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笑顔を向けられたことはある。
メリーシアをからかう表情は楽しそうだったし、気持ちを伝えてくれたときは、胸が落ち着かなくなる笑みだった。
だがそのどれとも違う。あの美しい人に向ける笑顔は見たことがなくて、心がざわついてしまう。
待ってくれるとは言っていた。
だけどいつまで?
気持ちの定まらないメリーシアに、心変わりしていてもおかしくはない。
背すじが冷たくなっていく。
「あの、嬢ちゃん……買うの、買わないの……?」
聞こえてきた声に、はっとした。
身を隠していた屋台の店の親父が、不審そうな目で見てきていた。メリーシアは慌てて近場にあったものを掴み、
「これください!」
と、包んでもらう。
お金を払い、そっと大通りの様子を伺うと、リックの姿はもうなくなっていた。
あの人と店に入ってしまったのだろうか。
メリーシアはそろそろと店に近づいていく。窓にはレースのカーテンがかかっていて、中の様子がよく見えない。
斜めになったときだった。
「なにをしてるんだ?」
リックが怪訝な表情で見下ろしてきていた。
咳払いをして、身を起こす。
「なんでもありません。リック、どこに行っていたんですか?」
「どこって、主人がここに行こうと言ったんだろう?」
よく見ると、そこはパティスリーだった。
そういえばそうだった。メリーシアはもう一度咳払いすると、店へと足を踏み入れた。
外観と同じく、おしゃれな店だった。
天井からは洒落たランプがいくつも吊り下がり、壁はシックなレンガ模様。椅子もテーブルも、洗練されたものが並べられている。
そこに座る人々は、夫婦や恋人たちのように見えた。
「奥の席だ」
リックは先に入り、席を取っていてくれたようだ。観葉植物がそばに置かれた席で、人目を避けることができる。
気遣ってくれたのかなと思いながら、メリーシアは複雑な気持ちで椅子に座った。
気もそぞろに紅茶とサンドイッチを注文し、もそもそと口にする。
その間、リックはいろいろなことを話していたが、右耳から左耳へとただ通り過ぎていった。
「主人」
コーヒーカップを置いて呼ばれた声に、はっとした。
視線を上げると、リックが真剣な表情で見てきていた。
「さっき、なにかあったのか? やっぱりついていけばよかった……」
「ち、違うんです……!」
リックは本気で心配していた。
突然いなくなって、戻ってきたメリーシアの様子がおかしいのだ。心配して当然だ。
「買い忘れたものが買えなかったのか? 隣町まで行く時間はありそうだが……」
「それも違って……」
メリーシアはどんどん小さくなっていく。さっき見たものの話をして、困らせてしまうんじゃないだろうか。
こんなに心配そうにしているのに、ごまかすなんてできない。
「……さっき、お店の前で話していた人は、どうしたんですか?」
観念して口を開いたメリーシアに、リックはきょとんとした。記憶を辿るように、天井を見上げる。
そして思い至ったようだ。
「ここの店員のことか?」
「え、店員さん……?」
目をしばたたかせると、リックは厨房の方を指差した。
店の奥、厨房のところで、くるくる動き回る人影がある。そこでケーキを作っているのは、さっきリックと話していた人だった。
「ここにミルフィーユはあるか、聞いてたんだ。材料は揃ったが、せっかくなら本物を食べてみたくて」
まさかの答えに、メリーシアはなにも言うことができない。
てっきり、リックを気に入って声をかけてきた人なのかと思った。
「連れがいると言ったら、落ち着けるこの席を用意してくれたんだ」
やはり気を遣ってもらっていたのだ。
勘違いしていた自分が恥ずかしくて、メリーシアは顔を上げることができない。
ちょうどそこに、あの美人の店員がやってきた。
「お待たせしました。こちら、ミルフィーユです」
アベラードに買ってきてもらったものとはまた違う、ランプの光できらきらと輝くミルフィーユに、メリーシアの心も明るくなっていく。
店員にくすっと笑われて、我に返って背すじを伸ばした。
「彼女さんのためにあれこれしてくれるなんて、素敵な恋人ですね」
「あっ、え……!?」
「どうぞごゆっくり~」
サンドイッチの皿を下げて、店員は去っていく。恋人ではないと言うことができなかった。
リックが楽しそうに見てきている気がする。メリーシアは、口をもごもごさせた。
「主人は、俺が女と話してるのが嫌だったのか?」
「違います。うちの『魔犬』がほいほい主人を変えるような駄犬だと思いたくなかっただけです」
「そうかそうか、『魔犬』を独占したいのか」
「だから違います!」
思わず出てしまった大声に、慌てて口を押さえる。奥まった席とはいえ、これでは人目を集めてしまうのではないか。
慌てたが、どうやら気にした人はいなかったようだ。みんな、パートナーとの時間に夢中だ。
自分たちも、周囲のような関係に見えているのだろうか。
むず痒い思いになりながら、メリーシアは座り直した。
「ともかく! わたしの勘違いだということは、わかりました。でも、リックもよくないと思いますよ? あんな笑顔を向けられたら、あの店員さんもきっと勘違いしちゃいます」
反撃したかったのだが、この言い方だと、リックはメリーシアもときめくような笑顔をしていたと思われてしまうのではないか?
言ってから気づいたメリーシアだったが、軽口は返ってこない。
怪訝に思いながら、リックのことを見てみると――。
「俺、どんな顔をしてた?」
片手で口元を隠し、顔を背けている。その頬は、赤くなってしまっていた。
珍しいものを見たと思いながら、つられてメリーシアの顔も赤くなっていく。
人にメリーシアのことを話すとき、リックは愛しさを隠せずにいたのだ。
「とっ、とにかく! 以後気をつけるように!」
「了解した……」
互いにぎくしゃくしながら、ミルフィーユにフォークを突き刺す。
初めて食べるその食感に、メリーシアは目を見開いた。
「おいしいです!」
あっという間に、メリーシアの意識がミルフィーユへと移り変わった。それほど美味だったのだ。
くるくると変わる表情に、リックもさっきまでの動揺が消えていく。
「やっぱり、味を知ってた方がいいな。これで自分でも作れそうだ」
もう一口食べながら、そういえばそういう話だった、とメリーシアは思い出していた。
リックはどんなものを作ってくれるのだろうか。今から楽しみで仕方がない。
*
「そういえば、さっきはなにを買いに行ったんだ?」
ミルフィーユを食べ終えて、一息ついたころ。リックが問いかけた。
買うべきものは、すべて買っていたはず。リックの疑問も当然だ。
咄嗟の言い訳ではあったが、買うには買った。メリーシアもよく見ずに選んだから、なんだったのだろうと思いながら、袋から取り出した。
テーブルの上に転がったのは――。
「……主人は、そんなに俺を縛るのがお好きか?」
犬を繋ぐためのリードだった。
あの店は、愛玩動物用品店だったのだ。
「ちがっ……わたしはそんなつもりじゃ……!」
「こんなものがなくとも、俺はどこにも行ったりしないというのに。やれやれ、心配性な主人だ」
「だから誤解ですー!!」
動揺するメリーシアに、楽しそうにからかうリック。
二人のいつもの調子が戻ってきていた。




