第74話 セルジオの苦労
翌朝、宿の部屋の扉を叩く音が響いた。
現れたのは、目の下に深い隈を刻んだセルジオだった。
その腕には、物理的に「抱える」という表現を超えた量の書類が積み上がっている。
「おはようございます、ガイウス殿。……よく眠れましたか?」
「おはようございます。……その書類は、もしや」
「はい。ガイウス殿が去ってから今日まで、誰も解決できずに積み残された『課題』の一部です」
一部、という言葉に、部屋の隅でふかふかの椅子を堪能していたヴェルダが耳を動かした。 「一部? それ全部で馬車一台分くらいあるように見えるが」
「正確には、別室にあと一台分控えております。二年という月日の重さを、改めて噛み締めているところです」
セルジオが遠い目をして、書類を机にドサリと置いた。
「二年分、ですか。……始めましょうか」
「はい。よろしくお願いいたします」
ヴェルダが「聞いていていいか?」と尋ね、俺が頷くと、彼女は「聞いていないふりをして、しっかり聞く」という器用な宣言をして、静かに黄金の瞳を書類へと向けた。
セルジオが最初に取り出したのは、王都を囲む地脈の構成図だった。
「まず、魔術基盤の管理です。ガイウス殿が去った後、我々は師団の精鋭三名で分担させました。ですが……」
「三名では、負荷が分散しきれませんでしたか?」
「いいえ。分担した瞬間に、全体を統合するロジックが崩壊したのです。ガイウス殿が一人で、しかも無意識に近い状態で行っていた『細部の微調整』が、専門家三人がかりでも再現できない」
俺は図面を指先でなぞった。二年前と比べて、地脈の淀みが随所に見られる。
「地脈の修正は専門的ですから。今は、外周結界の調整はどの程度の頻度で?」
「……週に一度です。それでも安定しません」
「以前は月に一度で十分でしたが」
「え!?つ、月に一度!?」
セルジオが絶句した。
「……我々はこの二年間、ガイウス殿が月に一度しか手を入れていなかったものを、毎週必死に修繕して、それでも追いつかずにいたのですか。引き継ぎ書、やはり作ってもらうべきでしたね」
「申し訳ない。当時は、それどころではなかったので」
「あ、いや追放したのはこちらですが……」
セルジオは眉間に指を当て、溜息を吐いた。
「ガイウス殿、一つ聞いていいですか。……あなたは、追放されたことを怒っていないのですか? これだけの仕事を押し付けられ、挙句に放逐されたというのに」
「怒る理由がありません。エーデル村で農家になれましたから」
「……ずっと、農家になりたかったのですか?」
「いえ。成り行きでしたが、やってみれば悪くない。……かなり、悪くないですよ」
俺が「かなり」と付け加えると、セルジオは救われたような、けれど複雑そうな表情で「それは、よかったです」と静かに言った。
引き継ぎの内容は、王都の防衛計画の草案、新人の育成基準、そして未完の魔術式など、多岐にわたった。
俺は一つ一つ、二年前の記憶を掘り起こしながら、現在の状況に合わせた修正案を口頭で伝えていく。
セルジオの手が、魔法のように速い速度でそれを書き写していく。
「……それにしても、これだけの量を一人でこなしていた方が、今は土をいじっている。王都にとっては大きな損失ですが、ご本人にとっては……」
「農家の仕事に比べれば、魔術基盤の管理はまだ『遊び』に近いですよ」
セルジオのペンが止まった。
「……魔術基盤の管理が、遊び? 世界で最も複雑な術式網がですか?」
「魔術は論理で動きます。入力と出力が明確です。ですが、土は毎日変わる。日差し一つ、湿気一つで機嫌を損ねる。魔術ほど論理的ではなく、もっと繊細で、予測不能です」
「地脈よりも、土の方が繊細だと」
「そう思います。だから、農家の方が大変なのは当然です」
セルジオは呆れたように肩を落とした。
「……そういう結論になる方が管理していたから、王都は平和だったのですね。改めて、こちらの非礼を謝罪させてください」
「追放は終わった話です。農家として、根に持つことはしません」
「根に持たない農家、ですか」
「ええ。農家は『根』を大事にする仕事ですから。死んだ根(恨み)をいつまでも抱えていたら、新しい芽が出ません。そんな余裕はないんです」
セルジオが「うまいことを言いますね」と少し笑った。
「そうですか?」
「そうだよ。……あ、今のなし」 隅っこで聞いていたヴェルダが、つい口を挟んでしまったようで、顔を赤くしてそっぽを向いた。
セルジオが俺とヴェルダを交互に見た。
「……お二人は、非常に息が合いますね?」
「ヴェルダそうですか?」
「ガイウス、そうだよ」
セルジオがクスクスと笑い声を漏らす。
「『そうですか』と『そうだよ』。
まるで一つの旋律のように対になっています。無自覚なのが一番恐ろしいですね」
「気づいていなかったですが」
「わらわは……まあ、気づいていなくもなかった」
セルジオは書類を纏め、立ち上がった。
「明日、宰相閣下への報告に同行いただけますか。閣下は、ガイウス殿が『農家』としてどのような返答をされるのか、首を長くしてお待ちです」
「わかりました。……ヴェルダも、一緒でいいですか?」
「行くに決まっているだろう。わらわがいなければ、ガイウスがまた『引き継ぎ書』を忘れるかもしれんからな」
「私は忘れても困りませんが、閣下の心臓が驚きで止まらないか、それだけが心配です」
セルジオはそう言って、再び「驚いている暇もない」という忙殺された表情で部屋を後にした。
スローライフは、今日も――二年分の空白を「除草」するように埋めながら――順調だった。




