閑話② 千年ぶりの夫婦喧嘩
夜は静かだった。
港町の宿。
昼間まで絶え間なく聞こえていた荷車の音も、船乗りたちの声も、今は遠い。
窓の外から届くのは、時折吹く海風と、どこかで軋む帆柱の音くらいだった。
銀華は眠っている。
明日には初めて船に乗るというのに、枕元には白銀王国の資料が置かれたままだった。
少し離れた寝台では、朧も眠っていた。
その間では刹那も、規則正しい寝息を立てている。
そして。
部屋の隅に置かれた二振りの剣だけが、眠っていなかった。
銀華が《青の輝き》と呼ぶ青い剣。
朧が古道具屋で手にした一振りの刀。
月明かりが床を細く照らした、その時。
青い剣が、微かに震えた。
同時に、刀の鍔が小さく鳴る。
ちりん。
淡い光が、二振りの周囲から滲み出した。
やがて光は、それぞれ人の姿を形作っていく。
一人は黒髪を高く結った女。
鋭い目元と静かな立ち姿は、眠っている朧によく似ていた。
もう一人は長い銀髪の女。
柔らかな顔立ちと左右で色の違う瞳は、銀華によく似ている。
黒髪の女の名は、華月。
銀華が《青の輝き》と呼ぶ剣に宿る意思であり、《華月》こそが本来の名だった。
姿だけでなく、短く淡々とした話し方まで朧を思わせる。
銀髪の女の名は、朧月。
朧の刀に宿る意思であり、その姿も話し方も銀華を思わせた。
千年近い時を隔てて。
二人は、ようやく互いの姿を見た。
「…………」
「…………」
華月が朧月を見る。
朧月が華月を見る。
次に華月は、朧月のすぐ近くで眠る朧へ視線を移した。
朧月も、華月の傍らに置かれた寝台の銀華を見る。
二人の眉が、同時に動いた。
「……なぜ、お前は私そっくりな人間の近くにいる」
「それ、私の台詞なんだけど」
朧月は銀華を指した。
「どうしてあなたは、私そっくりな人の剣になってるの?」
「…………」
「…………」
「説明しろ」
「あなたが先に説明してよ」
千年ぶりの再会だった。
抱き合うでもなく。
涙を流すでもなく。
夫婦の再会は、互いへの尋問から始まった。
「私から話すことはない」
「あるでしょう。いっぱいあるよ」
「ない」
「じゃあ聞くね。あの人、銀華っていうんでしょう?」
「ああ」
「名前で呼んでる」
「持ち主の名前くらい知っている」
「へえ」
「何だ」
「別に」
「その顔で別にと言うな」
朧月は少し頬を膨らませた。
「千年ぶりに会ったのに、知らない女の名前を普通に呼んでるなって思っただけ」
「……」
「だったら、もう少し『久しぶり』とかないの?」
「お前も第一声が同じだっただろう」
「だって気になるでしょう!」
「私も気になった」
「じゃあ同じだね」
「そうだな」
そこで一度、二人は黙った。
本当に、千年ぶりだった。
声も。
姿も。
こんなふうに言い返されることさえも。
けれど、感傷に浸るには、互いの隣にいる人間があまりにも気になりすぎた。
華月が銀華を見る。
「銀華は悪くない」
「……いきなり何?」
「お前が銀華のことを聞いたからだ。なら私の持ち主についても話しておく」
「私、まだ朧のこと何も話してないよ」
「そうだったか」
「そうだよ」
「なら先に話す」
「……うん」
華月は眠る銀華へ視線を向けた。
「強い」
「うん」
「剣筋も悪くない。判断も速い。戦場では周囲もよく見ている」
「うん」
「自分が前へ出るべき時と、兵を動かすべき時も分かっている」
「…………」
「無駄に命を捨てるような戦い方もしない」
「…………」
「ただ、自分のことになると少し――」
「ちょっと待って」
「何だ」
朧月が華月をじっと見る。
「銀華のこと、すごく褒めるね」
「事実だ」
「まだ続く?」
「聞きたいなら」
「……ずいぶん気に入ってるんだ」
「剣の持ち主としてはな」
「ふうん」
「何だ」
「別に」
「またその顔か」
「だって、千年ぶりに会ったのに、私そっくりな女のことをべた褒めしてるんだよ?」
「べた褒めではない。評価だ」
「同じじゃない?」
「違う」
「どこが?」
「違うものは違う」
「頑固」
「お前に言われたくない」
朧月は銀華を見た。
「でも……確かに強いよね」
「分かるのか」
「見てたもの。あなたと私が、あの二人の剣としてぶつかった時」
「ああ」
「あの時、変な感じがした」
「私もだ」
「まさか、あなたがいるなんて思わなかったけど」
「千年だ。普通は思わん」
「でも、刃が触れた時……知ってるって思った」
「ああ」
「それで?」
「何だ」
「銀華の好きなところ、まだある?」
「なぜ聞く」
「気になるから」
「面倒だな」
「言ってよ」
華月は少し黙った。
「……真面目だ」
「うん」
「責任感も強い」
「うん」
「強いくせに、妙なところで危なっかしい」
「うん」
「放っておけば、何でも一人で背負おうとする」
「……よく見てるね」
「持ち主だからな」
「それだけ?」
「何がだ」
「銀華、綺麗でしょう?」
「…………」
「華月?」
「お前は何を言わせたい」
「答えて」
「必要ない」
「綺麗だと思ってるんだ?」
「整った顔はしている」
「ほら!」
「お前が言わせたんだろう!」
華月の声が僅かに大きくなる。
二人は同時に寝台を見た。
銀華は眠ったまま。
朧も起きない。
刹那の寝息も変わらない。
朧月が声を落とした。
「……浮気?」
「なぜそうなる」
「だって、私そっくりの女を綺麗って言った」
「お前が聞いたんだろう」
「でも否定しなかった」
華月は答えず、銀華から朧月へ視線を戻した。
「千年ぶりに会って、最初に疑うことがそれか」
「だって気になるもの」
「……お前は変わらんな」
「あなたもね」
朧月は唇を尖らせた。
華月が今度は朧を見る。
「それで」
「何?」
「お前の持ち主はどうなんだ」
「朧?」
華月の眉が僅かに動いた。
「……名前で呼ぶんだな」
「あなたも銀華って呼んだでしょう?」
「私は持ち主だからだ」
「私もだよ」
「そうか」
「そうだよ」
朧月は朧を見る。
その顔が、少し柔らかくなった。
「朧はね、すごく強いよ」
「知っている」
「判断も速いし、怖そうに見えるけど、ちゃんと人を見てる。必要以上に踏み込まないのに、放ってもおけない」
話すほどに、朧月の表情が柔らかくなる。
「……随分、気に入っているようだな」
「うん。好きだよ。持ち主としてね」
華月の眉が、ほんの僅かに動いた。
「今、嫉妬した?」
「していない」
「ふうん」
「その顔をやめろ」
今度は華月が朧を見た。黒髪。口数の少なさ。剣の腕。否定したいのに、目の前の妻と重なるところはいくつもある。
今度は華月が朧をじっと見る。
「……黒髪だな」
「うん」
「口数が少ない」
「うん」
「剣の腕も立つ」
「うん」
「無愛想だ」
「そこまで無愛想じゃないよ」
「私に似ていると言いたいのか」
「言わなくても分かってるじゃない」
「似ていない」
「似てるよ」
「姿だけだ」
「話し方も」
「違う」
「そっくり」
「違う」
「じゃあ聞くけど」
朧月が一歩近づく。
「私が朧を選んだの、あなたに似てたからだと思う?」
「知らん」
「気にならない?」
「……少しはな」
「素直」
「今のは忘れろ」
「無理だよ」
朧月は笑った。
「でも違うよ」
「何がだ」
「あなたに似てるから朧を選んだんじゃない」
「なら、なぜだ」
「朧だったから」
「答えになっていない」
「なるよ」
「ならん」
「なるの」
「頑固だな」
「あなたに言われたくない」
朧月が華月を見る。
「じゃあ、あなたは?」
「何がだ」
「銀華を選んだの、私に似てたから?」
「違う」
「即答だね」
「違うものは違う」
「じゃあ、どうして?」
「銀華だったからだ」
「……同じこと言ってるよ」
「そうか」
「そうだよ」
「なら、それでいいだろう」
「よくないよ」
「何がだ」
「気になるもの」
「何が」
「私たちの好み」
「…………」
華月が黙る。
朧月は、銀華と朧を交互に見た。
「ねえ」
「何だ」
「私たち、千年近く誰にも力を貸さなかったよね」
「……ああ」
「使われたことはあったけど」
「ああ」
「強い人もいた」
「いたな」
「立派な人も」
「いた」
「でも、私は嫌だった」
「私もだ」
「どうしても、この人ならって思えなかった」
「……ああ」
「それで千年近く経って」
「…………」
「私は、あなたそっくりの朧を選んだ」
華月が朧を見る。
「そして私は、お前そっくりの銀華を選んだ」
「…………」
「…………」
二人は長いこと黙った。
先ほどまでなら、すぐに言い返していた。
けれど今度は、言葉が出ない。
朧月が、やがて小さく笑った。
「……浮気じゃなかったね」
「最初から違う」
「あなたも疑ってたでしょう?」
「少しだけだ」
「やっぱり」
「お前もだろう」
「うん」
「認めるのか」
「だって、千年ぶりに会ったら、自分そっくりの人を選んでたんだよ?」
「……まあな」
「普通、気になるでしょう?」
「普通かどうかは知らん」
「でも」
「何だ」
「お互い様だったね」
「そうらしいな」
朧月は銀華を見る。
華月は朧を見る。
「好みって」
「何だ」
「剣になっても、一生変わらないのかも」
「一生という言葉が、今の私たちに合うのか?」
「そういうところだよ」
「何がだ」
「今、ちょっといいこと言ったのに」
「事実を確認しただけだ」
「もう」
朧月が笑う。
華月も、ほんの僅かに口元を緩めた。
「……でも」
「何だ」
「千年経っても、変わらなかったんだね」
「何が」
「好きになる人」
「…………」
「ねえ、華月」
「何だ」
「あなたは?」
「何がだ」
「千年経っても、私が好き?」
「聞く必要があるのか」
「あるよ」
「なぜ」
「千年ぶりだから」
「…………」
「それに、銀華のこといっぱい褒めてたし」
「またそこへ戻るのか」
「大事だもの」
「面倒だな」
「でも、聞きたい」
朧月はもう笑っていなかった。
「千年ぶりだから」
華月はしばらく黙り、ようやく朧月を正面から見た。
華月は朧月を見る。
千年前と変わらない姿。
もう聞けないと思っていた声。
「……好きだ」
朧月が瞬きをする。
「もう一回」
「断る」
「千年ぶりなのに?」
「一度で十分だ」
朧月が声を殺して笑った。その目元が少しだけ濡れている。
「……私も好き」
「そうか」
「それだけ?」
「何を言えばいい」
「嬉しいとか」
「嬉しくなければ、ここまで話していない」
「相変わらずだね」
「お前もな」
「会いたかった」
「……ああ」
「あなたは?」
「同じだ」
朧月が一歩近づく。
華月も逃げない。
互いに手を伸ばす。
霊体のような指先が触れた。
温度はない。
それでも。
そこにいることだけは分かった。
「本当に、いた」
「ああ」
「消えてなかった」
「ああ」
「よかった」
「……そうだな」
しばらく二人は黙っていた。
千年を埋めるには短すぎる沈黙。
けれど、全部を言葉にする必要はなかった。
そこにいる。
声が聞こえる。
それだけでよかった。
――少なくとも。
華月が、ふと銀華へ目を向けた。
「……銀華は、やはり悪くない」
朧月がじっと華月を見る。
「今、この空気でまた銀華を褒めるの?」
「事実だ」
「じゃあ私も。朧もすごくいい人だよ」
「…………」
「華月?」
「お前は喧嘩を再開したいのか」
「先に始めたの、あなたでしょう?」
視線がぶつかる。さっきまでの静かな空気は、もうどこにもなかった。
「……浮気ではないんだろう」
「もちろん。でも嫉妬はするよ?」
「面倒だな」
「妻だからね」
「私もだ」
「知ってる」
二人が同時に笑いかけた、その時。
「……ん……」
「……ん……」
銀華が寝返りを打った。
二人の動きが止まる。
朧も僅かに眉を動かした。
華月と朧月は、息を潜めるように黙る。
しばらく待つ。
銀華は起きない。
朧も眠ったまま。
朧月が小声で言った。
「……危なかった」
「お前が騒ぐからだ」
「あなたもでしょう」
二人は声を潜めたまま睨み合い――やがて、どちらからともなく笑った。
千年ぶりだった。こんなふうに言い合うのも、くだらないことで嫉妬するのも。その相手が、まだ自分を好きだと知ることも。
「……ねえ」
「今度は何だ」
「明日も話せる?」
華月は少し黙った。
「二振りが近くにあれば、おそらくな」
「そう」
「何だ」
「嬉しいなって」
「……そうか」
「あなたは?」
「聞く必要があるのか」
「あるよ」
「また話せるなら、悪くない」
「素直じゃない」
「千年経っても、お前はしつこい」
「千年経っても、あなたが素直じゃないからだよ」
光が少しずつ薄くなる。
二人の輪郭が透けていく。
「おやすみ、華月」
「……おやすみ、朧月」
朧月が目を丸くした。
「ちゃんと言った」
「何だ」
「名前」
「妻の名前くらい知っている」
「千年ぶりに聞いた」
「……そうか」
「もう一回」
「断る」
「華月」
「何だ」
「好き」
「知っている」
「あなたは?」
「……知っているだろう」
「言ってほしいの」
「面倒だ」
「華月」
「……好きだ」
朧月が笑った。
「うん」
最後に二人は互いを見た。
そして光は、それぞれの剣へ戻っていった。
*
翌朝。
銀華は目を覚ますと、しばらく天井を見ていた。
「……ん」
身体を起こす。
枕元には白銀王国の資料が開いたまま残っている。
「また読んだまま寝たのか」
朧の声がする。
「……たぶん」
「たぶん、ではございません」
すでに起きていた刹那が、資料を閉じた。
「昨日、休まれるよう申し上げたはずでございます」
「ごめん」
銀華は素直に謝る。
そして、部屋の隅に置かれた青い剣へ目を向けた。
「……?」
「どうした」
「ううん」
銀華が剣を手に取る。
《青の輝き》。
銀華はそう呼んでいる。
その奥深くに《華月》という名があることを、銀華はまだ知らない。
「……なんだろう」
「何かあるのか」
「剣が、少し機嫌いい気がする」
朧が銀華を見る。
「剣の機嫌が分かるのか」
「分からないけど……そんな気がしただけ」
「そうか」
朧も自分の刀を取る。
《朧月》。
その名を、朧もまだ知らない。
鞘に触れた瞬間。
朧が僅かに眉を動かした。
「朧?」
「……いや」
「何?」
「何でもない」
昨日までより、ほんの少し。
手に馴染む。
そんな気がした。
「朝食へ参りましょう」
刹那が扉を開ける。
「うん」
「ああ」
三人は部屋を出ていった。
廊下から銀華の声が聞こえる。
「今日、船に乗るんだよね」
「昨日から何度も言っている」
「分かってるよ」
声が遠ざかる。
そして。
二振りの剣の奥で。
『銀華は今日も悪くない』
『朝から銀華のこと褒めるの?』
『事実だ』
『じゃあ私も言うけど、朧も今日も格好いいよ』
『…………』
『華月?』
『……お前は朝から喧嘩を売るな』
『先に銀華を褒めたの、あなたでしょう!』
『持ち主を評価しただけだ』
『私だってそうだよ!』
剣になっても。
千年離れていても。
どうやら、好みというものは簡単には変わらないらしい。
そして。
千年ぶりに再会した夫婦の喧嘩も。
まだ、しばらく終わりそうになかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第1章を終え、今回は少しだけ本編から離れた閑話をお届けしました。
銀華たちが白銀王国へ向けて旅立ったあとも、
彼女たちが歩いてきた場所には、それぞれの時間が流れています。
そして次回からは、さらに時間を遡ります。
――十年前。
今の銀華たちへと繋がる出来事と、
まだ語られていない過去。
本編で何気なく触れてきたものの中にも、
ここから少しずつ意味が見えてくるものがあります。
次回より、
番外編「十年前」開始です。
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『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』を
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
続きも読みたいと思っていただけたら、
ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。
Xでは更新情報やイラスト、制作中の一コマなどを投稿しています。
https://x.com/takeyan4562
YouTubeでは、キャラクターのテーマ音楽など、
小説とは少し違った形でも『南のオーフェリア』の世界をお届けしています。
それでは次回。
物語が始まるより、十年前へ。
#南のオーフェリア




