1-9 旅立ち
夜明け前の蒼緑王国。
東の空が淡く白み始め、朝露をまとった草木が静かに輝いていた。
遠くには世界樹の頂が、薄明の空へ溶けるように伸びている。
雪乃家の前には、一台の馬車が停まっていた。
二頭の馬は白い息を吐き、御者台では御者が最後の馬具を確かめている。
荷台には木箱や旅袋、毛布、保存食、水筒まで、隙間なく整然と積み込まれていた。
その荷の間を、刹那が迷いなく歩いていく。
革紐を引く。
木箱を押す。
荷札を確かめる。
最後に一番奥の荷へ手を伸ばし、僅かに位置を直してから、小さく頷いた。
「こちらも問題ございません」
「ありがとう、刹那」
銀華はその横で、完成した旅支度を眺めていた。
眺めているだけだった。
「……本当に全部終わってるんだね」
「はい」
「……私、準備にはほとんど参加してないね」
「はい」
「任せきりにしちゃったね。ありがとう」
「お嬢様には、任務の確認がございましたから」
刹那は涼しい顔で答えた。
銀華は荷台をもう一度見上げる。
昨日、白銀王国へ三人で向かうことが決まった。
そこまでは覚えている。
その後は、王城から渡された書類と旅程の確認に時間を使った。
必要な衣類や道中の備えについて刹那から尋ねられ、その辺りは任せると答えた。
そして朝になった。
馬車が完成していた。
「……いつ準備したの?」
「昨夜でございます」
「全部?」
「すべて」
「寝た?」
「十分に」
迷いのない返事だった。
銀華は疑わしそうに刹那を見る。
「本当に?」
「お嬢様」
「はい」
「出立前から私の体調を心配されるのでしたら、昨夜もう少し早く書類を読み終えてくだされば助かりました」
「……ごめんなさい」
すぐに謝った銀華を見て、刹那の口元がほんの少し緩む。
「冗談でございます。必要な手配は前もって進めておりましたから」
「前もって?」
「お嬢様が王城へ呼ばれた時点で、旅に出られる可能性は考えておりました」
銀華が目を瞬いた。
「まだ任務の話も聞いてなかったのに?」
「だからこそ、でございます」
「……?」
刹那にとっては当然らしい。
銀華はしばらく考えたあと、首を傾げた。
「そこまで考えてたんだ」
「お嬢様は、ご自分のことになると少々お気づきになるのが遅うございますから」
「え?」
「何でもございません」
少し離れた場所から、小さく息を吐く音がした。
朧だった。
腰には愛刀。
荷物は小さな旅袋一つだけ。
昨日とほとんど変わらない姿で、馬車の脇に立っている。
「朧、今笑った?」
「笑っていない」
「絶対笑ったよね?」
「出るなら早くしろ」
「誤魔化した」
「知らん」
銀華は頬を膨らませたが、すぐに笑った。
その時、刹那が荷台の端へ置かれていた小さな包みを取り上げる。
「お嬢様、こちらを」
「何?」
「朝食の残りでございます。道中でお腹が空いた時に」
「朝ご飯、ちゃんと食べたよ?」
「存じております」
「じゃあ、いらないんじゃ……」
「お昼まで何も召し上がらない保証がございませんので」
「私、そんなに食べる?」
刹那は答えなかった。
朧も答えなかった。
「……二人とも?」
「積め」
朧が一言だけ言った。
「朧までそっちなの?」
「必要な物なんだろう」
「そうでございます」
「なんか納得いかない……」
そう言いながらも、銀華は包みを受け取り、荷台へ大切に置いた。
そのまま荷台へ目を向けた銀華の視線が、先ほどまでとは少しだけ変わった。
食料と水は車軸に近い低い位置へ。
外套や毛布は取り出しやすい手前へ。
左右の荷の量にも、大きな偏りはない。
銀華は一つの木箱へ手を添え、軽く押した。
揺れない。
革紐の張りも十分だった。
「……重いもの、ちゃんと中央に寄せてあるんだね」
刹那が僅かに目を見開く。
「お気づきになりましたか」
「悪い道で片側に重さが寄ったら、車輪を取られるでしょう。雨の後なら、なおさら」
何気ない口調だった。
けれど朧は、さっきまで朝食の包み一つで困っていた銀華を見ていた目を、ほんの少し細めた。
「戦場へ荷を運ぶ時と同じか」
「うん。馬車が止まったら、荷物だけじゃなくて人も動けなくなるから」
銀華はそこで刹那を見た。
「ここまで考えて積んでくれたんだね。ありがとう」
「当然の備えでございます」
刹那はいつもの調子で答えたが、その声には少しだけ誇らしさが混じっていた。
刹那が確認していたものは、食料だけではない。
白銀王国は蒼緑王国の西に位置する。
西へ向かうほど寒さは厳しくなり、白銀の地は蒼緑とは気候が大きく異なる。
長い海路もある。
途中で天候が崩れることも考えなければならない。
厚手の外套。
予備の衣類。
薬。
雨具。
外交使節として必要になる書状は、銀華が持つものと刹那が預かる控えに分けられている。
「これも刹那が?」
「はい」
「こっちの箱も?」
「はい」
「この毛布も?」
「はい」
「……私の仕事、本当になかった?」
「ございましたよ」
銀華の顔が少し明るくなる。
「何?」
「ご自身の剣をお忘れにならないことです」
「それだけ?」
「重要でございます」
銀華は背負った《青の輝き》へ手をやった。
さすがにそれは忘れていない。
「ちゃんと持ってるよ」
「安心いたしました」
「信用されてない気がする」
「信用しております」
「今の間は何?」
「気のせいでございます」
朧が再び小さく息を吐いた。
銀華は今度こそ振り返る。
「やっぱり笑ってるでしょう?」
「気のせいだ」
「刹那と同じこと言った」
「そうか」
朧はそれ以上取り合わない。
銀華は少し不満そうだったが、二人の間に流れる空気は軽かった。
昨日までは、白銀王国という言葉に少しだけ緊張していた。
国を背負って、知らない土地へ行く。
それは、これまで戦場へ向かう時とは違う重さだった。
けれど今は、目の前に刹那がいて、朧がいる。
自分が何も言わないうちから旅支度を整えた者と、たった一つの旅袋で当然のように待っている者。
その二人を見ていると、旅立ちを必要以上に重く考えるのが少し馬鹿らしく思えた。
「では、お嬢様」
刹那が馬車の扉を開ける。
「参りましょう」
「うん」
銀華は屋敷を振り返った。
見慣れた玄関。
庭の竹。
縁側。
戻ってきてからの時間は、決して長くない。
それでも、朝になれば刹那の声が聞こえ、縁側にはいつの間にか朧が座っている。
たったそれだけの景色が、いつの間にか当たり前になり始めていた。
一年前、自分はここから誰にも告げずに旅立った。
刹那はその時、任務で遠く離れていた。
静と瑠璃に見送られながら、それでも最後に歩き出したのは一人だった。
あの時とは違う。
今は、一人ではない。
「行ってきます」
小さく頭を下げる。
帰ってくる場所へ向けた、はっきりとした言葉だった。
「お嬢様」
「何?」
「今回は、私もおります」
「うん」
「ですから、帰ってこられた時にもう一度おっしゃってくださいませ」
銀華は一瞬だけ目を丸くした。
それから、柔らかく笑った。
「ただいま、って?」
「はい」
「分かった。約束する」
刹那も小さく頭を下げた。
朧は何も言わない。
けれど銀華が馬車へ乗り込むまで、先に座ろうとはしなかった。
三人が乗り込む。
御者が手綱を鳴らした。
車輪がゆっくりと回り始め、雪乃家が少しずつ遠ざかっていった。
◇◇◇
王都の朝は早い。
市場ではすでに商人たちが店を開き始め、焼き立てのパンの香りが通りへ流れている。
野菜を積んだ籠が並び、魚屋が軒先へ桶を運ぶ。
花屋では色とりどりの花束が朝露を残したまま並べられ、通りの端では掃除を終えた店主が隣の店へ声を掛けていた。
誰かにとっては、いつもと変わらない朝だ。
馬車は、その日常の中をゆっくり進んでいく。
銀華は窓の外を眺めていた。
戦場へ向かう軍列ではない。
兵士もいない。
旗も掲げていない。
それでも、この王都を離れていくのだと思うと、一つひとつの景色が普段より目に入った。
「銀華さん!」
突然、通りの向こうから声が飛んだ。
果物屋の老夫婦だった。
「旅に出るって聞いたよ!」
「はい。少しだけ行ってきます」
「少しって、白銀まで行くんだろう?」
「……そうですね。少しではないかもしれません」
老夫婦が揃って笑った。
「気を付けるんだよ。白銀は寒いって聞くからね」
「ありがとうございます!」
「風邪を引くんじゃないよ!」
「はい!」
銀華は窓から身を乗り出さない程度に手を振る。
馬車が進む。
今度はパン屋の店主が気づいた。
「銀華様! 朝飯は食べたか!」
「食べました!」
「本当か!」
「本当です!」
向かいで刹那が静かに頷く。
「今朝はきちんと召し上がっております」
「刹那、証言しなくていいから」
「信用に関わりますので」
「誰への信用?」
「皆様への、でございます」
パン屋の店主が豪快に笑った。
「刹那ちゃんが一緒なら安心だな!」
「お気遣いありがとうございます」
「私もいるんだけど……」
銀華が小さく呟く。
朧が窓の外と銀華を交互に見る。
「知り合いが多い」
「うーん……」
銀華は少し考えた。
「私が覚えてもらってるだけかも」
「違います」
刹那が即座に否定した。
「皆様がお嬢様を慕っておられるのです。お嬢様が、相手の身分に関係なく自然と人に向き合われるから」
「そんな大げさだよ」
「事実でございます」
「本人は分からないものだ」
朧まで加わった。
「朧まで?」
「見れば分かる」
「何が?」
問い返したところで、馬車の外からまた声が飛んだ。
「銀華様!」
今度は道具屋の主人だった。
銀華は顔を出す。
「おはようございます!」
「こないだ頼まれた砥石、戻る頃にはいいのを仕入れとくよ!」
「本当ですか?」
「ああ! だからちゃんと戻ってこい!」
「はい!」
朧は黙ってその様子を見ていた。
将軍と聞けば、もっと遠い人間を想像していた。
戦場で名を知られ、王城へ出入りし、女王の側に立つ者。
だが、目の前にいる銀華へ向けられる声には、畏れより親しさの方がずっと多い。
果物屋は寒さを心配し、パン屋は朝食を気にし、道具屋は帰ってくることを当然のように約束させる。
銀華自身は、その一つひとつを特別なことだと思っていない。
声を掛けられれば返す。
名前を呼ばれれば笑う。
それだけだ。
けれど、その「それだけ」を身分に関係なく続けられる人間が、どれほどいるのか。
朧はまだ、それを言葉にはしなかった。
「お姉ちゃん!」
花屋の少女が、母親に見守られながら駆け寄ってくる。
御者が馬車をゆっくり止めた。
少女の手には、小さな白い花束があった。
「これ、持っていって!」
「私に?」
「うん! 元気で戻ってきてね」
銀華は一瞬だけ目を丸くした。
それから馬車を降り、少女と同じ高さまで腰を落とす。
「ありがとう。大事にするね」
「約束だよ」
「うん。約束」
「絶対だからね」
「絶対」
白い花束を両手で受け取る。
少女は満足そうに笑うと、母親のもとへ駆け戻っていった。
母親が銀華へ深く頭を下げる。
銀華も同じように頭を下げた。
馬車へ戻った銀華は、膝の上へ花束を置いた。
「きれいだね」
嬉しそうに花びらへ触れる。
朧がそれを見ている。
「どうしたの?」
「いや」
「また何か言いたそう」
「そういうところかと思っただけだ」
「そういうところ?」
「人が集まる理由だ」
銀華は首を傾げた。
「……私が、みんなと話してること?」
「それだけじゃない」
「でも、昔からこんな感じだよ?」
「だから本人には分からないんだろう」
「そういうものかな」
朧は窓の外へ顔を向けた。
刹那は口元へ手を添えている。
「刹那まで笑ってない?」
「笑っておりません」
「二人とも今日ちょっと変だよ」
銀華だけが本気でそう思っていた。
少し進んだところで、銀華はふと思い出したように口を開く。
「そういえば、朧」
「何だ」
「さっき、将軍って聞いたらもっと遠い人だと思ってた、みたいな顔してなかった?」
「していない」
「したよ」
「していない」
「私、そんなに遠くないでしょう?」
「近すぎる」
「え?」
「何でもない」
「朧までそれ言うの?」
刹那がとうとう小さく笑った。
銀華はますます分からないという顔をした。
そのまま馬車は王都の中央通りを進んでいく。
通り過ぎる人の全員が銀華を知っているわけではない。
当然だ。
けれど、気づいた者は手を振った。
知らない者も、誰かが「銀華様」と呼ぶのを聞けば馬車へ目を向ける。
その中に、過剰な歓声はなかった。
英雄を送り出す熱狂でもない。
ただ、知っている人がしばらく遠くへ行く。
だから気を付けて。
帰ってきて。
そんな日常の言葉が、銀華の背中へいくつも重なっていった。
銀華はそれを一つ残らず受け取っている。
けれど、自分がどれほど受け取っているのかまでは、やはり気づいていなかった。
◇◇◇
やがて馬車は王都の正門へたどり着いた。
重厚な城門がゆっくりと開いていく。
門番たちは馬車を認めると姿勢を正し、一斉に拳を胸へ添えた。
「外交使節、ご無事の帰還を」
銀華の表情が少しだけ引き締まる。
街の人々と笑っていた時間から、国の任を背負う者の顔へ。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
門番の一人が、銀華の膝にある白い花束へちらりと視線を落とした。
ほんの一瞬、口元が緩む。
「人気者は大変ですね、銀華様」
「え?」
「いえ。お気をつけて」
「はい」
銀華は不思議そうにしながらも頭を下げた。
朧が横から言う。
「ここでもか」
「何が?」
「いや」
「だから何なの?」
答えは返ってこない。
銀華は少しだけ頬を膨らませた。
けれど、門を通り過ぎる直前、表情が静かに変わった。
もう一度だけ王都を振り返る。
朝日に照らされた屋根。
遠くにそびえる王城。
そのさらに向こうで、世界樹が空へ枝を広げている。
以前、この門を一人で越えた朝を思い出す。
あの時は、自分がどこへ向かうのかさえ分かっていなかった。
ただ、同じ場所に留まり続けることができなかった。
守れなかったものを抱え、何かを探すように歩き出した。
今は違う。
行き先がある。
役目がある。
そして、隣に二人いる。
それだけではない。
帰ってこいと言ってくれる人たちがいる。
銀華は膝の花束へ目を落とした。
小さな白い花。
重くはない。
それなのに、今はどんな荷物よりも大切なものに思えた。
「銀華」
朧の声で、銀華は前を向いた。
「うん」
門を抜ける。
王都の喧騒が少しずつ遠ざかり、広い街道が西へ伸びていた。
青々とした草原が風に波打っている。
銀華はもう振り返らなかった。
◇◇◇
馬車が一定のリズムで揺れる。
王都を離れてしばらくすると、道の両側には畑と草原が広がり、人の姿も少なくなっていった。
遠くでは農夫が畑を耕し、街道脇の木立から鳥が飛び立っていく。
王都で絶えず聞こえていた人の声は、もうない。
代わりに、車輪が土を踏む音と、馬の蹄の音が規則正しく続いていた。
三人の間に沈黙が落ちる。
けれど、気まずくはない。
銀華は少女からもらった白い花束を膝へ置き、窓の外を眺めた。
「こうして旅をするの、久しぶり」
「私は初めてでございます」
刹那が向かいから答える。
「そうなの?」
「お嬢様と長旅をご一緒するのは初めてです。これまでもお世話はしてまいりましたが、こうして同じ目的地へ向かう旅は」
銀華は嬉しそうに笑った。
「じゃあ、一緒に楽しもう」
「はい」
「刹那は白銀で何が見たい?」
「そうでございますね……」
刹那は少し考える。
「まずは、その国の暮らしを見てみたいです」
「暮らし?」
「食事や衣服、家の造り。それから市場も」
「市場、いいね」
「お嬢様は食べ物しか考えておられませんね?」
「そんなことないよ。景色も見る」
「先ほど『市場』に一番早く反応されました」
「……たまたまだよ」
銀華は視線を逸らした。
朧がぼそりと言う。
「分かりやすい」
「朧まで言うの?」
銀華は今度は朧へ向き直った。
「じゃあ朧は?」
「何がだ」
「白銀で見たいもの」
「ない」
「早いよ」
「考えた」
「絶対考えてない」
「考えた結果だ」
刹那が小さく笑う。
銀華は諦めずに続けた。
「何かあるでしょう。景色とか、お城とか、白銀でしか食べられないものとか」
「食べ物から離れろ」
「朧に言われたくない」
「なぜだ」
「さっき『食事は必要だ』って真顔で言ってたから」
「必要だ」
「そうじゃなくて」
銀華は笑いながら首を振る。
「旅は多かったんでしょう?」
「多かった」
「傭兵団の頃?」
「ああ」
「どんな旅だった?」
朧は少しだけ考えた。
「目的地へ向かう」
「うん」
「仕事を終える」
「うん」
「帰る」
「うん」
「それだけだ」
銀華は吹き出した。
「朧らしい」
「そうか」
「うん。すごく」
朧は自分ではよく分からないらしく、僅かに首を傾げる。
「途中の町とかは?」
「通った」
「何か見なかった?」
「見た」
「何を?」
「道を」
朧は冗談を言った様子もなく、窓の向こうへ流れていく街道を見た。
車輪が小さな石を踏み、馬車が一度だけ緩く揺れる。
銀華はその横顔を見つめたまま、返事を待った。
だが朧が続きを口にする気配はない。
「……道?」
「迷えば仕事に遅れる」
「そういう意味じゃないよ」
銀華が笑う。
刹那も肩を揺らした。
朧は二人を見比べる。
「何がおかしい」
「朧は旅を楽しんだことがないんだね」
「仕事だからな」
「じゃあ、今回は初めてにしよう」
「何をだ」
「旅を楽しむの」
朧が黙った。
銀華はそれを拒絶とは受け取らない。
もう、その程度には朧の沈黙を知っている。
「白銀までずっと仕事の顔してたら疲れるよ」
「お前が言うのか」
「え?」
「昨日まで任務のことばかり考えていた」
「……見てたの?」
「見れば分かる」
また同じ言葉だった。
銀華は何か言い返そうとして、やめた。
「じゃあ、お互い様だね」
「何がだ」
「私も任務だけにしない。朧も仕事だけにしない」
「勝手に決めるな」
「昨日、行くかどうかを決めるのは朧だって言ってたもんね」
「ああ」
「じゃあ、楽しむかどうかも朧が決めて」
「そうする」
「でも、私は誘うからね」
「好きにしろ」
そこで馬車が緩やかな坂へ差しかかった。
窓から差し込む朝の光が傾き、遠くの草原を渡った風が幌を小さく鳴らす。
銀華は返事をする前に、ふと窓の外へ目を向けた。
街道の端に残る轍。
その底だけがまだ濃く湿っている。
西の空には、朝日に溶けきらない薄い雲が低く残っていた。
「御者さん。この先、昼前くらいに一度休める場所はありますか?」
前から御者の返事が返る。
「ございます。次の宿場の手前に、小さな休憩所が」
「じゃあ、そこで馬の脚も見てもらおう。昨日、西の方で少し降ったみたい。道が柔らかくなってるかもしれないから」
刹那が窓の外を見る。
「雨が降ったのですか?」
「ここでは降ってない。でも轍の底がまだ湿ってる。向こうの雲も低いでしょう」
朧も外へ目をやった。
「よく見ているな」
「行軍中なら普通に見るよ。道を見ないで進んだら、兵より先に荷車が止まるもの」
そう答えた銀華は、先ほどまで旅の楽しみ方を朧へ説いていた時とは違い、もう笑っていなかった。
ほんの短い間だけ、馬車の中に将軍としての銀華がいた。
やがて銀華は二人へ顔を戻す。
「うん」
銀華は満足そうに頷いた。
朧は窓の外へ視線を戻す。
その横顔はいつもと変わらない。
けれど刹那には、ほんの僅かに柔らかくなったように見えた。
「お嬢様」
「何?」
「朧様だけでなく、お嬢様もでございますよ」
「私?」
「任務を理由に、休むことをお忘れにならないように」
「忘れないよ」
刹那は黙って銀華を見る。
「……たぶん」
「お嬢様」
「気を付けます」
銀華は姿勢を正した。
「でもね」
膝の花束へ目を落とす。
「今回は、少し違う旅になったらいいな」
朧と刹那が銀華を見る。
「任務はもちろん大事。白銀王国でやるべきことは、ちゃんとやる」
そこで一度言葉を切った。
白銀王国が中央帝国をどう見ているのか。
蒼緑王国と、これからどのような関係を築けるのか。
銀華に託されたものは軽くない。
自分の一言が、国と国との関係を変えることだってある。
考えれば、やはり怖い。
剣ならば、振るべき時を身体が知っている。
言葉は違う。
同じ一言でも、相手によって届き方が変わる。
銀華は膝の上で指を組んだ。
戦場なら、敵の数も地形も見える。
分からないことがあっても、斥候を出し、備えを変えられる。
けれど人の心は、地図には描かれていない。
白銀の王が何を警戒し、何を望んでいるのか。
言葉だけを追えば、かえって見誤ることもあるだろう。
だからこそ、まず見る。
話を聞く。
決めつけない。
それは剣を振るうよりずっと不慣れで、それでも銀華が今回やらなければならないことだった。
それでも。
「せっかく三人で行くんだから」
銀華は二人を交互に見る。
「白銀の景色も、ご飯も、人との出会いも、全部楽しみたい。任務だけじゃなくて、この旅そのものを」
「やはり食事は入るのですね」
「そこ大事でしょう?」
「否定はいたしません」
朧が静かに頷いた。
「私も食事は必要だ」
「朧、それは『楽しむ』じゃなくて『生きる』の話だよ」
「同じだろう」
「違うよ」
「何が違う」
「美味しいものを食べて、『美味しい』って思うところまでが楽しむの」
「食べれば分かる」
「それを口にするの」
「必要か?」
「必要!」
銀華が笑う。
刹那も笑う。
朧だけが、何が違うのか分からないという顔をしていた。
「では、白銀で美味しいものがございましたら、朧様にも感想を伺いましょう」
刹那が言う。
「刹那、それいいね」
「断る」
「まだ何も食べてないのに?」
「面倒だ」
「一言でいいから」
「美味い」
「今言わないでよ」
「一言でいいと言った」
「そういうところ、本当に朧だよね」
「意味が分からん」
三人の声が馬車の中へ重なる。
王都を出たばかりだというのに、銀華はもう少しだけ肩の力が抜けていた。
以前の旅では、こうではなかった。
一人で歩き、一人で考え、一人で立ち止まった。
誰かと話すことはあっても、その人たちは同じ道を歩く者ではなかった。
今は違う。
隣にいる二人は、自分でこの旅を選んだ。
だから銀華も、二人をただ守る対象ではなく、同じ道を歩く者として隣に置こうと思う。
それがまだ上手くできるかは分からない。
きっとまた、自分で全部やろうとする時もある。
さっきまで旅支度を一つもしていなかった人間が考えることではないかもしれない。
「……あ」
銀華が突然声を上げた。
「どうされました?」
「……そういえば、旅支度は本当に二人に任せきりだったね」
「今さらだな」
朧が言った。
「分かってはいたけど、こうして出てから実感したの」
「お嬢様には、お嬢様のお役目がございます」
「うん。でも、それとこれとは別でしょう?」
銀華は少しだけ申し訳なさそうに刹那を見る。
「書状と任務の確認に集中してたからって、全部任せていい理由にはならないよ」
「私は好きでしております」
「それも分かってる。だから余計に、ありがとう」
刹那は一瞬だけ目を細めた。
「では、お帰りになられましたらお願いいたします」
「うん。今度はちゃんと手伝う」
「期待しております」
朧が二人を見る。
「帰る前から帰った後の話か」
「帰るつもりで行くんだから、いいでしょう?」
「そうだな」
銀華は満足そうに頷いた。
馬車は西へ進んでいく。
誰かに命じられて一人で歩いた旅ではない。
誰かを守るためだけの道でもない。
三人がそれぞれ自分で選び、同じ場所へ向かう旅だった。
白銀王国までは、まだ遠い。
何が待っているのかも分からない。
それでも銀華は、不思議と先を急ごうとは思わなかった。
窓の外には、まだ見たことのない景色へ続く道がある。
膝には王都でもらった白い花。
隣には、昨日までいなかった旅の仲間がいる。
銀華は花束が崩れないよう、そっと持ち直した。
しばらく誰も話さなかった。
沈黙の向こうで、馬の蹄と車輪の音だけが続いている。
それは一人で歩いた旅では聞くことのなかった、三人分の静けさだった。
「楽しみだね」
誰にともなく言う。
「はい」
刹那が答えた。
少し遅れて、朧も口を開く。
「ああ」
銀華は笑った。
そしてまだ、自分が二人にどれほど支えられているのか、たぶん半分も分かっていない。
馬車の車輪が、朝の街道に軽やかな音を刻む。
三人の旅は、ようやく始まったばかりだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
銀華、朧、刹那。
それぞれの意思で旅立ちを決めた三人が、いよいよ白銀王国へ向けて歩き始めました。
まだ見ぬ土地、まだ見ぬ人々。
そして銀華にとっては、将軍としてだけではない新たな役目も待っています。
三人の旅がどこへ向かうのか。
引き続き見守っていただけると嬉しいです。
次回もよろしくお願いします。
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