第97話 帰って来た日常
これはエリック王子が来る少し前の話に遡る。
村に着いたガイウスとヴェルダは早速家に戻る。
最初に向かったのは、家の裏手にある俺専用の薬草畑だ。
ここは貴重な魔導薬草の苗や、品種改良中のデリケートな植物が植えられている。
一ヶ月近くも主が不在にするのは、農家として断腸の思いだったのだが……。
「……よかった。みんな、元気そうですね」
視界に飛び込んできたのは、瑞々しく葉を広げる薬草たちの姿だった。
魔力を帯びた薬草は鮮やかな青を保ち、鎮痛効果のある薬草も、朝露を弾いてキラキラと輝いている。
土は適度に湿り、雑草一つ生えていない。
完璧な管理状態だった。
「あ、ガイウスさん! やっぱりここにいた!」
背後から明るい声がした。
振り返ると、エプロン姿のリナが、水汲み用のバケツを手に走ってくるところだった。
「ガイウスさん。……畑、大丈夫だった?
私、言われた通りに毎朝夕、土の様子を見ていたんだけど……」
「リナさん。ありがとうございます。完璧ですよ。私がいる時よりも、心なしか薬草たちが生き生きしている気がします」
「もう、お世辞はやめてよ! でも、よかったぁ……。もし枯らしちゃったらどうしようって、エリアさんと毎日相談してたのよ」
リナは、はにかみながらバケツを置いた。
彼女は俺の不在中、お願いした通り宿屋の仕事の合間に欠かさずここへ足を運んでくれていたらしい。
魔力を吸う植物である薬草は、ただ水をやればいいというものではない。
その日の気温や魔力の滞りを敏感に察知する必要があるのだが、リナの丁寧な仕事ぶりが、薬草たちの表情を見ればよく分かった。
「この薬草もずいぶん太りましたね。リナさんが優しく声をかけてくれたからでしょうか」
「えへへ、ちょっとだけ。……でも、ガイウスさんが帰ってきて、この子たちも嬉しそうに見えます。やっぱり、この畑の主はガイウスさんじゃないと」
俺は改めて、この村の人々の温かさに安堵した。
王都では、誰もが「結果」や「効率」ばかりを求めていたが、ここでは命そのものを慈しむ時間が流れていると再確認した。
リナに礼を言い、俺は次に向かった。
村の北側、かつては魔物が出るだけの荒れ地だった場所――今や魔族の皇太子カインたちが心血を注いでいる『北の開拓地』だ。
「おいガイウス、歩くのが遅いぞ。わらわはもう腹が減ってきた」
「ヴェルダ、今朝はまだ何もしていませんよ。……おや、あそこですね」
視界が開けた瞬間、俺は思わず足を止めた。
一ヶ月前、俺が発つ直前にはまだ「緑の絨毯」のようだった小麦のフィールドが、驚くほどの成長を遂げていた。
去年の秋に植えた冬小麦だ。
半年以上の時間をかけ、雪の下で力を蓄えてきた芽が、
今や俺の腰の高さまで届こうとしている。
まだ穂が完全に黄金色に変わる前の、深い緑と淡い黄色が混ざり合った「青麦」の状態だが、その密度、穂の太さ、茎の力強さは、遠目から見ても異常なほどに優秀だった。
風が吹くたびに、ザァーッという波のような音が鳴る。
「……見事なものですね。まるで、緑の海です」
「……当たり前だ。誰が管理していたと思っている」
不敵な声と共に、前方から土塗れの男が現れた。
魔族の皇太子、カインだ。その後ろには、同じく泥だらけのベルグとドリスが、重そうな肥料袋を担いで続いている。
「カイン殿。……その様子だと、一睡もせずに土をいじっていたのではないですか?」
「ふん。貴様が王都で贅沢三昧をしている間、俺たちはこの小麦どもと対話していたのだ。……見てみろ、この穂の詰まり具合を。貴様の理論通り、魔力回路を地脈から引き込み、一定の間隔で間引いた結果だ」
カインが一本の麦を手に取った。
まだ若い粒がぎっしりと並んでいる。
カインたちは俺の残したメモを頼りに、時には魔族特有の強力な魔力操作を使って、天候による冷害や病害を未然に防ぎ続けてきたのだ。
「ベルグとドリスも、よくやってくれましたね。土の排水状況も完璧だ」
「……ガイウス殿。カイン様は、夜中に雨が降るたびに『麦が風邪を引く』と言って、魔力障壁を張って回っていたのですぞ」
「ベルグ! 余計なことを言うな!」
ドギマギするカインを見て、俺は思わず吹き出してしまった。
かつては大陸を震撼させようとした魔族の皇太子が、今や麦の健康を案じて夜なべをしている。
この光景を王都の連中が見たら、腰を抜かすどころでは済まないだろう。
「順調ですね。この調子なら、夏には最高の収穫ができるはずです」
「……ああ。この麦で、グラントの店を超えるエールを仕込ませるのが、今の俺の目標だ」
カインは、汚れた手で誇らしげに広大な畑を指し示した。
一ヶ月の不在は、俺にとって大きな不安だった。
だが、俺がいなくても、この村では命が育まれていた。
リナが薬草を守り、カインたちが麦を育て、エリアやアルトが村の魔力バランスを整える。
俺がこの村に蒔いた「農家としての誇り」という種は、知らない間にしっかりと根を張り、大きな実りを迎えようとしていた。
「ガイウス。……王都の方はどうだった。話に聞いたあのお坊ちゃん王子は、いつここに来るんだ?」
「……準備が整い次第、とのことです。ですが、カイン殿。あなたたちのこの働きを見たら、彼は逃げ出してしまうかもしれませんね。あまりのレベルの高さに」
「ふん、逃げるなら逃げればいい。だが、もし本気でやるというのなら、俺の隣で、一日中『雑草取り』から叩き込んでやる」
俺は、青々とした麦の穂に優しく触れた。
指先から伝わってくるのは、大地が吸い上げた力強い生命の鼓動。
王都での政治劇や、騎士団の剣戟も、この生命の営みに比べれば、ほんの些細なことに思えてくる。
「さあ、ヴェルダ。家に帰って、リナさんの作ってくれた朝食を食べましょう。……そして、今日からまた、本格的に働き始めますよ」
「やっとその気になったか。わらわは、焼きたてのパンにバターをたっぷり塗ったやつが食べたいぞ!」
エーデル村の朝は、まだ始まったばかりだ。
これからやってくる王子、そして夏の収穫。
俺の、そして俺たちの新しいスローライフは、今日も――麦の波の音を聞きながら――最高に順調だった。
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