第73話 王都にて2
街道沿いの宿屋で迎えた朝は、ヴェルダの感嘆から始まった。
彼女は備え付けのベッドから起き上がると、何度もその感触を確かめるようにシーツを撫でた。
「……ガイウス、やはりベッドというやつは素晴らしいな」
「そうですか?」
「ああ。岩の上で丸まっていた千年間が、急に損をした気分だ。柔らかい、温かい。朝になっても体が痛くない。人間というのは、こんな贅沢な環境で英気を養っていたのか」
「宿屋ですから。休息こそが、旅人に提供できる最大の商品です」
一階の食堂に降りると、焼きたてのパンと野菜がたっぷり入ったスープが運ばれてきた。
ヴェルダはそれを一口運び、咀嚼し、少しだけ首を傾げた。
「……どうしましたか?口に合いませんか」
「いや、悪くない。悪くないのだが……リナのお母さんのスープの方が、もっと『元気』が出る味がする」
「家庭料理と商業的な宿飯の違いでしょうね。栄養バランスは考えられていますが、そこにある『想い』の分量は計測できませんから」
「想いの分量か……。農家らしい、小難しい言い回しだな」
ヴェルダは「勉強になる」と呟き、スープを飲み干した。
千年生きた古龍が、宿屋の朝食マナーやパンの千切り方を熱心に学んでいる。
その光景は、側から見れば微笑ましい貴族の令嬢のようでもあり、俺にとっては少しだけ奇妙な、けれど「悪くない」日常の延長線上にあった。
宿を出て半日。俺たちはついに、巨大な外壁に囲まれた王都の門を潜った。
二年ぶりの王都。そこは、俺がかつて「Sランク魔術師」として、あるいは「王国の守護者」として人生の十年間を費やした場所だ。
「……変わりましたね」
「何がだ? わらわには、ただ石の塊が積み上がっているようにしか見えんが」
「空気の密度です。魔術基盤が不安定なせいか、都市全体が微かに震えている。……それに、あそこにあった老舗の食堂がなくなって、新しい魔術触媒の店になっています」
俺は無意識に、街の細部を観察していた。
魔術師団の総本山たる白亜の塔は変わらず聳え立っているが、その入り口を固める警備兵の数は三倍に増えている。
街の賑わいは以前と変わらないように見えるが、行き交う人々の足取りには、どこか落ち着かない焦燥が混じっている。
「よく見ているな、ガイウス。まるで自分の手のひらを眺めているようだ」
「十年いましたからね、体が覚えているんです。どの角を曲がれば近道か、どの石畳が浮いていて躓きやすいか……」
「……それは、わらわが縄張りの木の一本、石の一個を把握しているのと同じ感覚か?」
「似たようなものかもしれません。場所を覚えるというのは、その土地と対話した時間の集積ですから」
ヴェルダは俺の言葉を咀嚼するように黙り、それから自分の足元を見つめた。
「……エーデル村も、そうなってきた気がする」
「何がですか?」
「村の道を歩くとき、体が先に動くのだ。考えなくても、リナの食堂がどっちか、お前の薬草畑がどこか、足が知っている。……それが、なんだか嬉しかったのだ」
ヴェルダが前を向いたまま、少しだけ誇らしげに言った。
「エーデル村が、わらわの新たな『縄張り』になってきたということだろうな」
「それは、農家としても心強い限りです」
大通りの中央、天を突くような尖塔を持つ神殿の前で、ヴェルダが足を止めた。
荘厳な彫刻と金箔で飾られたその建物は、人々の祈りと、そしていくばくかの権威の象徴だ。
「……でかい建物だな。何だここは」
「神殿です。神を祀り、加護を祈る場所ですが」
「神、か。……ガイウス、お前は『神の使い』だとか言われていただろう。なら、この中にいるヤツはお前の知り合いか?」
「農家ですが、神に仕事を頼まれた覚えはありません」
ヴェルダは神殿を見上げ、鼻を鳴らした。
「神というのは、意思疎通が下手な存在なのだな。ガイウスのような男に仕事を頼みたいなら、直接会って『土を耕せ』と言えばいいものを見えない場所に隠れて、他人に察せさせようとするのは、あまり感心せんな」
「そうかもしれません。信仰とは、往々にして一方通行なものですから」
「わらわなら、そうはせん。縄張りに来るなら来いと言う。何かしてほしいなら、はっきりそう告げる。……みんな、そうすればいいのに」
ヴェルダの言葉は、あまりにも純粋で、そして真理を突いていた。
「だがな、ガイウス。もし神というヤツが本当にお前に仕事を頼んだのだとしたら……ソイツは、なかなかに良い『目』を持っているぞ」
「そうですか?」
「ああ。お前に頼むのは、正解だ。農家だからこそ、お前は目に見えない根の伸びを信じ、時間をかけて実りを待つことができる。……神にとっても、お前は一番『裏切らない』相手なのだろうよ」
ヴェルダはそれだけ言うと、神殿に背を向けて歩き出した。
彼女にとって、見えない神よりも、今隣にいる「農家」の方が、ずっと信じるに値する存在なのだろう。
王都の中央広場に近づくにつれ、人の波は激しさを増していった。
地方から来た商人、煌びやかな衣装を纏った貴族、そして騒がしい冒険者たち。
エーデル村の静寂に慣れた身には、その喧騒は暴力的なほどに騒々しい。
ふと気づくと、横を歩いていたヴェルダが半歩後ろに下がっていた。
「……前を歩いてもいいんですよ、ヴェルダ」
「いや。お前の後ろの方が歩きやすい」
彼女は、俺のコートの裾を掴むか掴まないかの距離で、じっと俺の背中を見つめていた。
「人が多すぎる。どこを見ればいいのか、どこへ進めばいいのか、わらわの目でも追いきれん。……だが、お前の背中だけを見ていれば、迷わずに済む」
「俺はただ、目的地に向かっているだけですが」
「それがいいのだ。お前が歩く道が、わらわにとっての正解だ」
ヴェルダは、雑踏のノイズを遮断するように言葉を紡いだ。
「縄張りの外では、ガイウス。お前がわらわの『基準』なんだよ。お前がいれば、どんな知らない場所でも、わらわは大丈夫な気がする」
「……そうですか。過大評価だと思いますが」
後ろから聞こえた声は、先ほど神殿を見上げていた時よりも、ずっと柔らかく、そして温かかった。
俺は少しだけ歩調を緩めた。彼女が、王都の冷たい石畳の上で、自分の居場所を見失わないように。
夕暮れが、王都の屋根を金色に染めていく。
目的地である宰相府までは、あともう少しだ。
スローライフは、今日も――都会の喧騒の中、一人の背中を道標にしながら――順調だった。




