第92話 引き継ぎ完了、お疲れ様!
引き継ぎ作業が、すべて終わった。
魔術師団の書庫は、初日の混沌が嘘のように整理され、今ではどの棚に何の資料があるか、新人でも一目でわかるようになっている。
その日の夜、魔術師団の地下食堂では、ささやかな、しかし熱気のある送別会が開かれた。
集まったのは、この三週間、俺と共に不眠不休(に近い状態)で机を並べた魔術師たちだ。
「ガイウス殿、本当にお疲れ様でした!」
マルティンが掲げた大ジョッキを合図に、食堂中に乾杯の声が響き渡る。
並べられた料理は、王宮のシェフが腕を振るった豪華なものから、魔術師たちがこっそり持ち寄った馴染みのつまみまで、テーブルを埋め尽くしていた。
「ありがとうございます。皆さんの協力があったからこそ、予定通りに終えることができました」
俺は丁寧にお辞儀をして、黄金色のエールを一口含んだ。
喉を通り抜ける爽快感は、仕事をやり遂げた農家だけが味わえる特権のようなものだ。
「わらわも、この王都の飯には満足したぞ。特にあの、魚の干物というのは美味いものだな。村へ帰る時、土産に持って帰ることにしよう」
隣でヴェルダも上機謙で串焼きを頬張っている。
龍の威厳を脱ぎ捨て、人の姿で宴に混ざる彼女は、今や魔術師団のアイドル的な存在になっていた。
宴もたけなわとなった頃、セルジオが分厚い帳簿を手に、少し興奮した様子で俺の席へやってきた。
「ガイウス殿、これを見てください。財政局から非公式に届いた速報値です」
「……これは、何の数字でしょうか?」
「あなたがこの三週間で行った『引き継ぎ』……いえ、実質的な『魔導インフラの再構築』による、王国の財政改善効果ですよ」
セルジオが指し示した数字を見て、俺は少し驚いた。
王都外周結界の魔力効率化、各部署の術式最適化、そして「猫の捜索費用」の削減。
それらを合わせると、年間で王都の魔法維持費の三割近い額が浮く計算になっていた。
「魔力結晶の購入費用だけで、小国一つが買えるほどの金が節約できるそうです。財務卿が『あの農家を二度と手放すな、鎖で繋いででも王都に留めろ』と泣きながら叫んでいたそうですよ」
「それは……少し大げさではありませんか。私はただ、無駄な水の流れを直すように、魔力の通り道を整えただけですので」
「その『だけ』ができる人間が、この国にはあなたしかいなかった。それが問題なのです」
マルティンも苦笑いしながら頷いた。
「財政効果抜群どころの話じゃありませんよ。あなたは、座っているだけで金を生む、最高品質の『豊穣の神』みたいなものです」
「いえ、俺はただの農家ですので。金を生むより、土を肥やす方が得意ですよ」
宴が一段落し、俺は酔い覚ましに中庭へと出た。 明日の出発に向けた準備は整っている。
あとは寝るだけだ、と考えていたところで、背後から静かな足音が近づいてきた。
「……ガイウス殿」 振り返ると、そこには豪華な装束を脱ぎ捨て、簡素な旅装に近い身なりのエリックが立っていた。
その表情には、数日前までの傲慢な険しさは微塵もない。
「殿下、このような場所でどうされたのですか。風が冷たくなってきておりますが」
俺が丁寧にお辞儀をすると、彼は慌てたように手を振って俺を止めた。
「いや、礼などいらない。……今日は、君に伝えなければならないことがあって来た。正式な王族としてではなく、一人の男としてだ」
エリックは俺の正面に立つと、深々と頭を下げた。
「君の誓いを、私の身勝手な焦りで踏みにじろうとした。……本当に、申し訳なかった。父上から叱責されたからではない。君が完成させたあの整然とした引き継ぎ書類を見て、ようやく分かったのだ。私は、君という男の矜持を、何一つ理解していなかった」
「……殿下、お顔を上げてください。私はもう、その件については怒っておりません。順番は後になりましたが、納得のいく形で解決しましたから」
「そう言ってくれるのが、一番胸に刺さるな」
エリックは自嘲気味に笑い、夜空を見上げた。
「君は土を耕し、命を育てることで世界を支えている。対して私は、誰かを蹴落とし、空虚な『記録』を積み上げることでしか己を証明できなかった。……ガイウス殿、私は決めたのだ」
「何を、決めたのでしょうか」
「王位継承権を放棄するわけではない。だが、私は今のままでは、この国を背負う器ではない。だから……君の村へ行かせてほしい」
俺は耳を疑った。
「……エーデル村へ、ですか?」
「ああ。君の言う『農家の誇り』を、私も肌で感じてみたい。君の下で、開拓を手伝わせてはくれないだろうか」
俺はしばらくの間、沈黙した。
王宮の温室で育った王子が、あの厳しい冬が迫る辺境の地で何ができるのか。
農作業の過酷さを、この男は分かっていない。
「殿下、農業というのは、あなたが想像しているよりも遥かに泥臭く、過酷なものです。魔法一つで解決できるようなものではありません。腰は痛みますし、爪の間には泥が入り込み、朝から晩まで自然の機嫌を伺う日々ですよ」
「承知の上だ。君が耐えてきたことを、私も知らなければならない」
「……本当に、曲げないおつもりですか?」
「ああ。今日、父上にも許可を取ってきた。……『死なない程度に、しっかり絞られてこい。逃げ帰るようなら王族としての籍を削る』と言われたよ」
国王陛下も、意外と厳しい判断を下されるものだ。 俺はため息をつき、頭をかいた。
「……分かりました。そこまでおっしゃるなら、拒む理由はありません」
「本当か!」
「ええ。ただし、特別扱いは一切いたしませんよ。私の村では、王子だろうが農奴だろうが、土の前では平等ですので。……まあ、幸いなことに」 「幸いなことに?」
「うちの村には、既に魔族の皇太子殿下が、鍬を持って走り回っていらっしゃいますから。王子様が一人増えたところで、今さら驚く者もいないでしょう」
エリックが目を丸くした。
「ま、魔族の皇太子が……開拓をしているのか?」
「ええ。なんなら、彼の方が私より熱心に肥料の配合を考えている時さえありますよ。彼にできることが、人間である殿下にできないはずもありませんしね」
エリックは一瞬呆然とした後、今日一番の晴れやかな顔で笑った。
「……そうか。魔族の皇太子と競い合って土を耕すのか。それは、王都の政争よりもずっと面白そうだ」
「準備が整ってから追いかけていらしてください。ただし、村に来る時は、動きやすい服と頑丈な靴を用意することをお勧めします。王宮の靴は、村の泥には合いませんので」
「心得た。……ガイウス殿、必ず行く。君に『農家として合格だ』と言わせるまでな」
エリックを見送った後、俺は夜風に吹かれながら王宮の静寂を楽しんだ。
「ガイウス」
ヴェルダがひょっこりと顔を出した。
「聞いたよ。あの王子も来るんだって?」
「ええ。どうやら、私たちの村はどんどん賑やかになりそうですよ」
「いいじゃないか。龍に魔族に王子。賑やかな方が、作物もよく育つというものだろう?」
「……それは初耳ですが、まあ、賑やかなのは悪いことではありませんね」
ヴェルダは俺の隣に腰を下ろし、満足そうに目を閉じた。
「明日、やっと帰れるね」
「はい。やっと、土の匂いがする場所へ帰れます」
引き継ぎ、二十一日間。 王都の財政を立て直し、猫を救い、王子の歪んだ矜持を正し……。
農家としての仕事からは少し逸脱してしまったかもしれないが、これもまた、一つの「土作り」だったのかもしれない。
明日の朝、馬車に揺られて北へ向かう。
エーデル村の冷たい、しかし心地よい風が、今から待ち遠しくて仕方がなかった。
スローライフは、今日も――王子の弟子入りを承諾しながら――順調だった。




