穏やかな一日の始まりを告げる、聞き慣れた鐘だった。
王城の東棟。
紅蒼瑠璃は、侍女が止めるより先に窓を開けた。
「姫様。またそのように」
「まだ何もしていませんよ?」
「今からなさるおつもりでしょう」
言われて、瑠璃は窓枠へかけようとしていた指を止めた。
十七歳。
蒼緑国第一王女。
王位継承者であり、民からは『聖女の再来』などという、本人には少々重すぎる名で呼ばれている。
だが、朝の風を浴びようとして侍女に叱られている姿だけを見れば、ごく普通の少女とそう変わらない。
「少し外を見たかっただけです」
「窓から身を乗り出さずとも見えます」
「乗り出してはいません」
「昨日は?」
「……昨日の話は、今日とは関係ありません」
侍女が深く息を吐いた。
瑠璃は笑ってごまかし、窓の外へ目を向ける。
城下町の屋根。その向こうに広がる深い緑。
さらに遠く、朝靄の向こうには田畑が続いている。
平和だった。
少なくとも、瑠璃が生まれてから今日まで、この国で大きな戦は起きていない。
国境で小さな衝突が起きることはある。
盗賊が街道を荒らすこともある。飢饉も病も、すべてなくなったわけではない。
それでも父は国を守ってきた。
母は父を支え、民の声を聞いてきた。
そして瑠璃も、いつかはその後を継ぐ。
「今日の予定は?」
「朝食の後、礼拝。九つの鐘で陛下の政務に同席。その後、城下の施療院へ。午後は軍議の見学と剣術のお稽古です」
「孤児院は?」
「明日です」
「昨日は今日だと聞きました」
「姫様が昨日、施療院を今日へ移されたので」
「あ……」
「予定というものは、増やせば増やすほど一日が長くなるものではございません」
「分かっています」
「本当に?」
「たぶん」
侍女がまたため息をつく。
瑠璃は小さく笑った。
助けを必要としている人がいる。
ならば、できるだけ会いに行きたい。
それだけだった。
王女が顔を出したところで病が治るわけではない。空腹が消えるわけでもない。
けれど、話を聞くことはできる。
困っている理由を知れば、変えられることがあるかもしれない。
怒っている者がいれば、なぜ怒っているのかを聞けばいい。
争っている者がいれば、双方の言葉を聞けばいい。
人は言葉を持っている。
だから最後には、きっと分かり合える。
十七歳の瑠璃は、それを疑っていなかった。
◇
「姉上!」
食堂へ入った途端、少年の声が飛んできた。
瑠璃は反射的に身構える。
次の瞬間、弟が抱きついてきた。
「朝から元気ですね」
「姉上が遅いんです」
「時間どおりですよ」
瑠璃は抱きついた弟の肩を軽く押し、ようやく自分の席へ向かった。
「僕はずっと待っていました」
「それは、あなたが早すぎるのです」
弟の頭を撫でながら、瑠璃は席へ向かった。
父である国王はすでに座っている。
その隣では母が紅茶を飲んでいた。
「おはようございます、父上、母上」
「おはよう、瑠璃」
「おはよう。今日も忙しいそうね」
「それほどでもありません」
母は娘の予定を思い返すように、紅茶のカップを置いた。
「施療院へ行って、軍議へ出て、剣の稽古までして?」
「……それほどでも」
母が微笑む。
「あなたは昔から、できると思ったことを全部一日に詰め込もうとするわね」
「できることなら、した方がいいでしょう?」
「休むことも、できることの一つよ」
瑠璃は返事に困り、パンへ手を伸ばした。
弟が横から覗き込んでくる。
「姉上、また叱られてる」
「叱られていません」
瑠璃が澄ました顔を作ると、弟はますます面白そうに覗き込んだ。
「叱られてる顔です」
「あなたは早く食べなさい」
「はいはい」
「返事は一度です」
「はい」
父が笑った。
こんな朝が、瑠璃は好きだった。
王である父も、王妃である母も、この食卓ではただの父と母になる。
弟は相変わらず落ち着きがない。
そして自分も、王女ではなく娘でいられる。
「そうだ、瑠璃」
父がカップを置いた。
「今日の軍議だが、少し面倒な話になる」
「国境ですか?」
「いや。国内だ」
瑠璃の手が止まる。
「国内?」
「西部の領主たちから、税の減免を求める嘆願が出ている。昨年の長雨の影響がまだ残っているらしい」
「でしたら、認めるべきでは?」
「話はそれだけではない」
父は穏やかな顔のまま続けた。
「減免を求めながら、兵の増員を進めている領地がある」
「盗賊対策では?」
「そう主張している」
「では、一度直接お話を――」
父が少し笑った。
「お前ならそう言うと思った」
「何かおかしいでしょうか」
「いや。話すことは大切だ」
父はそこで一度言葉を切った。
「だが瑠璃。話せば必ず分かり合える、とは限らない」
「……そうでしょうか」
「相手が分かり合うことを望んでいるとは限らないからだ」
瑠璃は眉を寄せた。
「それでも、最初から疑っていては何も始まりません」
「その通りだ」
父の肯定に、瑠璃の表情がわずかに明るくなる。
「では」
「信じることと、確かめないことは違う」
父の声は厳しくなかった。
だからこそ、その言葉は瑠璃の胸へ静かに残った。
「王は人を信じなければならない。同時に、信じた者が間違ったとき、国ごと巻き込まれないよう備えなければならない」
「……難しいですね」
「難しいとも」
父は笑った。
「だから私も、まだ勉強中だ」
「父上がですか?」
「王になれば何でも分かると思っていたか?」
弟が横から口を挟む。
「僕は思ってました」
弟が待っていましたとばかりに身を乗り出し、食卓の空気が少し緩んだ。
「お前には聞いていない」
「でも父上、昨日、母上に怒られてましたよね」
「それも今は関係ない」
「何をなさったのです?」
「瑠璃」
母が笑いを堪えている。
父だけが困った顔をしていた。
瑠璃もつられて笑った。
ほんの少し前に胸へ残った父の言葉は、その笑い声の中へ溶けていった。
◇
礼拝堂を出ると、朱が待っていた。
瑠璃と同じ十七歳。
静かな少女だった。
「おはようございます、瑠璃様」
「おはよう、朱。今日は早いですね」
「いつもどおりです」
「そうでしたか?」
瑠璃が首を傾げる。朱は表情を変えない。
「瑠璃様が遅かっただけです」
「……今日は皆、私に厳しくありませんか?」
「皆?」
「朝から侍女にも母上にも」
「でしたら、皆が正しいのでは」
「朱まで」
瑠璃が頬を膨らませる。
朱の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「施療院へ行かれるのでしょう?」
「はい。一緒に来ますか?」
「もちろんです」
朱の返事には迷いがなかった。
「即答ですね」
「瑠璃様がお一人で城下へ出られる方が困ります」
「護衛はいますよ」
「それでもです」
朱は譲らない。
瑠璃は肩をすくめて歩き出した。
礼拝堂から王城の正門へ向かう途中、庭園を横切る。
庭師たちが頭を下げた。
瑠璃も一人ずつに声をかける。
「昨日の雨、大丈夫でしたか?」
「はい、姫様。むしろ花には恵みで」
「それなら良かった」
「姫様、先日の苗も根付きましたよ」
「本当ですか?」
瑠璃が足を止める。
朱が静かに空を見る。
長くなる。
そう思っている顔だった。
「見ていっても?」
「施療院へ遅れます」
「少しだけ」
瑠璃は苗のある方へ未練がましく目を向けた。
「昨日もその『少しだけ』で半刻遅れました」
「……では帰りに」
「はい」
瑠璃は名残惜しそうに庭を離れた。
城下へ出ると、声をかけられることが増える。
「姫様!」
「聖女様!」
「おはようございます!」
瑠璃はそのたびに足を止めた。
老人の手を取り、子供の頭を撫で、店主から渡された果物を受け取って困り、結局その場にいた子供へ渡す。
「姫様、それでは贈り物になりませんよ」
朱が言う。
「私一人で食べるよりいいでしょう?」
「贈った方は、瑠璃様に食べてほしかったのでは」
「では次は二ついただきます」
「そういう話でしょうか」
城下の人々は笑った。
瑠璃も笑う。
『聖女の再来』。
誰が最初に呼び始めたのか、瑠璃は知らない。
大病を患った子供の手を握った。
洪水で家を失った者たちのところへ通った。
貴族と農民が水利を巡って争ったとき、何日も双方の話を聞いた。
そんなことが積み重なり、いつしかその名が広まった。
瑠璃自身は、奇跡を起こしたことなど一度もない。
治せない病は治せない。
死んだ人を生き返らせることもできない。
だから『聖女』と呼ばれるたび、少し困った。
ただ、困っている人を見捨てたくないだけだった。
◇
施療院では、片脚を怪我した兵士が寝台から起き上がろうとしていた。
「そのままで」
「しかし、姫様に――」
「怪我人が私のために無理をしてどうするのです」
瑠璃は椅子を引き、寝台の横へ座った。
「具合は?」
「医師には、あとひと月もすれば歩けると」
「良かった」
「ですが……隊へ戻れるかは」
兵士が目を伏せる。
瑠璃はすぐに励まさなかった。
「怖いですか?」
「……はい」
「何が一番?」
「剣を振れなくなることです」
「どうして?」
「俺には、それしかありませんから」
瑠璃は首を横へ振った。
「そんなことはありません」
瑠璃は即座に否定したが、兵士はまだ自分の脚を見つめていた。
「姫様には、そう見えるでしょうが」
「いいえ」
瑠璃は少し考える。
「あなたは奥様とお子さんがいると聞きました」
「はい」
「お子さんは、あなたが剣を振れなくなったら父親ではなくなるのですか?」
「それは……」
「国も同じです。兵士でなくなったら、あなたの価値がなくなるわけではありません」
男が瑠璃を見る。
「剣を持つ人は、剣だけの人ではありません」
朱が、わずかに瑠璃へ目を向けた。
その言葉を、別の誰かから聞いたことがある。
朱がそう思ったのかどうか、瑠璃は気づかなかった。
◇
午後。
軍議は、瑠璃が想像していたより長引いた。
西部の領主。
税。
兵。
街道。
倉庫。
報告書の数字が机の上を行き交う。
瑠璃は一つ一つに目を通した。
「この領地だけ、兵糧の購入量が多くありませんか?」
父が視線を上げる。
「気づいたか」
「はい。でも兵を増やしているなら当然では?」
「当然とも言える」
「何か問題が?」
軍務卿が答えた。
「現時点では、問題とは断定できません」
「でしたら、やはり本人を呼んで事情を聞くべきです」
年配の将が鼻を鳴らす。
「姫様は、相変わらず話し合いがお好きですな」
「嫌いなのですか?」
瑠璃がまっすぐ問い返すと、年配の将は肩をすくめた。
「戦場では、話している間に首が飛びます」
「ここは戦場ではありません」
「今は、です」
瑠璃は眉を寄せた。
「国内の領主を敵のように扱えば、本当に敵になってしまいます」
「敵でない者を敵にする必要はありません。しかし敵になった者を、味方だと思い込むのも危険です」
「まだ敵ではありません」
「ですから、確かめるのです」
父が間に入った。
「瑠璃。お前の考えは間違っていない」
「……はい」
「ただし、正しい考えが、いつでも正しい結果を生むわけではない」
瑠璃は黙った。
納得できない。
だが、反論できるほどの経験もない。
そんな娘を見て、父は責めなかった。
「今日はここまでにしよう」
軍議が終わる。
退出する将たちの中で、瑠璃は一人だけ残った。
「父上」
「何だ」
父は退出する重臣たちを見送り、それから娘へ向き直った。
「父上は、その領主が裏切ると思っているのですか?」
「分からない」
「では、信じているのですか?」
「それも、今は答えない」
「どうして?」
父は娘を見る。
「王が『信じている』と言えば、それだけで周囲は疑うことをやめることがある。『疑っている』と言えば、今度は罪のない者まで敵として見る」
「……」
「だから、分からないときは分からないまま調べる」
「それが王なのですか」
「その一つだ」
瑠璃は小さく息を吐いた。
「私は、向いていないかもしれません」
「そうか?」
父は意外そうに眉を上げた。
「白黒つけたくなります」
「十七で何でも分かっている王女の方が、私は怖い」
「父上」
「迷え。考えろ。人の話を聞け。それでも最後は自分で決めろ」
父は瑠璃の頭へ手を置いた。
「お前ならできる」
「……子供扱いしないでください」
「私の娘だからな。いくつになっても子供だ」
「王女です」
「それでも娘だ」
瑠璃は不満そうにしながら、その手を払いはしなかった。
◇
訓練場には、すでに静がいた。
白い髪を後ろへ流し、木剣を片手に立っている。
十七歳。
細身の身体。
派手な構えはない。
ただ立っているだけなのに、近くで訓練していた兵士たちは誰も静へ近づこうとしない。
「遅い」
瑠璃が入ってくるなり、静が言った。
「軍議が長引いたのです」
「言い訳」
「事実です」
瑠璃は木剣を受け取りながら、静を睨む。
「同じだ」
「違います」
瑠璃は木剣を取る。
「今日は負けません」
「昨日も聞いた」
「昨日の私は昨日の私です」
「今日も瑠璃だ」
「もう!」
静がほんの少し笑ったように見えた。
「来い」
瑠璃が踏み込む。
木剣がぶつかる。
一合。
二合。
三合。
四合目で、瑠璃の剣が宙を舞った。
「……」
「遅い」
「今のは反則です」
「何が」
「速すぎます」
「知らない」
静は落ちた木剣へ視線をやった。瑠璃は不満そうにそれを拾う。
「もう一度」
「休め」
「まだ四回しか打っていません」
「午前から歩き回った」
「見ていたのですか?」
「朱から聞いた」
「朱……」
瑠璃が振り返る。
訓練場の端にいた朱が視線を逸らした。
「裏切りましたね」
「報告しただけです」
「私の味方では?」
「瑠璃様のお味方です。だから休んでください」
静が木剣を下ろす。
「二対一」
「卑怯です」
「戦はもっと卑怯だ」
「静まで軍議の将軍みたいなことを」
静がわずかに目を細めた。
「事実だ」
そのとき。
「静に理屈で勝とうとするのは諦めた方がいいぞ」
男の声がした。
瑠璃が振り向く。
雪乃夫妻が訓練場へ入ってくる。
銀華の父、雪乃冬真。銀髪の聖騎士。
そして蒼華。
冬真の腰には剣があった。
「お久しぶりです」
瑠璃が頭を下げる。
「三日前にも会っただろう」
「王女にとって三日は長いのです」
「初めて聞いたな」
冬真が笑う。
蒼華は静へ目を向けた。
「また無茶な稽古をさせてないでしょうね」
「してない」
「本当に?」
蒼華は静の顔を覗き込む。静はわずかに視線を逸らした。
「瑠璃が勝手に無茶する」
「静!」
蒼華が笑った。
「それなら止めるのも先生の役目よ」
「私は先生じゃない」
「でも教えているでしょう?」
「頼まれたから」
「そういうところ、昔から変わらないわね」
静が黙る。
蒼華はその反応を楽しむように、静の頭へ手を伸ばした。
静が半歩下がった。
「子供じゃない」
「十七歳は十分子供よ」
「あなたに言われたくない」
「どうして?」
蒼華が楽しそうに問い返すほど、静の顔は険しくなる。
「……知らない」
瑠璃は目を瞬いた。
静がこれほど言葉を返す相手は珍しい。
兵士たちから距離を置かれ、年上の将からさえ一目置かれる少女が、蒼華の前では少しだけ年相応に見える。
「静は、本当にあなたには弱いですね」
瑠璃が言う。
「弱くない」
「そう?」
蒼華が楽しそうに静を見る。
「昔はもっと可愛かったのに」
「言うな」
静が珍しく露骨に嫌そうな顔をする。銀華の視線がますます興味深そうに向いた。
「私の後ろから離れなかったでしょう?」
「言うな」
静が珍しく露骨に嫌そうな顔をする。銀華の視線がますます興味深そうに向いた。
「夜になると――」
「やめろ」
瑠璃が目を輝かせる。
「続けてください」
「瑠璃」
「これは王女として知っておく必要があります」
瑠璃はもっともらしく胸を張ったが、静にはまるで通じない。
「ない」
珍しく静の声が強くなった。
冬真が腹を抱えて笑う。
「お前、まだそれ気にしてるのか」
「あなたも黙れ」
静がわずかに目を細めた。
「静様」
小さな声がした。
全員が振り向く。
訓練場の入口に銀華が立っていた。
十四歳。
長い銀髪。
まだ少女らしい細い身体に、稽古着を着ている。
両手には木剣を抱えていた。
「銀華」
蒼華が手を上げる。
「待たせた?」
「いえ」
銀華は両親へ頭を下げ、それから瑠璃にも礼をする。
「瑠璃様、ごきげんよう」
「こんにちは、銀華」
「静様も」
「ん」
静の返事は短い。
だが銀華を見る目は、兵士を見るときとは明らかに違った。
「今日は稽古?」
瑠璃が尋ねる。
「はい。父様に見てもらいます」
「母様には?」
銀華が少しだけ困った顔をした。
「母様は……厳しいので」
「銀華?」
「何でもありません」
蒼華が微笑む。
銀華の背筋が伸びた。
静がぼそりと言う。
「分かる」
「静?」
「何でもない」
「二人とも?」
冬真がまた笑う。
蒼華は呆れたように腕を組んだ。
「まったく。私が悪者みたいじゃない」
「実際、錫杖を持つと怖い」
静が言う。
「静まで!」
瑠璃は思わず笑った。
◇
銀華の稽古が始まった。
冬真が相手をする。
銀華が踏み込む。
速い。
十四歳として見れば、十分すぎるほどに。
だが冬真は動かない。
銀華の木剣が届く直前、ほんの少し身体をずらす。
空を切った。
「足」
「はい!」
銀華は息を整える間も惜しむように、すぐ構え直した。
「上半身だけで追うな」
「はい!」
もう一度。
今度はフェイントを入れる。
冬真は受けた。
乾いた音。
銀華が体勢を崩す。
それでも倒れず、すぐに踏み直す。
「いいぞ」
「もう一度お願いします」
「まだやるのか」
「はい」
蒼華が木陰から見ている。
静も隣に立っていた。
「才能ある?」
瑠璃が尋ねる。
「ある」
静が即答する。
「静ほど?」
「比べるな」
「どうして?」
「違う」
それだけ言って、静は銀華へ目を戻した。
瑠璃には意味が分からなかった。
だが蒼華は分かっていたらしい。
「そうね」
静を見る。
「比べる必要なんてないわ」
静は何も言わなかった。
「静は静。銀華は銀華。それでいいの」
「……分かってる」
「本当に?」
蒼華は静の顔を覗き込む。静はわずかに視線を逸らした。
「分かってる」
静の返事は短い。それでも蒼華は念を押すように見つめている。
「ならいいわ」
瑠璃は二人を交互に見る。
「昔、何かあったのですか?」
蒼華が静を見る。
静は露骨に嫌そうな顔をした。
「聞きたい?」
蒼華が確認するように瑠璃を見る。隣で静の眉間に皺が寄った。
「はい」
「聞かなくていい」
静が先に答えた。
「私は蒼華様に聞いています」
「瑠璃」
「気になります」
蒼華は少し迷い、それから静へ尋ねた。
「話してもいい?」
「……好きにしろ」
許可なのか諦めなのか分からない返事だった。
蒼華は訓練場へ視線を戻した。
「静がまだ小さかった頃、この子は今以上に剣しか知らなかったの」
「今以上に?」
「そう。朝から晩まで剣。食事の時間を削って剣。怪我をしても剣」
「誰かに強制されていたのですか?」
蒼華の表情から笑みが消えた。
「半分は、この子自身の意思。半分は周りの大人よ」
静は黙っている。
「才能がありすぎたの」
その言葉は褒め言葉には聞こえなかった。
「一度見た技を覚える。年上の兵士に勝つ。身体が小さいのに、どうすれば相手を倒せるかを自分で考える。軍部は喜んだわ」
「国を守る剣士になるから?」
「最初はね」
蒼華は目を細めた。
「でも、だんだん違ってきた」
静の手がわずかに動く。
「この子が何を好きか。何を食べたいか。痛いのか。怖いのか。そんなことを誰も聞かなくなった。今日は何人倒せた。昨日より何秒速くなった。次は何人を相手にできる――そればかり」
瑠璃の胸がざわついた。
「そんな……」
「兵器を作っているみたいだった」
蒼華の声は静かだった。
静が顔を伏せる。
「だから怒ったの」
「軍部に?」
「ええ」
「怖くなかったのですか?」
「怖かったわよ」
蒼華は当時を思い出したのか、わずかに肩をすくめた。
「そうなのですか?」
「当たり前でしょう。国の軍部を敵に回すのよ?」
蒼華は笑った。
「でも、それより腹が立った」
静が小さく息を吐く。
「この人、軍務卿の机を叩いた」
「静」
「本当だろ」
静は悪びれない。蒼華だけが少し頬を赤くする。
「そこまで言わなくていいの」
「錫杖まで持ち出しかけた」
「持ち出してないわ」
「手はかけてた」
「静」
瑠璃は目を丸くした。
冬真が遠くから笑っている。
「俺も止めるの大変だったぞ!」
「あなたは黙ってて!」
「はいはい」
蒼華が頬を赤くする。
瑠璃は笑いそうになったが、話の重さを思い出して口を閉じた。
「それで……どうなったのです?」
「私たちが預かった」
今度は冬真が答えた。
銀華へ休憩を命じ、こちらへ歩いてくる。
「正式には色々面倒な手続きをしたがな。俺とこいつの庇護下に置いた」
「軍部は認めたのですか?」
「最初は認めなかった」
蒼華が肩をすくめる。
「だったら静を連れて国を出ると言ったの」
「母様、本当に言ったんですか?」
休憩に戻ってきた銀華が驚く。
「言ったわよ」
「初めて聞きました」
銀華は驚いたまま静を見る。静は昔話を打ち切りたそうに顔を背けた。
「国を出るって……」
「静をあのままにはできなかったから」
銀華が静を見る。
「静様……」
「昔の話だ」
静はそれだけ言った。
だが蒼華は続けた。
「強いことは悪くない。剣が好きなのも悪くない。でもね、静」
「……何」
「剣を持っていないあなたにも価値がある。それを忘れないで」
「分かってる」
静の返事は短い。それでも蒼華は念を押すように見つめている。
「ならいい」
蒼華が微笑む。
静は少しだけ視線を逸らした。
瑠璃はその横顔を見ていた。
剣を持つ人は、剣だけの人ではない。
午前中、施療院で自分が口にした言葉。
あれは、自分だけの言葉ではなかったのかもしれない。
この国には、こうして誰かから誰かへ渡っていく考えがある。
瑠璃は、それを美しいと思った。
◇
夕刻。
銀華は母と向かい合っていた。
「行きます」
「どうぞ」
木剣を構える。
銀華が踏み込む。
一瞬だった。
気づけば木剣が地面に落ちている。
「……」
「拾って」
「はい」
銀華が拾う。
「もう一度」
「はい」
踏み込む。
また落ちる。
「もう一度」
「はい」
三度。
四度。
五度。
銀華の息が上がる。
「もう一度お願いします」
「今日はここまで」
「まだできます」
「できるかどうかではなく、終わり」
蒼華の声に迷いはない。銀華はまだ木剣を手放せずにいた。
「でも」
「銀華」
母の声が少し低くなる。
銀華は黙った。
「悔しい?」
「……はい」
「なら、その悔しさを明日まで覚えておきなさい」
「今、もう一度やった方が――」
「疲れた身体で同じ失敗を繰り返すのは修行じゃないわ」
銀華が唇を噛む。
「強くなりたいのは分かる。でも、身体を壊したら剣は振れない」
「はい」
「返事だけ?」
「……分かりました」
「よろしい」
蒼華が銀華の頭を撫でる。
銀華は少し不満そうだったが、逃げなかった。
静がその様子を見ている。
「何?」
蒼華が気づく。
「別に」
「言いたいことがある顔」
「ない」
静は即答した。
「静は昔、止めても夜中に一人で振ってたわね」
静がわずかに目を細めた。
「……」
「それで翌朝、腕が上がらなくなって」
「言うな」
銀華が静を見る。
「静様も?」
「見るな」
「私だけじゃないんですね」
「銀華」
静が珍しく困った顔をした。
瑠璃は声を上げて笑った。
朱まで口元を隠している。
夕陽の中で、皆が笑っていた。
冬真が蒼華の肩を抱く。
蒼華がその手を軽く叩く。
銀華は静へ何か尋ね、静は面倒そうに答える。
朱が瑠璃の隣にいる。
何も特別なことのない夕暮れだった。
だから瑠璃は、その景色を覚えておこうとは思わなかった。
明日もあると思っていたから。
◇
数日後。
王城では、小さな違和感が増えていた。
予定されていた領主が登城しない。
街道からの報告が遅れる。
王都へ入る商隊の数がわずかに減る。
西部から届くはずの穀物が、理由もなく三日遅れた。
だが城下は変わらない。
子供たちは走り回り、市場では値切りの声が飛び交う。
瑠璃も変わらず施療院へ行き、礼拝堂へ行き、父の政務に同席した。
そして、その日も銀華一家と食事をした。
「銀華、野菜を残さない」
「残してません」
「端に寄せているだけでしょう」
「あとで食べます」
銀華は皿の端へ寄せた野菜を、さりげなくパンで隠そうとした。
「最初に食べなさい」
「母様も昔、嫌いなものがあったでしょう?」
「誰から聞いたの?」
銀華が父を見る。
冬真が目を逸らす。
「あなたね」
「いや、俺は何も」
冬真は目を逸らしたまま答える。その態度だけで十分だった。
「父様が言いました」
「銀華!」
「嘘はいけません」
「お前、そういうところ母親そっくりだな」
「何か言った?」
「何も」
静が隣で黙々と食べている。
瑠璃が尋ねた。
「静は嫌いなものがありますか?」
「ない」
蒼華が即座に口を挟む。
「昔は人参が嫌いだったわ」
「ない」
静は食事の手を止めず、即答した。
「細かく刻まないと食べなかったでしょう」
「覚えてない」
静がわずかに目を細めた。
「静様、人参が嫌いだったんですか?」
「銀華。食べろ」
「話を逸らしましたね」
「食べろ」
銀華が少し笑う。
静もほんの少しだけ口元を緩めた。
そのとき。
食堂の扉が開いた。
王城の兵士が入ってくる。
「失礼いたします。陛下より、雪乃殿へ」
冬真が顔を上げる。
「何だ」
「至急、政務室へとのことです」
空気がわずかに変わった。
冬真は立ち上がる。
蒼華も表情を改めた。
「私も?」
「奥方様にも、可能であれば同席をと」
「分かったわ」
銀華が二人を見る。
「何かあったのですか?」
冬真は少し考え、笑った。
「大したことじゃない」
冬真は笑ってみせたが、銀華はすぐには納得しなかった。
「本当に?」
「ああ。お前は食べてろ」
蒼華が銀華の髪へ触れる。
「先に帰っていてもいいからね」
「はい」
二人が出ていく。
瑠璃も立ち上がろうとした。
だが兵士が首を横に振る。
「姫様には、陛下より今夜はお休みになるようにと」
「でも」
「明朝、改めてお話しになるとのことです」
瑠璃は扉を見る。
胸の奥に、小さな棘のようなものが残った。
「静」
「何」
「何だと思います?」
「分からない」
静の答えはいつもどおり短い。瑠璃は両親が消えた扉へもう一度目を向けた。
「心配では?」
「心配しても分からない」
「……そうですね」
瑠璃は座り直した。
銀華も両親が出ていった扉を見ている。
「銀華」
「はい?」
「大丈夫ですよ」
何の根拠もなかった。
それでも瑠璃はそう言った。
銀華は少し笑った。
「はい」
◇
その夜。
国王の政務室には、数枚の報告書が並んでいた。
雪乃夫妻。
軍務卿。
数名の重臣。
誰も笑っていない。
「三か所か」
冬真が言う。
「ああ」
国王が地図を見る。
「西部街道。北西の関所。そして南の河川港。偶然にしては重なりすぎている」
「兵糧も動いています」
蒼華が報告書へ指を置いた。
「ここ。表向きは凶作への備蓄。でも量が多い」
「領軍の招集は?」
「訓練名目で進んでいるようです」
軍務卿が低い声で答えた。
「討伐軍を出しますか」
国王はすぐには答えなかった。
「まだだ」
国王の一言で、軍務卿は口を閉じた。
「陛下」
「証拠がない」
「動いてからでは遅い可能性が」
「分かっている」
国王は目を閉じる。
「だが、疑いだけで領軍へ王国軍を向ければ、それこそ内乱の火種になる」
蒼華が地図を見る。
「使者は?」
「二人出した。一人はまだ戻らない」
「もう一人は?」
「途中で襲われた」
部屋が静まる。
「生きてはいる。だが、相手は盗賊だったと証言している」
「盗賊が王家の使者だけを狙う?」
蒼華の声が冷たくなる。
「私も偶然とは思っていない」
国王は窓の外を見る。
王都の灯り。
穏やかな夜。
「明日、瑠璃にも話す」
「姫様は、きっと直接話し合うと言うでしょうね」
冬真が苦笑する。
「そうだろうな」
「悪いことではありません」
蒼華が言う。
「分かっている」
「でも?」
「相手が、その優しさを利用しない者ならな」
国王の言葉に、誰も返さなかった。
◇
同じ夜。
銀華は眠れずにいた。
両親はまだ帰らない。
窓から月を見る。
しばらくして、廊下を歩く気配がした。
扉を開ける。
「静様?」
静がいた。
「起きてたか」
「はい」
「寝ろ」
「父様と母様は?」
「まだ城だ」
静は廊下の先へ視線を向けた。銀華もつられるようにそちらを見る。
「何かあったんですよね」
静は答えない。
「私には言えませんか?」
「知らない」
「静様も?」
「ああ」
銀華は少し黙った。
「静様」
「何」
「母様のこと、本当に怖かったんですか?」
突然話が変わり、静が銀華を見る。
「さっきの話です」
「忘れろ」
静は話を終わらせるように背を向けかけたが、銀華は引かなかった。
「でも気になります」
「寝ろ」
静がわずかに目を細めた。
「静様」
「……怖かった」
銀華の目が少し大きくなる。
「錫杖で?」
「違う」
「では、何が?」
静は月を見た。
「怒るから」
「母様、怒ると怖いです」
銀華が小さく笑う。静の口元も、ほんのわずかに緩んだ。
「そうだな」
「でも、優しいです」
「ああ」
静の返事は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「私、母様みたいに強くなれますか?」
「分からない」
「そこは、なれるって言ってくれても」
「嘘は言わない」
「……静様らしいです」
「ただ」
静が銀華を見る。
「お前は、お前でいい」
銀華は意味が分からない顔をした。
「母様と同じじゃなくても?」
「ああ」
銀華は相手の言葉を待った。
「父様とも?」
「ああ」
静がわずかに目を細めた。
「静様とも?」
「ああ」
静は迷わず頷いた。銀華は一つずつ確かめるように問いを重ねる。
「それでも強くなれますか?」
「なれる」
今度は迷わなかった。
銀華が笑った。
「はい」
「寝ろ」
「はい。おやすみなさい、静様」
「おやすみ」
銀華が扉を閉める。
静はしばらくそこに立っていた。
やがて、小さく息を吐く。
剣を持っていないあなたにも価値がある。
何年も前に言われた言葉が、今でも残っている。
あの人がいなければ。
あの夫婦がいなければ。
自分は今、何になっていただろう。
考えたくなかった。
◇
翌朝。
瑠璃は父から昨夜の話を聞いた。
「私が行きます」
やはり、最初の言葉はそれだった。
「瑠璃」
「領主と直接話します。何か不満があるなら聞けばいい。兵を増やしている理由も、物資を集めている理由も」
「危険だ」
「護衛を連れていきます」
「そういう問題ではない」
父の声が少し低くなる。それでも瑠璃は引かなかった。
「では、このまま疑い続けるのですか?」
「調べる」
「話した方が早いです」
父は娘を見つめた。
瑠璃も引かなかった。
「父上。もし本当に不満があるのなら、王家にも責任があります」
「そうかもしれない」
「なら、聞かなければ」
「お前は、自分が誠実に話せば相手も誠実に返すと思っている」
「違うのですか?」
「違わない者もいる」
父はそこで言葉を切った。瑠璃は続く答えを待つ。
「なら――」
「違う者もいる」
瑠璃の言葉が止まった。
「私は、お前のその考えを捨てろとは言わない」
父が続ける。
「むしろ、できるなら持ち続けてほしい」
「……」
「だが王になるなら覚えておけ。人を信じることと、相手へ自分の命を無条件に預けることは違う」
「私は命を――」
「お前の命だけではない」
父の声が強くなった。
「王族が間違えば、民が死ぬ」
瑠璃は黙った。
父がここまで強く言うことは珍しい。
「お前が一人の少女なら、好きなだけ信じればいい。裏切られて傷つくのも、お前一人だ」
「……はい」
「だが王女のお前が判断を誤れば、兵が死ぬ。村が焼ける。子供が親を失う」
瑠璃は膝の上で手を握った。
「それでも私は……話すことを諦めたくありません」
「ああ」
父は微笑んだ。
「それでいい」
「いいのですか?」
「だから、話すために備えるんだ」
瑠璃は顔を上げた。
「剣を抜かずに済ませるために、剣を持つ。疑わずに済むように、確かめる。守る力があるから、相手の言葉を最後まで聞けることもある」
冬真は立ち上がる。
「お前には、その両方を学んでほしい」
瑠璃はすぐには返事をしなかった。
完全には理解できなかった。
それでも。
「……はい」
そう答えた。
◇
昼過ぎ。
王城の訓練場では、銀華が一人で木剣を振っていた。
「百九十七……百九十八……」
「銀華」
「百九十九――」
「銀華」
振り返る。
蒼華が立っている。
「何回やるつもり?」
「二百回です」
銀華は当然のように答えた。蒼華は木剣と娘の顔を交互に見る。
「昨日は百回だったでしょう」
「増やしました」
「どうして?」
「早く強くなりたいので」
蒼華が近づく。
「昨日、何を言った?」
「疲れた身体で同じ失敗を繰り返すのは修行じゃない」
「覚えているじゃない」
「今は疲れてません」
銀華はまだ振れると示すように木剣を握り直した。
「そういう問題じゃないの」
銀華は木剣を下ろした。
「母様」
「何?」
「強い人は、たくさんやっているんでしょう?」
「たくさんやってるわね」
「なら私も」
「量だけ真似してどうするの」
蒼華が銀華の額を指で弾く。
「痛いです」
「考えなさい」
「考えてます」
銀華がむっとすると、蒼華はその顔をじっと見返した。
「考えてる顔じゃない」
「どんな顔ですか」
「意地になってる顔」
銀華は口を閉じた。
蒼華は娘の木剣を取る。
「強くなりたい理由は?」
「父様と母様みたいになりたいから」
「それだけ?」
蒼華の問いに、銀華はすぐ答えず木剣へ目を落とした。
「……守れる人になりたいです」
「誰を?」
銀華は少し考えた。
「大切な人を」
蒼華の目が柔らかくなる。
「そう」
「だから、もっと強く――」
「銀華」
「はい」
「守るために、自分を壊したら駄目よ」
銀華が瞬きをする。
「あなたが守りたいと思う人は、たぶんあなたにも生きていてほしいから」
「……はい」
「剣は大事。でも剣だけが強さじゃない」
「静様にも、そう教えたんですか?」
蒼華が少し驚き、それから笑った。
「ええ」
「静様、ちゃんと覚えてますか?」
「どうかしら」
「忘れてそうです」
「聞こえてる」
背後から声がした。
銀華が振り返る。
「静様」
「忘れてない」
「そうですか?」
銀華が確かめるように静を見る。静は小さく頷いた。
「ああ」
蒼華が笑う。
「なら、今度はあなたが銀華に教えてあげて」
「なぜ私が」
静は面倒そうに眉を寄せる。蒼華は楽しそうにその反応を見た。
「先輩でしょう?」
「何の」
「私に叱られた先輩」
「……帰る」
「静様!」
銀華が追いかける。
蒼華は二人の背中を見ていた。
穏やかな顔だった。
◇
その日の夕方。
王都へ入る西門で、一台の荷車が止められた。
「積み荷を」
「穀物です」
「帳簿を見せろ」
門兵が紙を確認する。
不自然なところはない。
荷台には袋が積まれている。
袋を一つ開ける。
確かに麦だ。
「通れ」
「ありがとうございます」
御者が頭を下げる。
荷車が門をくぐる。
城下へ入ってしばらくしてから、御者は人通りの少ない路地へ曲がった。
そこで待っていた男へ、小さな紙片を渡す。
「予定どおりだ」
「王城は?」
「まだ気づいていない」
御者の言葉に、待っていた男はすぐ首を横へ振った。
「いや」
男は紙片を懐へ入れた。
「気づき始めている」
「では?」
「問題ない」
短い会話。
それだけで二人は別れた。
荷車は再び市場へ向かう。
麦袋の下に何が隠されているのか。
門兵は知らない。
瑠璃も知らない。
王も、まだすべては知らない。
◇
夜。
王城の高い回廊から、瑠璃は城下の灯りを見ていた。
「眠れませんか」
朱が隣へ来る。
「少しだけ」
「陛下のお話が?」
「はい」
瑠璃は手すりへ触れる。
「朱」
「はい」
「人は、そんなに簡単に人を裏切るのでしょうか」
朱はすぐには答えなかった。
「分かりません」
朱は少し考えてから答えた。瑠璃も急かさず、その横顔を見る。
「私もです」
「でも」
「でも?」
「瑠璃様が誰かを信じることを、私は嫌いではありません」
瑠璃が朱を見る。
「ただ、それで瑠璃様が傷つくのは嫌です」
「傷つくくらいなら、最初から疑った方がいい?」
瑠璃の問いは、城下の灯りへ向けられたようにも聞こえた。
「……分かりません」
「ふふ」
「笑わないでください」
「ごめんなさい。朱でも分からないことがあるんだと思って」
「あります」
「私も、分からないことばかりです」
城下では、人々がいつもの夜を過ごしている。
酒場から笑い声が聞こえる。
家へ帰る父親を子供が迎える。
窓辺で母親が洗濯物を取り込んでいる。
何も変わっていない。
「きっと大丈夫です」
瑠璃が言った。
朱は答えなかった。
「話せば、分かります」
自分に言い聞かせるような言葉だった。
その夜も。
蒼緑国の空は、静かだった。
まだ誰も知らない。
この穏やかな日々が、終わりへ向かっていることを。
そして。
この国の外から、すでにいくつもの糸が伸びていることを。
瑠璃がそれを知るのは、ずっと後のことになる。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
ここから番外編「十年前」が始まります。
舞台は、本編から十年前。
今とは違う立場にいた人たち。
まだ幼かった者たち。
そして、現在まで残る傷や想い。
本編ですでに名前が出ている人物たちも、
十年前には、今とは違う日々を生きていました。
この番外編では、
彼女たちの現在へと繋がっていく出来事を描いていきます。
「あの時、何があったのか」
その答えを、一つずつ見届けてもらえたら嬉しいです。
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『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』を
読んでいただき、ありがとうございます。
続きも読みたいと思っていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
Xでは、更新情報や本編のイラスト、
キャラクターたちの一コマなどを投稿しています。
https://x.com/takeyan4562
YouTubeでは、キャラクターのテーマ音楽など、
小説とはまた違った形で『南のオーフェリア』の世界を公開しています。
本編を知っているからこそ見えてくるもの。
過去を知ったあとだからこそ、違って見えるもの。
十年前の物語も、
最後までお付き合いいただけたら嬉しいです。
#南のオーフェリア




