第88話 敗北
王宮の空中庭園に、噴水の音だけが虚しく響いている。
夕刻の光は、石造りのベンチに座るエリックの影を長く引き伸ばしていた。
彼の目の前にあるテーブルには、冷めきった茶が手付かずのまま置かれている。
「……全部、裏目に出たな」
独白に近いその言葉を、隣に控える側近のファレルが重く受け止めた。
エリック・王家第三王子。
彼はこの王都という巨大なチェス盤において、常に数手先を読み、駒を動かしてきた自負がある。
だが、今回用意した「農家」という名の駒だけは、盤上のルールを無視して、ただそこに「根」を張っていた。
最初に仕掛けたのは、課税の強化と開拓地の利権を巡る揺さぶりだった。
農民にとって金と土地は命だ。
それを盾に取れば、恐怖か、あるいは妥協を引き出せるはずだった。
だが、あの男――ガイウスは、眉一つ動かさずに言い放ったのだ。
「領主であるカイン殿と話し合う」と。
権力の頂点にいる王子ではなく、魔族との対話を優先した。それはエリックにとって、王族としての威光を無視されたに等しい屈辱だった。
次に、黒龍ヴェルダへの接触。
強大な力を持つ伝説の存在を、王国の庇護という甘い罠で絡め取ろうとした。
だが、龍は鼻で笑った。
人間の作った法や文書など、自らの爪と牙に比べれば紙屑に等しいと言わんばかりに。
そして、今回の書類の持ち出し。
それが「最後の一手」になるはずだった。
「ファレル。私は、あの男が怒るとは思っていなかった」
エリックは自嘲気味に口角を上げた。
これまで見てきたガイウスは、常に凪いだ海のように平静だった。
何を言われても「農家なので」という言葉で煙に巻き、淡々と自分の仕事をこなす。
感情の起伏など存在しない、精密な魔導具のような人間だと思っていた。
だが、庭園で向き合ったときのガイウスの瞳には、確かに「火」が灯っていた。
それは激情に任せた爆発ではない。
冬の凍てつく大地の下で、静かに、しかし確実に命を削るような、硬質で冷徹な怒り。
「引き継ぎのために書いた書類を持ち出された。怒る理由があります」
そう言ったときの彼の声の響きが、今もエリックの耳の奥にこびりついている。
書類そのものへの執着ではない。
自分の「仕事」を、そして「誠実さ」を汚されたことへの、職人としての、あるいは生存者としての本能的な拒絶。
予想していなかった分、その言葉はエリックの胸に鋭く突き刺さった。
「申し訳ありませんでした、殿下。私の判断ミスです」
「いや、お前のせいではない。私が、あの男の『芯』を見誤っていた」
エリックは視線を噴水に向けた。
書類を持ち出せば、農家は焦り、交渉のテーブルに着く。
その過程で、王都に留まること、あるいは王家の影として働くことを飲ませる。
そんな安直な筋書きを、ガイウスは一瞬で踏み潰した。
要求を飲ませるどころか、逆に「次は問題にする」と釘を刺されたのだ。
「農家には、攻め口がありません」 ファレルが以前と同じ言葉を漏らした。
エリックはその言葉を否定できなかった。
むしろ、今はその意味が痛いほどわかる。
「そうだな。攻め口がないのではない。そもそも、我々と見ている景色が違うのだ」
エリックが最も理解に苦しみ、そして今、最も強く惹かれているのは、
ガイウスが口にした「選んだ」という言葉だ。
王都を捨てたのではない。
エーデル村を選んだのだ、と。
普通、人間は「より高い場所」を目指す。
辺境の開拓地よりは王都を、農民よりは宮廷魔術師を、支配される側よりは支配する側を。
だが、ガイウスはその逆を、迷いなく「選んだ」と言い切った。
「捨てたなら引き継ぎには来ない。選んだから、引き継ぎをして帰る。……あいつは本気でそう思っているんだ。王都での日々を『過去の清算』として、一粒の種も残さず綺麗に片付けていこうとしている」
エリックにとって、王都は「すべて」だ。
ここで生き、ここで戦い、ここで勝つことこそが人生の価値。
だが、ガイウスにとって、この眩いばかりの黄金の都は、ただの「立ち寄り先」に過ぎなかった。
「エーデル村とは、どんな場所なんだろうな」
「……存じません。ただ、魔族と龍が共存し、あの男が土を耕す場所、としか」
農家が「農家がいる場所です」と答えたときの、あの誇らしげな顔。
宰相の前でも、第三王子の前でも、彼は一瞬たりとも自分を卑下しなかった。
むしろ、宮廷の権謀術数に明け暮れる自分たちを、可哀想な害虫を見るような目で見ていたのではないか、と。
「殿下、次の手を考えますか?」
ファレルの問いに、エリックは即座に首を振った。
「いや、もういい。これ以上、あの男を足止めしても虚しいだけだ」
「よいのですか? あの才能を野に放つのは、王国にとっての損失です」
「ああ、損失だな。だが、妨害しても何も変わらん。……あいつには、こちらの底が見えていたんだよ。何を画策し、何を欲しているか。すべて理解した上で、ただ『農家』としてかわされていた」
エリックは立ち上がり、空中庭園の端まで歩いた。
そこからは王都の街並みが一望できる。
美しい、完成された秩序の都。
だが、ガイウスが守ろうとしているのは、この石造りの美しさではない。
土の匂いと、予測不能な自然と、そこで共に生きる仲間たちの体温だ。
「農家の目的は引き継ぎを終わらせること。私の目的は王国の政を握ること。同じ戦場で競っていると思っていたが、最初から違う場所にいたんだな。あいつは土を耕し、私は砂の城を築いている。……勝負にすらなっていなかったというわけだ」
エリックの言葉に、ファレルは沈黙を守った。 噴水の水は、変わらぬ形を描き続け、やがて水槽へと落ちていく。
「邪魔はしない。約束したからな」
「……約束、ですか」
「ああ。あの男に、嘘は通用しない。約束を破れば、今度こそ私は、彼にとって『排除すべき害虫』に成り下がるだろう」
廊下を歩きながら、エリックはガイウスの硬い声を反芻した。
怒りながらも、仕事の手を止めず、正確に引き継ぎを完遂しようとする意志。
感情と実務を完全に切り離し、それでいて、根底には揺るぎない愛着を持っている。
これほどまでに、王国の重鎮として相応しい器が他にあるだろうか。
「……惜しいな」
エリックの唇から、小さな溜息が漏れた。
自分に仕えさせることは叶わなかった。
だが、ガイウス・ノアという男が、この王都にわずか十数日滞在しただけで、自分の中に拭い去れない「何か」を残していった。
それは敗北感であり、同時に、かすかな憧憬でもあった。
農家が選んだ、あの遠い北の地。
エリックは一度も見たことのないその村を、少しだけ、美しいと思った。
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