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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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19/29

1-12 海の向こうへ

 王都を出発して、一日目。


 朝の街道にはまだ薄い霧が残っていた。


 馬車の車輪が湿った土を踏み、一定の音を立てて進んでいく。王都の城壁はすでに遠く、振り返っても塔の先が霞の向こうに見えるだけだった。


 銀華は馬車の中で、一冊の書類を膝に広げていた。


 白銀王国についてまとめられた資料だった。


 王家の系譜。主要な都市。交易品。気候。過去の外交記録。


 出発前にも何度も目を通したはずなのに、ページをめくる指は止まらない。


 向かいに座る刹那は、何も言わず窓の外を見ている。


 朧はその隣で腕を組み、目を閉じていた。


「……ビズィア王女」


 銀華が小さく呟く。


 朧が目を開けた。


「何だ」


「ううん。名前を確認してただけ」


「さっきも確認していたな」


「そうだった?」


「ああ」


 銀華は資料へ目を落とした。


「でも、間違えたら失礼でしょう?」


「それはそうだ」


 朧はそれ以上何も言わなかった。


 銀華が少しだけ顔を上げる。


「……笑わないんだね」


「何をだ」


「出発したんだから、もっと景色を見ろとか。楽しめとか言われるかなって」


 朧は首を傾げた。


「任務で行くんだろう」


「そうだけど」


「なら、考えるのは普通だ」


 あまりにも当然のように返されて、銀華は一瞬だけ黙った。


 刹那もこちらを見る。


「お嬢様が任務のことを考えられるのは、いつものことでございます」


「刹那まで」


「ただし」


 刹那が続ける。


「食事と休憩を忘れなければ、でございます」


「……それは気をつける」


「でしたら、何も申し上げません」


 銀華は小さく笑った。


 少し前なら。


 任務を任された以上、自分が全部考えなければならないと思っていた。


 道中のことも。


 荷物のことも。


 同行する二人のことも。


 相手国で何を話すかも。


 何か一つでも抜ければ、それは自分の責任だと思っていた。


 今も責任がなくなったわけではない。


 女王から託された使節であることに変わりはない。


 失敗していいとも思っていない。


 ただ。


 目の前には朧がいる。


 隣には刹那がいる。


 自分一人で馬車を引いているわけではない。


「朧」


「何だ」


「白銀王国には行ったことある?」


「ある」


 銀華の顔が上がった。


「本当に?」


「ああ」


「いつ?」


「何度か」


「何度か?」


 資料を閉じる。


 朧は僅かに眉を動かした。


「そんなに珍しいか」


「珍しいよ。私は外国に行ったことがないから」


「私もございません」


 刹那が静かに加わる。


 朧は二人を順番に見た。


「そうか」


「その反応だけ?」


「他に何を言えばいい」


 銀華が少し考える。


「どんな国だった、とか」


「寒かった」


「それは資料にも書いてある」


「雪が多い」


「それも書いてあるよ」


「料理は、私には少し合わなかった」


 銀華の指が止まった。


「合わなかった?」


「保存のためだろう。塩を強く使う料理が多い」


 刹那が小さく笑った。


 朧は窓の外を見る。


「雪の多い国だ。冬を越すための保存食も多い。理屈は分かる」


「でも、苦手なんだ?」


「戦場なら食べる。生きるための飯に文句はない」


「戦場じゃなかったら?」


「できれば、もう少し繊細な味がいい」


 銀華が吹き出した。


 刹那も口元を押さえる。


 朧は二人が笑う理由が分からないような顔をしていた。


「何だ」


「朧らしいなって」


「そうか」


「うん」


 銀華は資料を膝の上に置いたまま、しばらく朧の話を聞いた。


 白銀王国の街は石造りが多いこと。


 冬になると朝の道が凍ること。


 港では早朝から人が動き、夜になっても酒場の灯りが消えないこと。


 朧の言葉は短い。


 けれど、書類の中に並んでいた文字が、少しずつ人の暮らす場所へ変わっていった。


「戦場で行ったの?」


 銀華が尋ねる。


「最初はな」


 朧の声は変わらなかった。


「その後も何度か通った。仕事で海を渡ることもあった」


「船にも乗ったことあるんだ」


「何度も」


「……船」


 銀華が呟く。


 刹那も僅かに視線を動かした。


「お嬢様」


「うん」


「私たち、乗ったことがございませんね」


「ないね」


 軍港で軍艦を見たことはある。


 大きな帆を張り、兵や物資を運ぶための船。


 けれど、それは岸から眺めただけだった。


 銀華自身、海へ出たことはない。


 刹那も同じだ。


「揺れる?」


 銀華が聞く。


「揺れる」


「かなり?」


「海次第だ」


「酔うかな」


「人次第だ」


「……朧、もう少し安心できる言い方ない?」


「嘘を言えばいいのか」


「それは嫌だけど」


 朧が僅かに口元を緩めた。


 銀華はそれを見て、また笑った。


     *


 二日目。


 朝から空はよく晴れていた。


 街道は緩やかな丘陵へ入り、馬車の窓から見える景色も変わっていく。


 畑。


 小さな集落。


 冬支度をする人々。


 遠くには山並みが続いている。


 三人は交代で御者台に座った。


 銀華が手綱を握る時間もあれば、朧に任せる時間もある。


 刹那が御者台へ出れば、銀華は馬車の中で資料を読む。


 疲れたと思えば、横になる。


 眠くなれば、眠る。


 それだけのことだった。


 けれど銀華にとっては、少し前まで意識しなければできなかったことでもある。


「交代する?」


 昼を過ぎたころ、朧が御者台の銀華へ声をかけた。


 銀華は自分の肩を一度回した。


「うん。お願い」


「ああ」


 それだけだった。


 朧も褒めない。


 刹那も安心したような顔を見せない。


 銀華も、自分が誰かへ任せたことを特別だとは思わなかった。


 手綱を渡し、馬車の中へ戻る。


 刹那が水を差し出す。


「ありがとうございます」


「ありがとう」


 受け取って飲む。


 窓の外では、雲の影が草原をゆっくり横切っていた。


「刹那」


「はい」


「外国って、どんな感じだと思う?」


「白銀王国でございますか?」


「ううん。外国っていうもの」


 刹那は少し考えた。


「言葉が違うのでしょうか」


「白銀は通じるって書いてあったよ。訛りはあるみたいだけど」


「食事は違いそうでございます」


「朧も魚がおいしいって言ってたね」


「お嬢様」


「何?」


「先ほどから、食べ物の話が多くありませんか」


 銀華は瞬きをした。


「そう?」


「はい」


「……お腹空いてるのかな」


「昼食を召し上がったばかりでございます」


「じゃあ違うね」


 刹那が微笑む。


「でも、楽しみでございます」


「刹那も?」


「はい」


 刹那は窓の外を見る。


「お嬢様と外国へ行く日が来るとは、思っておりませんでしたから」


 銀華も同じ景色を見る。


「私も」


 将軍として戦場へ向かうことはあった。


 国内の町や村を巡ることもあった。


 けれど、国境の向こうは知らない。


 地図にはある。


 報告書にもある。


 外交文書には、白銀王国という名前が何度も出てくる。


 それでも銀華にとって、それはずっと紙の上の国だった。


「楽しみ?」


 刹那が尋ねる。


 銀華は少し考えた。


「楽しみ」


 そこで一度、言葉を切る。


「……でも、緊張もしてる」


「はい」


「任務だからね」


「はい」


「瑠璃から任されたし。私が何か変なことを言って、国同士の話がおかしくなったらって考えると……」


「お嬢様」


「うん」


「考えてくださいませ」


 銀華が刹那を見る。


「止めないの?」


「なぜ止めるのでございますか」


「せっかくの旅なんだから、今は忘れろって言われるかと思った」


 刹那は首を横へ振った。


「忘れられないのでしたら、忘れる必要はございません」


「……」


「お嬢様は、お嬢様でございますから」


 銀華は何も言わなかった。


 窓の外へ視線を戻す。


 任務を忘れて旅を楽しめる人もいるのだろう。


 それは悪いことではない。


 銀華も、できればそうしたいと思う。


 けれど、頭の隅にはどうしても残る。


 白銀王国。


 ビズィア王女。


 女王から託された言葉。


 自分が何を見て、何を持ち帰るのか。


 無理に消そうとすると、かえって気になる。


「そっか」


 銀華が呟く。


「考えててもいいんだ」


「もちろんでございます」


 刹那の答えは簡単だった。


 銀華は少しだけ肩の力を抜いた。


 楽しむことと、真面目に考えること。


 どちらか一つに決める必要はないのかもしれない。


 人の気持ちは、そんなに綺麗に分かれない。


 外国へ行くことは楽しみだ。


 任務は不安だ。


 知らない景色を見たい。


 失敗はしたくない。


 全部、本当だった。


 馬車が少し揺れた。


 前から朧の声がする。


「次の宿場まで、あと一刻ほどだ」


「分かった」


 銀華は答え、資料をもう一度開いた。


 今度は少しだけゆっくりとページをめくった。


     *


 その日の宿場は、小さな町だった。


 街道沿いに宿と食堂が並び、旅人や商人が行き交っている。


 三人は馬を休ませ、簡素な宿へ入った。


 夕食は煮込み料理と焼いたパンだった。


 朧は一口食べ、何も言わずに匙を置いた。


 銀華がその手元を見る。


「……朧?」


「何だ」


「口に合わない?」


「食べられる」


「それ、好きじゃない時の言い方だよね」


 朧は少しだけ黙った。


「塩が強い」


 銀華も一口食べる。


「私は平気だけど」


「私も問題ございません」


 刹那が答える。


「朧様は、薄味がお好みなのですね」


「薄ければいいわけじゃない」


 朧は水を一口飲んだ。


「素材の味が分かるくらいがいい。香りも、出汁も。塩で全部同じになるのは好きじゃない」


 刹那が僅かに目を細めた。


「なるほど」


「意外」


 銀華が言う。


「何がだ」


「戦場を渡り歩いてるから、食べ物には頓着しないのかと思ってた」


「戦場では頓着しない」


 朧は淡々と答えた。


「保存食でも硬いパンでも食べる。食べなければ動けないからな」


「じゃあ、今は?」


「戦場じゃない」


 短い答えだった。


 銀華が少し笑う。


「それはそうだね」


 刹那は朧の前の皿を見てから、静かに言った。


「王都でお出しした料理は、いかがでしたか」


 朧が刹那を見る。


「うまかった」


「……即答なんだ」


 銀華が目を丸くした。


「何かおかしいか」


「ううん。朧が料理をそんなにはっきり褒めるの、初めて聞いたから」


 刹那はいつもの穏やかな表情のまま、小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


「お前の料理は味が細かい。濃くしなくても、ちゃんと味がする」


 刹那がほんの僅かに目を見開いた。


 銀華も嬉しそうに笑う。


「刹那の料理、本当においしいでしょう?」


「ああ」


「私のためにずっと覚えてくれたんだよ」


「お嬢様のお口に合うものをお作りしているだけでございます」


「それが普通じゃないんだって」


 銀華はそう言ってから、朧の皿を見る。


「白銀に着いたら大変かもね」


「分かっている」


「保存料理が多いんでしょう?」


「だから覚悟している」


 朧の声音は、戦場へ向かう時とほとんど変わらなかった。


 銀華と刹那が顔を見合わせる。


 けれど、二人とも笑わなかった。


 朧にとって食事の好みは、戦場でわがままを言うためのものではない。


 生きるためなら何でも食べる。


 だからこそ、戦場ではない時間くらい、自分の好きな味を選ぶ。


 銀華は、それも朧らしいと思った。


 三人の夕食は、それで終わらなかった。



 王都の店の話。


 辺境で食べた料理。


 刹那が幼い銀華に初めて作った菓子を焦がした話。


「刹那が?」


「お嬢様」


「だって本当でしょう?」


「昔のことでございます」


「真っ黒だった」


「お嬢様」


 朧が僅かに笑う。


 刹那が今度は朧を見る。


「朧様にも、失敗されたお話がおありなのでは?」


「ない」


「絶対あるよ」


「ない」


「怪しい」


「ないものはない」


 銀華と刹那が顔を見合わせる。


 朧は二人を見て、面倒そうに息を吐いた。


「……船から落ちたことはある」


 銀華の目が大きくなる。


「あるじゃない!」


「失敗とは言っていない」


「どうして落ちたの?」


「戦っていた」


「それは失敗ではございませんね」


 刹那が真面目に言う。


「刹那、そっちにつくの?」


「事実でございますので」


「海に落ちたんだよ?」


「戻った」


「どうやって?」


「泳いで」


 銀華はしばらく朧を見つめた。


「……船、怖くなってきた」


「戦わなければ落ちない」


「普通は船の上で戦わないよね?」


「普通はな」


「その『普通は』が怖いんだけど」


 三人の間に笑いが落ちた。


 特別な話ではなかった。


 国の未来を決める話でもない。


 戦争の話でもない。


 明日の予定さえ、もう確認してある。


 ただ食事をしながら、思いついたことを話す。


 そんな夜だった。


     *


 三日目の朝。


 空気に、微かな変化があった。


 銀華が最初に気づいた。


「……匂い?」


 御者台から身を乗り出す。


 朧が隣で手綱を握っている。


「海だ」


「これが?」


「ああ」


 銀華は鼻から息を吸った。


 湿ったような、少し塩気を含んだような匂い。


 川とも湖とも違う。


「刹那」


 銀華が後ろを振り返る。


「海の匂いがする」


 馬車の中から刹那が顔を出した。


「もう近いのでございますか?」


「らしいよ」


「まだ見えない」


 朧が前を見る。


「丘を越えれば見える」


 銀華は前方へ目を凝らした。


 街道は緩やかに上っている。


 両側の木々が少なくなり、空が広くなっていく。


 馬車が頂へ近づく。


 風が強くなる。


 銀華の長い銀髪が後ろへ流れた。


 そして。


 丘を越えた。


「……あ」


 声が漏れた。


 視界の先いっぱいに、青が広がっていた。


 海。


 どこまで続いているのか分からない。


 空との境が遠すぎて、銀華には一瞬、どこからが海なのか分からなかった。


 陽の光が水面で細かく砕けている。


 その手前には港町が広がっていた。


 屋根が密集し、倉庫が並び、人が動いている。


 無数の帆柱が空へ伸びていた。


「……大きい」


 銀華が呟く。


 刹那も馬車から身を乗り出す。


「これが、海……」


 二人とも海そのものを知らないわけではない。


 軍港を訪れたこともある。


 海岸から沖を見たこともある。


 それでも、旅立つための場所として見る海は違っていた。


 向こうへ行く。


 この海を越える。


 その先に、自分たちの知らない国がある。


「港まで、もう少しだ」


 朧が言う。


 銀華は返事を忘れていた。


     *


 港町へ入ると、音が変わった。


 馬車の車輪。


 荷を運ぶ人々の掛け声。


 荷車の軋み。


 馬の嘶き。


 遠くから響く鐘。


 鳥の鳴き声。


 潮の匂い。


 王都とは違う。


 辺境とも違う。


 人が多いのに、皆が同じ方向を向いていない。


 国の内側へ向かう者。


 海へ出る者。


 海から戻った者。


 商人。


 船乗り。


 旅人。


 兵士。


 知らない服を着た人間もいる。


「外国の人かな」


 銀華が小さく言う。


「たぶんな」


 朧が答える。


「髪の色も違いますね」


 刹那が辺りを見回す。


「白銀王国の者も混じっている」


「分かるの?」


「服でな」


 銀華は朧の視線を追う。


「……全然分からない」


「そのうち分かる」


 馬車は港の奥へ進んだ。


 倉庫の間を抜ける。


 積み上げられた木箱。


 樽。


 縄。


 荷を担ぐ男たち。


 港の景色が少しずつ開けていく。


 そして。


 銀華が止まった。


 正確には、銀華の視線が止まった。


挿絵(By みてみん)


「……あれ?」


 刹那も同じ方向を見る。


 巨大な帆柱があった。


 一本ではない。


 二本。


 三本。


 さらにその奥にも。


 銀華は馬車から降りる。


 刹那も続いた。


 朧が最後に降りる。


 三人の前に、巨大な船が停泊していた。


 銀華が知っている軍艦とは違う。


 砲を並べ、兵を運ぶための無骨な船ではない。


 高い船体。


 幾重にも張られた帆。


 甲板には多くの人がいる。


 旅装の男女。


 荷物を抱えた家族。


 商人らしい者。


 船員たち。


 人を戦場へ運ぶためではない。


 海の向こうへ、人の暮らしを運ぶ船。


「……これに乗るの?」


 銀華が聞いた。


「ああ」


 朧が答える。


 銀華はもう一度、船を見上げた。


「大きすぎない?」


「これくらいは普通だ」


「普通?」


「長い航路なら、もっと大きい船もある」


 刹那が珍しく目を丸くしている。


「この船が、海の上を進むのでございますか」


「進む」


「沈まずに?」


「普通はな」


 銀華と刹那が同時に朧を見る。


「朧」


「何だ」


「今の言い方、よくない」


「事実だ」


「初めて乗る人に言うことではございません」


 刹那まで加わった。


 朧は少し考える。


「……滅多に沈まない」


「もっと悪くなったよ」


 銀華が困ったように笑った。


 刹那も口元を緩める。


 朧だけが、なぜ駄目なのか分からない顔をしている。


 夕陽が海へ傾き始めていた。


 港全体が橙色に染まる。


 帆が光を受け、巨大な布の壁のように輝く。


 海鳥がその間を飛んでいく。


 銀華は船から海へ視線を移した。


 水平線。


 その先。


 見えない場所に、白銀王国がある。


「……外国か」


 小さく呟く。


 胸が高鳴っている。


 怖くないと言えば嘘になる。


 任務のことを考えれば、今でも緊張する。


 自分の言葉が国を背負う。


 相手は他国の王族だ。


 何を聞かれるのか。


 何を見せられるのか。


 何を持ち帰ることになるのか。


 分からない。


 それでも。


 見てみたいと思った。


 紙の上ではない白銀王国を。


 そこに暮らす人々を。


 自分の知らない景色を。


「銀華」


 朧の声に振り返る。


「何?」


「また任務のことを考えているのか」


 銀華は少し驚き、それから笑った。


「うん」


「そうか」


 それだけだった。


「何も言わないんだ」


「考えるなと言って、考えなくなるのか」


「ならないと思う」


「なら言わない」


 銀華は朧を見る。


 刹那も隣に立っている。


「私、楽しみなんだよ」


「ああ」


「でも、緊張もしてる」


「ああ」


「失敗したくないし、瑠璃の期待にも応えたい」


「ああ」


「それでも、知らない国を見てみたい」


「なら、それでいいだろう」


 朧の言葉は短かった。


 銀華は海を見る。


 全部あっていい。


 楽しみも。


 不安も。


 責任も。


 期待も。


 どれか一つだけが本当なのではない。


 人の気持ちは、そんなに簡単ではない。


 銀華は、それを無理に一つへまとめることをやめた。


「刹那は?」


「何がでございますか?」


「楽しみ?」


 刹那は巨大な船を見上げた。


「……はい」


 少し間を置く。


「かなり」


 銀華が目を丸くする。


「かなり?」


「はい」


「珍しいね。刹那がそんな言い方するの」


「私にも、初めてのことはございます」


「そっか」


「ただ」


「ただ?」


「お嬢様が船酔いをされないかは心配でございます」


「私?」


「はい」


「刹那は?」


「分かりません」


「二人とも酔ったらどうする?」


 刹那が朧を見る。


 銀華も見る。


 朧は二人の視線を受けた。


「寝ていろ」


「それだけ?」


「他にない」


 銀華が笑う。


「じゃあ、その時はお願いね」


「ああ」


 朧はいつものように答えた。


 何度も海を渡ってきた朧にとって、船は珍しいものではない。


 戦場から戦場へ。


 国から国へ。


 仕事があれば乗り、終われば降りた。


 船の上から見る夕陽も。


 港の喧騒も。


 帆を打つ風の音も。


 何度も知っている。


 けれど。


 今日は少し違って見えた。


 隣で銀華が海を見ている。


 その隣には刹那がいる。


 仕事のためだけに渡る海ではない。


 戦場へ向かうためだけの船でもない。


 この先に何があるのか。


 朧にも分からない。


 それが、少しだけ悪くないと思った。


「朧?」


 銀華がこちらを見る。


「何だ」


「笑ってた?」


「笑っていない」


「今、ちょっと笑ってたよ」


「気のせいだ」


「刹那」


「僅かに」


「刹那」


「申し訳ございません、朧様」


「謝るなら言うな」


 銀華が声を上げて笑った。


 港の喧騒に、その声が混じっていく。


 朧は小さく息を吐き、再び海を見た。


 夕陽が水平線へ近づいている。


 明日。


 三人は、この港を離れる。


 銀華にとって初めての外国へ。


 刹那にとって初めての海の旅へ。


 そして朧にとっては、何度も渡ったはずの海を、これまでとは違う二人と渡る旅へ。


 第一章の始まりで。


 銀華と朧は、互いの名前すら知らなかった。


 剣を交え。


 言葉を交わし。


 友と呼ぶようになった。


 そこへ刹那が加わった。


 三人で食卓を囲み。


 同じ馬車に乗り。


 何でもない話をしながら、ここまで来た。


 特別な誓いを交わしたわけではない。


 この先もずっと三人でいると約束したわけでもない。


 ただ今は。


 三人とも、同じ海の向こうを見ている。


「行こうか」


 銀華が言った。


「船は明日だ」


 朧が返す。


「分かってるよ。今日は宿に」


「でしたら、先に乗船の手続きを確認いたしましょう」


 刹那が言う。


「あ」


 銀華が瞬きをする。


「忘れてた?」


 朧が聞く。


「忘れてない。今やろうと思ってた」


「本当か」


「本当」


「お嬢様」


「刹那まで疑わないで」


 三人は港の建物へ向かって歩き出した。


 背後には巨大な帆船。


 その向こうには、夕陽に染まる海。


 さらに遠く。


 まだ誰の目にも見えない場所に、白銀王国がある。


 銀華は一度だけ振り返った。


 胸の奥にあるものは、一つではなかった。


 楽しみだった。


 不安だった。


 緊張していた。


 それでも、行きたいと思った。


 だから今は、それでいい。


 銀華は前へ向き直る。


 朧と刹那が待っている。


 三人の旅は、まだ始まったばかりだった。


 海の向こうにある見知らぬ世界へ。


 その最初の一歩を前にして、夕陽が静かに沈んでいった。



最後までお読みいただき、ありがとうございます。


今回の1-12をもって、

『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』

第1章は完結となります。


ここまで銀華たちの物語を追ってくださった皆さま、

本当にありがとうございます。


序章から始まり、

それぞれの出会いや再会を経て、

銀華、刹那、朧は新たな地へと歩き始めました。


物語は、ここから少しずつ大きく動いていきます。


次回は本編から少し離れ、閑話を一話。


そしてその後は、

物語の「十年前」を描く番外編へ入ります。


現在の銀華たちへと繋がる過去に、

何があったのか。


本編とは少し違う時間の物語になりますが、

引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。


────────────


Xでは、更新情報やイラスト、

『南のオーフェリア』の制作風景などを投稿しています。


https://x.com/takeyan4562


YouTubeでは、キャラクターのテーマ音楽や、

イラストと音楽で『南のオーフェリア』の世界を楽しめる動画も公開しています。


小説とあわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。


第1章、最後までありがとうございました。


そして物語は、まだ始まったばかりです。


次回――閑話へ。


#南のオーフェリア

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