第82話 視線
朝。
宿の重い木扉を開け一歩外へ踏み出した瞬間、チリりとした感覚が走った。
視線だ。
どこからかはわからない。
だが、誰かが明確な意図を持って、こちらの出方を窺っている。
「……ガイウス」 隣を歩くヴェルダが、銀髪を揺らして小声で囁いた。
「わかっていますよ。……宿に入った初日からですよね」
「なんだ気づいてたの?お主、全然言わないから」
「畑仕事をしていると、よくあることです。森の端から鳥や獣が、こちらの作業をじっと見ている。……それが今は、人間に代わっただけのことですが」
「縄張りに入ってくる気配と似てる」とヴェルダは黄金の瞳を細めた。
「最初は遠くから様子を見て、敵か味方か、あるいは食えるかどうかを判断する。……今の視線は、そういう『品定め』の感じがするよ」
「そうですね。ですが、農家は見られていても作業を止めません。誰かに見られているからといって、クワの手を休めれば土が固まるだけですから」
「……見られていても、平気なの?」
「畑仕事は、誰に見られていようと成立します。俺が見ているのは目の前の土と、隣にいるあなただけですので」
「……そっか、それが農家か‥ってわらわはそこまでみ、みてないぞ?!」
魔術師団の本部に着くと、セルジオが普段より少し硬い表情で駆け寄ってきた。
「ガイウス殿、まず耳に入れておきたい報告があります。今朝から建物の外に、怪しい者たちが潜んでるとの情報です」
「怪しい者達‥なるほど」
「はい。未確定情報ですが、おそらく第三王子エリック殿下の放った『目』でしょう。殿下は王族の不介入という原則に苛立ちを抱えているという噂があります。ガイウス殿の帰還を、自らの野心の『肥料』にしようと考えているのかもしれません」
セルジオは不安げに俺の反応を伺ったが、俺は預かっていた書類の束を整理する手を止めなかった。
セルジオは「何か対策をされますか? 騎士団に警護を依頼することもできますが」
「いえ、特にないです。引き継ぎをしていれば、見られていても作業は進みますので。……視線で土が痩せるわけではありませんし」
セルジオは呆れたように、しかしどこか安心したように息を吐いた。
「わかりました。殿下が直接動くようなら、また報告します」
夕方。
今日の分の引き継ぎも順調に終わった。
書類の山は、あともう少しで底が見えるところまで来ている。
俺の「王都での農作業」も、収穫期が近い。
宿への帰り道、石畳に落ちる影が長く伸びていた。
ヴェルダが俺の影を踏むように歩きながら、ぽつりと問いかけてきた。
「ねえ、ガイウス。もし本当に王子の人が会いに来たら、どうするの?」
「話くらいは聞きますが。……その上で、農家として出来ることを答えるだけですよ」
「農家として答えるって、具体的にどうするの?」
俺は足を止め、茜色に染まる街路を眺めた。
「農家に出来る事と、出来ない事をはっきりさせるだけです。農家の仕事は、土を耕し、種を蒔き、収穫すること。……それ以外の、誰かを蹴落としたり、誰かの飾りになったりすることは、農家の仕事ではありません」
「できないことは、断るの?」
「農家なのでできないです。と言うだけです。……土に魔法をかけて一晩で大樹にしろと言われても、できないものはできない。無理な注文は、畑を枯らすだけですから」
ヴェルダが不意に、俺の袖を強く引いた。 いつになく真剣な、黄金の瞳が俺を射抜く。
「……ねえガイウス、一つだけお願いがある」
「なんですか?」
『できない』ことを無理やりやらされそうになったら、わらわに言って。わらわが、全部焼き払ってあげるから」
その言葉には、かつて北の開拓地で出会った頃の、絶対的な強者の響きがあった。
だが、同時にそこには、大切な場所を守ろうとする切実な祈りも混じっていた。
「……焼き払うのは困りますが‥その時は、頼みます」
「頼みます、じゃなくて。……絶対言って。約束だよ」
俺はヴェルダの小さな、けれど力強い手を見つめ、静かに頷いた。
「……約束します。必ず、あなたに頼りますよ」
ヴェルダは少し驚いたように目を丸くし、それから嬉しそうに微笑んだ。
「……うん。それでいい。約束だよ、ガイウス」
夕暮れの光が、俺たちの影を一つに繋いでいた。
背後でうごめく王子の影も、街に溢れる噂話も、今の俺たちには遠い世界の出来事のようだった。
スローライフは、今日も――見守る龍と「約束」を交わしながら――順調だった。




