第81話 悪事を企てる者
王宮の北翼。
城下街を一望できる第三王子エリックの執務室は、深夜になっても灯が消えることはなかった。
壁一面を埋め尽くす書物と、贅を尽くした調度品。
だが、その主であるエリックは、王族らしい華やかさとは無縁の、氷のような冷静さをまとって窓の外を眺めていた。
「……で、例の男が本当に戻ってきたのだな」
エリックが振り返ることなく問う。
背後で影のように控えていた側近、ファレルが静かに首を垂れた。
「はい。ガイウス・ノア。元宮廷魔術師団長にして、現在は北の果ての開拓民。
三日前から魔術師団の本部に入り、後任のセルジオらと引き継ぎを行っております」
「引き継ぎ、か。潔いことだ」
エリックは自嘲気味に笑った。
「二年前、兄上たちが彼を追放した際は、王都の魔術防衛に穴が空くと騒がれたものだが。まさか本人から『やり残した仕事がある』と戻ってくるとは」
「本人の主張によれば、あくまで『引き継ぎのためだけ』の滞在だそうです。それが終われば、即座にエーデル村なる僻地へ帰ると」
「‥帰すわけがないだろう」 エリックの瞳に、夜の闇よりも深い光が宿った。
「黒龍を従え、魔族と不可侵の農業協定を結び、死地を黄金の田畑に変えた男だ。そんな規格外の『資産』が目の前に転がっていて、指をくわえて見逃すほど私はお人好しではない」
ファレルは困惑を隠さなかった。
「殿下、王族の政務不介入は建国以来の原則です。それに……ガイウス殿は今や、どの派閥にも属さない『ただの農家』を自称しております。彼を強引に政争に巻き込めば、民衆や教会の反発を招きかねません」
「不介入など、ただの飾りだ。それに、彼を『魔術師』として取り込もうとするから角が立つ。……彼が自ら名乗る通り、『農家』として王国に協力させればいい」
「農家として、ですか?」
「そうだ。農家が北の荒野を耕し、食料自給率を上げたいと言うのを、誰が止められる? 農家が平和のために魔族と話し合い、辺境の安定を図ると言うのを、誰が批判できる? 彼が『農家』という盾を掲げ続ける限り、その力はあらゆる法や慣習を飛び越える。……いわば、無敵の肩書きだ」
エリックは机の上に置かれた、ガイウスが結んだとされる『農業協定』の写しを指で叩いた。
「農家として黒龍と一騎打ちをし、農家として魔王軍と握手する。……面白い言い訳だ。だが、もしそれが本心だとしたら、ガイウス・ノアという男は、我々が想像する以上に『合理的』で『頑固』な人間ということになる」
「合理的な農家、ですか」
「ああ。種を蒔かねば芽は出ず、水をやらねば枯れる。農家の世界は因果がはっきりしている。なら、我々もその因果を与えてやればいい。彼が『動かざるを得ない』だけの理由を、種として蒔くのだ」
ファレルは王子の意図を察し、背筋に冷たいものが走るのを感じた。 「……まさか、エーデル村を人質に取ると?」
「人質などと、聞こえの悪い言葉を使うな。私はもっと平和的な共存を望んでいる」
エリックはゆったりと椅子に腰を下ろし、指先を組んだ。
「ガイウスが大事にしているものは明白だ。エーデル村の平穏、広大な農地。……そして、彼に寄り添うあの『黒龍の小娘』だ」
「黒龍ヴェルダ殿を……? ですが、彼女を刺激すれば、王都そのものが火の海になりかねません。それはあまりに危険な博致です」
「わかっている。彼女を直接傷つけるほど愚かではない。だが、考えてもみろ。あの黒龍を疎ましく思う勢力は王宮内にいくらでもいる。私が彼女の『保護者』としての立場を保証し、教会の『聖獣』認定を裏で操ってやれば、ガイウスはどう思う?」
「……守るために、こちらの手を取らざるを得なくなる」
「そういうことだ。農家は大切な作物を守るためなら、泥にまみれることも厭わないだろう? 彼の『農家の論理』を利用して、こちらの都合の良い土壌に誘い込む」
エリックの唇が吊り上がった。
「農家の論理とは、つまるところ『守るべきものを守る』こと。それだけだ。なら、その守るべき対象をこちらの管理下に置けば、彼の力は自動的に王国の——いや、私のための盾となる」
ファレルはしばしの沈黙の後、重い口を開いた。
「……殿下は、彼が農家として全部を成し遂げたという話を、どこまで信じておられますか?」
エリックは窓の外に広がる王都の灯りを、捕食者のような目で見つめた。
「信じているさ。だからこそ、恐ろしいのだ。魔術師としての誇りも、権力への執着も、すべて捨てて『ただの農家』として生きる。その一点の曇りもない覚悟が、黒龍や魔族の心さえも耕してしまった。……ならば、その覚悟を丸ごと買い取らせてもらおう」
エリックは立ち上がり、ファレルに命じた。
「明日、彼と接触する機会を作れ。場所はどこでもいい。彼が『農家』としてリラックスできる場所が望ましいな。……例えば、あの男が好んで食べているという『農家定食』の店でも構わない」
「承知いたしました。……ただ、殿下」
「なんだ?」
「農家の論理には、もう一つだけ、鉄則があると言います。……『害虫は見つけ次第、根絶やしにする』というものです。どうか、お気をつけください」
ファレルが退室し、一人残されたエリックは、ふと自分の手を見た。
贅沢に慣れ、一度も土を触ったことのない白い手。
その手が、世界最強の農家の襟首を掴もうとしている。
「害虫、か。……果たして私が彼の畑に蒔かれる種になるか、それとも駆除される雑草になるか。……明日の面会が楽しみだよ、ガイウス・ノア」
夜の王都は、嵐の前の静けさに包まれていた。 引き継ぎは終わろうとしている。だが、ガイウス・ノアという「種」が王都に落ちた以上、収穫を狙う者たちが黙っているはずもなかった。
スローライフは、明日――王子の野心が渦巻く渦中で――正念場を迎えようとしていた。




