1-12 海の向こうへ
王都を出発して、一日目。
朝の街道にはまだ薄い霧が残っていた。
馬車の車輪が湿った土を踏み、一定の音を立てて進んでいく。王都の城壁はすでに遠く、振り返っても塔の先が霞の向こうに見えるだけだった。
銀華は馬車の中で、一冊の書類を膝に広げていた。
白銀王国についてまとめられた資料だった。
王家の系譜。主要な都市。交易品。気候。過去の外交記録。
出発前にも何度も目を通したはずなのに、ページをめくる指は止まらない。
向かいに座る刹那は、何も言わず窓の外を見ている。
朧はその隣で腕を組み、目を閉じていた。
「……ビズィア王女」
銀華が小さく呟く。
朧が目を開けた。
「何だ」
「ううん。名前を確認してただけ」
「さっきも確認していたな」
「そうだった?」
「ああ」
銀華は資料へ目を落とした。
「でも、間違えたら失礼でしょう?」
「それはそうだ」
朧はそれ以上何も言わなかった。
銀華が少しだけ顔を上げる。
「……笑わないんだね」
「何をだ」
「出発したんだから、もっと景色を見ろとか。楽しめとか言われるかなって」
朧は首を傾げた。
「任務で行くんだろう」
「そうだけど」
「なら、考えるのは普通だ」
あまりにも当然のように返されて、銀華は一瞬だけ黙った。
刹那もこちらを見る。
「お嬢様が任務のことを考えられるのは、いつものことでございます」
「刹那まで」
「ただし」
刹那が続ける。
「食事と休憩を忘れなければ、でございます」
「……それは気をつける」
「でしたら、何も申し上げません」
銀華は小さく笑った。
少し前なら。
任務を任された以上、自分が全部考えなければならないと思っていた。
道中のことも。
荷物のことも。
同行する二人のことも。
相手国で何を話すかも。
何か一つでも抜ければ、それは自分の責任だと思っていた。
今も責任がなくなったわけではない。
女王から託された使節であることに変わりはない。
失敗していいとも思っていない。
ただ。
目の前には朧がいる。
隣には刹那がいる。
自分一人で馬車を引いているわけではない。
「朧」
「何だ」
「白銀王国には行ったことある?」
「ある」
銀華の顔が上がった。
「本当に?」
「ああ」
「いつ?」
「何度か」
「何度か?」
資料を閉じる。
朧は僅かに眉を動かした。
「そんなに珍しいか」
「珍しいよ。私は外国に行ったことがないから」
「私もございません」
刹那が静かに加わる。
朧は二人を順番に見た。
「そうか」
「その反応だけ?」
「他に何を言えばいい」
銀華が少し考える。
「どんな国だった、とか」
「寒かった」
「それは資料にも書いてある」
「雪が多い」
「それも書いてあるよ」
「料理は、私には少し合わなかった」
銀華の指が止まった。
「合わなかった?」
「保存のためだろう。塩を強く使う料理が多い」
刹那が小さく笑った。
朧は窓の外を見る。
「雪の多い国だ。冬を越すための保存食も多い。理屈は分かる」
「でも、苦手なんだ?」
「戦場なら食べる。生きるための飯に文句はない」
「戦場じゃなかったら?」
「できれば、もう少し繊細な味がいい」
銀華が吹き出した。
刹那も口元を押さえる。
朧は二人が笑う理由が分からないような顔をしていた。
「何だ」
「朧らしいなって」
「そうか」
「うん」
銀華は資料を膝の上に置いたまま、しばらく朧の話を聞いた。
白銀王国の街は石造りが多いこと。
冬になると朝の道が凍ること。
港では早朝から人が動き、夜になっても酒場の灯りが消えないこと。
朧の言葉は短い。
けれど、書類の中に並んでいた文字が、少しずつ人の暮らす場所へ変わっていった。
「戦場で行ったの?」
銀華が尋ねる。
「最初はな」
朧の声は変わらなかった。
「その後も何度か通った。仕事で海を渡ることもあった」
「船にも乗ったことあるんだ」
「何度も」
「……船」
銀華が呟く。
刹那も僅かに視線を動かした。
「お嬢様」
「うん」
「私たち、乗ったことがございませんね」
「ないね」
軍港で軍艦を見たことはある。
大きな帆を張り、兵や物資を運ぶための船。
けれど、それは岸から眺めただけだった。
銀華自身、海へ出たことはない。
刹那も同じだ。
「揺れる?」
銀華が聞く。
「揺れる」
「かなり?」
「海次第だ」
「酔うかな」
「人次第だ」
「……朧、もう少し安心できる言い方ない?」
「嘘を言えばいいのか」
「それは嫌だけど」
朧が僅かに口元を緩めた。
銀華はそれを見て、また笑った。
*
二日目。
朝から空はよく晴れていた。
街道は緩やかな丘陵へ入り、馬車の窓から見える景色も変わっていく。
畑。
小さな集落。
冬支度をする人々。
遠くには山並みが続いている。
三人は交代で御者台に座った。
銀華が手綱を握る時間もあれば、朧に任せる時間もある。
刹那が御者台へ出れば、銀華は馬車の中で資料を読む。
疲れたと思えば、横になる。
眠くなれば、眠る。
それだけのことだった。
けれど銀華にとっては、少し前まで意識しなければできなかったことでもある。
「交代する?」
昼を過ぎたころ、朧が御者台の銀華へ声をかけた。
銀華は自分の肩を一度回した。
「うん。お願い」
「ああ」
それだけだった。
朧も褒めない。
刹那も安心したような顔を見せない。
銀華も、自分が誰かへ任せたことを特別だとは思わなかった。
手綱を渡し、馬車の中へ戻る。
刹那が水を差し出す。
「ありがとうございます」
「ありがとう」
受け取って飲む。
窓の外では、雲の影が草原をゆっくり横切っていた。
「刹那」
「はい」
「外国って、どんな感じだと思う?」
「白銀王国でございますか?」
「ううん。外国っていうもの」
刹那は少し考えた。
「言葉が違うのでしょうか」
「白銀は通じるって書いてあったよ。訛りはあるみたいだけど」
「食事は違いそうでございます」
「朧も魚がおいしいって言ってたね」
「お嬢様」
「何?」
「先ほどから、食べ物の話が多くありませんか」
銀華は瞬きをした。
「そう?」
「はい」
「……お腹空いてるのかな」
「昼食を召し上がったばかりでございます」
「じゃあ違うね」
刹那が微笑む。
「でも、楽しみでございます」
「刹那も?」
「はい」
刹那は窓の外を見る。
「お嬢様と外国へ行く日が来るとは、思っておりませんでしたから」
銀華も同じ景色を見る。
「私も」
将軍として戦場へ向かうことはあった。
国内の町や村を巡ることもあった。
けれど、国境の向こうは知らない。
地図にはある。
報告書にもある。
外交文書には、白銀王国という名前が何度も出てくる。
それでも銀華にとって、それはずっと紙の上の国だった。
「楽しみ?」
刹那が尋ねる。
銀華は少し考えた。
「楽しみ」
そこで一度、言葉を切る。
「……でも、緊張もしてる」
「はい」
「任務だからね」
「はい」
「瑠璃から任されたし。私が何か変なことを言って、国同士の話がおかしくなったらって考えると……」
「お嬢様」
「うん」
「考えてくださいませ」
銀華が刹那を見る。
「止めないの?」
「なぜ止めるのでございますか」
「せっかくの旅なんだから、今は忘れろって言われるかと思った」
刹那は首を横へ振った。
「忘れられないのでしたら、忘れる必要はございません」
「……」
「お嬢様は、お嬢様でございますから」
銀華は何も言わなかった。
窓の外へ視線を戻す。
任務を忘れて旅を楽しめる人もいるのだろう。
それは悪いことではない。
銀華も、できればそうしたいと思う。
けれど、頭の隅にはどうしても残る。
白銀王国。
ビズィア王女。
女王から託された言葉。
自分が何を見て、何を持ち帰るのか。
無理に消そうとすると、かえって気になる。
「そっか」
銀華が呟く。
「考えててもいいんだ」
「もちろんでございます」
刹那の答えは簡単だった。
銀華は少しだけ肩の力を抜いた。
楽しむことと、真面目に考えること。
どちらか一つに決める必要はないのかもしれない。
人の気持ちは、そんなに綺麗に分かれない。
外国へ行くことは楽しみだ。
任務は不安だ。
知らない景色を見たい。
失敗はしたくない。
全部、本当だった。
馬車が少し揺れた。
前から朧の声がする。
「次の宿場まで、あと一刻ほどだ」
「分かった」
銀華は答え、資料をもう一度開いた。
今度は少しだけゆっくりとページをめくった。
*
その日の宿場は、小さな町だった。
街道沿いに宿と食堂が並び、旅人や商人が行き交っている。
三人は馬を休ませ、簡素な宿へ入った。
夕食は煮込み料理と焼いたパンだった。
朧は一口食べ、何も言わずに匙を置いた。
銀華がその手元を見る。
「……朧?」
「何だ」
「口に合わない?」
「食べられる」
「それ、好きじゃない時の言い方だよね」
朧は少しだけ黙った。
「塩が強い」
銀華も一口食べる。
「私は平気だけど」
「私も問題ございません」
刹那が答える。
「朧様は、薄味がお好みなのですね」
「薄ければいいわけじゃない」
朧は水を一口飲んだ。
「素材の味が分かるくらいがいい。香りも、出汁も。塩で全部同じになるのは好きじゃない」
刹那が僅かに目を細めた。
「なるほど」
「意外」
銀華が言う。
「何がだ」
「戦場を渡り歩いてるから、食べ物には頓着しないのかと思ってた」
「戦場では頓着しない」
朧は淡々と答えた。
「保存食でも硬いパンでも食べる。食べなければ動けないからな」
「じゃあ、今は?」
「戦場じゃない」
短い答えだった。
銀華が少し笑う。
「それはそうだね」
刹那は朧の前の皿を見てから、静かに言った。
「王都でお出しした料理は、いかがでしたか」
朧が刹那を見る。
「うまかった」
「……即答なんだ」
銀華が目を丸くした。
「何かおかしいか」
「ううん。朧が料理をそんなにはっきり褒めるの、初めて聞いたから」
刹那はいつもの穏やかな表情のまま、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
「お前の料理は味が細かい。濃くしなくても、ちゃんと味がする」
刹那がほんの僅かに目を見開いた。
銀華も嬉しそうに笑う。
「刹那の料理、本当においしいでしょう?」
「ああ」
「私のためにずっと覚えてくれたんだよ」
「お嬢様のお口に合うものをお作りしているだけでございます」
「それが普通じゃないんだって」
銀華はそう言ってから、朧の皿を見る。
「白銀に着いたら大変かもね」
「分かっている」
「保存料理が多いんでしょう?」
「だから覚悟している」
朧の声音は、戦場へ向かう時とほとんど変わらなかった。
銀華と刹那が顔を見合わせる。
けれど、二人とも笑わなかった。
朧にとって食事の好みは、戦場でわがままを言うためのものではない。
生きるためなら何でも食べる。
だからこそ、戦場ではない時間くらい、自分の好きな味を選ぶ。
銀華は、それも朧らしいと思った。
三人の夕食は、それで終わらなかった。
王都の店の話。
辺境で食べた料理。
刹那が幼い銀華に初めて作った菓子を焦がした話。
「刹那が?」
「お嬢様」
「だって本当でしょう?」
「昔のことでございます」
「真っ黒だった」
「お嬢様」
朧が僅かに笑う。
刹那が今度は朧を見る。
「朧様にも、失敗されたお話がおありなのでは?」
「ない」
「絶対あるよ」
「ない」
「怪しい」
「ないものはない」
銀華と刹那が顔を見合わせる。
朧は二人を見て、面倒そうに息を吐いた。
「……船から落ちたことはある」
銀華の目が大きくなる。
「あるじゃない!」
「失敗とは言っていない」
「どうして落ちたの?」
「戦っていた」
「それは失敗ではございませんね」
刹那が真面目に言う。
「刹那、そっちにつくの?」
「事実でございますので」
「海に落ちたんだよ?」
「戻った」
「どうやって?」
「泳いで」
銀華はしばらく朧を見つめた。
「……船、怖くなってきた」
「戦わなければ落ちない」
「普通は船の上で戦わないよね?」
「普通はな」
「その『普通は』が怖いんだけど」
三人の間に笑いが落ちた。
特別な話ではなかった。
国の未来を決める話でもない。
戦争の話でもない。
明日の予定さえ、もう確認してある。
ただ食事をしながら、思いついたことを話す。
そんな夜だった。
*
三日目の朝。
空気に、微かな変化があった。
銀華が最初に気づいた。
「……匂い?」
御者台から身を乗り出す。
朧が隣で手綱を握っている。
「海だ」
「これが?」
「ああ」
銀華は鼻から息を吸った。
湿ったような、少し塩気を含んだような匂い。
川とも湖とも違う。
「刹那」
銀華が後ろを振り返る。
「海の匂いがする」
馬車の中から刹那が顔を出した。
「もう近いのでございますか?」
「らしいよ」
「まだ見えない」
朧が前を見る。
「丘を越えれば見える」
銀華は前方へ目を凝らした。
街道は緩やかに上っている。
両側の木々が少なくなり、空が広くなっていく。
馬車が頂へ近づく。
風が強くなる。
銀華の長い銀髪が後ろへ流れた。
そして。
丘を越えた。
「……あ」
声が漏れた。
視界の先いっぱいに、青が広がっていた。
海。
どこまで続いているのか分からない。
空との境が遠すぎて、銀華には一瞬、どこからが海なのか分からなかった。
陽の光が水面で細かく砕けている。
その手前には港町が広がっていた。
屋根が密集し、倉庫が並び、人が動いている。
無数の帆柱が空へ伸びていた。
「……大きい」
銀華が呟く。
刹那も馬車から身を乗り出す。
「これが、海……」
二人とも海そのものを知らないわけではない。
軍港を訪れたこともある。
海岸から沖を見たこともある。
それでも、旅立つための場所として見る海は違っていた。
向こうへ行く。
この海を越える。
その先に、自分たちの知らない国がある。
「港まで、もう少しだ」
朧が言う。
銀華は返事を忘れていた。
*
港町へ入ると、音が変わった。
馬車の車輪。
荷を運ぶ人々の掛け声。
荷車の軋み。
馬の嘶き。
遠くから響く鐘。
鳥の鳴き声。
潮の匂い。
王都とは違う。
辺境とも違う。
人が多いのに、皆が同じ方向を向いていない。
国の内側へ向かう者。
海へ出る者。
海から戻った者。
商人。
船乗り。
旅人。
兵士。
知らない服を着た人間もいる。
「外国の人かな」
銀華が小さく言う。
「たぶんな」
朧が答える。
「髪の色も違いますね」
刹那が辺りを見回す。
「白銀王国の者も混じっている」
「分かるの?」
「服でな」
銀華は朧の視線を追う。
「……全然分からない」
「そのうち分かる」
馬車は港の奥へ進んだ。
倉庫の間を抜ける。
積み上げられた木箱。
樽。
縄。
荷を担ぐ男たち。
港の景色が少しずつ開けていく。
そして。
銀華が止まった。
正確には、銀華の視線が止まった。
「……あれ?」
刹那も同じ方向を見る。
巨大な帆柱があった。
一本ではない。
二本。
三本。
さらにその奥にも。
銀華は馬車から降りる。
刹那も続いた。
朧が最後に降りる。
三人の前に、巨大な船が停泊していた。
銀華が知っている軍艦とは違う。
砲を並べ、兵を運ぶための無骨な船ではない。
高い船体。
幾重にも張られた帆。
甲板には多くの人がいる。
旅装の男女。
荷物を抱えた家族。
商人らしい者。
船員たち。
人を戦場へ運ぶためではない。
海の向こうへ、人の暮らしを運ぶ船。
「……これに乗るの?」
銀華が聞いた。
「ああ」
朧が答える。
銀華はもう一度、船を見上げた。
「大きすぎない?」
「これくらいは普通だ」
「普通?」
「長い航路なら、もっと大きい船もある」
刹那が珍しく目を丸くしている。
「この船が、海の上を進むのでございますか」
「進む」
「沈まずに?」
「普通はな」
銀華と刹那が同時に朧を見る。
「朧」
「何だ」
「今の言い方、よくない」
「事実だ」
「初めて乗る人に言うことではございません」
刹那まで加わった。
朧は少し考える。
「……滅多に沈まない」
「もっと悪くなったよ」
銀華が困ったように笑った。
刹那も口元を緩める。
朧だけが、なぜ駄目なのか分からない顔をしている。
夕陽が海へ傾き始めていた。
港全体が橙色に染まる。
帆が光を受け、巨大な布の壁のように輝く。
海鳥がその間を飛んでいく。
銀華は船から海へ視線を移した。
水平線。
その先。
見えない場所に、白銀王国がある。
「……外国か」
小さく呟く。
胸が高鳴っている。
怖くないと言えば嘘になる。
任務のことを考えれば、今でも緊張する。
自分の言葉が国を背負う。
相手は他国の王族だ。
何を聞かれるのか。
何を見せられるのか。
何を持ち帰ることになるのか。
分からない。
それでも。
見てみたいと思った。
紙の上ではない白銀王国を。
そこに暮らす人々を。
自分の知らない景色を。
「銀華」
朧の声に振り返る。
「何?」
「また任務のことを考えているのか」
銀華は少し驚き、それから笑った。
「うん」
「そうか」
それだけだった。
「何も言わないんだ」
「考えるなと言って、考えなくなるのか」
「ならないと思う」
「なら言わない」
銀華は朧を見る。
刹那も隣に立っている。
「私、楽しみなんだよ」
「ああ」
「でも、緊張もしてる」
「ああ」
「失敗したくないし、瑠璃の期待にも応えたい」
「ああ」
「それでも、知らない国を見てみたい」
「なら、それでいいだろう」
朧の言葉は短かった。
銀華は海を見る。
全部あっていい。
楽しみも。
不安も。
責任も。
期待も。
どれか一つだけが本当なのではない。
人の気持ちは、そんなに簡単ではない。
銀華は、それを無理に一つへまとめることをやめた。
「刹那は?」
「何がでございますか?」
「楽しみ?」
刹那は巨大な船を見上げた。
「……はい」
少し間を置く。
「かなり」
銀華が目を丸くする。
「かなり?」
「はい」
「珍しいね。刹那がそんな言い方するの」
「私にも、初めてのことはございます」
「そっか」
「ただ」
「ただ?」
「お嬢様が船酔いをされないかは心配でございます」
「私?」
「はい」
「刹那は?」
「分かりません」
「二人とも酔ったらどうする?」
刹那が朧を見る。
銀華も見る。
朧は二人の視線を受けた。
「寝ていろ」
「それだけ?」
「他にない」
銀華が笑う。
「じゃあ、その時はお願いね」
「ああ」
朧はいつものように答えた。
何度も海を渡ってきた朧にとって、船は珍しいものではない。
戦場から戦場へ。
国から国へ。
仕事があれば乗り、終われば降りた。
船の上から見る夕陽も。
港の喧騒も。
帆を打つ風の音も。
何度も知っている。
けれど。
今日は少し違って見えた。
隣で銀華が海を見ている。
その隣には刹那がいる。
仕事のためだけに渡る海ではない。
戦場へ向かうためだけの船でもない。
この先に何があるのか。
朧にも分からない。
それが、少しだけ悪くないと思った。
「朧?」
銀華がこちらを見る。
「何だ」
「笑ってた?」
「笑っていない」
「今、ちょっと笑ってたよ」
「気のせいだ」
「刹那」
「僅かに」
「刹那」
「申し訳ございません、朧様」
「謝るなら言うな」
銀華が声を上げて笑った。
港の喧騒に、その声が混じっていく。
朧は小さく息を吐き、再び海を見た。
夕陽が水平線へ近づいている。
明日。
三人は、この港を離れる。
銀華にとって初めての外国へ。
刹那にとって初めての海の旅へ。
そして朧にとっては、何度も渡ったはずの海を、これまでとは違う二人と渡る旅へ。
第一章の始まりで。
銀華と朧は、互いの名前すら知らなかった。
剣を交え。
言葉を交わし。
友と呼ぶようになった。
そこへ刹那が加わった。
三人で食卓を囲み。
同じ馬車に乗り。
何でもない話をしながら、ここまで来た。
特別な誓いを交わしたわけではない。
この先もずっと三人でいると約束したわけでもない。
ただ今は。
三人とも、同じ海の向こうを見ている。
「行こうか」
銀華が言った。
「船は明日だ」
朧が返す。
「分かってるよ。今日は宿に」
「でしたら、先に乗船の手続きを確認いたしましょう」
刹那が言う。
「あ」
銀華が瞬きをする。
「忘れてた?」
朧が聞く。
「忘れてない。今やろうと思ってた」
「本当か」
「本当」
「お嬢様」
「刹那まで疑わないで」
三人は港の建物へ向かって歩き出した。
背後には巨大な帆船。
その向こうには、夕陽に染まる海。
さらに遠く。
まだ誰の目にも見えない場所に、白銀王国がある。
銀華は一度だけ振り返った。
胸の奥にあるものは、一つではなかった。
楽しみだった。
不安だった。
緊張していた。
それでも、行きたいと思った。
だから今は、それでいい。
銀華は前へ向き直る。
朧と刹那が待っている。
三人の旅は、まだ始まったばかりだった。
海の向こうにある見知らぬ世界へ。
その最初の一歩を前にして、夕陽が静かに沈んでいった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回の1-12をもって、
『ここは南のオーフェリア ― 英雄たちの詩 ―』
第1章は完結となります。
ここまで銀華たちの物語を追ってくださった皆さま、
本当にありがとうございます。
序章から始まり、
それぞれの出会いや再会を経て、
銀華、刹那、朧は新たな地へと歩き始めました。
物語は、ここから少しずつ大きく動いていきます。
次回は本編から少し離れ、閑話を一話。
そしてその後は、
物語の「十年前」を描く番外編へ入ります。
現在の銀華たちへと繋がる過去に、
何があったのか。
本編とは少し違う時間の物語になりますが、
引き続きお付き合いいただけたら嬉しいです。
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Xでは、更新情報やイラスト、
『南のオーフェリア』の制作風景などを投稿しています。
https://x.com/takeyan4562
YouTubeでは、キャラクターのテーマ音楽や、
イラストと音楽で『南のオーフェリア』の世界を楽しめる動画も公開しています。
小説とあわせて楽しんでいただけたら嬉しいです。
第1章、最後までありがとうございました。
そして物語は、まだ始まったばかりです。
次回――閑話へ。
#南のオーフェリア




