第89話 焦りからの失態
翌朝。
魔術師団の執務室に現れたセルジオの顔は、昨夜の安堵が嘘のように土色をしていた。
「ガイウス殿、問題が起きました」
「何ですか?」 俺はペンを置いた。
セルジオがこれほどまでに余裕を失うのは、王都に来て以来初めてだった。
「今朝、エリック殿下が王族評議会で電撃的な発言をされました。『ヴェルダの原』への課税を、王国として正式に検討する……。そう宣言されたのです」
俺は指先がわずかに震えるのを感じた。
武者震いではない。明確な怒りだ。
「昨日の今日で、約束を破ったということですね」
「はい。内容は極めて攻撃的です。北の開拓地は王国の不可分の領土である。したがって農地への課税は王権の正当な行使である。さらに、貴殿が魔族と結んだ協定は王国を介さない不適切な『私約』である……。そう断じたのです」
「……私約、ですか」
「正式な国家間の協定ではなく、個人が勝手に結んだ無効なものだという解釈です。評議会の半数はその強硬な姿勢に戸惑っていますが、王族が公式に記録に残した以上、無視はできない状況になってしまいました」
俺は窓の外、高くそびえる王宮の尖塔を見上げた。 昨日、エリックは確かに「約束する」と言った。
あの声には、偽りのない響きがあったはずだ。それが、たった数時間でこれほど無残に覆されるとは。
「ガイウス殿、どうされますか」
「……まず、カイン殿に連絡を取ってください。共同運営の当事者として、この事態を共有し、抗議の意思を統一する必要があります。今日中に返信がなくとも構いません。『連絡を取り合った』という事実が、後の交渉の記録として重要になりますから」
「なるほど。……農家の、あるいは実務家としての判断ですね」
「そうです」
ヴェルダが、俺の隣でじっと俺の顔を覗き込んできた。
「ガイウス」
「なんですか?」
「怒ってる?」
「怒っていますよ」
「昨日より?」
「ええ、昨日よりずっと。……正直に言えば、今すぐにでもあの庭園へ戻って、地脈ごと叩き潰してやりたいくらいには」
「顔に出てないね」
「出さないようにしているだけです。無理はしていませんが、今は引き継ぎに集中します。怒るのは、すべてを片付けた後にします」
午前中の引き継ぎは、かつてない緊張感の中で進んだ。
魔術師団の廊下を歩けば、騎士や魔術師たちが俺を避けるように、しかし気遣わしげな視線を投げかけてくる。
昼前、マルティンが書類の束を抱えてやってきた。
「ガイウス殿……今日は、少し表情が違いますね」
「そうですか?」
「ええ。いつもより、少し硬い。……エリック殿下の件、もう団内でも持ちきりです。みんな、あなたに同情していますよ」
「同情など、必要ありません。俺は仕事を終えて帰るだけです」
「それでも、みんな怒っているんです。あなたの代わりに」
マルティンの言葉に、俺の手が止まった。 「ガイウス殿は、自分のことは二の次で、俺たちのためにこの二週間、必死に書類を整理してくれた。
それを王家が、こんな形で踏みにじった。……あなたがちゃんと怒らないから、周りが代わりに怒るんですよ」
ヴェルダと同じことを言われた。
俺は自分の無愛想さを少しだけ反省した。
俺が「農家」として振る舞えば振る舞うほど、周囲は俺を守ろうとしてくれる。
皮肉なものだ。
昼過ぎ、王宮からの使者が現れた。 ファレル。エリックの側近だ。
彼は昨日よりもさらに顔色が悪く、その目は充血していた。
「……ガイウス殿。エリック殿下からのご伝言です。もう一度、直接お話ししたいとのことです」
「昨日も話しましたが、今さら何があるんですか」 「もう一度……。今度は、殿下一人でお会いしたいと。……いえ、あなたが連れを伴うのは構わないそうです」
ヴェルダが俺の裾を引いた。
「行くの?」
「行きます。ここで逃げても、開拓地にまで追いかけてくるでしょうから。一度根こそぎにしておかないと」
「分かった!」
「セルジオ殿も、同行をお願いします」
ファレルは消え入りそうな声で「……構いません」と答えた。
彼の様子からして、エリックに何らかの異変が起きているのは明らかだった。
案内されたのは、昨日と同じ空中庭園だった。 だが、そこに立つエリックの姿は、昨日とは全くの別人のようだった。
誇り高く背を伸ばしていた姿は消え、背が丸まり、噴水の縁を力なく掴んでいる。
「ガイウス殿、よく……来てくれた」
「評議会での発言について、話しに来ました」 俺は挨拶を省き、核心を突いた。
エリックが肩を震わせた。
「……分かっている。分かっているんだ」
「昨日、妨害はしないと約束しましたね。それが一晩で崩れた理由を聞かせてください」
エリックはしばらく黙っていた。
噴水の水音が、昨日よりもやけに大きく、冷たく響く。
「……父上に呼ばれたんだ。昨夜、奥の間に」
「国王陛下に、ですか」
「ああ。父上は、俺が君に対してやってきたことをすべて知っていた。……そして、烈火のごとく怒られたよ。『農家に手を出すな。あの男は、王国の守護そのものだ』と。俺の派閥の重鎮たちも、父上の圧力に屈して、一斉に俺から手を引いた」
エリックが顔を上げた。
その瞳には、かつての傲慢な光はなく、ただ追い詰められた人間の絶望があった。
「俺は止まれなかった。派閥が瓦解し、積み上げてきた功績が砂のように崩れていく。……一つだけでも、残したかったんだ。王族として、私が主導してこの事態を収束させたという『記録』を。農家の温情ではなく、俺の力で手に入れたという証を」
俺は、崩れ落ちそうなエリックを見つめた。
彼は、自分が王族として生き残るための「最後の足掻き」として、俺を売るという暴挙に出たのだ。
父王に叱責され、退路を断たれたがゆえの、狂気の沙汰。
「エリック殿下。俺が引き継ぎに来たのは、二年前に置いていった仕事を整理するためです。誰の手柄にもなるつもりはありませんし、政治の道具にするつもりもありません」
「……分かっている。君がそういう男だということは、もう痛いほど分かっている」
「記録に残りたいなら、こんな形ではなく、もっと土に近い場所で汗をかけばよかった。……今のあなたには、それが一番欠けている気がします」
「農家には、俺の悩みなど分からないか」
エリックが自嘲気味に笑った。
「ええ、分かりません。農家は目の前の土と作物に責任を持つだけです。王子の孤独も、派閥の維持も、俺の領分ではないですから」
「……正直だな、君は。嘘をつくより、分からないと言ったほうが早いか」
「その通りです」
エリックはしばらく噴水を見つめていたが、やがて憑き物が落ちたように深く息を吐いた。
「……評議会での発言は、取り下げる。派閥がどうなろうと、これ以上醜態を晒すわけにはいかないからな」
「そうしてください」
「条件はない。……ただ、最後に一つだけ。引き継ぎが終わった後、一度だけ話を聞いてもらえないか。農家としてではなく……ただ、男同士として」
俺は少し考えた。
「……帰る前に、一時間なら。それ以上は、馬車の時間に遅れますので」
「……十分だ。ありがとう」 エリックが言ったその言葉は、昨日の慇懃無礼な謝罪よりも、ずっと軽く、そして素直に聞こえた。
王宮を出て、夕焼けに染まる大通りを三人で歩く。
「エリック殿下、あそこまで疲弊しているとは思いませんでした」 セルジオが、同情とも呆れともつかない溜息をついた。
「国王陛下に呼ばれたのが、相当きいたんでしょうね」
「そうでしょう。自分の野心が、すべて父王の掌の上だったと突きつけられたわけですから。……しかし、帰る前に話を聞くとは、ガイウス殿も人がいい」
「農家として聞けることなら、聞くだけです」
「農家として聞けない話だったら?」
「その時は、一時間経たずとも切り上げて帰ります」
「……殿下は、また困るでしょうね。でも、それがガイウス殿だ」
セルジオは可笑しそうに笑った。
この三週間で、彼は俺の扱いにすっかり慣れてしまったようだ。
ヴェルダが、俺の手を軽く握った。
「わらわは一週間で慣れたよ。ガイウスは最初からこうだったし、これからもこうなんだろうし」
「当然でしょう。農家はそう簡単に変われるものではありませんから」
「それがいいんだよ。土みたいで、落ち着くからね」
王都の昼が、ゆっくりと夜に溶けていく。
引き継ぎ、あと二日。 エリックの約束が、今度は本物であることを願いつつ、俺は明日の農作業――引き継ぎの最終段階に思いを馳せた。
スローライフは、今日も――王子の瓦解を見届けながら――順調だった。




