第86話 引き続き書類が無い
昼過ぎ。
引き続き作業をしていた所にマルティンが青い顔で入ってきた。
「ガ、ガイウス殿っ!引き継ぎの書類が書庫から無くなっています!」
俺は手を止めた。
「‥どの書類ですか?」
「防衛計画の草案です。ガイウス殿が書き直していた分と、元の草案、両方が——」
嫌な感覚がした。
「いつからないですか」
「今朝まではありました。昼に確認したら、なかったです」
席を立ち書庫に向かい棚を確認する。
「‥棚の並びが変わっています」
実は朝から気になっていた。
誰かが書庫に入った痕跡があった。棚の埃の乱れ方、鍵の向き、わずかなずれ‥農家は畑の変化に敏感だ。
書類の並びも、同じように見ていた。
気になっていたが、引き継ぎを優先していた。
それが間違いだった。
「どの書類ですか?」
「防衛計画の草案と、地脈の修復協定の詳細と、魔族との協定書の写しが——」
最悪だった。
王都の防衛の弱点。地脈の修復計画。魔族との協定の詳細。どれか一つでも外に漏れれば、引き継ぎどころではなくなる。
ヴェルダが書庫の入口に立っていた。
「ガイウス!さっき廊下で変な人間を見たよ!」
「‥特徴は?」
「三十代くらいの男。茶色いコートを着てた。布袋を抱えて、足が速かった。袖の紋章——エリックの側近と同じだったと思う!」
「どちらに向かいましたか?」
「出口の方向、外に逃げたのかも!」
俺は動いた。
「追います。マルティン、セルジオ殿に報告してください。騒ぎにしないように」
「わかりました」
「ヴェルダ、一緒に来てもらえますか?」
「最初からそのつもりだよ」
建物を出た瞬間、ヴェルダが方向を変えた。
「こっちだ」
「場所、わかりますか?」
「気配が残ってる。急いでる人間の気配は、ゆっくり歩いた人間より濃く残るから」
大通りを抜けて、路地に入った。
人通りが減った。石畳の幅が狭くなった。屋根が近くなった。
「近い」とヴェルダが小声で言った。
「どのくらいですか?」
「曲がり角の先。止まってる」
「止まっている?」
「誰かを待ってる気がする。受け渡す相手がいるのかも」
まずい。
受け渡しが終わったら、書類は分散する。
取り返すのが一気に難しくなる。
「急ぎましょう」
「ただ——二人いる」とヴェルダが言った。
「受け渡し相手ですか」
「男が一人、角の向こうで待ってる。荷物を持った男と合流しようとしてる」
「わかりました。二手に分かれましょう。ヴェルダは先に回り込んでもらえますか?」
「分かった!」
ヴェルダが路地の脇の細道に消えた。
俺は正面から歩く。そして角を曲がった。
男が二人いた。
茶色いコートの男と、もう一人。
もう一人は革のコートを着た、体格のいい男だった。
茶色いコートの男が俺を見た。
目が合った一瞬だった。
男が走る。速い。
ただ——逃げる方向に、ヴェルダがいた。
革コートの男が俺に向かってきた。
体格が良い‥騎士崩れか、傭兵か?
手が俺の胸倉に伸びてきた。
俺は一歩引いた。
相手の手が空振りする。
「邪魔するな」
「書類を返してもらいに来ました」
「‥何のことだ?」
「そちらの方が持っていますよね、それ」
「知らない」
「知っているでしょう」
男が踏み込んできた。
今度は俺の腕を掴もうとした。
魔力を少し展開した。
次は男の手が、見えない壁に当たって止まった。
「——なんだ、お前魔術師か?」
「‥邪魔しないでもらえますか?」
男の目が変わった。
魔術師だとわかった顔だった。
次の手を考えている目だった。
その隙に横目でヴェルダの状況を確認する。
茶色いコートの男がヴェルダと向き合っていた。
路地の先は行き止まりだった。
「退け」と男が言った。
「嫌だよ」とヴェルダが言った。
「退かないと、どうなるかわかってるか?」
男が懐から短刀を出したが、ヴェルダは動じなかった。
「それで、わらわを刺すつもり?」
「退け、と言っている」
「ふーん、刺してみれば?」とヴェルダが言った。
静かな声だった。
怒っているわけではなかった。
「龍の鱗に刃が通ると思ってるなら、試してみていいよ
?」
男が一歩引いた。
「……お前、黒龍か?」
「そうだよ」
「なぜ人の姿で——」
「それより、その袋を渡して」
「それはできない」
「ふむ、もしここがわらわの縄張りだったら、貴様は今頃ここから生きて出られなかった。王都はわらわの縄張りじゃないから、今は何もしない。ただ——」
ヴェルダが一歩前に出た。
「その袋を渡せば、見逃してあげる」
男の手が、わずかに震えた。
ふと、後ろで音がした。
革コートの男が魔術を使おうとしていた。
詠唱が始まっていた、魔術師もいるのか。
俺は先に動いて、地脈に手を入れた。
男の足元の地面から、魔力を圧縮して放った。
衝撃が男の足元を走った。
地面が揺れ男がよろけ、詠唱が止まる。
「次に詠唱を始めたら、もう少し強くします」と俺は宣言する。
「……何をした?」
「地脈操作です」
「この場所で地脈を‥しかもあの一瞬で?」
「できますよ」
男が俺を見て一歩引いた。
「袋を渡しな」とヴェルダが茶色いコートの男に言った。
男が袋を持ったまま、出口を探すように視線を動かす。
しかし逃げ道はない。
「渡しなさい」とヴェルダがもう一度言った。
今度は、声に少し力が入っていた。
男の体が、反射的に固まった。
布袋が、ゆっくり前に差し出された。
ヴェルダが受け取る。
「——エリック殿下に伝えてください」と俺は言った。
「引き継ぎは続けます。次にこういうことがあれば、セルジオ殿を通じて正式に問題にします」
男が何も言わなかった。
「行っていいですよ」
二人が走って行き。足音が遠ざかった。
袋の中身を確認した。‥全部あった。
息が、静かに抜けた。
どのくらい緊張していたか、それが抜けてから気づいた。
「全部ある?」とヴェルダが聞いた。
「全部あります」
「よかった!」
「ガイウス、手が少し震えてるね」
「そうですか?」
「緊張してたんだね」
「それは、しましたね」
「顔には出てなかったよ」
「出さないようにしていたので」
ヴェルダが「わらわも少しだけ緊張した」と言った。
「ヴェルダが緊張しますか」
「短刀を持った人間が来たから。刺さりはしないけど——ガイウスに向かってたら、嫌だったから」
「俺への心配ですか」
「そうだよ。文句ある?」
「ないです。嬉しいです」
ヴェルダが少し止まった。
「珍しい、ちゃんと素直に言った」
「本当のことなので」
「……わらわも嬉しいよ。役に立てたから」
二人で路地を出た。
大通りに戻ると、昼の光が眩しかった。
布袋を抱えて歩いた。
怒りはまだあった。
ただ——ヴェルダが隣にいた。
それで十分だった。




