第71話 もうすぐ王都
(ヴェルダside)
外の世界は、広かった。
当然だとはわかっていた。
縄張りの外に世界が広がっていることは知っていた。
ただ、知っていることと、実際に見ることは違う。
街道に出た瞬間は思ったより広かった。
それに思ったより人間が多かったし賑やかだった。
わらわの縄張りの中は静かだった。
風の音と、地脈の音と、たまに龍たちの声が聞こえるくらいだった。
それが当然だと思っていた。
しかし外に出ると、全部の音が違った。
馬の蹄の音、車輪が石畳を転がる音、人が話す声、市場の呼び込みの声。
全部が混ざって、ひとつの大きな音になっていた。
うるさかった。
ただ——嫌いではなかった。
街ではリンゴを食べた。
とても甘かった。
エーデル村で食べるリンゴと少し違う味だ。
品種が違うとガイウスが言っていた。
同じリンゴでも品種が違えば味が違う。
当たり前のことなのかもしれないが、知らなかった。
知らないことが、まだたくさんあるんだなと気づいた。
千年以上生きてきて、縄張りのことしか知らなかった。
縄張りの地脈の流れは全部わかった。
どの岩が何百年前に崩れたかもわかった。
ただ——リンゴの品種が違うことも、朝市に人が集まることも、馬車の中に人が乗っていることも、知らなかった。
それが——少し、恥ずかしかった。
少し、悔しかった。
もっと早く外に出ればよかったとは感じなかった。
ただ——ガイウスと一緒に出てきてよかったと思った。
昼に弁当を食べながら、ガイウスに「いちばん好きだよ」と言ってしまった。
言ったあと、少し後悔した。
いや、後悔はしていない。
ただ——すこし言いすぎた気がした。
「もう聞き返さないで」と言ったら、「わかりました」と返された。
ガイウスは考える人間だ。
農家だから、無駄なことを考えないと思っていた。最初は。
ただ、話してみると、ガイウスはよく考えていた。
特に薬草のことを考えていた。
後、村のことも考えていた、リナのことを考えていた。
そしてわらわのことも——考えてくれていた。
毎日縄張りに来た。
雨の日も来た。
一人でただ座って帰る日もあった。
それでも来た。
わらわのことを、ずっと考えながら来ていた人間だった。
午後、道を歩きながら色々と聞いた。
商会のこと、騎士団のこと、旗のこと。
ガイウスは全部教えてくれた。
それがわかりやすかった。
縄張りの中で一人でいたとき、疑問があっても聞く相手がいなかった。
龍たちは逃げていた、人間は来なかった。
答えてくれる者が、誰もいなかった。
でもガイウスは答えてくれた。
それが——嬉しかった。
「連れてきてくれてよかった」と言ったら、「必要があるから来ただけですが」と言った。
そういうところが、ガイウスなんだ。
自分の手柄にしない。
嫌いじゃなかった。
むしろ——それが好きだった。
夕方、今日泊まる宿が見えてきた。
ベッドがある場所だ。
明日も歩く、そして王都が見えるなろう。
わらわ、王都を楽しみにしていた。
ただ——正直に言うと、王都よりも三日間の道中が楽しみだった。
ガイウスと並んで歩く道が、楽しみだった。
それが一番珍しくて、好きな外の世界だった。
(ガイウスside)
3日目の昼過ぎ、丘を越えたところで見えた。
ヴェルダが先に気づいた。
足が止まった。
「……大きいのう」
「そうですね」と俺は言った。
「人間が作ったの、あれ?」
「そうです」
「何年かかったんだろう」
「数百年かかっていると思いますが」
「数百年」
ヴェルダが城壁を見たまま、動かなかった。
石造りの城壁が、地平線に沿って続いていた。高さが十メートル以上ある。
所々に塔が立っていた。旗が風に揺れていた。城壁の向こうに、建物が密集していた。
尖った屋根が、いくつも空に刺さっていた。
「わらわの縄張りより、でかいかもしれない」とヴェルダが言った。
「縄張りより広いですね」
「認めたくないけど、でかい」
「素直ですね」
「事実だから言っただけだよ」
ヴェルダが「ガイウスは、ここにいたの?」と聞いた。
「いましたが」
「何年くらい」
「十年ほどですが」
「十年か」
ヴェルダがしばらく城壁を見ていた。
何かを考えている顔だった。
「似合わないね」と言った。
「ガイウスが王都にいる姿が、想像できない」
「それでもいましたが‥」
「いたのはわかってるけど——似合わないよ。絶対」
「やはり農家のほうが似合いますか?」
「全然違う。農家のガイウスのほうが、百倍似合ってる」
「そこまでですか」
「うん。薬草畑の前に立ってるガイウスと、あの城壁の前に立ってるガイウスを比べたら、薬草畑のほうが絶対いい」
「農家なので」
「そうだよ、農家なんだよ」
ヴェルダが「でも——」と続けた。
「でも?」
「ガイウスが十年いた場所でしょ。ちゃんと見ておこうと思って」
前を向いたまま言った。
「そうですか」
「そうだよ」
「それは——ありがとうございます」
ヴェルダが「礼を言うことじゃないよ」と言った。
「見たいから見るだけ」
「そうですか」
丘を下って、城壁に近づいた。
近づくほど、大きくなった。
ヴェルダが歩きながらずっと城壁を見ていた。
首が少し上を向いていた。
「入ったことがある場所って、どんな感じがするの?」と聞いた。
「どんな感じですか」
「懐かしい感じ? それとも嫌な感じ?」
俺は少し考えた。
「懐かしくも、嫌でもないですが」
「どんな感じなの」
「農家が他の農家の畑を見るような感じですかね」
「他人の畑?」
「昔は自分の畑だったかもしれないですが、今は他人の畑なので。眺めるだけで、耕す必要がない場所です」
ヴェルダが「農家みたいな感覚だね」と言った。
「農家なので」
「でも——少しは、戻ってきた感じがする?」
「少しはありますが」
「それでいいんじゃないの。少しくらい」
「そうですね」
ヴェルダが「わらわも、縄張りに帰ったとき、少し安心するから」と言った。
「その少しが大事なんだよ。全部じゃなくていい」
俺は少し間を置いた。
「……そうかもしれないですね」
城門が見えてきた。
大きな門だった。
衛兵が二人、両側に立っていた。
「あの人たち、なんで鎧を着てるの?」とヴェルダが聞いた。
「衛兵です。城門を守っています」
「守るって、何から守るの」
「怪しい人間が入らないように」
「怪しい人間って」
「不審者とか、危険な者とか」
ヴェルダが「わらわは怪しくない?」と聞いた。
「怪しいかもしれないですね」
「もう」と言った。
「大丈夫ですか」と俺は聞いた。
「大丈夫。ただ、止められたらどうするの」
「農家として説明しますが」
「農家として説明したら通るの?」
「通ると思います」
「え、根拠は?」
「ないです。やってみないとわかりません」
ヴェルダが「それを言うか」と笑った。
「事実なので」
「まあ——ガイウスが言うなら、大丈夫な気がする」
「そうですか」
「そうだよ」
城門まで、あと十メートルだった。




