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ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―  作者: はしたけ


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18/29

1-11 残るという選択

 銀華たちが白銀王国へ向かうと知ったのは、その日の朝だった。


 朔耶は、迷わなかった。


「私も行きます」


 それが最初に口から出た言葉だった。


 旅の目的も聞いた。女王から託された外交の任務であることも、遊びに行くわけではないことも分かっている。


 それでも、行きたいと思った。


 銀華が王都へ戻ってから、何度か顔を合わせた。


 長い時間を共に過ごしたわけではない。


 けれど、銀華と話していると、自分の知らない場所の話が出てくる。


 戦場の話。辺境の町の話。名前も知らない村で出会った人々の話。


 銀華自身は、それを特別なことのようには語らなかった。


 だからこそ朔耶には眩しく見えた。


 自分の足で歩き、自分の目で見て、自分で選んできた人。


 その銀華が、今度は国境を越える。


 白銀王国へ。


 朔耶は、その景色を自分も見たいと思った。


 だが、その日の午後。


 宰相邸の一室で、父は静かに首を横へ振った。


「認められない」


「どうしてですか」


 朔耶は父の正面に座っていた。


 隣には母がいる。


 普段なら家族で茶を飲む部屋だった。


 幼いころから何度も使ってきた場所。


 それなのに今日は、卓上の茶に誰も手をつけていない。


「白銀王国への使節です。遊びに行くのではありません。それくらい私も分かっています」


「分かっているなら、なおさらだ」

 父は茶へ手を伸ばしかけ、結局その手を戻した。


「何がですか」


「危険がないとは言えない」


「銀華様も行かれます」

 朔耶は、それで十分な理由になると思っていた。


「だからだ」


 朔耶は言葉を失った。


「……銀華様だから?」


「勘違いするな」


 父の声は低いが、怒ってはいなかった。


「私は雪乃銀華殿を嫌っているわけではない」


「でも、いつもそうです。銀華様のお話をすると――」


「朔耶」


 母が小さく名前を呼ぶ。


 それでも朔耶は父から目を逸らさなかった。


「銀華様の近くにいることを、よく思っていないでしょう」


「そう見えていたのなら、私の伝え方が悪かった」


 父は一度、息を吐いた。


「むしろ私は、あの方を信用している」


「でしたら」


「信用しているからこそだ」


 朔耶の言葉を父が遮った。


「雪乃銀華という人は、危険を前にして自分だけ退く人ではない」


 部屋が静かになる。


「困っている者がいれば立ち止まる。争いがあれば止めようとする。必要なら、自分が傷つくことも厭わないだろう」


「それの何が悪いのですか」


「悪いとは言っていない」


「では――」


「その隣にいる者も、同じ危険に立つことになる」


 朔耶は黙った。


 父は銀華を責めていない。


 それが分かるからこそ、反論しにくかった。


「お前は剣士ではない。兵でもない」


「だから何もできないと?」


「そうは言っていない」


「同じです」


「違う」


 父の声が少し強くなる。


「危険な場所へ行かなければ価値がないなどと、私は一度も教えた覚えはない」


「私も、そんなことは言っていません!」


 朔耶の声も大きくなった。


 母が二人を見る。


 父は宰相だ。


 王城では何十人もの官吏をまとめ、他国の使者を前にしても声を荒らげない。


 朔耶も、父が人前で怒鳴る姿をほとんど見たことがなかった。


 だから余計に腹が立った。


 自分のことになると、父はいつも話を難しくする。


「私はただ、銀華様たちと一緒に行きたいと言っているだけです」


「だから、その理由だけで行かせるわけにはいかないと言っている」


「私の人生です」

 卓の上で、冷めた茶が小さく揺れた。


「ああ」


「だったら、私が決めてもいいでしょう!」


「決めるなとは言っていない!」


 父の声が部屋に響いた。


 朔耶が息を呑む。


 父自身も、声を荒らげたことに気づいたのだろう。


 眉間へ指を当て、目を閉じた。


「……すまない」


 短く謝る。


 それでも、言葉を引っ込めることはなかった。


「お前には、お前の人生がある。分かっている」


「分かっていません」

 朔耶は膝の上で手を握る。父もすぐには言い返さなかった。


「分かっている」


「では、なぜ止めるのですか」


 父はすぐには答えなかった。


 代わりに母が口を開いた。


「怖いのよ」


「お母様?」


「あなたが傷つくのが」


 母は笑わなかった。


「銀華さんを嫌っているわけではないわ。私も、あの方が優しい人だということくらい知っています」


「なら……」


「優しい人だから安心、とは思えないの」


 母の指が、膝の上で重なる。


「優しいから、危険な人を見捨てられないのでしょう?」


 朔耶は答えられなかった。


「あなたには、英雄になってほしいわけじゃないの」


「英雄になりたいなんて――」


「分かってる」


 母の声は穏やかだった。


「誰かを救わなくてもいい。国中から名前を知られなくてもいい。立派なことを成し遂げなくてもいい」


 少しだけ声が震えた。


「毎日、ここへ帰ってきてくれたら。それでいいの」


「……」


「できれば、いつか好きな人を見つけて。穏やかに暮らして。できることなら子どもにも恵まれて」


 朔耶は目を伏せた。


「男の人と結婚して?」

 問いは鋭かったが、朔耶自身も答えを決めているわけではなかった。


 母が黙る。


 父が僅かに顔を上げた。


「別に、女性を選ぶことが悪いとは思っていないわ」


「でも、男の人の方がいいのでしょう?」


「……心配は少ないと思っている」


 母は誤魔化さなかった。


「子どものこともあるもの」


「それも、私が決めることではないのですか」


「そうよ」

 母は一度だけ目を伏せ、それから娘をまっすぐ見た。


「だったら――」


「でもね」


 母が朔耶を見る。


「親は、子どもの未来を何も願ってはいけないの?」


 朔耶の言葉が止まった。


 母の顔に怒りはない。


 悲しそうでもない。


 ただ、本当に分からないという顔だった。


「あなたの人生を奪いたいわけじゃないの。あなたが選ぶことも分かってる。それでも、できるだけ危険の少ない道を歩いてほしいと思ってしまうの」


「……それが、私の望む道じゃなくても?」


「そこが分からないから、こうして話しているのよ」


 朔耶は唇を噛んだ。


 嫌いだと言ってくれれば楽だった。


 銀華は危険な人間だ。


 関わるな。


 家の名を考えろ。


 そう言われたなら、反発できた。


 けれど両親は、銀華を悪く言わない。


 ただ娘に生きていてほしいと言う。


 その願いを、朔耶は身勝手だと切り捨てることができなかった。


「……でも、私にはここで何をしろと言うのですか」


 父が朔耶を見る。


「何かをしなければ、ここにいてはいけないのか」


「そういう意味ではありません」


「なら、何だ」


「私は……」


 朔耶は言葉を探した。


 銀華についていきたい。


 それは嘘ではない。


 知らない国を見たい。


 銀華たちと旅をしたい。


 自分も何かを選んでみたい。


 けれど。


「ここにいれば、今までと同じです」


「今までが嫌だったのか」


「……違います」


 即答だった。


 父も母も黙る。


 朔耶自身、その答えに戸惑った。


 嫌ではなかった。


 むしろ幸せだった。


 何不自由なく育ててもらった。


 学びたいと言えば教師をつけてくれた。


 欲しい本があれば探してくれた。


 家臣たちは幼いころから自分を知っている。


 庭師は毎年、朔耶が好きな花を少し多く植える。


 料理人は、朔耶が疲れて帰った日には何も言わず好物を出す。


 侍女たちは髪型一つで一緒になって悩む。


 全部、嫌ではない。


 全部、大切だった。


「……嫌じゃないから、分からないんです」


 朔耶が呟く。


「何がだ」


「私が選んできたのかどうか」


 父の表情が僅かに変わった。


「学校も、習い事も、付き合う人も。嫌だったものはほとんどありません」


「それなら――」


「でも、最初から選択肢が用意されていたんです」


 朔耶は父を見る。


「私は、その中から選んできた。それを自分で決めたと思っていました」


 声が小さくなる。


「銀華様についていきたいと思って、初めて……その外にも道があるんだって」


 父は何も言わない。


「だから、行ってみたいんです」

 言い切ったあと、朔耶は自分の胸の鼓動が少し速いことに気づいた。


「それだけか」


 父の問いに、朔耶は眉を寄せた。


「それだけって……」


「お前が外の世界を見たい。それは分かった」


「なら」


「そのために、ここにあるものを全て置いていくのか」


 朔耶の胸が詰まる。


「全てって……」


「私たちだけではない」


 父は静かに続ける。


「この家でお前を支えている者たちもいる。お前を慕っている者もいる。お前が引き受けていることもある」


「それは……」


「宰相の娘だから国のために生きろ、と言っているのではない」


 父の目が朔耶を捉える。


「だが、自分が自由になるためなら、今まで関わってきたものを何もかも置いていって構わない。それも違うだろう」


 朔耶は返せなかった。


 腹が立った。


 また父に止められている。


 そう思った。


 けれど同時に、胸のどこかで同じことを考えていた自分がいた。


 銀華についていく。


 その言葉を口にした時。


 家族の顔が浮かばなかったわけではない。


 家臣たちも。


 自分が途中まで手伝っている仕事も。


 約束していた予定も。


 全部捨てればいいとは思えなかった。


「では私は、誰かが悲しむ限り、ずっとここにいなければならないのですか」


 今度は父が黙った。


 朔耶は続ける。


「お父様とお母様が心配するから。家臣が悲しむから。私を慕ってくれる人がいるから」


「朔耶……」


「それなら私は、いつ自分の行きたい場所へ行けるんですか」


 父の口が僅かに開く。


 答えは出なかった。


 朔耶にも分かっていた。


 父を困らせたいわけではない。


 ただ、答えてほしかった。


 家族を大切にすることと、自分の人生を選ぶこと。


 どこで線を引けばいいのか。


 誰が決めるのか。


 父にも分からない。


 母にも。


 そして、朔耶にも。


 長い沈黙のあと、父が言った。


「……今日は、ここまでにしよう」


「逃げるのですか」


「そうかもしれん」


 予想していなかった答えに、朔耶が顔を上げる。


「今の私では、父親としてしか話せそうにない」


「……」


「宰相としてなら、お前を使節へ同行させる利点も考えられる。だが、父親としては行かせたくない」


 父は苦く笑った。


「だから今は、まともな判断ができん」


 朔耶は何も言えなかった。


「明日の朝まで考えろ」


「明日には銀華様たちは出発します」


「分かっている」


「なら――」


「最後は、お前が決めろ」


 父の言葉に、朔耶が目を見開く。


「私は反対する。それは変わらん」

 父はそこで言葉を切った。反対する父親と、娘の選択を奪わない父親。その二つを同時に抱えたまま、朔耶を見ていた。


「……」


「だが、お前を部屋へ閉じ込めるつもりもない。門を閉ざすつもりもない」


「お父様」


「行くなら、自分で行け」


 厳しい声だった。


「そして、残るなら、それも自分で決めろ」


 朔耶は父を見つめた。


 欲しかったはずの言葉だった。


 自分で決めていい。


 なのに、少しも楽にならなかった。


     *


 その夜、朔耶はほとんど眠れなかった。


 荷物をまとめようとした。


 途中で手が止まった。


 旅に必要な服を出してみる。


 何日分必要なのか分からない。


 白銀王国は寒いと聞く。


 厚手の上着も必要だろう。


 侍女を呼べば、すぐに全部揃えてくれる。


 けれど呼ばなかった。


 自分で行くと決めるのなら、せめて自分で準備したかった。


 衣装棚の前で立ち尽くす。


 机の上には、明日確認すると約束していた書類がある。


 昼間、侍女から「明日の髪飾りはどちらになさいますか」と聞かれた。


 庭師からは、春に植える花について相談されている。


 小さなことばかりだった。


 自分がいなくても、どうにでもなる。


 宰相の娘一人がいなくなったところで、国が止まるわけではない。


 屋敷も回る。


 誰かが代わりをする。


 だから行っていい。


 そう考える。


 すると今度は、別の声が浮かぶ。


 代わりがいるなら、大切ではないのか。


 自分にしかできないことでなければ、置いていっていいのか。


「……分からない」


 朔耶は衣装を畳み直した。


 荷物は完成しなかった。


     *


 朝。


 銀華たちの馬車が王都を出る。


 朔耶は屋敷にいた。


 門は閉じられていない。


 父も何も言わなかった。


 母も「行ってはいけない」とは言わなかった。


 旅装も用意できた。


 銀華たちが出発する時刻も知っている。


 走れば、まだ間に合う。


 それでも朔耶は、自室の窓辺に立っていた。


 遠くから馬車の音が聞こえた気がした。


 本当に聞こえたのかは分からない。


「……」


 足が動かなかった。


 怖かったからではない。


 銀華についていくことが嫌になったわけでもない。


 両親に逆らえなかったわけでもない。


 行こうと思えば行けた。


 それでも。


 朔耶は行かなかった。


 自分が今ここで抱えているものを、全部置いていく覚悟が持てなかった。


 それが正しいのかは分からない。


 間違っているのかも分からない。


 ただ、銀華についていきたいという気持ちだけを理由に、家族も、家臣も、今まで自分が関わってきたものも、何もかも後ろへ置いていくことを選べなかった。


 窓の向こうに朝の空が広がっている。


 銀華たちは、もう進んでいる。


 朔耶は窓枠へ指を置いた。


「……行ってらっしゃい」


 誰にも届かない声だった。


     *


 その日の夜。


 朔耶は寝巻きのまま屋敷を抜け出した。


 抜け出した、と言っても、誰かに止められたわけではない。


 屋敷の裏手から小道を下りれば、小さな泉がある。


 幼いころから何度も来た場所だった。


 月明かりが水面へ落ちている。


 夜空には星が広がり、風が吹くたび、木々の枝が静かに揺れた。


 挿絵(By みてみん)


 朔耶は泉のほとりへ腰を下ろした。


 膝を抱える。


 薄い寝巻きの袖が夜風に揺れる。


「……寒い」


 そう呟いたのに、戻ろうとは思わなかった。


 水面を見る。


 月が映っている。


 その少し下に、自分の顔があった。


「行かなかった……」


 口にしてみる。


 行けなかった。


 そう言えば、少し楽だったかもしれない。


 父に反対されたから。


 母に心配されたから。


 宰相の娘だから。


 家臣がいるから。


 理由はいくらでも並べられる。


 けれど最後に門を閉じた者はいなかった。


 父は言った。


 行くなら、自分で行け。


 だから。


「私が、行かなかったんだ」


 胸が痛んだ。


 それを認めた瞬間、涙が出そうになった。


「……弱かったのかな」

 夜風が頬を撫でた。水面の月だけが、細く揺れている。


 水面の自分へ尋ねる。


 返事はない。


 朔耶はしばらく自分の顔を見ていた。


 そして、ゆっくり首を横へ振る。


「違う……と思う」


 銀華についていく勇気がなかったわけではない。




 ここにも、大切なものがあった。


 父。


 母。


 家臣たち。


 幼いころから暮らした屋敷。


 自分を名前で呼んでくれる人たち。


 自分が明日もここにいると思っている人たち。


 それを何もかも捨てていくことだけが、強さだとは思えなかった。


「でも……」


 朔耶は膝へ額を寄せる。


「じゃあ、どうしてこんなに苦しいの……」


 答えはなかった。


 残ったことが正しいのなら、もっと安心すると思っていた。


 行かなかったことを後悔しているのなら、今から追いかければいい。


 まだ間に合わないとは限らない。


 馬を出して。


 護衛をつけて。


 急げば。


「……違う」

 吐いた息が、夜気の中へ白くほどけた。


 また首を振る。


 そういうことでもない。


 今から銀華を追えば、この苦しさが消える。


 そんな気もしなかった。


 行くことと、残ること。


 どちらか一つが正解なら、こんなに悩まない。


 どちらにも大切なものがある。


 どちらを選んでも、置いていくものがある。


 朔耶は、そんな選択をしたことがなかった。



 読みたい本。


 学びたいこと。


 着たい服。


 誰と話すか。


 何が好きで、何が嫌いか。




 けれど。


 振り返れば、自分で選んできたものの多くは、両親が整えてくれた世界の中にあった。


 安全な道。


 学ぶための場所。


 信頼できる人々。


 その中で、好きなものを選んできた。




 守られていた。それでも窮屈だったのではなく、幸せだった。


 今も幸せだ。


 だからこそ難しい。


「嫌だったなら、簡単だったのに……」


 朔耶は小さく笑った。





 でも違う。


 好きだった。


 全部。


 銀華についていきたいと思った気持ちと同じように、ここにいる人たちも大切だった。


「ずるいよ……」


 誰に言ったのか分からない。


 父か。


 母か。


 銀華か。


 それとも自分自身か。


 朔耶の目から、一粒だけ涙が落ちた。


 泉へは届かず、寝巻きの袖に染み込む。


「私の人生なのに」


 言葉にすると、少し幼く聞こえた。


「私の人生なのに……私だけのものじゃないみたい」


 誰かを大切にすれば、その人の気持ちが自分の選択に入り込む。


 誰かに大切にされれば、その人を悲しませることが怖くなる。


 それを全部振り払うことが自立なのだろうか。


 何も気にせず、自分が望む道だけを選ぶことが強さなのだろうか。


 朔耶には、そうは思えなかった。


 でも。


 だからといって、誰かの願いだけで生きるのも違う。


「難しい……」

 泉の水が岸へ触れ、小さな音を立てた。


 両腕へ顔を埋める。


「銀華様なら、どうするんだろう」


 考えて。


 すぐに苦笑した。


「……聞いても駄目か」


 銀華なら、きっと真剣に考える。


 考えて、悩む。


 そして最後には、自分で決める。


 でも、その答えが朔耶と同じとは限らない。


 銀華の答えを借りても、それは自分の答えにはならない。


「自分で決めるって……こういうことなのかな」

 口にしても、答えになった気はしなかった。


 選んだ瞬間に、正しいと分かるわけではない。


 誰かが褒めてくれるわけでもない。


 後悔しない保証もない。


 それでも選んで。


 選ばなかった方を、自分で背負う。


 もしそれが自分で決めるということなら。


「……嫌だな」


 朔耶は少し笑った。


「もっと気持ちいいものだと思ってた」


 自由という言葉は、もっと軽いものだと思っていた。


 扉を開ければ外へ出られる。


 好きな場所へ行ける。


 そんなものだと。


 でも実際は。


 扉の向こうへ行くなら、今いる場所から離れなければならない。


 両方を同時には選べないこともある。


 それが、こんなに苦しいとは思わなかった。


 泉の向こうで、枝が揺れた。


 朔耶は顔を上げる。


 少し離れた場所に、人影があった。


 父と母。


 その後ろには、何人かの家臣がいる。


「……」


 いつからいたのだろう。


 朔耶は声をかけなかった。


 向こうも来ない。


 母が一歩、こちらへ進もうとする。


 父がそっと腕を伸ばし、止めた。


「あなた……」


「今は、行くな」

 母の足が止まる。父の手は強く掴むのではなく、ただそこにあった。


「でも、あの子……」


「考えている」


 父の声は、朔耶までは届かなかった。


 母が心配そうに泉のほとりを見る。


「私たちは、間違えたのかしら」


 父はしばらく答えなかった。


「分からん」


「……あなたでも?」


「父親だからこそ、分からん」


 母が夫を見る。


「行かせたくなかった。それは今も変わらない」


「ええ」


「だが、あの子が自分の道を考え始めたことまで止めたかったわけじゃない」


 父は遠くに座る娘を見る。


「守ることと、囲うことは違う」


「……」


「分かっていたつもりだった」


 母が目を伏せる。


「親って、難しいわね」


「ああ」


「宰相様でも分からない?」


「宰相なら簡単だ」


 父は小さく息を吐いた。


「利害を並べて、国にとって一番ましな答えを選ぶ」


「では、お父様なら?」


「……全く分からん」


 母の口元が少しだけ緩んだ。


 父もそれ以上は言わなかった。


 二人は朔耶へ近づかない。


 家臣たちも同じだった。


 誰も彼女を一人にはしていない。


 けれど、今だけは一人で考えさせていた。


 朔耶は、そんな家族の存在にまだ気づいていなかった。


 泉へ視線を戻す。


 水面の自分は、泣いたせいで少し目が赤い。


「格好悪い……」


 指先で涙を拭う。


 銀華たちは今ごろ、どこにいるのだろう。


 王都から随分離れただろうか。


 刹那がいて。


 朧がいて。


 きっと三人で何かを話している。


 その中に自分がいない。


 寂しい。


 それは認めようと思った。


「行きたかったな……」

 声にした途端、胸の奥に残っていたものが少しだけ形を持った。


 素直に口にする。


 行きたかった。


 でも、行かなかった。


 その二つは矛盾しない。


 少なくとも今夜は、そう思うことにした。


 朔耶は立ち上がらない。


 もう少しだけ、ここにいたかった。


 月が泉に揺れている。


 風が止めば、水面は静かになる。


 けれど完全には止まらない。


 小さな波が、月の形を何度も崩す。


「……これで、よかったのかな」

 月は答えず、揺れたまま水面に残っていた。


 問いかける。


 答えはない。


「分からないよ……」


 それでいいのかもしれない。


 今日決めたことの正しさを、今日の自分が知っている必要はない。


 いつか分かるのかもしれない。


 ずっと分からないのかもしれない。


 それでも。


 朔耶は、自分で残った。


 誰かに閉じ込められたからではない。


 勇気がなかったからでもない。


 ここにも、置いていけないものがあったから。


 それを弱さとは呼びたくなかった。


 けれど、強さだと言い切るほど、今の朔耶は自信を持てなかった。


 ただの選択。


 迷って。


 悩んで。


 泣いて。


 それでも自分で選んだ、一つの道。


 朔耶はようやく顔を上げた。


 泉の向こうに人影があることに気づく。


「……お父様?」


 父が僅かに肩を揺らした。


 母が隣で苦笑する。


「気づかれたわね」


「そのようだな」


 朔耶は立ち上がった。


 寝巻きの裾についた草を払う。


 すぐに駆け寄ることはしなかった。


 父も母も待っている。


 朔耶は泉を一度だけ振り返った。


 水面には月がある。


 答えは、まだない。


 それでも屋敷へ戻ろうと思った。


 自分が今日、残ると選んだ場所へ。


 一歩。


 また一歩。


 朔耶は家族の方へ歩き出す。


 母がほっとしたように笑う。


 父は何も言わない。


 家臣たちも、いつもと同じように頭を下げた。


 その姿を見て、朔耶は少しだけ胸が痛くなる。


 そして同時に。


 少しだけ、温かいと思った。


「……お父様」


「何だ」


「まだ、納得してませんから」

 父は娘の顔を見た。昼間より少し赤い目を見ても、何も尋ねなかった。


「ああ」


「明日も話します」


「望むところだ」


「逃げないでくださいね」


「努力しよう」


「努力では困ります」


 母が小さく笑った。


 朔耶も、ほんの少しだけ笑った。


 何も解決していない。


 銀華についていかなかったことが正しかったのかも分からない。


 両親の考えを受け入れたわけでもない。


 自分がこれから何を選ぶのかも、まだ見えていない。


 それでも。


 今夜、自分の足で戻る場所だけは決められた。


 朔耶は家族とともに屋敷へ向かった。


 背後の泉では、月が静かに揺れていた。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


今回は、銀華たちと旅立つのではなく、

王都に「残る」という道を選んだ朔耶のお話でした。


行きたい気持ちがあっても、

大切なものが一つとは限らない。


どちらが正しかったのか。

その答えは、まだ朔耶自身にも分かりません。


それでも、自分で悩み、自分で選んだことが、

彼女にとって一つの始まりになればと思います。


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Xでは、更新情報や『南のオーフェリア』のイラスト、

制作中の一コマなどを投稿しています。


[https://x.com/takeyan4562](https://x.com/takeyan4562)


YouTubeでは、キャラクターのテーマ音楽や、

『南のオーフェリア』の世界をイラストと音楽で楽しめる動画を公開しています。


小説とは少し違った形の『南のオーフェリア』も、

一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。


次回もよろしくお願いします。


\#南のオーフェリア


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