第96話 王子様が村にやってくる(もちろん農業)
王都での引き継ぎを終え、ガイウスたちが去ってから数日。
王宮の一角にある第三王子エリックの私室は、まるで嵐が過ぎ去ったかのような惨状を呈していた。
「……ファレル。私は、一体何を持って行けばいいのだ?」
エリックは、床に広げられた山のような荷物を前に、頭を抱えていた。
王位継承権の争いから一時的に身を引き、辺境の開拓地へ「農業修行」に行く。
そう決意したまではよかったが、いざ準備を始めると、自分の「常識」が一般の、ましてや辺境の開拓者のそれとはあまりにかけ離れていることに気づかされたのだ。
「殿下。まずは、式典用の服は必要ないかと思われますが」
側近のファレルが、困惑気味にシルクの夜着を畳みながら言った。
「馬鹿を言うな。向こうに着いたら、村長や、あるいは魔族の代表に挨拶をしなければならないだろう。王族としての威厳を示すためには、相応の服装が必要だ」
エリックは、金糸で刺繍された豪華な礼服をバックパック(といっても、王宮御用達の革製品だが)に詰め込もうと、無理やり押し込んでいる。
「……ガイウス殿は泥にまみれてクワ振るうフランクな方だと聞いておりますが。それに、魔族の皇太子殿下も、作業着姿で開拓をしておられるとか」
ガイウスから聞いた話をファレルが伝えると、エリックの動きが止まった。
「作業着姿の、皇太子……? 嘘だろう」
エリックの想像を超えた世界が、そこにはあった。
王都での権力闘争に明け暮れていた彼にとって、泥にまみれて土を耕す王子の姿など、想像することもできなかったのだ。
「では、これはどうだ? 高級魔導具『全自動温度調節機能付きマント』。これなら、辺境の厳しい寒さも凌げるだろう」
「……殿下。エーデル村は、魔法の効率化が進んでいるとはいえ、基本は自然の厳しさと向き合う場所です。そのような魔導具は、却って魔力を無駄に消費するだけでは」
「……では、王宮料理のレシピ本は?」
「……レシピ本よりも、地元の食材をどう調理するかを学ぶ方が、建設的かと思われます」
結局、エリックが「必要」だと思ったものの九割は、ファレルによって「不要」と断じられた。
「ガイウス殿は、『動きやすい服と頑丈な靴を用意することをお勧めします』とおっしゃっていました。殿下、王宮の靴は、村の泥には合いません」
ファレルの最後の一言が、エリックのプライドを粉砕した。
王族としての生活しか知らない彼は、一般の旅行者がどのような荷物を持っているのか、想像することすらできなかったのだ。
結局、王宮の侍従たちに泣きつき、彼らも困惑しながら、一般の旅行者が使うような、頑丈な布製の服や、歩きやすい革靴を用意してもらった。
それでも、どこか王族らしさが抜けない、上質な荷物になってしまったが。
王都を去る際、父王からは「死なない程度に、しっかり絞られてこい」という激励(と皮肉)を受けた。
「もし、途中で逃げ帰るようなことがあれば、王族としての籍を削る。その覚悟で行くがいい」
父王の言葉は、エリックの決意を強める。彼は、自分が王族として生き残るために、そしてこの国を背負う器になるために、あの厳しい北の地へ行かなければならないのだ。
王都を出発してから数日。豪華な馬車に揺られ、エリックは北へと向かった。
窓の外の景色は、王都の整然とした街並みから、次第に豊かな緑、そして厳しい自然が支配する荒野へと変わっていく。
そして、ようやく見 緩やかな丘と豊かな緑が視界に広がった。
エーデル村だ。
馬車が村の入り口に到着すると、一台の馬車を待ち構えていた人影が見えた。
真っ先に駆け寄ってきたのは、宿屋の娘のリナだった。
「あ、誰か来た!こんにちは!」
リナは弾けるような笑顔で馬車に駆け寄る。
だが、馬車から降りてきたのは、簡素な(といっても上質な)旅装に身を包んだ、見覚えのない青年だった。
「……おや、来客ですか?」
リナの背後から、村長のゴードンがゆっくりと歩いてきた。
エリックは、馬車から降りると、戸惑いながらも周囲を見渡した。
王都の喧騒が嘘のように遠い。
土の匂い、虫の声、そして何よりも、自然の厳しさと人々の温かみが、この小さな村には溢れていた。
「お初にお目にかかります。……王国第三王子、エリックと申します」
エリックが、丁寧にお辞儀をして名乗った。その表情には、王族としての誇りと、見知らぬ土地への緊張が混ざり合っていた。
村人たちは、はるばる王都からやってきた王子に対し、好奇心と緊張で迎えた。彼らは、王都での騒動(王子の御乱心など)を聞いているため、エリックを少し警戒しているかもしれない。
「おお、王子殿下でしたか! これは、失礼いたしました。エーデル村村長のゴードンです。はるばる王都から、ようこそお越しくださいました」
ゴードンがエリックを歓迎する。
その様子に、エリックは少しだけ緊張が解けた。
「……ガイウス殿は、お元気でしょうか。私は、彼に『農業修行』を願い出た身ですので」
「ええ、ガイウス殿は元気ですよ。ちょうど、北の開拓地の方へ行っております」
リナの背後から、元宮廷魔術師のエリアが、ふらふらとあらぬ方向へ歩いていく影が見えた。
「あら、エリアさん。あっちですよ!」
リナが叫ぶと、エリアがビクッと肩を揺らして振り返った。
村の広場へ向かう途中、北の開拓地の方から、三人の人影がやってきた。
先頭を歩くのは、魔族の皇太子カインだ。その両脇を、幹部であるベルグとドリスが固めている。
……かつては恐れられたはずの彼らだが、今の姿は、泥にまみれ、手にはしっかりとクワを握った立派な「農夫」そのものだった。
エリックは、魔族の皇太子を作業着姿で見ることになり、衝撃を受けた。
彼が想像していた魔族の皇太子は、もっと威圧的で、王都を支配しようとする野心に溢れた存在だったはずだ。
だが、目の前にいるカインは、ただの「農夫」として、土と向き合っている。
カインが、泥のついた手で額の汗を拭いながら不敵に笑った。
「……貴様が、人族の王子か」
カインの声は、不敵で大胆だった。
彼は、エリックを挑発するような、あるいは歓迎するような言葉をかける。
「……はい、エリックです。カイン殿、お噂はかねがね」
エリックが、丁寧にお辞儀をする。彼は、魔族の皇太子を作業着姿で見ることになり、自分の甘さを痛感した。
彼は、王都での権力闘争に明け暮れていた自分が、どれだけ世間知らずだったのかを悟った。
「ははは! 面白いじゃないか!」
カインがテーブルを叩いて大笑いした。
「人族の王子が、泥にまみれて俺の隣でクワを振るうのか。それは愉快な光景になりそうだ。おいガイウス、歓迎してやるぞ。魔族流の『厳しい』開拓でな」
「殿下、あまりいじめないでくださいね。……まあ、カイン殿ができるのですから、彼にもできないはずはないでしょう。根性は、ありそうでしたから」
ガイウスが現れ、エリックに丁寧だが容赦ない現実を告げた。
「明日からは王子ではありません。ただの『農夫』として、土と向き合ってください。土の前では平等ですから」
エリックは、簡素な(といっても上質な)住居に案内された。
彼は豪華な荷物を解き、明日からの過酷な労働を予感した。
彼は、自分の決意を強め、この国を背負う器になるために、あの厳しい北の地へ行かなければならないのだ。
空には満天の星が広がり、夜の風が心地よく頬を撫でる。
王都の策略や野望すらも、今は農作業の合間の賑やかな羽虫のように感じられた。




