1-7 託された旅路
蒼緑王国王城。
執務室へ差し込む午後の陽射しは柔らかく、磨き上げられた床に長い光を落としていた。
窓から見える世界樹の葉が、風に揺れるたび、細かな影を部屋の隅々まで這わせる。
机上には幾通もの書状が整然と並び、インクの匂いが微かに漂っていた。
部屋の奥では、紅蒼瑠璃が机に広げられた数枚の書状へ静かに目を通している。
女王としての責務が、その細い指先に重くのしかかっているようだった。
視線は冷静で、一文字一文字を決して疎かにしない。
その傍らには白峰静。
窓際へ寄りかかるように立ち、庭で揺れる世界樹の葉を眺めていた。
剣聖としての鋭い気配を、日常の中に穏やかに溶かしている。
扉が三度、控えめに叩かれる。
「失礼します」
聞き慣れた声に、瑠璃は書状から目を上げた。
静もゆっくりと振り返る。
「入りなさい」
扉が開き、銀華が一礼して室内へ入る。
腰には《青の輝き》。
いつものように姿勢は真っ直ぐだが、どこか落ち着かない様子にも見えた。
指先がわずかに震え、息を整えるように軽く胸を膨らませる。
静はその姿を見るなり、小さく口元を緩める。
師としての目が、一瞬だけ姉のそれへ溶けた。
「元気そうだね」
「うん」
反射的に言いかけた銀華は、はっとして姿勢を正した。
ここは王城の執務室。
女王の前だ。
「……瑠璃様」
瑠璃がくすりと笑う。
その笑みは、女王の仮面の下に隠された、ほんの少しの甘さを覗かせた。
「今ので十分」
銀華は少しだけ頬を染める。
瑠璃も微かに口元を緩めたが、それは一瞬だけだった。
すぐに女王としての静かな表情へ戻る。
表面は厳しく、深層は甘い。
その落差を、銀華はすでに何度も知っていた。
「銀華」
「はい」
「一つ、任務を命じます」
空気が変わる。
銀華も自然と背筋を伸ばした。
静は窓辺から一歩下がって、弟子を見守るような位置へ移る。
瑠璃は机の上から一通の封書を取り上げる。
白銀の封蝋には、雪の結晶を模した紋章が刻まれていた。
封を切らずとも、その重みが国と国の関係を象徴しているのが分かる。
「白銀王国への外交使節をお願いしたい」
銀華は封書へ視線を落とした。
予想していたわけではない。
だが、どこかで予感していた気がした。
「白銀……ですか」
「ええ」
瑠璃はゆっくり頷く。
指先で封書の縁を撫で、言葉を選ぶように間を置く。
机上には、蒼緑王国を中心に四方の大陸を記した地図が広げられていた。
瑠璃は封書を置くと、その上へ指を滑らせる。
蒼緑から海を越え、西方へ。
指先が白銀大陸の輪郭で止まった。
「先日、死神傭兵団から一つの情報が入りました」
銀華の表情が引き締まる。
「中央帝国に、今すぐこちらへ兵を向けるような大きな動きはありません。けれど、白銀と紅蓮が静かすぎる。兵も、交易も、表面上は平穏です」
「兵の動きがないのなら、少なくとも今すぐ軍事的な脅威になる可能性は低いと思います。ただ……それだけでは安心できない、ということですか?」
銀華は素直にそう尋ねた。
瑠璃は否定しなかった。
「ええ。本当に何もないのであれば、それが一番です」
その声には、願いと警戒が同時にあった。
「ですが、国と国の間では、動かないことにも理由があります。何かを待っているのかもしれない。あるいは、私たちがまだ知らないところで、すでに何かが動いているのかもしれない」
銀華は地図を見る。
白銀。
紅蓮。
中央帝国。
そして、自分たちの蒼緑王国。
これまで彼女が歩いてきた戦場は、ほとんどが蒼緑の地だった。
焼けた村も、傷ついた兵も、泣いていた子どもも、すべてこの国の中にあった。
世界は広いと知っていた。
地図の上では何度も見ている。
それでも、自分がその外へ出ることを現実として考えたことは、ほとんどなかった。
「それで、まず白銀へ向かうのですか?」
「ええ。密偵を送る方法もあります。でも、それだけでは見えないものがある」
瑠璃は白銀大陸の上から指を離した。
「こちらが隠れて相手を見るのではなく、まず正面から扉を叩く。私はその方を選びたい」
瑠璃は地図の端に置かれていた別の書状を銀華の前へ滑らせた。
交易商から届いた報告だった。
白銀の港では商船が普段通り出入りし、街道も閉ざされていない。
表面だけを見れば、警戒する理由などない。
「何も起きていないことを確かめるのも、外交の役目です」
「何かを見つけるためだけではない……?」
「ええ。疑えば、何でも怪しく見えます」
瑠璃は淡々と言った。
「私たちが白銀を疑っているという態度で入れば、相手もこちらを疑うでしょう。それでは、まだ存在していない敵意まで作ってしまう」
銀華は小さく頷いた。
戦場なら、敵は敵として目の前にいる。
けれど外交では、最初から敵だと決めつけた瞬間に、本当に敵にしてしまうことがある。
それは剣よりも怖いことなのかもしれない。
「だから、確かめてきてください。危険があるのか。それとも、私たちが遠くから勝手に恐れているだけなのか」
「……はい」
「もし何もなければ、それを持ち帰ることも立派な成果です」
銀華はもう一度、地図へ目を落とした。
白銀大陸は紙の上では小さい。
けれど、その中には数え切れないほどの人が暮らしている。
国という一つの名前だけで、そのすべてを分かったつもりになってはいけない。
それは、銀華が戦場で何度も知ったことでもあった。
静は何も言わなかった。
ただ、地図を見つめていた視線が、一度だけ銀華へ移る。
その目には反対も賛成も浮かんでいない。
けれど、銀華には分かった。
静が何も感じていないはずがない。
自分が王都を離れていた一年。
再会した時、静はいつもと同じ顔で「おかえり」と言った。
それだけだった。
けれど、その短い言葉がどれほど長い時間を抱えていたのか、銀華は後になって気付いた。
そして今度は、国の外へ行く。
「目的は四つ」
一つ指を立てる。
「正式な外交窓口を築くこと。これまで断片的だった連絡を、確実なものにする」
二本目。
「白銀国内の空気を、自分の目で見ること。報告だけでは見えない、人々の表情や日常を」
三本目。
「中央帝国に対する立場を確認すること。彼らがどこを向き、何を警戒しているのか」
そして四本目。
「今後、互いに協力できる可能性があるか探ること。武力ではなく、言葉と信頼で」
言葉は簡潔だった。
だが、その一つ一つに国の未来が乗っている。
銀華も真剣な眼差しで聞いていた。
喉の奥が少し乾く。
外交。
自分がやるのか。
剣を持って敵の前へ立てと言われる方が、まだ分かりやすかった。
斬るべき相手がいて、守るべき者がいる。
正しいかどうか迷うことはあっても、少なくとも身体は動く。
だが、今度は言葉だ。
自分の一言が国と国との距離を近づけることもあれば、逆に遠ざけることもある。
銀華は無意識に《青の輝き》の柄へ触れかけ、途中で手を止めた。
今回、頼るべきものはこれではない。
銀華は柄から手を離すと、改めて地図へ目を落とした。
戦場へ出る前と同じように、分からないことを一つずつ整理する。
「白銀側には、すでに使節を送ることは伝わっているのですか?」
「正式な返答はまだです。ただ、これまでの交易窓口を通じて打診しています。受け入れの意思が確認できてから出発してもらいます」
銀華は頷いた。
突然国境を越えて押しかけるわけではない。
それだけでも、今回の任務が戦場とはまるで違うことが分かる。
「中央帝国との関係については、どこまで尋ねて構いませんか?」
「最初から答えを迫る必要はありません。相手が話したくないことへ無理に踏み込まないで。ただし、こちらが何を警戒しているのかは隠さなくていい」
「分かりました。聞くことと、答えを強いることは別にします」
銀華は頷いた。
それでも、一つだけ疑問が残っていた。
「……どうして、私なんですか?」
口にしてから、銀華はわずかに目を伏せた。
任務を拒みたいわけではない。
怖じ気づいたと思われたいわけでもない。
ただ、聞かずにはいられなかった。
「外交なら、もっと適任の方がいると思います。言葉に長けた方も、他国との交渉を経験した方も」
瑠璃はすぐには答えなかった。
銀華を選ぶ理由なら、すでにいくつも考えている。
女王として説明することもできる。
だが、その言葉の奥に、自分自身の願いが混じっていることも瑠璃は知っていた。
銀華に、蒼緑の外を見てほしい。
戦場ではない場所で、知らない人と出会ってほしい。
この国を守ることだけを、自分の生き方のすべてにしないでほしい。
そう願っている。
同時に、行かせたくないとも思っている。
海を越えれば、何かが起きてもすぐには手が届かない。
女王の命令も、王国の兵も、銀華を守る盾にはならない。
その矛盾を瑠璃は顔へ出さなかった。
「適任者なら、ほかにもいます」
瑠璃は静かに言った。
銀華が少し驚いて顔を上げる。
「では……」
「でも、私はあなたに行ってほしい」
銀華は瑠璃の目を見つめた。
「私に……何を見てきてほしいんですか?」
瑠璃の瞳がほんの僅かに揺れた。
国の情勢。
軍の動き。
王家の意向。
交易の可能性。
女王として答えるなら、いくらでもある。
けれど、それだけではなかった。
「知らないものを」
「知らないもの?」
「ええ」
瑠璃は短く息を吐いた。
「この国の外には、あなたがまだ知らない考え方も、生き方もあるでしょう。正しいか間違っているかを決める前に、まず見てきてほしい」
銀華は黙って聞いている。
「あなたは長い間、この国で誰かを守ることばかり考えてきた。それを否定するつもりはありません。でも、それだけがあなたの世界になってほしくない」
瑠璃はそこで言葉を切った。
言いすぎたかもしれない。
これは外交任務の説明ではない。
女王が臣下へ与える言葉としては、あまりにも個人的だった。
それでも取り消さなかった。
静も何も言わない。
ただ、瑠璃の言葉を受け止めるように、穏やかな表情で二人を見守っていた。
銀華は胸の奥に、小さな戸惑いと、それ以上の温かさを感じた。
任務を任されたのだと思っていた。
けれどもしかすると、瑠璃は自分に旅をさせようとしているのかもしれない。
国のためだけではなく、自分自身のためにも。
女王としての判断だった。
そして、それだけではなかった。
「これは交渉の勝ち負けを競う任務ではありません」
瑠璃は静かに続ける。
女王としての声は低く、はっきりとしていた。
優しさは表に出さない。
「あなたには、銀華らしく人と向き合ってきてほしい」
その言葉だけが、少しだけ柔らかかった。
深層の甘さが、わずかに滲む。
「……私らしく」
「ええ」
瑠璃は頷く。
静が静かに見つめる中、女王は続けた。
「あなたは、相手を肩書きだけで見ないでしょう」
銀華は瞬きをした。
「兵でも、民でも、敵だった者でも。目の前にいる一人として見る。それは外交の技術ではありません。教えられて身につくものでもない」
銀華の脳裏に、いくつもの顔が浮かんだ。
戦場で傷ついた兵。
焼けた村にいた少年。
名も知らない人々。
敵味方を問わず、助けられるなら手を伸ばしてきた。
それを特別なことだと思ったことはない。
「私は……ただ、放っておけなかっただけです」
「それでいいの」
瑠璃の返事は早かった。
「国を背負うからといって、急に別の人間になる必要はありません」
銀華は瑠璃を見る。
「上手に嘘をつけなくてもいい。相手の言葉の裏を、すべて読めなくてもいい。ただ、分からないことを分かったふりはしないで。約束できないことを、できるとは言わないで」
「……はい」
「そして、あなた自身の目で見てきて」
その言葉に、静の瞳がほんの僅かに揺れた。
銀華を遠くへ出すことに、静が何も思っていないわけではない。
剣を教えた。
転べば立たせた。
傷を負えば叱った。
幼い頃から、何度も背中を見送ってきた。
けれど今回は違う。
今度は、海の向こうだ。
危険があれば自分が駆けつける――そんな考えさえ届かない場所へ、銀華は行こうとしている。
止めようと思えば、止める理由はいくらでも作れた。
外交経験がない。
国外の情勢に詳しくない。
王国にとって重要な戦力を遠方へ出すべきではない。
どれも間違いではない。
それでも静は口にしなかった。
銀華が自分の知らない景色を見ることを、どこかで望んでいる自分もいたからだ。
守りたい。
けれど、守るために閉じ込めたくはない。
その二つが同時に胸にあることを、静は誰より理解していた。
「人を見ること。話を聞くこと。必要以上に飾らないこと。それがあなたの強さです。剣の腕や策略ではない。あなたが持つ、人と人の間を繋ぐ力です」
銀華は少しだけ目を伏せた。
強さ。
そう言われても、自分では未だによく分からない。
剣なら静には遠く及ばない。
国を動かすような駆け引きなら、瑠璃には及ばない。
それでも。
この二人は、自分へ役目を託してくれる。
信頼してくれる。
その重さが、胸の奥で熱く広がる。
「……分かりました」
銀華は深く一礼した。
背筋を伸ばし、声をはっきりとさせる。
「必ず、務めを果たします」
その言葉に、瑠璃の胸の奥が僅かに痛んだ。
銀華はいつもそうだ。
託されれば応えようとする。
自分が傷つく可能性より、期待を裏切ることを恐れる。
だからこそ、瑠璃は一つだけ釘を刺した。
「銀華」
「はい」
「務めを果たすことと、無事に帰ること。どちらか一つを選ぶ任務ではありません」
銀華が目を見開く。
「成果のために命を置いてくることは許しません。危険だと判断したら退いてください。交渉が失敗しても、関係を築けなくても、それであなたが帰ってこない理由にはならない」
女王としてなら、もっと別の言い方があった。
使節の安全確保。
国家資産としての人材保全。
任務継続性。
けれど、瑠璃はそんな言葉を選ばなかった。
「……帰ってきて」
ほんの一瞬だけ、女王ではない声が混じった。
銀華はそれに気付いた。
「はい」
今度の返事は、先ほどより少しだけ小さかった。
静は何も言わない。
ただ、その一言に自分の言いたかったことまで含まれているような気がして、僅かに目を伏せた。
「期待しています」
短い返事。
それだけで十分だった。
女王の言葉は、命令であり、信頼の証でもあった。
瑠璃は封書を差し出す。
銀華は両手で受け取った。
ずしり、と重く感じる。
紙の重さではない。
国を背負う重さだ。
白銀の封蝋が、掌に冷たく触れる。
沈黙が流れる。
その静けさの中で、銀華は封書を見つめたまま動かない。
何か考えている。
指先が封書の縁をなぞり、言葉を探すように視線を揺らす。
静はその横顔を見て、ふっと笑った。
師としてではなく、姉として。
「……何か気になることでも?」
「え?」
銀華が顔を上げる。
静の目が、穏やかに自分を捉えている。
「いや、その……」
珍しく言葉が続かない。
瑠璃も急かさず待っていた。
女王の余裕が、部屋の空気を少しだけ緩める。
やがて銀華は小さく息を吸う。
覚悟を決めたように、口を開く。
「今回の任務って……」
「はい」
「同行者って、決まってますか?」
瑠璃は静へ一瞬だけ視線を向けた。
静は何も言わず、静かに頷く。
二人の間に流れる、親友としての無言の了解。
「基本的には、あなたへ一任します」
「そう……なんですね」
銀華の表情が少しだけ明るくなる。
その変化を見逃す瑠璃ではない。
女王の目は、すべてを見通していた。
瑠璃は気付いていた。
銀華が気にしているのは、任務そのものよりも同行者のことだ。
黒髪の、無口なあの人。
そして、ようやく再び同じ家で暮らし始めた刹那のこと。
銀華が王都を離れていた一年。
刹那とは、ほとんどすれ違うように離れていた。
ようやく帰ってきた。
ようやく同じ家で食卓を囲めるようになった。
朝になれば顔を合わせ、帰れば「おかえりなさい」と言われる。
そんな当たり前の時間が戻ってきたばかりだった。
それなのに、また自分は旅に出る。
しかも今度は、国内の戦場を巡る旅ではない。
海を越えた他国だ。
どれほどの期間になるのかも、まだ分からない。
――また、刹那を残していくの?
胸の内で、自分自身の声がした。
任務だから仕方がない。
そう言ってしまえば簡単だった。
けれど、それで刹那がどう感じるかは分からない。
少なくとも、自分が寂しいことだけは分かっていた。
銀華は封書を持つ指へ、少しだけ力を込めた。
朧には、どう説明しよう。
刹那には、どう伝えよう。
二人の顔が交互に浮かぶ。
任務へ行く覚悟は、もう決めたはずだった。
なのに、誰かと暮らす場所を持ってしまっただけで、出発という言葉が以前よりずっと重くなっている。
一年前なら、剣と荷物さえあれば歩き出せた。
今は違う。
待っている人がいる。
一緒にいたいと思う人がいる。
それは弱さなのだろうか。
銀華には、まだ分からなかった。
「人選にも理由が必要です」
瑠璃はあえて事務的な口調で告げる。
表面は厳しく、職務として。
「同行者を選ぶなら、その者が任務に必要であると説明できること。感情ではなく、必要性を」
言いながら、瑠璃は銀華の表情を見ていた。
黒髪の剣士を連れていくつもりなのだろう。
そう考えた瞬間、胸のどこかが僅かに緩んだ。
朧がいる。
あの剣士なら、簡単には銀華を死なせない。
そして刹那もいる。
同行するかどうかは銀華が決めることだが、あの少女が何も言わず銀華を一人で送り出す姿も、瑠璃には想像しにくかった。
そこまで考えて、瑠璃は自分の心に苦笑したくなった。
信じて送り出すと決めても、誰かが銀華の隣にいることへ安心してしまう。
信じることと心配することは、きっと反対ではない。
静も同じだった。
朧の腕は知っている。
刹那が銀華をどれほど大切にしているかも知っている。
二人が傍にいるなら。
そう思ってしまう自分を、静は否定しなかった。
銀華を信じている。
それでも、できるなら一人にはしたくない。
それが矛盾だとしても、今はそれでよかった。
「はい」
「以上です」
「承知しました」
銀華はもう一度頭を下げる。
封書を抱えたまま、扉へ向かう。
あと数歩で部屋を出る、その時。
「銀華」
瑠璃が呼び止めた。
声は低く、しかし確かに届く。
「はい?」
「あなたが選んだ者を、私は信じます」
銀華はすぐには答えられなかった。
その言葉は、朧を選ぶことへの許可だけではないように聞こえた。
誰と歩くのか。
誰を頼るのか。
自分一人で決めていい。
一年間、銀華は自分の足で歩いてきた。
けれど、その多くは一人で背負うための歩みだった。
今度は違うのかもしれない。
誰かと一緒に行くことを、自分から望んでもいい。
その考えに胸が温かくなる一方で、刹那の顔がまた浮かんだ。
置いていくのか。
連れていくのか。
そもそも、自分が決めていいことなのか。
答えはまだ出なかった。
だから銀華は、今ここで何も決めなかった。
まず話そう。
朧にも。
刹那にも。
自分が何を命じられ、何を怖いと思い、それでも何を見てみたいと思っているのか。
うまく言える自信はない。
それでも、黙って決めてしまうことだけはしたくなかった。
それだけだった。
命令でもない。
助言でもない。
女王としての許可でもあり、信頼でもあった。
深層の甘さが、その一言に凝縮されている。
銀華は少し驚いたように目を見開き、やがて静かに微笑む。
頰がわずかに熱を帯びる。
「……ありがとうございます」
扉が閉まる。
廊下へ出た銀華は、胸に抱えた封書へ視線を落とした。
白銀王国。
初めて訪れる国。
外交という大役。
考えることは山ほどある。
国境の状況、言葉の違い、礼儀の作法。
それなのに。
頭へ真っ先に浮かんだのは、一人の黒髪の女性だった。
朧に頼みたい。
その気持ちは確かだった。
けれど、頼めば来てくれるとは限らない。
朧には朧の目的がある。
自分と出会う前から歩いてきた道があり、静に会うため王都まで来た。
友になったからといって、その道を当然のように自分の任務へ重ねていいわけではない。
「一緒に来て」と言えばいい。
たったそれだけの言葉なのに、銀華には妙に難しく感じられた。
断られることが怖いのではない。
朧の意思を、自分の期待で縛ってしまうことの方が怖かった。
そして、もう一人。
帰ったら、あの子にも話さなければならない。
また旅に出ると。
一年ぶりに同じ家へ戻ってきて、まだそれほど時間は経っていない。
それなのに、また離れるかもしれない。
銀華の足取りが、少しだけ遅くなる。
行きたいわけではない。
行きたくないわけでもない。
怖い。
けれど、見てみたい。
瑠璃が自分に託したものが何なのか、確かめたい。
白銀の人々が何を見て、何を思い、どんな暮らしをしているのか知りたい。
そして、できるなら争わずに手を結びたい。
いくつもの気持ちが、どれも嘘ではなかった。
銀華は、それを一つに決めようとするのをやめた。
迷ったままでいい。
迷ったまま、話せばいい。
無口で、不器用で。
けれど、一緒に歩いていると不思議と安心できる人。
剣を携え、黙って隣を歩いてくれる人。
銀華は小さく笑う。
足取りが、少しだけ軽くなる。
「……まずは聞いてみよう」
夕暮れへ染まり始めた城下町を抜け、見慣れた家へ向かって歩き出した。
市場の賑わいが遠くで聞こえ、パンの香りが風に乗る。
人々が銀華の姿に気付き、軽く会釈を返す。
その一つ一つが、胸の奥を温かくした。
玄関の戸に手を掛ける。
深く息を吸い、小さく心を整える。
任務の重さを、一瞬だけ胸にしまって。
そして、部屋の奥にいる友へ向かって声を掛けた。
「朧、お願いがあるの」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、銀華・朧・刹那、三人の旅立ちを描きました。
白銀王国へ向かうという大きな役目を背負いながらも、
旅支度を刹那に任せきりだったり、朧と他愛のない話をしたり。
そんな銀華の日常の姿も、少し多めに描いています。
普段はどこか抜けている銀華ですが、
道や天候、旅の備えを見る時には、これまで戦場を歩いてきた将軍としての顔ものぞきます。
王都の人々から掛けられた「帰ってこい」という言葉と、
少女から贈られた小さな白い花。
一年前、一人で歩き出した旅とは違い、
今回は同じ場所を目指す二人が隣にいます。
銀華、朧、刹那。
三人で進む旅が、ここから始まります。
次回も引き続き、白銀王国へ向かう道中を描いていきます。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございます。
引き続き『ここは南のオーフェリア ―英雄たちの詩―』を楽しんでいただけたら嬉しいです。
Xでは『南のオーフェリア』のイラストや登場人物紹介、制作中の作品なども投稿しています。
小説とあわせて楽しんでいただけたら嬉しいです✨
X:はしたけ|幻想戦記✨南のオーフェリア✨
@takeyan4562
#南のオーフェリア




