第85話 ヴェルダと第三王子の部下
翌朝。
ヴェルダが一人で市場に出かけた。
最近の彼女は、一人で歩くことを覚えた。
道を覚え、声をかけられる店員を覚え、花屋のおばさんの名前も覚えたらしい。
「行ってくる」と言って、彼女は出ていった。
「迷ったら誰かに声をかけてください」と言うと、「迷わないよ、もう」と返ってきた。
三十分後。 ヴェルダが戻ってきた。
予定より早すぎる。
その顔には、隠しきれない不快感が張り付いていた。
「どうしましたか?」
「わらわに話しかけてきた人間がいた」
「‥誰ですか?」
「名前は言わなかった。ただ、服の袖にあの王子の紋章がついてた」
エリック殿下の従者だった。
「何を言ってきましたか」 ヴェルダが椅子に座った。
「ヴェルダの原を、王国として正式に認める用意がある、と言ってきた。龍の縄張りを公式文書に記録して、他人の侵入を禁じる法を作る、と」
「そうですか」
「条件は、ガイウスが王子の力になること。……ガイウスを動かせないから、わらわを餌にしようとしたんだね」
彼女は怒っているようには見えなかった。
ただ、静かだった。 千年の時を生きる龍の、底冷えするような静かさだった。
「なんと答えましたか?」
「断った。縄張りは自分で守るものだ、と。
王国に認めてもらわなくても、わらわの縄張りはわらわのものだと言ってやった、それだけ言って、帰ってもらった」
ヴェルダが俺を見た。
「ガイウス、怒ってないの?」
「何に怒るんですか」
「わらわを使って、ガイウスを動かそうとしたんだよ?」 それに対して、何も思わないの?」
俺は少し考えた。
「農家として考えると、農地に来る害虫が、別の角度から来るようになったという感じですが」
「害虫?」
「農家にとって、農地への脅威は対処するものなので。角度が変わっただけで、やることは変わらないです」
ヴェルダがしばらく俺を見た。
「農家は怒らないね」
「怒る理由があればしますが」
「わらわを使おうとしたのは、理由じゃないの?」
「……ヴェルダを巻き込んだのは、嫌でしたが」
「嫌だったなら、怒っていいよ」
「嫌だったことと、怒ることは別ですが」
「……ガイウスって、そういう区別をするんだね」
「農家なので」
「いや農家関係ないと思うけど‥」 と、ツッコむ。
ヴェルダは少し間を置いた。
「ガイウス、一つだけ聞いていい?」
「なんですか」 「わらわのことが、心配だった?」
「心配、ですか」
「一人で出かけて、変なやつに声をかけられたかもしれない。……心配した?」
俺は、手元の薬草を束ねるのを止めた。
「少しは」
「うーん、少しだけ?」
「……本当は少しではなかったですが」
「ヴェルダ」
「なんですか」
「また一人で出かけるときは、言ってくれますか?」
「分かった!ガイウスが心配するなら、ちゃんと言うよ、約束ね」
彼女が市場で買ってきた黄色い花を、机の上に置いた。
「花は、買えたよ。それに花屋のおばさんに、またかわいいって言われた」
「それはよかったですね」
「ガイウスも言ってよ」
「……かわいい」
「ありがとう、ガイウス!」
「さて、引き継ぎに行きますが」
「わらわも行く。市場はよかったよ。変な人間以外は、王都は悪くない。農家定食も花屋もあるし。……ただ、エーデル村のほうがいい」
「そうですか?」
「そうだよ。エーデル村には、皆いるから早く帰ろうね、ガイウス」
宿を出た。 王都の朝が広がっている。
通りを歩くと、花屋のおばさんが手を振っていた。
ヴェルダが手を振り返した。
エリックはまた動くだろう。
害虫と同じで、一度で諦めることはないはずだ。
だが、農家として対応することは変わらない。
スローライフは、今日も――黄色い花を眺めながら――順調だった。




